「やっぱりさー、この水着無理アリ過ぎじゃない?
大体海でイケメンゲットー、なんて私たちまだ中一だよ。
こんな水着さあ、いくら試着はタダだって言っても…聞いてる、朋ちゃん?」
岐阜には海がない。
だから、東京に来てはじめて行く海が生まれて初めての海になる予定。
その話を聞いた朋ちゃんは「じゃあ、まずは形からね!」とデパートの水着売り場まで私を引っ張ってきた。
私も女子の端くれ、気乗りせずついてきたもののやっぱりデパートで身に着けるものを選ぶとなるとやっぱり楽しい。
色とりどりの水着は、私には大人すぎるものもあるけれど選び放題だ。
一緒にやってきた那美ちゃんや桜乃ちゃんと、わいわいとにぎやかに選んでいた。
そして、「せっかくだからアンタ色々試着してみなよ!着るだけならタダなんだし」と朋ちゃんセレクトの水着を押しつけられてずらりと並ぶ特設の試着室の中に押し込められた。
そして、今、こうやってぶつぶつ言いながら試着をしている。
もちろん着るのは楽しい。
毎日部活に明け暮れているせいで半袖焼けや靴下焼けが気になるところだけど、それでも身体は引き締まっていて自分でいうのもなんだけど無駄がない。
必要な部分も多少足りなくはあるけれど、それはこの先に期待してる。
そんなわけで、水着を着るには支障ないどころかなかなかイケてるんじゃないかな。
鏡の前でひとつポーズを作ってみる。
いま身に着けているスカイブルーの水着はいかにもビキニでございますと言わんばかりに、私の身体に張り付いていていささか気恥ずかしいものがある。
さすが朋ちゃんセレクトだけあって、良い色だとは思うけどちょっと大胆じゃないかなあ。
先ほどの私の問いかけに答えない朋ちゃんを疑問に思い、もう一度問いかける。
「ねえ、この水着やっぱりちょっとやりすぎだよねえ。
私いままでスクール水着しか着たことがないんだからね!」
試着室のカーテンをさっと開け、朋ちゃんに話しかけた。
つもりだった。
何故つもりかというと、目の前にいたのは朋ちゃんではなかったからだ。
一瞬目の前が真っ暗になったような気がした。
ここは水着売り場で━━━確かにスポーツ売り場の中の1コーナーだったけど、この人がいまここにいるなんて誰が考えただろう。
聖ルドルフの観月さんが立っていたら誰だって驚く。
いくら、私がこの人と最近親しくしているといっても、さすがに。
私が心臓の弱いお年寄りだったら間違いなく危険だったはず。
驚きとときめきで胸の鼓動は大忙しだ。
「観月さん!?なぜここに?」
隣の男性用水着コーナーにでも用があったにしろ、なにも私の試着室前にいることはない。
カップルで水着を見に来たとかいうんなら納得できるけれども、そんなんじゃないし。
そもそも一緒に来たわけじゃないんだし。
出会って3ヶ月ほどの現在は、まだ。
「奥のテニスコーナーにボクの好きなブランドの新製品が入ったんで見に来たんです。
そうしたらキミの友達に目敏く発見されてここに連れられてきたってワケです。
『急用が出来たから自分たちは帰るのでキミのカバンを預かってくれ』と言われて」
「どうしようもないじゃありませんか」と深くため息をつく観月さんは苦悩の表情だ。
まるでスクールでの練習の時に毎回同じ事を指摘しているような表情。
私に対して呆れているときに見せる表情だ。ヤバイ。
「そ、それはどうもありがとうございます…!
朋ちゃん達どうしたんだろ…あはは」
妙な気の利かせかたをする友人達に恨み半分感謝半分の念を送る。
自分の水着姿を見せたい相手の一人に目の前の人は確かに入っていたからそれは有り難い。
こんな気の利かせかたは勘弁して欲しかったけれど。
「いえ、それは良いのですが、その水着…」
案外あっさりとした表情で、私の姿を観月さんは眺めた。
普段と全く変わらない表情でなんてコトないものを見ているといった風情で。
ノーリアクション!ショック!
「その水着?」
それでも、観月さんの言おうとしている言葉にドキドキしてる。
『似合いますね』?『かわいいですね』?
なんでも良いから何か言って!
「露出度が高いですね、中一なんですから年相応なデザインの方がいいですよ。
第一キミは海に行っても水際で遊ぶ程度で満足できるわけがないでしょう。
そんな水着を着ていては身体がすぐに冷えてしまいますよ」
……こんな時にも説教とは、さすがお母さん属性……。
しかも全く的を射たご意見で反論もない。
がっくりと肩を落とす。そうだよねえ。
でもヤツは女子の身体に興味がないとでも言うのか!
私の身体はそんなにアレなの?
まあ、エロ視線で女子を見る観月はじめというのもちょっと…だけど。
ふーんだ、私にはまだこんな水着は早いってコトですねー。
あ、ちょっと凹んだ。
「でも」
でも?
「さすがキミのお友達が選んだだけ合ってキミによく似合う色ですね。
その色遣いのもうちょっとスポーティーな水着ならきみに合うと思いますよ」
「さ、参考にします!」
話題の中心が水着なだけで、スクールの時と全く変わらないやりとり。
アドヴァイスする観月さんと、それを聞く私。
さすがにこれ以上進展は望めないかなあ。ちぇ。
「さ、それじゃ」
そう言って観月さんは私に朋ちゃんから預かったカバンを手渡してくれた。
もう行っちゃうのかな?それはとっても残念かも。
ていうか、私はホントに朋ちゃん達に置き去りにされちゃったワケ?
あとでメールしてみなきゃ。
「ボクは奥のテニスコーナーで待っていますから、さっさと着替えていらっしゃい。
確か新製品の中にはキミにちょうど良さそうなものもあったはずですから、これを機会に見ておくのも良いでしょう」
「早くしてくださいね」と言いのこして背を向けようとした観月さんを「あのっ!」と呼び止める。
勢いで声が出てしまったので後が続かない。
本当に待っていてくれるのか訊きたかったけれども、何と言っていいかも分からないし。
声に出したらその約束は反故されてしまいそうで恐いし。
「んふっ、友達に置き去りにされてしまったでしょう?
お茶を一緒に飲んで駅まで送るぐらいのことだったらボクだって出来ますよ」
なんて余裕なんだろう、そんなジェントルな言葉を残してそのまま歩いていってしまった。
慌てて追いつくためにカーテンを閉めて水着を脱いだ。
試着室から出て近づいてきた店員に「ごめんなさい!」と水着を押しつけ小走りにテニスコーナーへと向かう。
水着姿にはなんとも思わないけど、それでも私のことは気にかけてくれてるってコトだよね。
まあ、なんだかんだいって嬉しい気持ちが勝つわけだ。
凹み5、嬉しい95くらいで。
スカイブルーのスポーティーな水着は明日にでももう一度探してみよう。
近づいたテニス用品が並ぶコーナーに見慣れた後ろ姿を見つけて胸が高鳴った。
その後のことと言ったら水着のことなんて、もうどうでもよくなるくらいだった。
結局のところ、あれ以来毎年ビキニは却下されつづけている。
「ボク以外の人間の前で必要以上の露出をすることはないでしょう?」って。
「だって、初めてキミのあんな姿を見たとき、この冷静なボクだってどれほど動揺したと思ってるんですか?常人だったらヤバイレベルですよ」って。
いまさらちょっと照れたような表情で言われたってさ。
そんなの、当時の私に言ってあげるべきだったと思うんだけど。
END
大体海でイケメンゲットー、なんて私たちまだ中一だよ。
こんな水着さあ、いくら試着はタダだって言っても…聞いてる、朋ちゃん?」
岐阜には海がない。
だから、東京に来てはじめて行く海が生まれて初めての海になる予定。
その話を聞いた朋ちゃんは「じゃあ、まずは形からね!」とデパートの水着売り場まで私を引っ張ってきた。
私も女子の端くれ、気乗りせずついてきたもののやっぱりデパートで身に着けるものを選ぶとなるとやっぱり楽しい。
色とりどりの水着は、私には大人すぎるものもあるけれど選び放題だ。
一緒にやってきた那美ちゃんや桜乃ちゃんと、わいわいとにぎやかに選んでいた。
そして、「せっかくだからアンタ色々試着してみなよ!着るだけならタダなんだし」と朋ちゃんセレクトの水着を押しつけられてずらりと並ぶ特設の試着室の中に押し込められた。
そして、今、こうやってぶつぶつ言いながら試着をしている。
もちろん着るのは楽しい。
毎日部活に明け暮れているせいで半袖焼けや靴下焼けが気になるところだけど、それでも身体は引き締まっていて自分でいうのもなんだけど無駄がない。
必要な部分も多少足りなくはあるけれど、それはこの先に期待してる。
そんなわけで、水着を着るには支障ないどころかなかなかイケてるんじゃないかな。
鏡の前でひとつポーズを作ってみる。
いま身に着けているスカイブルーの水着はいかにもビキニでございますと言わんばかりに、私の身体に張り付いていていささか気恥ずかしいものがある。
さすが朋ちゃんセレクトだけあって、良い色だとは思うけどちょっと大胆じゃないかなあ。
先ほどの私の問いかけに答えない朋ちゃんを疑問に思い、もう一度問いかける。
「ねえ、この水着やっぱりちょっとやりすぎだよねえ。
私いままでスクール水着しか着たことがないんだからね!」
試着室のカーテンをさっと開け、朋ちゃんに話しかけた。
つもりだった。
何故つもりかというと、目の前にいたのは朋ちゃんではなかったからだ。
一瞬目の前が真っ暗になったような気がした。
ここは水着売り場で━━━確かにスポーツ売り場の中の1コーナーだったけど、この人がいまここにいるなんて誰が考えただろう。
聖ルドルフの観月さんが立っていたら誰だって驚く。
いくら、私がこの人と最近親しくしているといっても、さすがに。
私が心臓の弱いお年寄りだったら間違いなく危険だったはず。
驚きとときめきで胸の鼓動は大忙しだ。
「観月さん!?なぜここに?」
隣の男性用水着コーナーにでも用があったにしろ、なにも私の試着室前にいることはない。
カップルで水着を見に来たとかいうんなら納得できるけれども、そんなんじゃないし。
そもそも一緒に来たわけじゃないんだし。
出会って3ヶ月ほどの現在は、まだ。
「奥のテニスコーナーにボクの好きなブランドの新製品が入ったんで見に来たんです。
そうしたらキミの友達に目敏く発見されてここに連れられてきたってワケです。
『急用が出来たから自分たちは帰るのでキミのカバンを預かってくれ』と言われて」
「どうしようもないじゃありませんか」と深くため息をつく観月さんは苦悩の表情だ。
まるでスクールでの練習の時に毎回同じ事を指摘しているような表情。
私に対して呆れているときに見せる表情だ。ヤバイ。
「そ、それはどうもありがとうございます…!
朋ちゃん達どうしたんだろ…あはは」
妙な気の利かせかたをする友人達に恨み半分感謝半分の念を送る。
自分の水着姿を見せたい相手の一人に目の前の人は確かに入っていたからそれは有り難い。
こんな気の利かせかたは勘弁して欲しかったけれど。
「いえ、それは良いのですが、その水着…」
案外あっさりとした表情で、私の姿を観月さんは眺めた。
普段と全く変わらない表情でなんてコトないものを見ているといった風情で。
ノーリアクション!ショック!
「その水着?」
それでも、観月さんの言おうとしている言葉にドキドキしてる。
『似合いますね』?『かわいいですね』?
なんでも良いから何か言って!
「露出度が高いですね、中一なんですから年相応なデザインの方がいいですよ。
第一キミは海に行っても水際で遊ぶ程度で満足できるわけがないでしょう。
そんな水着を着ていては身体がすぐに冷えてしまいますよ」
……こんな時にも説教とは、さすがお母さん属性……。
しかも全く的を射たご意見で反論もない。
がっくりと肩を落とす。そうだよねえ。
でもヤツは女子の身体に興味がないとでも言うのか!
私の身体はそんなにアレなの?
まあ、エロ視線で女子を見る観月はじめというのもちょっと…だけど。
ふーんだ、私にはまだこんな水着は早いってコトですねー。
あ、ちょっと凹んだ。
「でも」
でも?
「さすがキミのお友達が選んだだけ合ってキミによく似合う色ですね。
その色遣いのもうちょっとスポーティーな水着ならきみに合うと思いますよ」
「さ、参考にします!」
話題の中心が水着なだけで、スクールの時と全く変わらないやりとり。
アドヴァイスする観月さんと、それを聞く私。
さすがにこれ以上進展は望めないかなあ。ちぇ。
「さ、それじゃ」
そう言って観月さんは私に朋ちゃんから預かったカバンを手渡してくれた。
もう行っちゃうのかな?それはとっても残念かも。
ていうか、私はホントに朋ちゃん達に置き去りにされちゃったワケ?
あとでメールしてみなきゃ。
「ボクは奥のテニスコーナーで待っていますから、さっさと着替えていらっしゃい。
確か新製品の中にはキミにちょうど良さそうなものもあったはずですから、これを機会に見ておくのも良いでしょう」
「早くしてくださいね」と言いのこして背を向けようとした観月さんを「あのっ!」と呼び止める。
勢いで声が出てしまったので後が続かない。
本当に待っていてくれるのか訊きたかったけれども、何と言っていいかも分からないし。
声に出したらその約束は反故されてしまいそうで恐いし。
「んふっ、友達に置き去りにされてしまったでしょう?
お茶を一緒に飲んで駅まで送るぐらいのことだったらボクだって出来ますよ」
なんて余裕なんだろう、そんなジェントルな言葉を残してそのまま歩いていってしまった。
慌てて追いつくためにカーテンを閉めて水着を脱いだ。
試着室から出て近づいてきた店員に「ごめんなさい!」と水着を押しつけ小走りにテニスコーナーへと向かう。
水着姿にはなんとも思わないけど、それでも私のことは気にかけてくれてるってコトだよね。
まあ、なんだかんだいって嬉しい気持ちが勝つわけだ。
凹み5、嬉しい95くらいで。
スカイブルーのスポーティーな水着は明日にでももう一度探してみよう。
近づいたテニス用品が並ぶコーナーに見慣れた後ろ姿を見つけて胸が高鳴った。
その後のことと言ったら水着のことなんて、もうどうでもよくなるくらいだった。
結局のところ、あれ以来毎年ビキニは却下されつづけている。
「ボク以外の人間の前で必要以上の露出をすることはないでしょう?」って。
「だって、初めてキミのあんな姿を見たとき、この冷静なボクだってどれほど動揺したと思ってるんですか?常人だったらヤバイレベルですよ」って。
いまさらちょっと照れたような表情で言われたってさ。
そんなの、当時の私に言ってあげるべきだったと思うんだけど。
END
「はーっ、今日も暑いですねえ!」
炎天下、聖ルドルフ学院テニス部スクール組の練習はようやく休憩を告げられた。
その場にいた者達はベンチへ水道へ各々行きたいところへと散っていく。
赤月巴はざばざばと水道の蛇口の下に頭を突っ込んで涼んでいた不二裕太の隣に立ち、彼の動作に習って頭から水を被った。
長い髪は水を吸ってずっしりとした質感となり、そこからしたたり落ちる雫は彼女の背中をみるみるうちに濡らしていった。
「ちょ…お前…女子は普通そんな事しねえよ…」
隣の裕太は少々あきれ顔で彼女にそう言った。
それに観月さんにこの事を見咎められたらどんなことになるか…。
そう続けようとしたとき、背後に影を感じた。
「そうですよ、巴くん?」
後ろを振り向くと、明らかに不快そうな表情をした観月が立っていた。
髪も背中も無防備に濡らした自分の彼女を見れば男なら誰でも不快になるだろう。
ただでさえ巴はそういう機微にはとことん鈍い。
いくら観月がこれまで注意しても頓着しないのだ。
腹が立つのも仕方のないことだった。
「わわ!観月さん」
「わわ…じゃないでしょう。どうしてキミはいつもそうガサツなんですか。
確かに暑いのは分かりますけどふつう髪の長い女子はそんなことしないでしょう」
観月の声に荒いところはないが、明らかに怒っている。
さすがに知り合って1年以上経つ今では鈍い巴でもそんなことくらい分かる。
ましてや自分自身信じられないことに、自分の彼氏だ。
こうなっては、この炎天下に休憩時間いっぱい使っての説教となることは確実だ。
巴はその場から逃げようと駆けだした。
休憩時間中逃げ切れれば何とかなるとでも言うように。
「ごめんなさーい」
「待ちなさい!巴くん!せめて髪ぐらい拭いたらどうですか!」
水道脇に置いてあった巴のタオルを掴んで観月は後を追い掛けた。
「髪なんて今日このまま放って置けばすぐに乾きますよー」と巴の声が聞こえる。
しかし、彼女の足は止まらない。
巴の全速力は男子並みだ。いくら観月とはいえその差はなかなか縮まらない。
「うわー、すごい痴話ゲンカっすね…」
コートの中にしきりに「待ちなさい」「嫌です」とのやりとりが響く。
観月が巴に説教している姿は今や日常茶飯事とはいえ、ここまで低レベルだとさすがに呆れる。
「捕まえたいんでしたら、早く追いついてみてくださいよ!」
「そんなこと言ってボクを挑発しているつもりですか?あとで後悔しますよ!」
いつしか追いかけっこに変わっている二人をボンヤリ眺めつつ裕太は思わず呟いた。
こんな二人のケンカじゃ確かに犬も食わないだろうなあとしみじみ思う。
「痴話ゲンカっていうより、あれじゃあまるで
風呂あがりに体を拭かない子供とタオルを持って追いかけるお母さんだーね」
「クスクス、それは言えてる。観月は恐いお母さんだよね」
柳沢と木更津はいつの間にか笑いながら裕太の隣にやってきて水道を使いつつ、話しかけてきた。
こちら二人も頭から水を被って身体を冷やす。
巴と違って観月に怒られることはないから、遠慮無く水遊びをしつつ全身びしょ濡れにする。
もっともやりすぎで「マナーというものが…うんぬん」と小言を言われることもあるかもしれないが、彼が巴に構っている間はそれもないだろうという判断だ。
「裕太も昔お母さんに追いかけられたクチっぽいだーね?」
柳沢のからかい気味な問いに嫌なことを思い出して、苦虫を噛み潰したような表情で裕太は答えた。
「…………俺は、兄貴に…………」
「へえ、不二周助に?やっぱり仲が良い兄弟じゃないか」
相変わらずクスクス笑いながら木更津はそう言い、
やっぱり裕太はかわいいなあ、などと思いながら裕太の本当に嫌そうな表情を楽しむ。
裕太もその面白がるような視線に気付き木更津を睨みつけるが全く効果がないようだった。
さらに楽しそうに、笑うだけだ。
「しっかし、観月が不二周助と同じ事をしているなんて知ったら
今の裕太以上に嫌そうな顔をしそうだーね、面白そうだーね」
「そうだね、あとで言ってみようか」
ああ、なんてこの先輩たちはタチが悪いんだろう。
裕太は思わず「あー…」と頭を抱えてしまう。
どう考えても観月は荒れてしまうだろう。
「このボクがあの不二周助の子供時代と同列だとでも言うんですか?」などと顔を引きつらせて言いそうだ。
きっとその怒りのとばっちりは自分たちだ。
休憩後の練習が思いやられて頭が痛い。
オマケにこのまま巴が観月から逃げ切ってしまえばさらに不機嫌倍増だ。
少しでも怒りの矛先がこちらに向きませんようにと、こっそり願う。
「悪いけど、赤月のやつ捕まってくれないかな」思わず口をついて出るくらいには切実だ。
「ま、彼女が捕まってもそうでなくても、面白そうだけどね」
「先輩…」
相変わらず隣に立つ木更津は面白がっている。
柳沢も「だーねだーね」と同調している。
裕太が聖ルドルフに転校したことに迷いが出るのはいつもこうした瞬間だった。
「捕まえましたよ!」
いつのまにかコートを飛び出し二人はフェンスの向こうを走っていた。
そして巴の後ろにピッタリとつけていた観月がついに彼女の左腕を掴む。
巴は掴まれざま後ろを振り向き、二人の視線がぶつかった。
その瞬間、ピピピピピピピピピピピ…と休憩終了を告げるタイマーが鳴り響いた。
当事者二人も周囲の人間もハッと我に返る。
「さーて、僕らの休憩時間は延びるのかな?クスクス」
観月の説教で延長戦か?それともここで停戦か?
それは彼の胸先三寸と言ったところだ。
「この部が馬鹿ップル鑑賞部でない限り、延びるわけないじゃないですか。
あの二人が戻ってこようと戻ってこまいと私は練習しますよ」
彼らから少し離れたところで早川はクールに言い放ってコートに入る。
「そ、そうだよな」悪質な先輩二人から逃れようと裕太も慌てて彼女に続いた。
「クスクス…真面目な後輩を持って嬉しいね、ところで柳沢?」
「なんだーね」
「あの二人がすぐに戻ってくるかどうか、帰りのアイス賭けようか?」
END
炎天下、聖ルドルフ学院テニス部スクール組の練習はようやく休憩を告げられた。
その場にいた者達はベンチへ水道へ各々行きたいところへと散っていく。
赤月巴はざばざばと水道の蛇口の下に頭を突っ込んで涼んでいた不二裕太の隣に立ち、彼の動作に習って頭から水を被った。
長い髪は水を吸ってずっしりとした質感となり、そこからしたたり落ちる雫は彼女の背中をみるみるうちに濡らしていった。
「ちょ…お前…女子は普通そんな事しねえよ…」
隣の裕太は少々あきれ顔で彼女にそう言った。
それに観月さんにこの事を見咎められたらどんなことになるか…。
そう続けようとしたとき、背後に影を感じた。
「そうですよ、巴くん?」
後ろを振り向くと、明らかに不快そうな表情をした観月が立っていた。
髪も背中も無防備に濡らした自分の彼女を見れば男なら誰でも不快になるだろう。
ただでさえ巴はそういう機微にはとことん鈍い。
いくら観月がこれまで注意しても頓着しないのだ。
腹が立つのも仕方のないことだった。
「わわ!観月さん」
「わわ…じゃないでしょう。どうしてキミはいつもそうガサツなんですか。
確かに暑いのは分かりますけどふつう髪の長い女子はそんなことしないでしょう」
観月の声に荒いところはないが、明らかに怒っている。
さすがに知り合って1年以上経つ今では鈍い巴でもそんなことくらい分かる。
ましてや自分自身信じられないことに、自分の彼氏だ。
こうなっては、この炎天下に休憩時間いっぱい使っての説教となることは確実だ。
巴はその場から逃げようと駆けだした。
休憩時間中逃げ切れれば何とかなるとでも言うように。
「ごめんなさーい」
「待ちなさい!巴くん!せめて髪ぐらい拭いたらどうですか!」
水道脇に置いてあった巴のタオルを掴んで観月は後を追い掛けた。
「髪なんて今日このまま放って置けばすぐに乾きますよー」と巴の声が聞こえる。
しかし、彼女の足は止まらない。
巴の全速力は男子並みだ。いくら観月とはいえその差はなかなか縮まらない。
「うわー、すごい痴話ゲンカっすね…」
コートの中にしきりに「待ちなさい」「嫌です」とのやりとりが響く。
観月が巴に説教している姿は今や日常茶飯事とはいえ、ここまで低レベルだとさすがに呆れる。
「捕まえたいんでしたら、早く追いついてみてくださいよ!」
「そんなこと言ってボクを挑発しているつもりですか?あとで後悔しますよ!」
いつしか追いかけっこに変わっている二人をボンヤリ眺めつつ裕太は思わず呟いた。
こんな二人のケンカじゃ確かに犬も食わないだろうなあとしみじみ思う。
「痴話ゲンカっていうより、あれじゃあまるで
風呂あがりに体を拭かない子供とタオルを持って追いかけるお母さんだーね」
「クスクス、それは言えてる。観月は恐いお母さんだよね」
柳沢と木更津はいつの間にか笑いながら裕太の隣にやってきて水道を使いつつ、話しかけてきた。
こちら二人も頭から水を被って身体を冷やす。
巴と違って観月に怒られることはないから、遠慮無く水遊びをしつつ全身びしょ濡れにする。
もっともやりすぎで「マナーというものが…うんぬん」と小言を言われることもあるかもしれないが、彼が巴に構っている間はそれもないだろうという判断だ。
「裕太も昔お母さんに追いかけられたクチっぽいだーね?」
柳沢のからかい気味な問いに嫌なことを思い出して、苦虫を噛み潰したような表情で裕太は答えた。
「…………俺は、兄貴に…………」
「へえ、不二周助に?やっぱり仲が良い兄弟じゃないか」
相変わらずクスクス笑いながら木更津はそう言い、
やっぱり裕太はかわいいなあ、などと思いながら裕太の本当に嫌そうな表情を楽しむ。
裕太もその面白がるような視線に気付き木更津を睨みつけるが全く効果がないようだった。
さらに楽しそうに、笑うだけだ。
「しっかし、観月が不二周助と同じ事をしているなんて知ったら
今の裕太以上に嫌そうな顔をしそうだーね、面白そうだーね」
「そうだね、あとで言ってみようか」
ああ、なんてこの先輩たちはタチが悪いんだろう。
裕太は思わず「あー…」と頭を抱えてしまう。
どう考えても観月は荒れてしまうだろう。
「このボクがあの不二周助の子供時代と同列だとでも言うんですか?」などと顔を引きつらせて言いそうだ。
きっとその怒りのとばっちりは自分たちだ。
休憩後の練習が思いやられて頭が痛い。
オマケにこのまま巴が観月から逃げ切ってしまえばさらに不機嫌倍増だ。
少しでも怒りの矛先がこちらに向きませんようにと、こっそり願う。
「悪いけど、赤月のやつ捕まってくれないかな」思わず口をついて出るくらいには切実だ。
「ま、彼女が捕まってもそうでなくても、面白そうだけどね」
「先輩…」
相変わらず隣に立つ木更津は面白がっている。
柳沢も「だーねだーね」と同調している。
裕太が聖ルドルフに転校したことに迷いが出るのはいつもこうした瞬間だった。
「捕まえましたよ!」
いつのまにかコートを飛び出し二人はフェンスの向こうを走っていた。
そして巴の後ろにピッタリとつけていた観月がついに彼女の左腕を掴む。
巴は掴まれざま後ろを振り向き、二人の視線がぶつかった。
その瞬間、ピピピピピピピピピピピ…と休憩終了を告げるタイマーが鳴り響いた。
当事者二人も周囲の人間もハッと我に返る。
「さーて、僕らの休憩時間は延びるのかな?クスクス」
観月の説教で延長戦か?それともここで停戦か?
それは彼の胸先三寸と言ったところだ。
「この部が馬鹿ップル鑑賞部でない限り、延びるわけないじゃないですか。
あの二人が戻ってこようと戻ってこまいと私は練習しますよ」
彼らから少し離れたところで早川はクールに言い放ってコートに入る。
「そ、そうだよな」悪質な先輩二人から逃れようと裕太も慌てて彼女に続いた。
「クスクス…真面目な後輩を持って嬉しいね、ところで柳沢?」
「なんだーね」
「あの二人がすぐに戻ってくるかどうか、帰りのアイス賭けようか?」
END
これは、なんたる偶然と感激でもすればいいのだろうか?
それとも、自分でも知らない間に彼女の現れる場所を解析していたんだろうか?
観月はじめは思わず考え込んでしまった。
川沿いの遊歩道。
初夏も既に通り越し梅雨に近い事を感じさせる湿った風の吹く、そんな夜。
暗がりの中、反対からヘッドライトを煌々と点灯させながらゆらゆらヨロヨロと、
危なっかしい動きの自転車がやってくる。
乗っているのは、赤月巴だ。
まわりは暗いというのに何故分かってしまったのか。
単に知人だからか、それともまた別の理由があるのだろうか、
こんな時間帯に彼女がやってくることにこれ以上ないくらいハッキリと観月は気付いてしまった。
視力だの何だの理屈で済まされないような気がする。
青春学園中等部にこの春入学したばかり、出会ったのはつい1ヶ月前のことだった。
同じテニススクールに通っているとはいえ、彼女には自分がライバル校の生徒だという意識が少ないらしく
観月はなんだかんだと子犬のような目を彼女から向けられている。
もちろん、観月とて悪い気はしない。
その巴が向こうからやって来る。
時折ふらっと自転車ごと大きく傾かせては遠くから見ている観月をハラハラさせる。
「巴くん、何をしているんですか?」
その答えは一目瞭然なのだが、観月は思わずそう声をかけてしまった。
赤月巴と自転車。
運動神経も抜群で活発な彼女だが、不思議と自転車とはイメージが繋がらなかった。
彼女が移動するときはその足で駆けていく方がしっくりする。
しかし、それ以上に自転車に振り回されているようにも見える今の彼女は、まったくもって意外だった。
たしかにプレイ中の姿を見ていても少し重心のバランスが悪いかなと思っていたが、
どうやらそれはあながち気のせいでもなさそうだった。
運動神経が抜群の彼女の欠点がバランスだなんて完璧主義の観月から見れば滑稽であったが、
それはそれで矯正のし甲斐があるなとも彼の指導者の面がそう思う。
「わわっ…観月さん…あああっ!」
巴は観月の声を確認して声の元を探るべく顔を左右に動かした。
と、同時にガシャンという音と共に自転車は転ぶ寸前まで傾いた。
持ち前の運動神経でかろうじて地面への直撃は踏みとどまり、傾いた自転車ごと体勢を整えようと必死だ。
観月は慌てて巴のところまで駆け寄っていった。
巴は恥ずかしそうな表情で体勢をなんとか立て直し、諦めた様子で自転車を降りた。
「大丈夫ですか?キミ」
中学生にもなってたやすく自転車で転倒する彼女に半ば呆れた顔で問いかける。
それに巴は照れくさそうに「あはは…平気です…」と答えた。
「いやあ、普段乗り慣れないものになんて無理して乗っちゃダメですねえ」
「では何故乗っているんです、キミの自転車ではないのですか?」
巴と自転車を返す返す見て尋ねる。
華やかなメタリックピンクのかわいらしい自転車はいかにも若い女性の乗りそうなデザインで、巴の持ち物のように観月には見えた。
「いえ、これは友達の朋ちゃんに借りたんです。
私は昔から父に走らされてばかりで自転車なんて乗ったことがなかったんですよ」
東京歴2ヶ月ほどの彼女は胸を張って「だから東京に来てはじめて自転車に乗ったんです」と言った。
まだよろける程度の実力では胸を張るも何もないのだが。
すかさず観月も「胸を張って言うことですか、それ?」とツッコミを入れる。
「で、そんなキミが何故こんな時間にこんな所を自転車で走っているんです?
まさかと思いますが練習ですか?」
「違いますよー。朋ちゃんちにお邪魔してたら門限も結構近づいてたんです。
で『急ぐんなら自転車貸してあげるわよ』って朋ちゃんが言ってくれて━━━」
話の途中で巴はふと思い出した。
「って、あー!!!門限が!!!」
とたんに慌てふためく。そういえば急いでいたのだ。
ここで観月と立ち話をしている場合ではなかったことに巴は改めて気付いた。
自転車を再び乗ることには自信がなかったが、これに乗るしかない。
腹を括って再び乗ろうとしたところで、横からハンドルを観月に奪われた。
「巴くん、乗りなさい」
「え?」
一瞬言われている意味が巴には分からず惚けてしまう。
二人の間にはさらさらと川の水が流れる音だけがしばらく周囲に響いていた。
観月はその様子にわれ関せずといった表情で先に自転車にまたがる。
その動作で巴もようやくその意味を知った。
「後ろに荷台があるでしょう?早く乗って」
「二人乗り…ですか!」
「何を素っ頓狂な声を出しているんですか。
ボクだって二人乗りなんて褒められた事じゃないのは重々承知ですけど、キミが無事に門限までに帰り着きたいのならこうするほか無いでしょう?
借り物の自転車をここに放置するわけにもいきませんしね」
観月は我ながら柄にもないことをしているなと思った。
つまりはライバル校の選手に対しての親切。
見返りがなさそうな相手への気配り。
時計を見ると、どうやら自分の住まう寮の門限も巴の家の門限よりは遅いものの近づいている。
青春台方面の彼女の下宿先に行ってしまえば、例え交通機関を都合良く乗り継げたとしても門限に間に合うかどうかは怪しいところだ。
選択肢は門限を諦めて寮母から説教の上反省文を提出するか、それとも諦めずに全力疾走しかない。
こんな割に合わないことをする自分ではないのに、と自分自身に観月は首をひねる。
しかし、口に出してしまったものはしょうがない。
こうなったら一刻も早く彼女を家まで送り届けて帰るだけだと意思を固める。
そして、なぜか乗ることに躊躇している彼女に「嫌なんですか?」と問いかける。
自分がこんな破格なことをしているというのにと思うと少し苛立たしい。
「いえ、二人乗りをするのはもちろん良いんですが…初めてなんですよ」
巴はまるで叱られるのを恐れている子供のようにおずおずと問いに答えた。
「なにがですか?」
「男の人と…いえそれどころか誰かと二人乗りするなんてことがですよ。
さっき東京に来てはじめて乗ったって言ったじゃないですか」
観月は「何を馬鹿なことを…」と言いかけて口を閉じる。
少し頬が緩んでいるの事に気付いたが、暗がりで彼女のところからは表情があまり見えないことに少し安堵してそのままにしておいた。
なぜここで自分はにやけてしまうのか、その理由が分からないまま取り繕うように早口で追って巴に告げた。
彼女に話しかけているのに、彼女の顔を見ることが出来なかった。
「じゃあ、その初めてがボクだということに感謝しなさい。
ボクは滅多にこんなコトしませんからね」
巴は観月と二人乗りをするという行為にドキドキしながらも、しかしもうこれ以上の選択肢はなく「えいっ!」と荷台にまたがった。
さすがに観月の身体に腕を回す事は少し恥ずかしくて出来ず、荷台をぎゅっと握る。
「……ボクも少し恥ずかしくはありますけど、キミにケガをさせたくないですからね。
ちゃんとボクに掴まってくれませんか?」
めずらしく小さくもそもそと注意をする観月の話に、
巴は同じく小さな声で返事をしながら躊躇いがちに両腕を観月の腰へと持っていった。
多分、いま自分の顔は火を噴いたように赤く染まっているのだろう。
異性との二人乗りが初めてなら、こんな風に身体に手を回すのも初めてだ。
その自覚はあり、巴は暗いことと観月の背後にいることを見えない何かに感謝する。
あとは、胸の鼓動が観月に聞こえていなければいいのだけれどもそれは分からない。
願わくば聞こえていませんように、と心の中で呟いた。
いつになく近くに見える観月の背中を正視できず、巴は川の向こうの風景に目をやる。
それは変わらないいつもの街の夜の風景で、いまここで日常と違うことをしているのは自分なのだと改めて思い知らされる。
きっと、この二人乗りの相手がリョーマや桃城だったらこんな奇妙な気持ちにはならないだろうに。
何の躊躇いもなく、何の胸の高まりもなく自転車にまたがれたのにと思う。
少し経って「いいですか?行きますよ」との観月の声に平静を装って「はい」とただ一言だけ答えた。
観月は巴の声を後ろに聞き、ペダルをグッと踏みしめた。
「キミは少しバランスが悪いようですからね。二人乗りはバランスを取るのが難しい。
重心移動には気を配って下さい」
そう巴に語りかけ、最初は少しよろめきながらもそのうち真っ直ぐ快走しはじめた。
川岸を離れ、巴の住む街へと向かっていく。
さーっと流れるように走る自転車に何とも言えない爽快感を巴は覚え、
「観月さん!自転車、サイコーですね!」
と調子よく声を上げ、その勢いでぎゅっと観月へと伸ばした腕に力を込めてしまう。
つまり、それは抱きつくような形で。
観月は背中に感じるやわらかな圧力に動揺してハンドルを取られて自転車がぐらついた。
さすがにこんな時にまで冷静でいられるほどの精神力は持ち得ていなかったため、
ついつい叫ぶような声で咎め立ててしまった。
「キミ、危ないからおとなしくしていなさい!」
「すみませんっ!」巴は自分がいま勢いでやってしまったことに気付いて慌てて身を離す。
誰か知り合いが見ていたら「なんて大胆な」と巴をはやし立てるだろう。
流れゆく周囲の風景に人影がないことを確かめてホッと天を仰ぐ。
仰ぎ見た頭上にはこの時期に珍しく星が輝いていて何となく幸福感に包まれた。
こんな思わぬところで観月と星空の下でサイクリングだ。
このままずっとどこまでも走っていけたらいいのになどと、馬鹿げたことまで思ってしまう。
その時ふと、風を切って走っていく音の中に「んふっ、ま、たまにはこんなアクシデントがあっても良いですね」とやわらかな観月の声が聞こえたような気がした。
「なにか言いました?観月さん?」と問い返すも、前から聞こえてきたのは「いいえ、気のせいでしょう、運転に集中させて下さい」と何故か機嫌の悪そうな答えだけだった。
巴にとって、その時の観月の表情が見えないことは非常に残念だったといえる。
なぜなら、その不機嫌そうな声とは真逆の表情だったから。
END
それとも、自分でも知らない間に彼女の現れる場所を解析していたんだろうか?
観月はじめは思わず考え込んでしまった。
川沿いの遊歩道。
初夏も既に通り越し梅雨に近い事を感じさせる湿った風の吹く、そんな夜。
暗がりの中、反対からヘッドライトを煌々と点灯させながらゆらゆらヨロヨロと、
危なっかしい動きの自転車がやってくる。
乗っているのは、赤月巴だ。
まわりは暗いというのに何故分かってしまったのか。
単に知人だからか、それともまた別の理由があるのだろうか、
こんな時間帯に彼女がやってくることにこれ以上ないくらいハッキリと観月は気付いてしまった。
視力だの何だの理屈で済まされないような気がする。
青春学園中等部にこの春入学したばかり、出会ったのはつい1ヶ月前のことだった。
同じテニススクールに通っているとはいえ、彼女には自分がライバル校の生徒だという意識が少ないらしく
観月はなんだかんだと子犬のような目を彼女から向けられている。
もちろん、観月とて悪い気はしない。
その巴が向こうからやって来る。
時折ふらっと自転車ごと大きく傾かせては遠くから見ている観月をハラハラさせる。
「巴くん、何をしているんですか?」
その答えは一目瞭然なのだが、観月は思わずそう声をかけてしまった。
赤月巴と自転車。
運動神経も抜群で活発な彼女だが、不思議と自転車とはイメージが繋がらなかった。
彼女が移動するときはその足で駆けていく方がしっくりする。
しかし、それ以上に自転車に振り回されているようにも見える今の彼女は、まったくもって意外だった。
たしかにプレイ中の姿を見ていても少し重心のバランスが悪いかなと思っていたが、
どうやらそれはあながち気のせいでもなさそうだった。
運動神経が抜群の彼女の欠点がバランスだなんて完璧主義の観月から見れば滑稽であったが、
それはそれで矯正のし甲斐があるなとも彼の指導者の面がそう思う。
「わわっ…観月さん…あああっ!」
巴は観月の声を確認して声の元を探るべく顔を左右に動かした。
と、同時にガシャンという音と共に自転車は転ぶ寸前まで傾いた。
持ち前の運動神経でかろうじて地面への直撃は踏みとどまり、傾いた自転車ごと体勢を整えようと必死だ。
観月は慌てて巴のところまで駆け寄っていった。
巴は恥ずかしそうな表情で体勢をなんとか立て直し、諦めた様子で自転車を降りた。
「大丈夫ですか?キミ」
中学生にもなってたやすく自転車で転倒する彼女に半ば呆れた顔で問いかける。
それに巴は照れくさそうに「あはは…平気です…」と答えた。
「いやあ、普段乗り慣れないものになんて無理して乗っちゃダメですねえ」
「では何故乗っているんです、キミの自転車ではないのですか?」
巴と自転車を返す返す見て尋ねる。
華やかなメタリックピンクのかわいらしい自転車はいかにも若い女性の乗りそうなデザインで、巴の持ち物のように観月には見えた。
「いえ、これは友達の朋ちゃんに借りたんです。
私は昔から父に走らされてばかりで自転車なんて乗ったことがなかったんですよ」
東京歴2ヶ月ほどの彼女は胸を張って「だから東京に来てはじめて自転車に乗ったんです」と言った。
まだよろける程度の実力では胸を張るも何もないのだが。
すかさず観月も「胸を張って言うことですか、それ?」とツッコミを入れる。
「で、そんなキミが何故こんな時間にこんな所を自転車で走っているんです?
まさかと思いますが練習ですか?」
「違いますよー。朋ちゃんちにお邪魔してたら門限も結構近づいてたんです。
で『急ぐんなら自転車貸してあげるわよ』って朋ちゃんが言ってくれて━━━」
話の途中で巴はふと思い出した。
「って、あー!!!門限が!!!」
とたんに慌てふためく。そういえば急いでいたのだ。
ここで観月と立ち話をしている場合ではなかったことに巴は改めて気付いた。
自転車を再び乗ることには自信がなかったが、これに乗るしかない。
腹を括って再び乗ろうとしたところで、横からハンドルを観月に奪われた。
「巴くん、乗りなさい」
「え?」
一瞬言われている意味が巴には分からず惚けてしまう。
二人の間にはさらさらと川の水が流れる音だけがしばらく周囲に響いていた。
観月はその様子にわれ関せずといった表情で先に自転車にまたがる。
その動作で巴もようやくその意味を知った。
「後ろに荷台があるでしょう?早く乗って」
「二人乗り…ですか!」
「何を素っ頓狂な声を出しているんですか。
ボクだって二人乗りなんて褒められた事じゃないのは重々承知ですけど、キミが無事に門限までに帰り着きたいのならこうするほか無いでしょう?
借り物の自転車をここに放置するわけにもいきませんしね」
観月は我ながら柄にもないことをしているなと思った。
つまりはライバル校の選手に対しての親切。
見返りがなさそうな相手への気配り。
時計を見ると、どうやら自分の住まう寮の門限も巴の家の門限よりは遅いものの近づいている。
青春台方面の彼女の下宿先に行ってしまえば、例え交通機関を都合良く乗り継げたとしても門限に間に合うかどうかは怪しいところだ。
選択肢は門限を諦めて寮母から説教の上反省文を提出するか、それとも諦めずに全力疾走しかない。
こんな割に合わないことをする自分ではないのに、と自分自身に観月は首をひねる。
しかし、口に出してしまったものはしょうがない。
こうなったら一刻も早く彼女を家まで送り届けて帰るだけだと意思を固める。
そして、なぜか乗ることに躊躇している彼女に「嫌なんですか?」と問いかける。
自分がこんな破格なことをしているというのにと思うと少し苛立たしい。
「いえ、二人乗りをするのはもちろん良いんですが…初めてなんですよ」
巴はまるで叱られるのを恐れている子供のようにおずおずと問いに答えた。
「なにがですか?」
「男の人と…いえそれどころか誰かと二人乗りするなんてことがですよ。
さっき東京に来てはじめて乗ったって言ったじゃないですか」
観月は「何を馬鹿なことを…」と言いかけて口を閉じる。
少し頬が緩んでいるの事に気付いたが、暗がりで彼女のところからは表情があまり見えないことに少し安堵してそのままにしておいた。
なぜここで自分はにやけてしまうのか、その理由が分からないまま取り繕うように早口で追って巴に告げた。
彼女に話しかけているのに、彼女の顔を見ることが出来なかった。
「じゃあ、その初めてがボクだということに感謝しなさい。
ボクは滅多にこんなコトしませんからね」
巴は観月と二人乗りをするという行為にドキドキしながらも、しかしもうこれ以上の選択肢はなく「えいっ!」と荷台にまたがった。
さすがに観月の身体に腕を回す事は少し恥ずかしくて出来ず、荷台をぎゅっと握る。
「……ボクも少し恥ずかしくはありますけど、キミにケガをさせたくないですからね。
ちゃんとボクに掴まってくれませんか?」
めずらしく小さくもそもそと注意をする観月の話に、
巴は同じく小さな声で返事をしながら躊躇いがちに両腕を観月の腰へと持っていった。
多分、いま自分の顔は火を噴いたように赤く染まっているのだろう。
異性との二人乗りが初めてなら、こんな風に身体に手を回すのも初めてだ。
その自覚はあり、巴は暗いことと観月の背後にいることを見えない何かに感謝する。
あとは、胸の鼓動が観月に聞こえていなければいいのだけれどもそれは分からない。
願わくば聞こえていませんように、と心の中で呟いた。
いつになく近くに見える観月の背中を正視できず、巴は川の向こうの風景に目をやる。
それは変わらないいつもの街の夜の風景で、いまここで日常と違うことをしているのは自分なのだと改めて思い知らされる。
きっと、この二人乗りの相手がリョーマや桃城だったらこんな奇妙な気持ちにはならないだろうに。
何の躊躇いもなく、何の胸の高まりもなく自転車にまたがれたのにと思う。
少し経って「いいですか?行きますよ」との観月の声に平静を装って「はい」とただ一言だけ答えた。
観月は巴の声を後ろに聞き、ペダルをグッと踏みしめた。
「キミは少しバランスが悪いようですからね。二人乗りはバランスを取るのが難しい。
重心移動には気を配って下さい」
そう巴に語りかけ、最初は少しよろめきながらもそのうち真っ直ぐ快走しはじめた。
川岸を離れ、巴の住む街へと向かっていく。
さーっと流れるように走る自転車に何とも言えない爽快感を巴は覚え、
「観月さん!自転車、サイコーですね!」
と調子よく声を上げ、その勢いでぎゅっと観月へと伸ばした腕に力を込めてしまう。
つまり、それは抱きつくような形で。
観月は背中に感じるやわらかな圧力に動揺してハンドルを取られて自転車がぐらついた。
さすがにこんな時にまで冷静でいられるほどの精神力は持ち得ていなかったため、
ついつい叫ぶような声で咎め立ててしまった。
「キミ、危ないからおとなしくしていなさい!」
「すみませんっ!」巴は自分がいま勢いでやってしまったことに気付いて慌てて身を離す。
誰か知り合いが見ていたら「なんて大胆な」と巴をはやし立てるだろう。
流れゆく周囲の風景に人影がないことを確かめてホッと天を仰ぐ。
仰ぎ見た頭上にはこの時期に珍しく星が輝いていて何となく幸福感に包まれた。
こんな思わぬところで観月と星空の下でサイクリングだ。
このままずっとどこまでも走っていけたらいいのになどと、馬鹿げたことまで思ってしまう。
その時ふと、風を切って走っていく音の中に「んふっ、ま、たまにはこんなアクシデントがあっても良いですね」とやわらかな観月の声が聞こえたような気がした。
「なにか言いました?観月さん?」と問い返すも、前から聞こえてきたのは「いいえ、気のせいでしょう、運転に集中させて下さい」と何故か機嫌の悪そうな答えだけだった。
巴にとって、その時の観月の表情が見えないことは非常に残念だったといえる。
なぜなら、その不機嫌そうな声とは真逆の表情だったから。
END
限界が近い。
観月は3限目の授業が終わった直後そのことに気付いてしまった。
何の限界かというと、笑顔。
もっと詳しく言ってしまうと愛想笑い。
そして、自分のロッカーの容量に限界を感じていた。
今日は5月27日。記念すべき観月はじめの16回目の誕生日だ。
朝から列を成すと言っても大袈裟ではないくらい色んな人間が彼の前に顔を出す。
お祝いの言葉であったり、プレゼントであったりアプローチは様々だったが。
校内では人気のある方だ。特にミーハーな女子には。
勉強が出来て、テニスが出来て、容姿端麗。
そんな彼に女子が近づいてくるのはもはや必然のことだった。
案外本気でお付き合いを求めてくる女子は少ないので本命の居る観月には有り難いが、そうは言ってもやはりきっかけさえあれば誰彼と無く近づいてくる。
あわよくば、といったところなのだろう。
そんなわけで彼はずっと女子を惑わすような愛想笑いでプレゼントを受け取り、心にもない感謝の言葉を言い続けていた。
作った笑顔には自信があったのだが、まさか今日に限ってこんなに早く疲れてしまうなんてと自分でも不思議に思ってしまうが、本当に限界を感じてしまったのだから仕方ない。
周囲から顔を隠すように本を読む振りをしてこっそりとため息をつく。
断れるような性分だったら、よかったのにと思う。
けれど利用できるモノはすべて利用したい彼にはそれは出来なかった。
周囲の信頼を取り付けておくのは彼にとって大事なことだ。
顔もよく覚えてないような女子からもにっこりとプレゼントを受け取って、謝辞を述べる。
そして、何かの折にまたその相手に気を配る。
それだけで、女子に限って言えば好感度は高くなるのだから、こんな簡単なことで人心を掌握できるのだから彼にとっては安いモノだ。
いつもの観月であれば楽々とこなせる作業のひとつだった。
それなのに、今日に限ってこんなに疲労を感じるのは何故だろう。
観月は重く感じる頭を軽く振ってみる。
教室でただ座っているだけなのに、肩は重いし頭もボンヤリとする。
とてつもない不快感は何なのか頭をひねる。
朝練だっていつものメニューを淡々とこなしただけで、学校生活に差し支えるほどハードなことは何もしていないのに不思議である。
このまま4限目まで少し眠ってしまおうかと思い立った。
普段は滅多にこんな事はしないのだが、机に身体を伏せて目を閉じる。
「お疲れ気味だーね、そりゃそうだーね、観月」
少しウトウトしかけた瞬間、頭上から耳障りな、しかし聞き慣れた声が聞こえてきた。
声が楽しげなのが厄介だ。
「クスクス…さすがの観月もお誕生日おめでとう攻勢は辛いんだ。
とっとと八方美人なんて止めちゃえばいいのにね」
エスカレータ式の学校とはいえ、高校の教室までもこの二人と一緒とはなんとも残念なことだと思いながら観月は顔を伏せたまま無視を決める。
それを知りながら木更津は話を続ける。
「なんで、こんなに疲れたりするのか分かってる?観月?
ホント観月って分かりやすいって言うか面白いって言うかかわいいよね」
相変わらずクスクス笑いながらすこしからかう調子で話しかける。
観月はその調子に無視を続けることが困難になってしまった。
「何だっていうんです、キミらには分かるって言うんですか?」
半ばキレ気味に体を起こし二人を半眼で見据える。
木更津は何故観月はこんな分かり易い性格なのに周囲は彼に惑わされるんだと不思議でならない。
だからこそ、自分自身彼について面白いと感じるのだろうが。
試合中であればこんなトリッキーな性格も有り難いし強みになるが、実際の生活においては迷惑以外のなにものでもないと観月は思っていた。
「分かるよ?」
「分かるだーね」
揃ったように二人は返事を返した。
「そりゃ赤月が居るからだよ」
「そりゃ赤月が居るからだーね」
また二人は絶妙なハーモニーを奏でる。
不審そうな顔をして二人を見る観月に木更津はさらに解説を加える。
「だって、観月って外面良く振る舞ってるけど、実際は気を許した相手以外は笑いかけるどころか話だってしたくないってタイプでしょ?
本当に笑いかけたい相手が出来たんだからそれにエネルギー使っちゃって、これまでよりも外面の良さのキャパシティーは減っちゃうのは当然だよ」
「そうだーね、それに今日は観月はまだ赤月と会ってないだーね。
コイビトにもまだお祝いされてないのに、それ以外のどうでもいい相手にお祝いされたりお礼言ったりするのなんて苦痛にきまってるだーね…まあそんな話俺には縁がないけど…」
したり顔で二人はそう話す。
観月は当然木更津と柳沢が恋愛経験豊富とかそんな話は聞いたことがなかったが、これまでの自分を振り返ればそれももっともかも知れないという説得力だけはあった。
「よく、そんな風にボクのことを分かったような顔で言えますね」
見透かされて恥ずかしいというよりも不思議でしょうがないといった表情で観月は尋ねた。
「スクールであんだけ二面性やら赤月にデレっとした態度やら見せつけられてれば分かるだーね」
「…………そんなものですか?」
そんなに自分は分かり易いのだろうかと観月はやや肩を落とした。
極力感情を表に出さないように努力しているのだが。
スクール内ではそれは徒労に終わっていることをまだ彼は知らない。
「あと……、何故ボクが巴くんとは今日会っていないことを知っているんです?」
先ほどの柳沢の言葉に引っかかりを覚えて尋ねる。
そんなことは今日は話していないはずだと疑問に思いながら。
「ああ、今日は観月は朝の委員会活動で朝練に参加できなかったから。
今日はどこの委員会も朝になんかイベントやっててテニス部も人数が足らなくてさ、仕方がないから中等部と合同練習したんだよ。そのときに、さ」
「そそ、その時にちょっと赤月と話しただーね」
観月の顔色が少し変わる。
とっさに「何を、ですか?」と訊いてしまう。
居ないところで二人は巴に何を吹き込んでるか分かったものではないからだ。
だいたいあとになって、その事でなにかしら軽くトラブルが起きるのだ。
確実に彼らはそれを楽しんでいるから油断できない。
「なんて事ないだーね。
ただ、『今日は夕方まで観月さんに会えなくてさびし~い』なんて言ってただけだーね」
さりげなく巴の物まねを織り交ぜながら柳沢は会話の内容を話した。
隣の木更津は「似てないよ」とクールにツッコミを入れていた。
「ま、今朝の朝練はバタバタしていたからね。俺らが話せたのは本当にそれくらいだけだよ」
それが本当かどうかは観月には判断できないが、とりあえず胸を撫で下ろす。
『今日は観月の席の前に女子の長蛇の列が出来る』なんて吹き込まれていたらたまったものではないと思っていたからだ。
ただし、それによってヤキモチを焼く巴を見てみたいという気は少しあったりする。
もっとも、それを表面に出すようなことはしないが。
「あっ、そうそう。今朝赤月に会ったときに彼女から甘い良い香りがしたよ」
「そうだーね、あれはきっとケーキの匂いだーね」
ニヤニヤしながら、二人はそう思いだしたように言葉を発した。
「ね、観月。いまの俺達が教えてあげた事に対するお礼はケーキが良いな。手作りの」
「あーあ、たまには俺達も女子の手作りケーキなんて食べてみたいだーね」
二人の暗黒の表情にさすがの観月もクラッと来る。
この二人と話していると時々異次元に飛ばされたような感覚に陥るのだ。
彼らの言いたいことはその表情と共によく分かってしまった。
「……巴くんがボクのために焼いてくれたケーキなんてもったいなくてあげられませんよ」
とりあえず抵抗を試みる。
失敗に終わる確率はデータから計算せずとも99%だったが。
「やだなあ、観月ってば。他の女子からの手作りは何が入ってるか分からないから恐いって捨てちゃうクセに」
「おっと!そのコトをほかの女子が知っちゃったら大変だーね。
それに大事な選手の俺達に危険な食べ物食べさせたりもまさかしないだーね?」
観月は二人と話す前以上の疲労感に襲われる。
これでこの後の日常を過ごさなければならないかと思うと目の前が真っ暗になりそうだった。
頭も痛いかもしれないと、思い始める。
もはやこの疲労感はこの外面の良さに起因するものか、それとも彼らと会話するところから来ているものなのか判別不能だ。
保健室で休むべきか否か本気で悩み、かたん、と席を立つ。
この場はとりあえず逃げておくのが得策だと結論づける。
「君たちと付き合うと本気で疲れるので保健室へ行ってきます。
ケーキの件はまあ良いでしょう。
これからだって彼女のお手製を食べる機会は、君たちが彼女を作って食べさせてもらうよりは沢山あるでしょうからね」
「「……ぐっ」」
逆襲には少し弱いけれど、彼ら二人の悔しそうな表情を見て満足を覚えながら観月は教室を出た。
巴と会える放課後まではまだ時間がある。
せいぜい誰とも会わなくて済む場所でしばらく充電していようと心を決める。
もっとも、観月にとっての一番の充電は巴本人に会うことだったりするのだが。
「早く、会いたいですね。巴くんと」
放課後に起こるだろう彼女との甘いひとときに期待を抱きながら観月は保健室の扉を叩いた。
END
観月は3限目の授業が終わった直後そのことに気付いてしまった。
何の限界かというと、笑顔。
もっと詳しく言ってしまうと愛想笑い。
そして、自分のロッカーの容量に限界を感じていた。
今日は5月27日。記念すべき観月はじめの16回目の誕生日だ。
朝から列を成すと言っても大袈裟ではないくらい色んな人間が彼の前に顔を出す。
お祝いの言葉であったり、プレゼントであったりアプローチは様々だったが。
校内では人気のある方だ。特にミーハーな女子には。
勉強が出来て、テニスが出来て、容姿端麗。
そんな彼に女子が近づいてくるのはもはや必然のことだった。
案外本気でお付き合いを求めてくる女子は少ないので本命の居る観月には有り難いが、そうは言ってもやはりきっかけさえあれば誰彼と無く近づいてくる。
あわよくば、といったところなのだろう。
そんなわけで彼はずっと女子を惑わすような愛想笑いでプレゼントを受け取り、心にもない感謝の言葉を言い続けていた。
作った笑顔には自信があったのだが、まさか今日に限ってこんなに早く疲れてしまうなんてと自分でも不思議に思ってしまうが、本当に限界を感じてしまったのだから仕方ない。
周囲から顔を隠すように本を読む振りをしてこっそりとため息をつく。
断れるような性分だったら、よかったのにと思う。
けれど利用できるモノはすべて利用したい彼にはそれは出来なかった。
周囲の信頼を取り付けておくのは彼にとって大事なことだ。
顔もよく覚えてないような女子からもにっこりとプレゼントを受け取って、謝辞を述べる。
そして、何かの折にまたその相手に気を配る。
それだけで、女子に限って言えば好感度は高くなるのだから、こんな簡単なことで人心を掌握できるのだから彼にとっては安いモノだ。
いつもの観月であれば楽々とこなせる作業のひとつだった。
それなのに、今日に限ってこんなに疲労を感じるのは何故だろう。
観月は重く感じる頭を軽く振ってみる。
教室でただ座っているだけなのに、肩は重いし頭もボンヤリとする。
とてつもない不快感は何なのか頭をひねる。
朝練だっていつものメニューを淡々とこなしただけで、学校生活に差し支えるほどハードなことは何もしていないのに不思議である。
このまま4限目まで少し眠ってしまおうかと思い立った。
普段は滅多にこんな事はしないのだが、机に身体を伏せて目を閉じる。
「お疲れ気味だーね、そりゃそうだーね、観月」
少しウトウトしかけた瞬間、頭上から耳障りな、しかし聞き慣れた声が聞こえてきた。
声が楽しげなのが厄介だ。
「クスクス…さすがの観月もお誕生日おめでとう攻勢は辛いんだ。
とっとと八方美人なんて止めちゃえばいいのにね」
エスカレータ式の学校とはいえ、高校の教室までもこの二人と一緒とはなんとも残念なことだと思いながら観月は顔を伏せたまま無視を決める。
それを知りながら木更津は話を続ける。
「なんで、こんなに疲れたりするのか分かってる?観月?
ホント観月って分かりやすいって言うか面白いって言うかかわいいよね」
相変わらずクスクス笑いながらすこしからかう調子で話しかける。
観月はその調子に無視を続けることが困難になってしまった。
「何だっていうんです、キミらには分かるって言うんですか?」
半ばキレ気味に体を起こし二人を半眼で見据える。
木更津は何故観月はこんな分かり易い性格なのに周囲は彼に惑わされるんだと不思議でならない。
だからこそ、自分自身彼について面白いと感じるのだろうが。
試合中であればこんなトリッキーな性格も有り難いし強みになるが、実際の生活においては迷惑以外のなにものでもないと観月は思っていた。
「分かるよ?」
「分かるだーね」
揃ったように二人は返事を返した。
「そりゃ赤月が居るからだよ」
「そりゃ赤月が居るからだーね」
また二人は絶妙なハーモニーを奏でる。
不審そうな顔をして二人を見る観月に木更津はさらに解説を加える。
「だって、観月って外面良く振る舞ってるけど、実際は気を許した相手以外は笑いかけるどころか話だってしたくないってタイプでしょ?
本当に笑いかけたい相手が出来たんだからそれにエネルギー使っちゃって、これまでよりも外面の良さのキャパシティーは減っちゃうのは当然だよ」
「そうだーね、それに今日は観月はまだ赤月と会ってないだーね。
コイビトにもまだお祝いされてないのに、それ以外のどうでもいい相手にお祝いされたりお礼言ったりするのなんて苦痛にきまってるだーね…まあそんな話俺には縁がないけど…」
したり顔で二人はそう話す。
観月は当然木更津と柳沢が恋愛経験豊富とかそんな話は聞いたことがなかったが、これまでの自分を振り返ればそれももっともかも知れないという説得力だけはあった。
「よく、そんな風にボクのことを分かったような顔で言えますね」
見透かされて恥ずかしいというよりも不思議でしょうがないといった表情で観月は尋ねた。
「スクールであんだけ二面性やら赤月にデレっとした態度やら見せつけられてれば分かるだーね」
「…………そんなものですか?」
そんなに自分は分かり易いのだろうかと観月はやや肩を落とした。
極力感情を表に出さないように努力しているのだが。
スクール内ではそれは徒労に終わっていることをまだ彼は知らない。
「あと……、何故ボクが巴くんとは今日会っていないことを知っているんです?」
先ほどの柳沢の言葉に引っかかりを覚えて尋ねる。
そんなことは今日は話していないはずだと疑問に思いながら。
「ああ、今日は観月は朝の委員会活動で朝練に参加できなかったから。
今日はどこの委員会も朝になんかイベントやっててテニス部も人数が足らなくてさ、仕方がないから中等部と合同練習したんだよ。そのときに、さ」
「そそ、その時にちょっと赤月と話しただーね」
観月の顔色が少し変わる。
とっさに「何を、ですか?」と訊いてしまう。
居ないところで二人は巴に何を吹き込んでるか分かったものではないからだ。
だいたいあとになって、その事でなにかしら軽くトラブルが起きるのだ。
確実に彼らはそれを楽しんでいるから油断できない。
「なんて事ないだーね。
ただ、『今日は夕方まで観月さんに会えなくてさびし~い』なんて言ってただけだーね」
さりげなく巴の物まねを織り交ぜながら柳沢は会話の内容を話した。
隣の木更津は「似てないよ」とクールにツッコミを入れていた。
「ま、今朝の朝練はバタバタしていたからね。俺らが話せたのは本当にそれくらいだけだよ」
それが本当かどうかは観月には判断できないが、とりあえず胸を撫で下ろす。
『今日は観月の席の前に女子の長蛇の列が出来る』なんて吹き込まれていたらたまったものではないと思っていたからだ。
ただし、それによってヤキモチを焼く巴を見てみたいという気は少しあったりする。
もっとも、それを表面に出すようなことはしないが。
「あっ、そうそう。今朝赤月に会ったときに彼女から甘い良い香りがしたよ」
「そうだーね、あれはきっとケーキの匂いだーね」
ニヤニヤしながら、二人はそう思いだしたように言葉を発した。
「ね、観月。いまの俺達が教えてあげた事に対するお礼はケーキが良いな。手作りの」
「あーあ、たまには俺達も女子の手作りケーキなんて食べてみたいだーね」
二人の暗黒の表情にさすがの観月もクラッと来る。
この二人と話していると時々異次元に飛ばされたような感覚に陥るのだ。
彼らの言いたいことはその表情と共によく分かってしまった。
「……巴くんがボクのために焼いてくれたケーキなんてもったいなくてあげられませんよ」
とりあえず抵抗を試みる。
失敗に終わる確率はデータから計算せずとも99%だったが。
「やだなあ、観月ってば。他の女子からの手作りは何が入ってるか分からないから恐いって捨てちゃうクセに」
「おっと!そのコトをほかの女子が知っちゃったら大変だーね。
それに大事な選手の俺達に危険な食べ物食べさせたりもまさかしないだーね?」
観月は二人と話す前以上の疲労感に襲われる。
これでこの後の日常を過ごさなければならないかと思うと目の前が真っ暗になりそうだった。
頭も痛いかもしれないと、思い始める。
もはやこの疲労感はこの外面の良さに起因するものか、それとも彼らと会話するところから来ているものなのか判別不能だ。
保健室で休むべきか否か本気で悩み、かたん、と席を立つ。
この場はとりあえず逃げておくのが得策だと結論づける。
「君たちと付き合うと本気で疲れるので保健室へ行ってきます。
ケーキの件はまあ良いでしょう。
これからだって彼女のお手製を食べる機会は、君たちが彼女を作って食べさせてもらうよりは沢山あるでしょうからね」
「「……ぐっ」」
逆襲には少し弱いけれど、彼ら二人の悔しそうな表情を見て満足を覚えながら観月は教室を出た。
巴と会える放課後まではまだ時間がある。
せいぜい誰とも会わなくて済む場所でしばらく充電していようと心を決める。
もっとも、観月にとっての一番の充電は巴本人に会うことだったりするのだが。
「早く、会いたいですね。巴くんと」
放課後に起こるだろう彼女との甘いひとときに期待を抱きながら観月は保健室の扉を叩いた。
END
「うわ!すっごい」
ホームルームが終わり、生徒が下校しようと次々教室を出て行く中
クラスメイトが窓の向こうを見て感嘆の声を上げるのに赤月巴は気を惹かれた。
何の代わり映えもない学校生活に起こった凄い事って何だろう。
「なになに~?」と聞き返すのは当然のことだった。
「あー、なんかさあ校門のとこで、他校っぽい男子が花持って待ってるんだよね。
今日ってホワイトデーじゃん?誰かに渡すのかなあ」
結構イケてる男子だしいいな~いいな~と羨ましげに窓の外を眺める彼女のもとへ
「わたしもみるーっ」と巴の隣にいた小鷹那美は駆け出し、共に眺める。
「……ねえ、巴?今日はもう巴はかえった方がいいと思うんだよね?
今日の部活はラッキーなことに任意だしさあ」
外を見ながら、急に話題とは関係ない話を小鷹は口にする。
それどころか「はやく帰りなよ」と急かしだした。
「え~なんで那美ちゃんてばそんな事急に言い出すの?
今日は一緒に練習しよって約束したじゃない」
小鷹の真意が掴めず、巴はいらだたしげに尋ねた。
「……あ、れ」
小鷹は詳しいことは何も語らず窓の外を指さした。
その指さす方向へと巴も視線を移す。
「ぎゃ!」
どこから出したともつかない声が巴の口から飛び出た。
目にも鮮やかな色を抱えた、観月はじめの姿がそこにはあった。
声を出した3秒後には巴はクラスメイト達の前から姿を消していた。
その俊足ぶりをテニスにもっと生かせばいいのに。
少し呆れた顔で小鷹は再び窓の外を眺める。
じきに陸上部もかくやといったスピードの友人が飛び出してくるに違いない。
息も切らさず巴は花を抱えた中学生男子の前に現れた。
彼女よりも花が似合うだろうその男子は待ち人が現れたにもかかわらず
少々不機嫌そうな言葉で彼女を迎え入れた。
「ああ、巴くん、よかった。キミを待っていたんですよ」
「……待っていた……って、こんな所でですか。ビックリしましたよ!」
「まあ、そりゃそうでしょうね」
「ボク自身驚いていますから」深く息を吐きながら観月はそう答える。
観月が自分から巴を訪れたにしては浮かない表情をしている。
先日の合宿の最後に恥ずかしくも告白めいた言葉を自分に投げかけたとは思えないその表情に、思わず不審と不安が入り乱れた表情で巴は観月を見つめてしまう。
「観月さん?」
その言葉で観月は我に返ったような顔になる。
「ああ、失礼しました━━━ここでは難ですから近くの公園にでも」
校門前でのやりとりに好奇心旺盛な視線が降り注いでいたことに気付き、
二人は大急ぎで場所を変えた。
「すみません、キミにお時間を取らせてしまいましたね」
「いいえ、そんなことはないんですけど」
一体、観月は自分に何の用なんだろう?
すこし好奇心を覗かせた目で観月の言葉を促す。
もちろん花束を持った観月が自分の前に現れた理由なら想像がつくが
それをハッキリ知りたいと思うのは何も自分に限ったことではないだろう。
公園のどこかから沈丁花のあまやかな香りの漂う中、巴の心も甘い期待に震える。
「まずは、はい」
まさに春の色の塊というのに相応しい感じの花束を観月は巴に手渡す。
「ホワイトデーのお返し…と言うんでしょうか。
キミにはやっぱりマシュマロなんかのお菓子のほうが良いかとは思ったんですが」
「が?」
観月は中途半端に言葉をとぎらせ、少し苦々しい表情になる。
「━━━キミには正直に言ったほうがいいでしょうね。
ボクとしたことがちょっとした事で木更津と柳沢に嵌められましてね。
その罰ゲームが、青学の校門で花束を持ってキミを待つと言うことだったんです」
その表情から、巴はその嵌められたことに関しては触れない方が良いことを悟る。
しかし、自分に会いに来た理由が罰ゲームだからというのはさすがに気分の良い物ではない。
せっかくホワイトデーに少女漫画から飛び出してきたような情景が自分の前に現れたのだと嬉しかったのに、その理由が罰ゲームだったとは。
興ざめだ。
その巴の表情に観月も自分の失言を悟り慌てて言葉を付け足す。
「もちろん、キミにホワイトデーのプレゼントを
━━━ボクの気持ちを渡したかったのは本当です。
ただ、こんな形ではなかった、と言うだけでその気持ちには変わりない。
やっぱり、すみません。こんな話を聞かせるべきではなかったですね」
「あーそうですね…観月さんの本意ではなくても私は嬉しかったので、
この花束も校門で待って下さっていたことも、
それに関してはやっぱりちょっと悲しいですけど……」
そこで言葉を切って花束に目をやると、その中に埋もれていたものに気付いた。
巴がそれに気付いたことで観月は満足そうに「どうぞ」と促す。
花を壊さないようにそっと手で取り出すと、
きれいな透明の袋に包まれたクッキーが出てきた。
「クッキー?」
花とクッキー。なんだか本当に乙女チックな気がしてくすぐったい。
しかも、そのクッキーはどうやら手作りのようだった。
「ええ、実はボクが焼いたんですよ…実家ではよく姉に習いましたからね。
ボクの家に植えているハーブのクッキーなんです。
もし良ければ、もう少し持ってきたのでそれを食べませんか?」
そう言って、今度は観月は鞄の中から袋を取り出す。
そしてもう一つ、はじめからそのつもりだったのか魔法瓶も。
近くのベンチに座るように促しながら
「お茶もね、淹れてきました」そう言って手際よくカップに注ぎ巴に手渡す。
手に馴染む暖かさを感じながらお茶をすすり、クッキーを口に含む。
そのどちらも独特の風味でありながら、お互いを壊さない味で
普段お茶と言えばティーバッグ、クッキーと言えば既製品の彼女には新鮮だった。
「おいしいですね!どちらも!」
さきほどのしょんぼりした気持ちはどこかへ押しやって巴は明るい声で感想を述べた。
「それはどうも」と返事に答え、観月も自分の作品を一つくわえる。
「キミはあまりハーブには馴染みがなさそうでしたからどうかと思ったんですが
お口にあったみたいで良かったです。どんどん食べて下さいね」
その言葉を皮切りに二人は日が落ちる頃クッキーが尽きるまで、
喋りあい、笑いあって時を過ごした。
「あ~!お花もクッキーもお茶もとっても嬉しかったです!
ありがとうございました!」
満足そうに巴はお礼の言葉を口にした。
経緯はどうあれ、自分にとってはなかなかいいホワイトデーだった。
バレンタインデーに本命チョコをあげたのも、それに応えてもらえたことも
自分の人生の中では初めてのことだったしそれを考えると上出来ではないだろうか。
それに、もう気付いていた。いや、最初から知っていたのだ。多分。
観月は自分を騙そうと思えばいくらでも簡単に騙せるのだ。
「キミのために花を持って待っていた」なんて言えば自分は簡単に舞い上がるのに。
それは彼とて分かり切っている、計算するまでもないことだろうに。
なのに、彼はそうしなかった。
それを誠実という言葉以外の何で表せばいいというのだろう。
その事を思うと胸が熱くなる。
ルドルフに来ないかと誘われたときも、やはり胸が高まったけれどここまでではなかったような気がする。
胸のどこかに自分もコマとして使われるのではないかという疑念があったからだ。
けれども、「ボクの気持ちを渡したかったのは本当だ」などと言われたことでそれも吹き飛んだ。
あのセリフの意味って、バレンタインデーの私の気持ちに応えてくれるってことだよねと自分自身で再確認をおこなう。
公園からの帰り道、観月に送ってもらうその道がもっと長ければいいと
これほど思ったことがあっただろうか。
もっとも、ドキドキしっぱなしであまり長いと心臓が持ちそうにないのだけれど。
やっぱり越前家の門前に着いたときにはどうしようもない寂しさに襲われた。
「じゃあ、これで」と素っ気なく去っていく観月の後ろ姿をみることが
これほど辛いことだなんて、知らなかった。
その気持ちをあまりにも持て余してしまい、
玄関に入るやいなや迎えに出てくれた菜々子にさらけ出してしまった。
自分の気持ちも、今日のことも。
これまでのことも、これからのことも、全部。
「いくら罰ゲームだからって、興味ない女の子のところへなんて行けないわよ。
巴ちゃん、大丈夫だから。きっと特別な存在だと思われてるわよ」
実際に妹がいたらこんな話もするのだろうとウキウキしながら菜々子は自室で巴の話を聞き、それに答える。
「そうかなあ」
「そうよ。花を持って手作りクッキー焼いて…なんて勇気が要る事じゃない」
観月なら普通にやりかねないし似合うのだから始末に負えないわけだが
それを菜々子は知るよしもない。あくまで一般論を述べる。
「あ、そういえば、クッキー。まだあるんでしょ?どんなの?」
持ち帰り用にととっておいていた袋を菜々子に手渡してみせる。
「あらぁ本格的」と感嘆してそれを彼女は眺めた。
「へえ、まるで中学生男子の手作りだとは思えないわね…
これはキャラウェイクッキーね」
巴は知らなかったがクッキーの中に入っているハーブはキャラウェイと言うらしい。
キャラウェイ…と初めて知る単語を口にしながら菜々子とクッキーを見つめた。
几帳面な形をしたクッキーはいかにも観月らしいつくりだ。
きっと1グラムも分量を間違えていないだろうと思うと微笑ましい。
すこしにやつきながらクッキーを見ていると、
隣の菜々子は何か思い当たることがあったらしい。
「あっ!」と声を上げる。
そして、その思い当たったことが何か楽しいことだったのか、笑い出した。
「巴ちゃんの心配なんて杞憂よ。彼は本当にあなたのことが好きだって。
答えは━━━このクッキーにあるわよ」
そういってクッキー、その中に入っているキャラウェイの種の粒を指さす。
これに何故答えが?不思議そうな顔をして巴は菜々子の顔を見つめる。
菜々子はちょっと待っててと立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出してきた。
「これ、貸してあげるから読んでみると良いわよ」
そうして巴にその本を手渡した。
『ハーブ&スパイス辞典』、表紙にはそう書かれていた。
菜々子に本を借り、自室に戻った巴は早速それを開いてみることにした。
「えーと、キャラ…ウェイ…だっけ?キャラウェイ、キャラウェイ…」
律儀に索引からキャラウェイを辿りページを開く。
「あった!……媚薬……恋人同士で食べると永遠につづく……?」
分かったことは昔魔女が媚薬として使っていたことと、
恋人同士が食べればその愛が末永く続くこと。
誠実のシンボル。
「こんな所にも知識を広げてるんだ……観月さん……」
妙なところに感動を覚える。さすがデータマン。
まさか観月に限って言えば、食品の効能を知らずに用いることなどしないはず。
やはりそう言う意味なのだろう。
「でも、間違ってますよ、観月さん」
まぶたの裏の鮮やかに思い起こすことが出来る端正な顔に向かって話しかける。
「だって媚薬なんて効く余地もないくらいもう観月さんにドキドキしてるんだもん」
そりゃもう、キャラウェイなんて必要ないくらいに。
END
ホームルームが終わり、生徒が下校しようと次々教室を出て行く中
クラスメイトが窓の向こうを見て感嘆の声を上げるのに赤月巴は気を惹かれた。
何の代わり映えもない学校生活に起こった凄い事って何だろう。
「なになに~?」と聞き返すのは当然のことだった。
「あー、なんかさあ校門のとこで、他校っぽい男子が花持って待ってるんだよね。
今日ってホワイトデーじゃん?誰かに渡すのかなあ」
結構イケてる男子だしいいな~いいな~と羨ましげに窓の外を眺める彼女のもとへ
「わたしもみるーっ」と巴の隣にいた小鷹那美は駆け出し、共に眺める。
「……ねえ、巴?今日はもう巴はかえった方がいいと思うんだよね?
今日の部活はラッキーなことに任意だしさあ」
外を見ながら、急に話題とは関係ない話を小鷹は口にする。
それどころか「はやく帰りなよ」と急かしだした。
「え~なんで那美ちゃんてばそんな事急に言い出すの?
今日は一緒に練習しよって約束したじゃない」
小鷹の真意が掴めず、巴はいらだたしげに尋ねた。
「……あ、れ」
小鷹は詳しいことは何も語らず窓の外を指さした。
その指さす方向へと巴も視線を移す。
「ぎゃ!」
どこから出したともつかない声が巴の口から飛び出た。
目にも鮮やかな色を抱えた、観月はじめの姿がそこにはあった。
声を出した3秒後には巴はクラスメイト達の前から姿を消していた。
その俊足ぶりをテニスにもっと生かせばいいのに。
少し呆れた顔で小鷹は再び窓の外を眺める。
じきに陸上部もかくやといったスピードの友人が飛び出してくるに違いない。
息も切らさず巴は花を抱えた中学生男子の前に現れた。
彼女よりも花が似合うだろうその男子は待ち人が現れたにもかかわらず
少々不機嫌そうな言葉で彼女を迎え入れた。
「ああ、巴くん、よかった。キミを待っていたんですよ」
「……待っていた……って、こんな所でですか。ビックリしましたよ!」
「まあ、そりゃそうでしょうね」
「ボク自身驚いていますから」深く息を吐きながら観月はそう答える。
観月が自分から巴を訪れたにしては浮かない表情をしている。
先日の合宿の最後に恥ずかしくも告白めいた言葉を自分に投げかけたとは思えないその表情に、思わず不審と不安が入り乱れた表情で巴は観月を見つめてしまう。
「観月さん?」
その言葉で観月は我に返ったような顔になる。
「ああ、失礼しました━━━ここでは難ですから近くの公園にでも」
校門前でのやりとりに好奇心旺盛な視線が降り注いでいたことに気付き、
二人は大急ぎで場所を変えた。
「すみません、キミにお時間を取らせてしまいましたね」
「いいえ、そんなことはないんですけど」
一体、観月は自分に何の用なんだろう?
すこし好奇心を覗かせた目で観月の言葉を促す。
もちろん花束を持った観月が自分の前に現れた理由なら想像がつくが
それをハッキリ知りたいと思うのは何も自分に限ったことではないだろう。
公園のどこかから沈丁花のあまやかな香りの漂う中、巴の心も甘い期待に震える。
「まずは、はい」
まさに春の色の塊というのに相応しい感じの花束を観月は巴に手渡す。
「ホワイトデーのお返し…と言うんでしょうか。
キミにはやっぱりマシュマロなんかのお菓子のほうが良いかとは思ったんですが」
「が?」
観月は中途半端に言葉をとぎらせ、少し苦々しい表情になる。
「━━━キミには正直に言ったほうがいいでしょうね。
ボクとしたことがちょっとした事で木更津と柳沢に嵌められましてね。
その罰ゲームが、青学の校門で花束を持ってキミを待つと言うことだったんです」
その表情から、巴はその嵌められたことに関しては触れない方が良いことを悟る。
しかし、自分に会いに来た理由が罰ゲームだからというのはさすがに気分の良い物ではない。
せっかくホワイトデーに少女漫画から飛び出してきたような情景が自分の前に現れたのだと嬉しかったのに、その理由が罰ゲームだったとは。
興ざめだ。
その巴の表情に観月も自分の失言を悟り慌てて言葉を付け足す。
「もちろん、キミにホワイトデーのプレゼントを
━━━ボクの気持ちを渡したかったのは本当です。
ただ、こんな形ではなかった、と言うだけでその気持ちには変わりない。
やっぱり、すみません。こんな話を聞かせるべきではなかったですね」
「あーそうですね…観月さんの本意ではなくても私は嬉しかったので、
この花束も校門で待って下さっていたことも、
それに関してはやっぱりちょっと悲しいですけど……」
そこで言葉を切って花束に目をやると、その中に埋もれていたものに気付いた。
巴がそれに気付いたことで観月は満足そうに「どうぞ」と促す。
花を壊さないようにそっと手で取り出すと、
きれいな透明の袋に包まれたクッキーが出てきた。
「クッキー?」
花とクッキー。なんだか本当に乙女チックな気がしてくすぐったい。
しかも、そのクッキーはどうやら手作りのようだった。
「ええ、実はボクが焼いたんですよ…実家ではよく姉に習いましたからね。
ボクの家に植えているハーブのクッキーなんです。
もし良ければ、もう少し持ってきたのでそれを食べませんか?」
そう言って、今度は観月は鞄の中から袋を取り出す。
そしてもう一つ、はじめからそのつもりだったのか魔法瓶も。
近くのベンチに座るように促しながら
「お茶もね、淹れてきました」そう言って手際よくカップに注ぎ巴に手渡す。
手に馴染む暖かさを感じながらお茶をすすり、クッキーを口に含む。
そのどちらも独特の風味でありながら、お互いを壊さない味で
普段お茶と言えばティーバッグ、クッキーと言えば既製品の彼女には新鮮だった。
「おいしいですね!どちらも!」
さきほどのしょんぼりした気持ちはどこかへ押しやって巴は明るい声で感想を述べた。
「それはどうも」と返事に答え、観月も自分の作品を一つくわえる。
「キミはあまりハーブには馴染みがなさそうでしたからどうかと思ったんですが
お口にあったみたいで良かったです。どんどん食べて下さいね」
その言葉を皮切りに二人は日が落ちる頃クッキーが尽きるまで、
喋りあい、笑いあって時を過ごした。
「あ~!お花もクッキーもお茶もとっても嬉しかったです!
ありがとうございました!」
満足そうに巴はお礼の言葉を口にした。
経緯はどうあれ、自分にとってはなかなかいいホワイトデーだった。
バレンタインデーに本命チョコをあげたのも、それに応えてもらえたことも
自分の人生の中では初めてのことだったしそれを考えると上出来ではないだろうか。
それに、もう気付いていた。いや、最初から知っていたのだ。多分。
観月は自分を騙そうと思えばいくらでも簡単に騙せるのだ。
「キミのために花を持って待っていた」なんて言えば自分は簡単に舞い上がるのに。
それは彼とて分かり切っている、計算するまでもないことだろうに。
なのに、彼はそうしなかった。
それを誠実という言葉以外の何で表せばいいというのだろう。
その事を思うと胸が熱くなる。
ルドルフに来ないかと誘われたときも、やはり胸が高まったけれどここまでではなかったような気がする。
胸のどこかに自分もコマとして使われるのではないかという疑念があったからだ。
けれども、「ボクの気持ちを渡したかったのは本当だ」などと言われたことでそれも吹き飛んだ。
あのセリフの意味って、バレンタインデーの私の気持ちに応えてくれるってことだよねと自分自身で再確認をおこなう。
公園からの帰り道、観月に送ってもらうその道がもっと長ければいいと
これほど思ったことがあっただろうか。
もっとも、ドキドキしっぱなしであまり長いと心臓が持ちそうにないのだけれど。
やっぱり越前家の門前に着いたときにはどうしようもない寂しさに襲われた。
「じゃあ、これで」と素っ気なく去っていく観月の後ろ姿をみることが
これほど辛いことだなんて、知らなかった。
その気持ちをあまりにも持て余してしまい、
玄関に入るやいなや迎えに出てくれた菜々子にさらけ出してしまった。
自分の気持ちも、今日のことも。
これまでのことも、これからのことも、全部。
「いくら罰ゲームだからって、興味ない女の子のところへなんて行けないわよ。
巴ちゃん、大丈夫だから。きっと特別な存在だと思われてるわよ」
実際に妹がいたらこんな話もするのだろうとウキウキしながら菜々子は自室で巴の話を聞き、それに答える。
「そうかなあ」
「そうよ。花を持って手作りクッキー焼いて…なんて勇気が要る事じゃない」
観月なら普通にやりかねないし似合うのだから始末に負えないわけだが
それを菜々子は知るよしもない。あくまで一般論を述べる。
「あ、そういえば、クッキー。まだあるんでしょ?どんなの?」
持ち帰り用にととっておいていた袋を菜々子に手渡してみせる。
「あらぁ本格的」と感嘆してそれを彼女は眺めた。
「へえ、まるで中学生男子の手作りだとは思えないわね…
これはキャラウェイクッキーね」
巴は知らなかったがクッキーの中に入っているハーブはキャラウェイと言うらしい。
キャラウェイ…と初めて知る単語を口にしながら菜々子とクッキーを見つめた。
几帳面な形をしたクッキーはいかにも観月らしいつくりだ。
きっと1グラムも分量を間違えていないだろうと思うと微笑ましい。
すこしにやつきながらクッキーを見ていると、
隣の菜々子は何か思い当たることがあったらしい。
「あっ!」と声を上げる。
そして、その思い当たったことが何か楽しいことだったのか、笑い出した。
「巴ちゃんの心配なんて杞憂よ。彼は本当にあなたのことが好きだって。
答えは━━━このクッキーにあるわよ」
そういってクッキー、その中に入っているキャラウェイの種の粒を指さす。
これに何故答えが?不思議そうな顔をして巴は菜々子の顔を見つめる。
菜々子はちょっと待っててと立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出してきた。
「これ、貸してあげるから読んでみると良いわよ」
そうして巴にその本を手渡した。
『ハーブ&スパイス辞典』、表紙にはそう書かれていた。
菜々子に本を借り、自室に戻った巴は早速それを開いてみることにした。
「えーと、キャラ…ウェイ…だっけ?キャラウェイ、キャラウェイ…」
律儀に索引からキャラウェイを辿りページを開く。
「あった!……媚薬……恋人同士で食べると永遠につづく……?」
分かったことは昔魔女が媚薬として使っていたことと、
恋人同士が食べればその愛が末永く続くこと。
誠実のシンボル。
「こんな所にも知識を広げてるんだ……観月さん……」
妙なところに感動を覚える。さすがデータマン。
まさか観月に限って言えば、食品の効能を知らずに用いることなどしないはず。
やはりそう言う意味なのだろう。
「でも、間違ってますよ、観月さん」
まぶたの裏の鮮やかに思い起こすことが出来る端正な顔に向かって話しかける。
「だって媚薬なんて効く余地もないくらいもう観月さんにドキドキしてるんだもん」
そりゃもう、キャラウェイなんて必要ないくらいに。
END
プロフィール
HN:
ななせなな
性別:
非公開
カテゴリー
最新記事
(01/01)
(05/24)
(05/03)
(05/03)
(02/14)
忍者カウンター
P R