「ふわーーーぁ」
こんなに早起きをしたのは久しぶりで、大きなあくびをこらえることが出来ない。
結局、涙目になりながら大きなあくびを一つ。
よかった。目の前のドアを涙で歪ませながらチェックする。
観月さんはまだ出てこない。
私はほっと胸を撫で下ろす。
こんなところを観月さんに見られたら、真田さんよろしく「たるんでますね」って言われそうで怖い。
私こと赤月巴はいまストーカーのごとく聖ルドルフ学院高等部男子寮の前に立っている。
しかも、夜も明けたばかりの早朝だ。
先ほどから犬の散歩の人やウォーキングの人をぼちぼち見つけるようになったけれども、それでも街はまだ半分眠っている状態で。
私もようやく動き出した電車に乗って男子寮まできていた。
それは何故かと訊かれたら、答えに迷うことはない。
今日は5月27日。
観月さんの誕生日だから。
昨日寝る前に急に朝一番におめでとうを言いたくなっていまに至るってところかな。
あ、目の前のドアの中から人影のようなものが見える。
誰が出てくるのか見定めるべく、半透明のガラス製のドアを凝視する。
そのシルエットは、視力が2.0以上らしい(なぜならそれ以上は測定してくれなかったから)この目が見間違えるはずもない。
ましてや自分の好きな人ならば、なおさら。
しばらくして出てきた姿はまごうことなく、観月さんそのもので。
出てくることを予想していたのに、実際こうやって出てくるとドキンと胸が弾んだ。
どどどうしよう……何を言おうかな……。
そうやって、パニくってる間にもこちらに向かってくる。
そりゃそうか、なにも数百メートル先に居たってわけじゃないから向こうだって気づくよね。
「巴くん、キミはなにをしてるんですか、こんなところで」
観月さんは早朝だからか、声を潜めて私に声をかけた。
だんだん近づいてくる。
真新しい高等部の制服姿の観月さんはまだ見慣れないようでドキドキする。
新入生の観月さんって想像できないけれど、どういう生活してるんだろう。
そんなことを思っている間にもうすでに目の前に立っていた。
「おはようございます、観月さん」
「おはよう、巴くん。今朝も早くから元気なものですね」
え!?
何の変哲もないただの朝の挨拶に聞こえるけれども、私は驚いてしまった。
なぜって、絶対「こんな朝早くから待ち伏せとは、キミはバカとしか言いようがありませんね」って言われるんだと思ったから。
でもそうじゃなくって穏やかな笑顔すら見せている。
これまでの経験上、どうしたんだろって疑わざるを得ないっていうか。
「──なにビックリしたような顔をしてるんですか」
「だって、……開口一番観月さんに怒られるんじゃないかなって、思ってましたから……」
これを言ってしまえば、やっぱり怒られちゃうかもしれないなあと思ったけど、観月さんには嘘をつきたくない。
正直に言うことにした。
「その、正直な物言いをキミの美点であると言うべきなんでしょうね」
ちょっとこめかみをヒクつかせながら怒るかなあと思ったけど、観月さんはそれでも落ち着いてそう言った。
もう、ホントどうしたんだろ。
もちろん私だってMってワケじゃないから、優しい観月さんは嬉しいけど、なんかヘン。
「んふっ、さすがに自分の誕生日が今日だってことは理解していますよ、その日の朝からキミが待っているのは何故か想像できますから」
そりゃそうでしょうとも。
「ある意味シナリオ通りと言うか──いえ、そんなシナリオは必要ないんですが、それでもキミの気持ちはボクだってとても嬉しいです。朝からかわいい自分の彼女が健気に待っていることを喜ばない男が居るでしょうか」
う~~~~わ~~~~! 『かわいい彼女』!!! 天にも昇る気持ちかも。
喜ばせたい観月さんに喜ばせてもらっちゃダメなんだろうけど。
「だから、今日はキミの無鉄砲とも言える行為を注意しないようにしようかと──ま、あくまで今日だけですけどね。キミがボクを驚かせたり喜ばせようとしたりしたかったのは伝わりましたから、大目に見ることにしますよ。ただし……」
「ただし?」
なんだろ?
「男子寮の前で待ち伏せなんて、今日限りでお願いしますよ」
「え、なんでですか?」
「なんで、って……そりゃ、同じ寮の飢えた男どもにキミの姿を見せることも勿体無いですからね。つまらないヤキモチだとキミは笑いますか?」
まさか! そんなこと笑えるわけないよ。ってか、観月さん朝から濃いこと言うなあ!
慌てて否定するべくブンブンと頭を横に振った。
あ、観月さん満足そうに笑ってる。
「じゃあ、行きましょうか」
私の右手を取って促した。
「どこへですか?」
「どこへって、何言ってるんですか。学校に決まってます、ボクの誕生日だからといって朝練は待ってくれませんよ」
さすがに「何をしにきたんですか、キミは」と少しあきれた表情に変わり、でもそれはすぐにいつもの表情に──いや、いつもの表情よりも柔らかく甘い表情になった。
ああ、こういう観月さんの顔は滅多にみることが出来ないけれども、それだけに私はこの顔に弱い。
もうどうしてくれようって思うくらい。
「……そうでした」
観月さんと手をつなぐのは珍しい。
ベタつくような付き合いも手が不自由するのも苦手だと知っているから仕方ないなと思ってたけど、どうやら今日は特別らしい。
「観月さん、手、良いんですか?」
気づかないふりして、そのままつないで歩いちゃえば良かったんだろうけど、これまた正直に訊いちゃう。
思ったことをすぐに口に出すことを観月さんは私の美点だって言ってくれたけど、これはさすがにまずいかなと思うな。
それが表情に出ちゃったのか、観月さんは面白そうに私を眺めてから、「んふっ」と軽く笑った。
「今日はボクの誕生日で、キミはボクをお祝いしてくれるつもりなんでしょう? じゃあ手ぐらい繋がせて欲しいと甘えたっていいですよね」
ギュッとさっきよりも強く手を握られる。
その少しひんやりして思ったよりも大きくて男の人らしい手を私も握り返した。
「もちろんです、観月さんの手ならいくらでも握っちゃいたいです!──でも、観月さんの誕生日なのに私ばっかり嬉しいみたいです」
「そんなこと、ないですよ」
「そうですか?」
「ええ、放課後にもっと嬉しくさせていただきますから、覚悟、しておいてくださいね」
観月さんはそう言って微笑んだ。
覚悟、させていただきます。
END
日付が新たに変わるまで、あと30分ほど。
今日が終われば、また新しい年が始まる。
実家に帰って、家族とこたつに入って紅白を観たり、観月家の今後について適当に話し合ったり。
そんなどうでもいい時間の過ごし方しかこの1日はしていない。
現在は特にやることもなくて、自室に戻ってデスクに無駄に座っているばかりだ。
寮にいれば残っている面々と、少なくとも飽きない過ごし方が出来たかもしれないというのに。
もう少ししたら氏神様へのご挨拶に、この寒い中家を出なければならない。
しかも一族総出でだ。これだから田舎の農家は……と思わずにいられない。
なんてくだらない年の越し方だろう、と観月はじめはため息をついた。
しかし、少なくとも大学を卒業するまで実家からの束縛は、節々に帰省するくらいの最低限で済む。
逆に言えば、今の文句が言える程度の自由ですら期限付きと言うことで。
どんなにこれからの人生をシミュレーションしようとも、胃の付近が重い感じになる。
気をそらそうと、窓のカーテンを開けて外を眺める。
日中は少々吹雪いていたけれども、雪は止んで凪いでいる。
大晦日の夜だからか、周囲に申し訳程度しかない民家は皆外灯もつけたままで、ぽつぽつと散らばった明かりは雪を照らしていつもより明るい夜になっている。
彼女──巴なら、こんな風景すらも奇麗だと言うだろうか。
何でもまっすぐ素直に感動する彼女なら。
無性に逢いたい。
今ここに一緒にいれば、こんなつまらない実家すら楽しいと思えるだろうにと、愚にもつかないことを考える。
残念ながらその彼女は今は岐阜の実家に居るはず。
岐阜と山形の距離なんて遠すぎて、どうすることも出来ない。
実際は岐阜もかなり雪が降るところがあると聞くし、観月が見ている雪景色も珍しいものではないかもしれない。
もしかしたら、彼女も当然のことすぎて奇麗だと感動すら覚えないかもしれない。
それでも、彼女とともにいるだけどんなに良いだろう。
一緒にこの風景を見てみたいと思う。
ひとつ大きく息を吐くと、メールの着信に気づいた。
”いま、電話しても大丈夫ですか?”
たったそれだけのメールなのに、あばたもえくぼというか、値千金に思えてしまうのだから、自分も大概まっすぐで素直かもしれない。
策士の観月はじめなど一体どこへ行ってしまったのか。
あわてて、階下におりて家族に二年参りのキャンセルを告げる。
姉や年寄りから「長男なのに!」という抗議はあるものの、風邪気味だからと殊勝な顔を見せてみればその抗議もぴたりと止まる。
なんだかんだ言って、家族は自分に弱い。
それは分かっているから、せいぜい最大限使わせてもらおうと思う。
「じゃあ、もう寝るから」と言い残して再び自室に戻る。
毎日発信履歴の残っているその番号に、今日もまた発信する。
コールは3回で途切れ、聞こえてくるのは、ただ懐かしくいとおしい彼女の声だけ。
「んふっ、こんばんは──キミと一緒に年越ししようと思って電話したんですが、大丈夫ですよね?」
「もちろんです!」すこしうわずった声が聞こえる。
慌てて受信したのだろうか、心の準備ができていないと言った風情だ。
巴から誘った電話だというのに。
「ねえ、巴くん? キミの家の窓からは何が見えますか?」
先ほどと同じように自室の窓から外を眺めながら、側にはいない彼女に問いかける。
願わくば雪がいい。観月はそう思う。
そうすれば、遠く離れていても一緒に並んでいるような気持ちになるから。
キミの隣で、1年が終われるから。
END
今日が終われば、また新しい年が始まる。
実家に帰って、家族とこたつに入って紅白を観たり、観月家の今後について適当に話し合ったり。
そんなどうでもいい時間の過ごし方しかこの1日はしていない。
現在は特にやることもなくて、自室に戻ってデスクに無駄に座っているばかりだ。
寮にいれば残っている面々と、少なくとも飽きない過ごし方が出来たかもしれないというのに。
もう少ししたら氏神様へのご挨拶に、この寒い中家を出なければならない。
しかも一族総出でだ。これだから田舎の農家は……と思わずにいられない。
なんてくだらない年の越し方だろう、と観月はじめはため息をついた。
しかし、少なくとも大学を卒業するまで実家からの束縛は、節々に帰省するくらいの最低限で済む。
逆に言えば、今の文句が言える程度の自由ですら期限付きと言うことで。
どんなにこれからの人生をシミュレーションしようとも、胃の付近が重い感じになる。
気をそらそうと、窓のカーテンを開けて外を眺める。
日中は少々吹雪いていたけれども、雪は止んで凪いでいる。
大晦日の夜だからか、周囲に申し訳程度しかない民家は皆外灯もつけたままで、ぽつぽつと散らばった明かりは雪を照らしていつもより明るい夜になっている。
彼女──巴なら、こんな風景すらも奇麗だと言うだろうか。
何でもまっすぐ素直に感動する彼女なら。
無性に逢いたい。
今ここに一緒にいれば、こんなつまらない実家すら楽しいと思えるだろうにと、愚にもつかないことを考える。
残念ながらその彼女は今は岐阜の実家に居るはず。
岐阜と山形の距離なんて遠すぎて、どうすることも出来ない。
実際は岐阜もかなり雪が降るところがあると聞くし、観月が見ている雪景色も珍しいものではないかもしれない。
もしかしたら、彼女も当然のことすぎて奇麗だと感動すら覚えないかもしれない。
それでも、彼女とともにいるだけどんなに良いだろう。
一緒にこの風景を見てみたいと思う。
ひとつ大きく息を吐くと、メールの着信に気づいた。
”いま、電話しても大丈夫ですか?”
たったそれだけのメールなのに、あばたもえくぼというか、値千金に思えてしまうのだから、自分も大概まっすぐで素直かもしれない。
策士の観月はじめなど一体どこへ行ってしまったのか。
あわてて、階下におりて家族に二年参りのキャンセルを告げる。
姉や年寄りから「長男なのに!」という抗議はあるものの、風邪気味だからと殊勝な顔を見せてみればその抗議もぴたりと止まる。
なんだかんだ言って、家族は自分に弱い。
それは分かっているから、せいぜい最大限使わせてもらおうと思う。
「じゃあ、もう寝るから」と言い残して再び自室に戻る。
毎日発信履歴の残っているその番号に、今日もまた発信する。
コールは3回で途切れ、聞こえてくるのは、ただ懐かしくいとおしい彼女の声だけ。
「んふっ、こんばんは──キミと一緒に年越ししようと思って電話したんですが、大丈夫ですよね?」
「もちろんです!」すこしうわずった声が聞こえる。
慌てて受信したのだろうか、心の準備ができていないと言った風情だ。
巴から誘った電話だというのに。
「ねえ、巴くん? キミの家の窓からは何が見えますか?」
先ほどと同じように自室の窓から外を眺めながら、側にはいない彼女に問いかける。
願わくば雪がいい。観月はそう思う。
そうすれば、遠く離れていても一緒に並んでいるような気持ちになるから。
キミの隣で、1年が終われるから。
END
最初に謝っておきます。かなり小ネタですみません。
未来設定の観月×巴です。
全く色気がない話ですが、まあそういう表現が無いとも言い切れず。
とりあえず何を出されてもおいしくいただける方のみご覧ください。
***
未来設定の観月×巴です。
全く色気がない話ですが、まあそういう表現が無いとも言い切れず。
とりあえず何を出されてもおいしくいただける方のみご覧ください。
***
観月はじめは、しばらく前までは風呂など身体を清潔に保ち、温浴効果で身体をくつろげるためだけの場所だと思っていた。
一人で瞑想したり、音楽を聴いたり、リラックスできる場所であって欲しくもあったのだが、残念ながら中高と寮生活では望めないことだった。
だから観月は一人暮らしを始めることでまず非常に重きを置いたことは入浴の楽しめる物件探しだった。
ユニットバスなどとんでもないことだ。最低でも、バストイレ別が良かったし、風呂場が清潔で大きいものであればあるほど良かった。
ただし都会の独身者向けアパートやマンションで、風呂にこだわった物件など平均的な家賃では見つかる訳も無く、ようやく理想的だと思った物件は相場よりも値の張ったデザイナーズマンションだった。
バスタブは広く、17歳を過ぎて急激に成長した身体を沈めても余りある位だったし、浴室の上部に設置されている明かり取りの窓のおかげで浴室内は開放的な印象だった。
この物件を手に入れた結果、実家からの援助額がいくらか嵩むところが観月には少し不本意であったが、いつかあの北国に帰り、それ以降は外へと出られなくなってしまうことを考えると、今はこれくらいの見返りがあってもいいような気もしている。
それに──彼女も付いて来たことだし?
いま自分が後ろから抱きかかえる形になっている人物の赤々と火照る肩に顔を埋めた。
「キミはずいぶん長風呂が得意なんですね、……ボクはもうそろそろ逆上せそうですよ」
「観月さんそんなところでモゴモゴとしゃべられると、くすぐったいです」
自分の前に身を置いた赤月巴は自ら持ち込んだお風呂用おもちゃをプカプカと浮かべて遊んでいた。
観月が風呂にこだわって、そこについてきた結果の一つだった。
心地の良い入浴空間は、風呂好きの女子的には当然興味をそそられる対象となる訳で、それが倦怠期もなんのそのと長い間付き合ってきた恋人の部屋であるならば、たどり着くところは一つしか無いも同然だった。
最初は一緒に入ることもためらっていた彼女だが、生来おおっぴらで無頓着な性格はここにも影響を及ぼした。
つまりはすぐに気にならなくなった。
恋人にテニスで鍛えられた体躯を曝すこと自体、もともと抵抗は無かったし、風呂ごときで何を今更といったこともある。
そうしたら気づけばいつの間にやら昼間っから広い風呂に浸かって、なにもせず二人グダグダと時を過ごすことも多くなっていた。
巴がいま遊んでいる風呂用おもちゃも、彼女が自分の入浴のお供にとわざわざ持ち込んだものだった。
風呂どころか、部屋全体がもしかしたら観月の私物よりも彼女の私物の方が多いのではないかと思われる。
かつて世間一般において思春期と呼ばれる頃には、自分の領域に赤の他人が入ってくることを激しく嫌っていた観月であったが、この頃は巴に限定して言うならばそれも悪くないと思っていた。
きちんと整理整頓さえされていれば、ではあったが。
しかしながら巴がきっちり片付けるということはあまり無いことで、それが近頃の観月の頭痛の種の一つであった。
「出したら片付ける!」と彼女に注意することは、中学生の時分からいつまで経っても変わらなかった。
恋人関係であれば師弟関係などそろそろ解消したい関係の一つではあるが、その時はなかなか訪れそうにない。
しばらく巴の肩に顔を埋めていた観月は、ふたたび顔を上げて彼女の肩越しにおもちゃを見た。目が合ったような気がした。
それはビニール製の黄色のアヒルの浮きだった。
アヒルの地球に優しくなさそうな毒々しいまでの黄色に顔を顰めた。
このおもちゃはなぜか観月を不快にさせる。
すぐさま原因に考えが至って、それがまた更に嫌な感じだった。
「──ボクはキミの私物自体にいちいち文句を付ける気はないんです……片付けられていれば、ですが……」
観月は自分でも何を言い出すのやらと思いつつ、少し言いづらそうに言葉を紡ぐ。
こんなことを言うのは非常に馬鹿馬鹿しい。
まだ学生の身の上とはいえ、成人男性の言うことではない気がする。
しかし、ここで言わなければ、いまふと覚えた不快感をいつまでも拭い去ることはできないだろう。
「ただ、このおもちゃは不快ですからもう持ち込むのはやめてくださいね」
目の前の彼女は「ええー、気に入ってるのに」と抗議したが、観月は彼の本来嫌いとする頭の弱そうな理由でそれを拒む。
「だって、それ、どこかのアヒル似の人間に見えるじゃないですか──それが、ここにあるのは覗かれているようで気持ち悪い」
そう言って観月は巴の脇から手を伸ばしておもちゃを掴み、浴槽の外へと投げ捨てた。
「ああっ、観月さんヒドイ」
巴が抗議すべく、背後の観月へと身体ごと振り返って正面から向き合う体勢になる。
「もうっあれは柳沢さんじゃなくて単なるアヒルですよ──きゃっ」
向き合って、巴が口を開いた瞬間、今度は真っ正面から観月は彼女を抱え込んで身体の中に自らの身を沈めた。
ざばっと浴槽から激しく水がこぼれたが二人は気にしなかった。
湯が減れば自動的に補給されるシステムはこういうときにありがたい。
観月はいきおい彼女の肌に唇を押し当てたまま、先ほどのようにモゴモゴと話し始めた。
「だから、たとえおもちゃであっても、誰かの、何かの目の前にキミの素肌を触れさせたくないし、だいたいボクはそんな状況でキミに色々とするような性癖は無いんですよ、わかってくれませんか」
「──っだからあれは柳沢さんなんかじゃないですってば!」そう言う巴の言葉を、「こんなところでヤツの名前は聞きたくないですね」などと的外れな台詞で流しながら巴の身体に更に浸る。
ここまで動ける広い風呂はやはり悪くないなと、悪怯れるふうも無く観月は自分の選んだ物件に満足を覚え、二人の入浴に没頭することにした。
END
一人で瞑想したり、音楽を聴いたり、リラックスできる場所であって欲しくもあったのだが、残念ながら中高と寮生活では望めないことだった。
だから観月は一人暮らしを始めることでまず非常に重きを置いたことは入浴の楽しめる物件探しだった。
ユニットバスなどとんでもないことだ。最低でも、バストイレ別が良かったし、風呂場が清潔で大きいものであればあるほど良かった。
ただし都会の独身者向けアパートやマンションで、風呂にこだわった物件など平均的な家賃では見つかる訳も無く、ようやく理想的だと思った物件は相場よりも値の張ったデザイナーズマンションだった。
バスタブは広く、17歳を過ぎて急激に成長した身体を沈めても余りある位だったし、浴室の上部に設置されている明かり取りの窓のおかげで浴室内は開放的な印象だった。
この物件を手に入れた結果、実家からの援助額がいくらか嵩むところが観月には少し不本意であったが、いつかあの北国に帰り、それ以降は外へと出られなくなってしまうことを考えると、今はこれくらいの見返りがあってもいいような気もしている。
それに──彼女も付いて来たことだし?
いま自分が後ろから抱きかかえる形になっている人物の赤々と火照る肩に顔を埋めた。
「キミはずいぶん長風呂が得意なんですね、……ボクはもうそろそろ逆上せそうですよ」
「観月さんそんなところでモゴモゴとしゃべられると、くすぐったいです」
自分の前に身を置いた赤月巴は自ら持ち込んだお風呂用おもちゃをプカプカと浮かべて遊んでいた。
観月が風呂にこだわって、そこについてきた結果の一つだった。
心地の良い入浴空間は、風呂好きの女子的には当然興味をそそられる対象となる訳で、それが倦怠期もなんのそのと長い間付き合ってきた恋人の部屋であるならば、たどり着くところは一つしか無いも同然だった。
最初は一緒に入ることもためらっていた彼女だが、生来おおっぴらで無頓着な性格はここにも影響を及ぼした。
つまりはすぐに気にならなくなった。
恋人にテニスで鍛えられた体躯を曝すこと自体、もともと抵抗は無かったし、風呂ごときで何を今更といったこともある。
そうしたら気づけばいつの間にやら昼間っから広い風呂に浸かって、なにもせず二人グダグダと時を過ごすことも多くなっていた。
巴がいま遊んでいる風呂用おもちゃも、彼女が自分の入浴のお供にとわざわざ持ち込んだものだった。
風呂どころか、部屋全体がもしかしたら観月の私物よりも彼女の私物の方が多いのではないかと思われる。
かつて世間一般において思春期と呼ばれる頃には、自分の領域に赤の他人が入ってくることを激しく嫌っていた観月であったが、この頃は巴に限定して言うならばそれも悪くないと思っていた。
きちんと整理整頓さえされていれば、ではあったが。
しかしながら巴がきっちり片付けるということはあまり無いことで、それが近頃の観月の頭痛の種の一つであった。
「出したら片付ける!」と彼女に注意することは、中学生の時分からいつまで経っても変わらなかった。
恋人関係であれば師弟関係などそろそろ解消したい関係の一つではあるが、その時はなかなか訪れそうにない。
しばらく巴の肩に顔を埋めていた観月は、ふたたび顔を上げて彼女の肩越しにおもちゃを見た。目が合ったような気がした。
それはビニール製の黄色のアヒルの浮きだった。
アヒルの地球に優しくなさそうな毒々しいまでの黄色に顔を顰めた。
このおもちゃはなぜか観月を不快にさせる。
すぐさま原因に考えが至って、それがまた更に嫌な感じだった。
「──ボクはキミの私物自体にいちいち文句を付ける気はないんです……片付けられていれば、ですが……」
観月は自分でも何を言い出すのやらと思いつつ、少し言いづらそうに言葉を紡ぐ。
こんなことを言うのは非常に馬鹿馬鹿しい。
まだ学生の身の上とはいえ、成人男性の言うことではない気がする。
しかし、ここで言わなければ、いまふと覚えた不快感をいつまでも拭い去ることはできないだろう。
「ただ、このおもちゃは不快ですからもう持ち込むのはやめてくださいね」
目の前の彼女は「ええー、気に入ってるのに」と抗議したが、観月は彼の本来嫌いとする頭の弱そうな理由でそれを拒む。
「だって、それ、どこかのアヒル似の人間に見えるじゃないですか──それが、ここにあるのは覗かれているようで気持ち悪い」
そう言って観月は巴の脇から手を伸ばしておもちゃを掴み、浴槽の外へと投げ捨てた。
「ああっ、観月さんヒドイ」
巴が抗議すべく、背後の観月へと身体ごと振り返って正面から向き合う体勢になる。
「もうっあれは柳沢さんじゃなくて単なるアヒルですよ──きゃっ」
向き合って、巴が口を開いた瞬間、今度は真っ正面から観月は彼女を抱え込んで身体の中に自らの身を沈めた。
ざばっと浴槽から激しく水がこぼれたが二人は気にしなかった。
湯が減れば自動的に補給されるシステムはこういうときにありがたい。
観月はいきおい彼女の肌に唇を押し当てたまま、先ほどのようにモゴモゴと話し始めた。
「だから、たとえおもちゃであっても、誰かの、何かの目の前にキミの素肌を触れさせたくないし、だいたいボクはそんな状況でキミに色々とするような性癖は無いんですよ、わかってくれませんか」
「──っだからあれは柳沢さんなんかじゃないですってば!」そう言う巴の言葉を、「こんなところでヤツの名前は聞きたくないですね」などと的外れな台詞で流しながら巴の身体に更に浸る。
ここまで動ける広い風呂はやはり悪くないなと、悪怯れるふうも無く観月は自分の選んだ物件に満足を覚え、二人の入浴に没頭することにした。
END
---27日PM---
さすがに、放課の時刻が迫ってくる頃には巴の目はほぼ通常通りに戻っていた。
慣れない寝不足はさすがに尾を引いていて目尻はうっすら赤いが、そのあたりはもうよく見ないことには分からないだろう。
自分でもいま手にしている小さな鏡では、頑張って見なければ気付かない程度だ。
「よし、目、オッケー。肌もオッケー…かな」
自分の再点検を終えたところで丁度SHRが終了して日直から号令がかかった。
今週は中等部も高等部も中間試験前ということで部活はない。
あとは観月に逢いに行くだけとなった。
背中を押されたように号令から一瞬遅れて勢いよく立ち上がった。
そのまま、待ち合わせ場所まで走っていける位の勢いで。
「よぉっし! プレゼントも持ったっと!」
先日から頑張って用意した紙袋も再度確認して教室を出ようとした。
いつものごとく隣には早川がいる。
今日みたいに用事があっても、学校を出るまではいつでも二人は並んで歩いている。
この学校に転校してからはいつの間にかそういうことになっていた。
「ねえ、赤月、そういえば」
張り切っている巴に早川は声をかけた。
「昨日の悩みって解消したわけ?
━━━つまり昨日のシチュエーションがどうのこうの……ってやつだけど」
早川のとってそれは何か確認したかったというわけでもなく、ただの世間話に近い何気なく尋ねたことであったが、巴には大きな意味があった。
「わわっ、忘れてたあ!」
巴の悲愴な叫びは廊下一帯に響き渡っていった。
隣に立っていた早川の耳は突然の大声にピリピリしていたが、それよりもただ観月がこの中等部にいまいなくて良かったなあと心から思っていた。
彼がいたとしたら、廊下での大声などすぐに叱咤が飛んでいたことだろう。
そして、彼女の隣にいた者として自分もとばっちりに近い責任追及をされていたに違いない。
巴には悪いが、取扱いが非常に面倒な観月は、早川にとって出来る限り避けたい相手であった。
非常に残念ながら、いまとなってはテニスから離れたり巴との縁を切らない限りは、完全に避けられない間柄だったが。
「どうしよう……、待ち合わせ場所から先のこと全く考えてなかった……!
なんか今朝は目の腫れのことばっかり考えてたし、授業中は眠くて仕方なかったし」
きっと、今日が元々ノープランだったとしても観月は何も言わないだろう。
はじめから今日の予定を巴が立てると宣言しているのならば別だが、巴の考えていたお祝いといえばある意味サプライズに近いことだったので、観月には言っていない。
観月にすれば、巴がなにかやりたそうにしていることには気付いていても、既に彼にとって重要なのはそこではなく、ただ巴とどう過ごすかだけの話だったので、正直サプライズだろうが最初から知らされている予定通りであろうがどうでも良い。
ノープランでも、二人でいればどこでもそれなりに楽しいのだから。
これまでの付き合いでも、常々そう思っていた。
もっとも、それを巴に悟られると、「遊び心がない!」だの「私のことなんてどうでもいいんですね!」だのと物事の本質から大きく外れたところで責められるので黙っているが。
当然彼女のエスコートで素晴らしい1日になれば、それがお互いにとって一番良いとは思っている。
しかし、現在の巴はその事は知らないので、あくまで真剣に『本日の予定』がまだ立っていないことを気にしていた。
心なしか顔も青ざめている。
「仕方ないじゃない、ここまで来ちゃったら取りあえず待ち合わせ場所に行かないと。
時間に遅れることが一番観月さんが嫌いなことだって知ってるでしょ。
大体、観月さんなんて、赤月がいればどこだって何だって嬉しいんだから」
「それも、分かってる」
うつむき加減でそう答えた巴を見ながら、昨日に続いてまた余計な口出しをしてしまったことに早川は気付いた。
つくづく自分は恋愛絡みの問題には向いていないと思い知らされる。
たまたま巴と観月の二人に近い人間として、話を聞いてしまうことも多いが、こういった話の時はどうしても役に立たずに辛い。
転校してから1年以上たつことだし、はやく恋愛相談担当の友達でも作ってくれないかなと思ったりもするが、残念ながら巴の性格では恋愛脳の友達などなかなか出来そうにもなかった。
---
放課後の待ち合わせはいつも決まっていた。
駅前のからくり時計の下のベンチだった。
しぶしぶノープランで待ち合わせ場所にやってきた巴は、その場所に観月がいないことに少しばかり安堵した。
観月が決めないわけがないので待ち合わせの時間は当然決まっていたが、なにぶん学校が終わってからの待ち合わせということで休日の時のように厳守は難しい。
先生や委員会や部活、『なにかしらの用事』は予告なしでやってくるからだ。
かといって、観月が数分遅れたところでその間に何か良い案が思い浮かぶとは、巴自身到底思えなかった。
一度周囲をぐるりと見渡して、運の良いことに空いていたベンチに巴はちょこんと座り観月の到着を待つことにした。
もちろん脳内で悪あがきをしてみるものの、上手くはいかない。
からくり時計の針がムダにカチ、カチと動いていくのみだった。
その針が到着したときよりも45度ほど傾いたとき、待ち人はやって来た。
結局、ここまで巴には良い案が浮かばないままだ。
逃げるわけにはいかない以上、開き直るしかないと腹を括った。
「巴くん、待たせてしまってすみませんでした。
今日はキミがボクのために用意してくれた日だというのに」
「い、いいえ!
私なんかよりも観月さんの方が忙しいのなんて分かり切ってることですから」
大慌てでベンチから立ち上がり、観月は悪くないと巴は主張した。
観月が遅れてきて謝るときにいつもそうするように。
「━━━キミはいつもそう言ってくれますね、正直助かります。
でも、拗ねてみせるのも彼女たる特権だと思いますけどね、んふっ」
観月もまたいつも通り冗談交じりに彼女をいなして、この場所から動こうと誘導する。
が、巴はベンチから立ち上がったその姿勢のまま動こうとしなかった。
「……巴くん、どうしたんですか?」
長らく付き合っていれば、多少なりとも彼女の奇行には慣れている。
慣れてはいるが、その行動のひとつひとつの理由は知りたいと観月は思う。
それを知ることで自分お得意のデータ化できたら面白いと思うし、そうしなくても自分には理解できない彼女の気持ちを知ること、それだけでなんだか楽しい気分になるのだから。
「ごめんなさいっ!
今日は私から誘ったクセにノープランですっ!」
色んな人から『開き直った巴はタチが悪い』と良く言われるが、いまこの時点が最たるタチの悪さだろうと巴は自身そう思った。
そんなことをあっさり、しかも大きい声で告げられた観月は、この答えばかりは予想外でぽかんと彼女を見つめるばかりだ。
自意識過剰かもしれないが、さすがに自らの誕生日に逢おうと誘うだけ誘っておいて計画も無しだとは思わなかった。なにか素敵な出来事の企画の一つでもあってしかるべきではないだろうか、普通。
その『普通』ではない部分も、観月にとっては巴の良いところの一つだったりするので非難は出来ないが。
ここで、こう来られるとは思わなかった。
「……んふっ、今日はどうお祝いしてくれるのかと思ったんですけどね。
その辺は巴くんらしいというか……ふふっ」
観月から笑みが漏れる。
しかし巴はそこで観月にウケるとは思わなかったので思わず目を丸くした。
「いいんですか!? それで……怒られると思ったんですけど……」
「いいえ、そんなことで怒っていてはボクの身が持ちませんよ。
完璧なプランを立ててくる巴くんの方が、らしくないと思ってますからね」
聞く人が聞けば馬鹿にしてると取られるセリフをさらっと観月は口にして、また巴を促す。
「じゃあ、適当にフラフラしましょうか、今日は暖かくて天気も良いし公園でも?
高台のベンチからならこれから綺麗な夕陽の一つでも見られるでしょうしね」
学生のデートスポットでもあるそこへ行こうと観月は誘った。
確かにいまからどこに行くにしても、計画していないのなら時間的にも金銭的にも多少の無理が生じる。
公園であれば、どんな条件でもそこそこ楽しめるだろう。
巴は、今日は自分でエスコートするはずだったのに……と少々落ち込みこそすれど、その申し出には異存はなく観月の腕をさりげなく掴んで共に歩き出した。
---
さすがに放課後の学生カップル達はこんな良い場所を逃すわけもなく、公園は人が多かった。
夕陽を望もうと行った公園内の高台のベンチは既に満員御礼で、二人は高台一面に広がる芝生にじかに腰を下ろすことにした。
もちろん観月は巴に膝を立てるななどと細かいことを注意することを忘れない。
途中のコンビニで買ったペットボトルのお茶を手渡しながら、観月は巴に改まった調子で話し始めた。
その雰囲気に巴も思わず背筋を伸ばして聞く体制になった。
「ねえ、巴くんはいつも一人で精一杯頑張りすぎてしまうクセがあるでしょう?
そんなキミももちろん大好きですけど、それだけじゃあ彼氏としては寂しいですね」
唐突なその話題に巴の思考は付いていかない。
不思議そうな顔のまま、観月の次の言葉を待つ。
彼の顔が妙にいつにも増して真面目な顔なのが、巴の緊張感を煽り立てていた。
「たまにはちゃんとボクに甘えてみませんか?
せっかくボクみたいなしっかりした彼氏が居るんです。
キミはもうちょっと力を抜いた方がイイと思うんですけどね。
━━━ああ、もちろん手を抜くという意味じゃなくて」
ようやく、巴も彼の話を理解した。
どうやら自分が今回ノープランだったことに責任を感じていることを、観月は悟っているようだった。
それなのにここまで言ってフォローしてくれるなんて、情けなくもあるし有り難くもある。
観月の言葉が直接耳よりも先に心にじわじわ染みこんできた。
良い意味でも悪い意味でも、いまの自分に一番の影響力を持つのはこの人なんだと実感する。
隣で、こうやって真摯な目で話してくれる人がいるのはとても安心することだ。
「ああそうだ、キミ、そんなに真っ直ぐ正座するように座ってないで、
こっちに……そう、ボクの肩にもたれ掛かりなさい━━━眠いんでしょう?」
言われるままに遠慮無く観月の肩に巴は体重を預けたが、急に全く話題を変えられて戸惑いは隠せなかった。
何故か自分が寝不足であることを知られている。
まさか朝練の時に早川は正直に真実を話してしまったのではないだろうか。
信頼の置ける女友達に僅かな疑念が生まれる。
「んふっ、そのうっすら赤い目の端を見れば分かりますよ。
どうせ今朝も体調不良というよりは寝不足だったりするんでしょう。
キミが眠いときはいつも赤ちゃんみたいに体温が高くなって、こうやってもたれ掛かられるとボクも暖かくて心地良いですね」
どうやら早川の疑いはシロだったらしい。
目が腫れて仕方なかったこと自体は知られていないことにホッと胸を撫で下ろした。
肌はガサガサ目はパンパンとあんな恥ずかしい顔をしていたと、この端正な顔を持つ自分の好きな人に知られたくはない。
女子なら一様にそう思うことだろう、そして巴もそうだった。
観月は巴の体温が心地良いと言ったが、それは巴も同じことで、観月の低めの体温が快かった。
思わず目を閉じてそのまま眠ってしまいたくなる。
観月はそれでも構わないと言うのだろうが、巴にしてみればこの状態を眠りで途切れさせてしまうのは、とてももったいないことのように思えた。
「ん……? 寝ないんですか、巴くん」
「だって、空が赤くなってきましたよ、ほら」
ついつい二人の世界に夢中になってしまっていたが、陽はずいぶん傾いており彼らのいる公園の木々は鮮やかな新緑から一転優しいオレンジへと色を塗り替えていた。
夕陽がやわらかく二人はもちろん周囲を包み込む。
「あ、そうだ。
お誕生日おめでとうございます、観月さん。これ、プレゼントです」
巴は渡すならばいまだと考えて、プレゼントを手渡す。
観月は巴に「いいですか?」と許可を得てから、あくまで丁寧にプレゼントの包みを解いた。
中に入っていたのは、分厚く柔らかそうなアイボリーとロイヤルブルーのタオルだった。
銀糸で観月のイニシャルが施されている。
こういう優雅さを忘れない実用品は観月の好むものだった。
「これは……一流ホテルのタオルと言っても通りそうな位良い品ですね」
「観月さんって肌が弱いですから、こういったものが良いかなって思ったんです」
「キミがボク自身のことをちゃんと考えて贈ってくれるというのは良いですね。
去年もそうでしたけど、それがボクにとっては一番嬉しいですよ。
あ、もちろんプレゼントだって嬉しいですけどね」
巴はその言葉に何となく照れを感じて、顔を僅かに伏せる。
付き合い始めてから1年以上たつけれども、洗練されているようでいて直截的な観月の物言いは巴を時に照れさせる。そしていつまで経っても慣れない。
「…………喜んでもらって、私こそ嬉しいです…………」
夕陽に照らされていながらも赤面していることが分かる巴の表情に、観月の顔にも笑みが生まれる。
観月はいついかなる時に見ても飽きない彼女にまた魅入ってしまう。
「キミはいつだって、何もしなくたってボクをこんなに幸せにするんですよ。
それは、自覚しなさい。」
「はい?」
彼の話が見えない巴は思わず問い返した。
見えないのも当然だ。
観月だってとっさに思いついたことを口走ったのだから仕方ない。
「だから、ボクにいくらでも甘えて良いし、こうしていつでももたれ掛かりなさい」
「でも……」
戸惑い気味の巴の声を聞き、自分でも何を言っているんだと思いつつ、観月は話を続けた。
「もしも、その扱いに納得がいかないと言うのであれば。
それならキミの持てる精一杯で、ずっとボクの隣に居続ける努力をしてください。
たったそれだけ……それだけでボクは報われるんですよ」
「え、そんなことで良いんですか? 簡単なことですよ」
「どんな簡単なことでも、物事を持続させるというのは案外難しいことですよ。
いくら、キミとボクとの仲と言ってもね。
━━━あ、あと一つお願いがあります」
「それも、簡単なことでしょうか……?」
急に無理なお願いが来るかもしれないと思い巴は少しドキドキする。
アメとムチは観月の得意とするところだったから、いつものように脳内では警戒警報のサイレンが鳴り響いている。
甘い言葉の後に振るわれるムチは相当痛そうだ。
「ええ……んふ。いえ、簡単かもしれないし、難しいかもしれません。
毎年、この日にまたこの公園で二人で過ごしましょうって事ですから」
『この日』つまり観月の誕生日ということだ。
「いいですけど、そうしたら毎年観月さんのお誕生日は公園ですよ!?
そりゃ、今年は何をして良いんだか思いつきませんでしたけど……。
でも、来年こそはちゃんとしますから!」
この公園に来たのは必然ではない。偶然のことだ。
たまたま、巴がせっかく二人で会うというのに計画が立てられなかっただけで。
この公園自体に何か思い入れがあるわけでも用事があるわけでもない。
「構いませんよ、ここが良いんです、良くなりました。
だって、ここに来ればボクのいまの気持ちをまた思い出すでしょう?」
ありのままの彼女、赤月巴と一緒に過ごしたい。
ただそれだけの純粋な願いを自覚し、彼女に告げた場所。
「だからこそ、いいんです」
「?」
納得していなさそうな巴の表情を楽しげに眺めつつ、芝生に伏せられた彼女の手に自分の手を重ねた。
じんわりとした暖かみが観月の手のひらに広がった。
こんな暖かさを味わえるのなら、いつでも何度だってここに来ても構わないとすら彼は思う。
それがたとえ自分の誕生日ではないとしても。
「だって、いまキミ━━━巴のことをこんなに好きになっている自分のことを、いつだって忘れたくないですからね」
「そっ、そう言うことなら……」
アメとムチのムチも甘い言葉のラッシュだったらしい。
目が回る思いで巴は観月の言葉を受け止める。
「ちなみに」
巴の耳元へ観月が口を寄せる。
恐ろしいほど近い距離から彼の声が発せられて、思わず巴は体を震わせる。
「毎年プレゼントはちゃんといただきますからね━━━キミを」
そう言って耳元に近づけられていた筈の彼の唇は、頬を掠めてあらためて巴の唇にたどり着いた。
END
さすがに、放課の時刻が迫ってくる頃には巴の目はほぼ通常通りに戻っていた。
慣れない寝不足はさすがに尾を引いていて目尻はうっすら赤いが、そのあたりはもうよく見ないことには分からないだろう。
自分でもいま手にしている小さな鏡では、頑張って見なければ気付かない程度だ。
「よし、目、オッケー。肌もオッケー…かな」
自分の再点検を終えたところで丁度SHRが終了して日直から号令がかかった。
今週は中等部も高等部も中間試験前ということで部活はない。
あとは観月に逢いに行くだけとなった。
背中を押されたように号令から一瞬遅れて勢いよく立ち上がった。
そのまま、待ち合わせ場所まで走っていける位の勢いで。
「よぉっし! プレゼントも持ったっと!」
先日から頑張って用意した紙袋も再度確認して教室を出ようとした。
いつものごとく隣には早川がいる。
今日みたいに用事があっても、学校を出るまではいつでも二人は並んで歩いている。
この学校に転校してからはいつの間にかそういうことになっていた。
「ねえ、赤月、そういえば」
張り切っている巴に早川は声をかけた。
「昨日の悩みって解消したわけ?
━━━つまり昨日のシチュエーションがどうのこうの……ってやつだけど」
早川のとってそれは何か確認したかったというわけでもなく、ただの世間話に近い何気なく尋ねたことであったが、巴には大きな意味があった。
「わわっ、忘れてたあ!」
巴の悲愴な叫びは廊下一帯に響き渡っていった。
隣に立っていた早川の耳は突然の大声にピリピリしていたが、それよりもただ観月がこの中等部にいまいなくて良かったなあと心から思っていた。
彼がいたとしたら、廊下での大声などすぐに叱咤が飛んでいたことだろう。
そして、彼女の隣にいた者として自分もとばっちりに近い責任追及をされていたに違いない。
巴には悪いが、取扱いが非常に面倒な観月は、早川にとって出来る限り避けたい相手であった。
非常に残念ながら、いまとなってはテニスから離れたり巴との縁を切らない限りは、完全に避けられない間柄だったが。
「どうしよう……、待ち合わせ場所から先のこと全く考えてなかった……!
なんか今朝は目の腫れのことばっかり考えてたし、授業中は眠くて仕方なかったし」
きっと、今日が元々ノープランだったとしても観月は何も言わないだろう。
はじめから今日の予定を巴が立てると宣言しているのならば別だが、巴の考えていたお祝いといえばある意味サプライズに近いことだったので、観月には言っていない。
観月にすれば、巴がなにかやりたそうにしていることには気付いていても、既に彼にとって重要なのはそこではなく、ただ巴とどう過ごすかだけの話だったので、正直サプライズだろうが最初から知らされている予定通りであろうがどうでも良い。
ノープランでも、二人でいればどこでもそれなりに楽しいのだから。
これまでの付き合いでも、常々そう思っていた。
もっとも、それを巴に悟られると、「遊び心がない!」だの「私のことなんてどうでもいいんですね!」だのと物事の本質から大きく外れたところで責められるので黙っているが。
当然彼女のエスコートで素晴らしい1日になれば、それがお互いにとって一番良いとは思っている。
しかし、現在の巴はその事は知らないので、あくまで真剣に『本日の予定』がまだ立っていないことを気にしていた。
心なしか顔も青ざめている。
「仕方ないじゃない、ここまで来ちゃったら取りあえず待ち合わせ場所に行かないと。
時間に遅れることが一番観月さんが嫌いなことだって知ってるでしょ。
大体、観月さんなんて、赤月がいればどこだって何だって嬉しいんだから」
「それも、分かってる」
うつむき加減でそう答えた巴を見ながら、昨日に続いてまた余計な口出しをしてしまったことに早川は気付いた。
つくづく自分は恋愛絡みの問題には向いていないと思い知らされる。
たまたま巴と観月の二人に近い人間として、話を聞いてしまうことも多いが、こういった話の時はどうしても役に立たずに辛い。
転校してから1年以上たつことだし、はやく恋愛相談担当の友達でも作ってくれないかなと思ったりもするが、残念ながら巴の性格では恋愛脳の友達などなかなか出来そうにもなかった。
---
放課後の待ち合わせはいつも決まっていた。
駅前のからくり時計の下のベンチだった。
しぶしぶノープランで待ち合わせ場所にやってきた巴は、その場所に観月がいないことに少しばかり安堵した。
観月が決めないわけがないので待ち合わせの時間は当然決まっていたが、なにぶん学校が終わってからの待ち合わせということで休日の時のように厳守は難しい。
先生や委員会や部活、『なにかしらの用事』は予告なしでやってくるからだ。
かといって、観月が数分遅れたところでその間に何か良い案が思い浮かぶとは、巴自身到底思えなかった。
一度周囲をぐるりと見渡して、運の良いことに空いていたベンチに巴はちょこんと座り観月の到着を待つことにした。
もちろん脳内で悪あがきをしてみるものの、上手くはいかない。
からくり時計の針がムダにカチ、カチと動いていくのみだった。
その針が到着したときよりも45度ほど傾いたとき、待ち人はやって来た。
結局、ここまで巴には良い案が浮かばないままだ。
逃げるわけにはいかない以上、開き直るしかないと腹を括った。
「巴くん、待たせてしまってすみませんでした。
今日はキミがボクのために用意してくれた日だというのに」
「い、いいえ!
私なんかよりも観月さんの方が忙しいのなんて分かり切ってることですから」
大慌てでベンチから立ち上がり、観月は悪くないと巴は主張した。
観月が遅れてきて謝るときにいつもそうするように。
「━━━キミはいつもそう言ってくれますね、正直助かります。
でも、拗ねてみせるのも彼女たる特権だと思いますけどね、んふっ」
観月もまたいつも通り冗談交じりに彼女をいなして、この場所から動こうと誘導する。
が、巴はベンチから立ち上がったその姿勢のまま動こうとしなかった。
「……巴くん、どうしたんですか?」
長らく付き合っていれば、多少なりとも彼女の奇行には慣れている。
慣れてはいるが、その行動のひとつひとつの理由は知りたいと観月は思う。
それを知ることで自分お得意のデータ化できたら面白いと思うし、そうしなくても自分には理解できない彼女の気持ちを知ること、それだけでなんだか楽しい気分になるのだから。
「ごめんなさいっ!
今日は私から誘ったクセにノープランですっ!」
色んな人から『開き直った巴はタチが悪い』と良く言われるが、いまこの時点が最たるタチの悪さだろうと巴は自身そう思った。
そんなことをあっさり、しかも大きい声で告げられた観月は、この答えばかりは予想外でぽかんと彼女を見つめるばかりだ。
自意識過剰かもしれないが、さすがに自らの誕生日に逢おうと誘うだけ誘っておいて計画も無しだとは思わなかった。なにか素敵な出来事の企画の一つでもあってしかるべきではないだろうか、普通。
その『普通』ではない部分も、観月にとっては巴の良いところの一つだったりするので非難は出来ないが。
ここで、こう来られるとは思わなかった。
「……んふっ、今日はどうお祝いしてくれるのかと思ったんですけどね。
その辺は巴くんらしいというか……ふふっ」
観月から笑みが漏れる。
しかし巴はそこで観月にウケるとは思わなかったので思わず目を丸くした。
「いいんですか!? それで……怒られると思ったんですけど……」
「いいえ、そんなことで怒っていてはボクの身が持ちませんよ。
完璧なプランを立ててくる巴くんの方が、らしくないと思ってますからね」
聞く人が聞けば馬鹿にしてると取られるセリフをさらっと観月は口にして、また巴を促す。
「じゃあ、適当にフラフラしましょうか、今日は暖かくて天気も良いし公園でも?
高台のベンチからならこれから綺麗な夕陽の一つでも見られるでしょうしね」
学生のデートスポットでもあるそこへ行こうと観月は誘った。
確かにいまからどこに行くにしても、計画していないのなら時間的にも金銭的にも多少の無理が生じる。
公園であれば、どんな条件でもそこそこ楽しめるだろう。
巴は、今日は自分でエスコートするはずだったのに……と少々落ち込みこそすれど、その申し出には異存はなく観月の腕をさりげなく掴んで共に歩き出した。
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さすがに放課後の学生カップル達はこんな良い場所を逃すわけもなく、公園は人が多かった。
夕陽を望もうと行った公園内の高台のベンチは既に満員御礼で、二人は高台一面に広がる芝生にじかに腰を下ろすことにした。
もちろん観月は巴に膝を立てるななどと細かいことを注意することを忘れない。
途中のコンビニで買ったペットボトルのお茶を手渡しながら、観月は巴に改まった調子で話し始めた。
その雰囲気に巴も思わず背筋を伸ばして聞く体制になった。
「ねえ、巴くんはいつも一人で精一杯頑張りすぎてしまうクセがあるでしょう?
そんなキミももちろん大好きですけど、それだけじゃあ彼氏としては寂しいですね」
唐突なその話題に巴の思考は付いていかない。
不思議そうな顔のまま、観月の次の言葉を待つ。
彼の顔が妙にいつにも増して真面目な顔なのが、巴の緊張感を煽り立てていた。
「たまにはちゃんとボクに甘えてみませんか?
せっかくボクみたいなしっかりした彼氏が居るんです。
キミはもうちょっと力を抜いた方がイイと思うんですけどね。
━━━ああ、もちろん手を抜くという意味じゃなくて」
ようやく、巴も彼の話を理解した。
どうやら自分が今回ノープランだったことに責任を感じていることを、観月は悟っているようだった。
それなのにここまで言ってフォローしてくれるなんて、情けなくもあるし有り難くもある。
観月の言葉が直接耳よりも先に心にじわじわ染みこんできた。
良い意味でも悪い意味でも、いまの自分に一番の影響力を持つのはこの人なんだと実感する。
隣で、こうやって真摯な目で話してくれる人がいるのはとても安心することだ。
「ああそうだ、キミ、そんなに真っ直ぐ正座するように座ってないで、
こっちに……そう、ボクの肩にもたれ掛かりなさい━━━眠いんでしょう?」
言われるままに遠慮無く観月の肩に巴は体重を預けたが、急に全く話題を変えられて戸惑いは隠せなかった。
何故か自分が寝不足であることを知られている。
まさか朝練の時に早川は正直に真実を話してしまったのではないだろうか。
信頼の置ける女友達に僅かな疑念が生まれる。
「んふっ、そのうっすら赤い目の端を見れば分かりますよ。
どうせ今朝も体調不良というよりは寝不足だったりするんでしょう。
キミが眠いときはいつも赤ちゃんみたいに体温が高くなって、こうやってもたれ掛かられるとボクも暖かくて心地良いですね」
どうやら早川の疑いはシロだったらしい。
目が腫れて仕方なかったこと自体は知られていないことにホッと胸を撫で下ろした。
肌はガサガサ目はパンパンとあんな恥ずかしい顔をしていたと、この端正な顔を持つ自分の好きな人に知られたくはない。
女子なら一様にそう思うことだろう、そして巴もそうだった。
観月は巴の体温が心地良いと言ったが、それは巴も同じことで、観月の低めの体温が快かった。
思わず目を閉じてそのまま眠ってしまいたくなる。
観月はそれでも構わないと言うのだろうが、巴にしてみればこの状態を眠りで途切れさせてしまうのは、とてももったいないことのように思えた。
「ん……? 寝ないんですか、巴くん」
「だって、空が赤くなってきましたよ、ほら」
ついつい二人の世界に夢中になってしまっていたが、陽はずいぶん傾いており彼らのいる公園の木々は鮮やかな新緑から一転優しいオレンジへと色を塗り替えていた。
夕陽がやわらかく二人はもちろん周囲を包み込む。
「あ、そうだ。
お誕生日おめでとうございます、観月さん。これ、プレゼントです」
巴は渡すならばいまだと考えて、プレゼントを手渡す。
観月は巴に「いいですか?」と許可を得てから、あくまで丁寧にプレゼントの包みを解いた。
中に入っていたのは、分厚く柔らかそうなアイボリーとロイヤルブルーのタオルだった。
銀糸で観月のイニシャルが施されている。
こういう優雅さを忘れない実用品は観月の好むものだった。
「これは……一流ホテルのタオルと言っても通りそうな位良い品ですね」
「観月さんって肌が弱いですから、こういったものが良いかなって思ったんです」
「キミがボク自身のことをちゃんと考えて贈ってくれるというのは良いですね。
去年もそうでしたけど、それがボクにとっては一番嬉しいですよ。
あ、もちろんプレゼントだって嬉しいですけどね」
巴はその言葉に何となく照れを感じて、顔を僅かに伏せる。
付き合い始めてから1年以上たつけれども、洗練されているようでいて直截的な観月の物言いは巴を時に照れさせる。そしていつまで経っても慣れない。
「…………喜んでもらって、私こそ嬉しいです…………」
夕陽に照らされていながらも赤面していることが分かる巴の表情に、観月の顔にも笑みが生まれる。
観月はいついかなる時に見ても飽きない彼女にまた魅入ってしまう。
「キミはいつだって、何もしなくたってボクをこんなに幸せにするんですよ。
それは、自覚しなさい。」
「はい?」
彼の話が見えない巴は思わず問い返した。
見えないのも当然だ。
観月だってとっさに思いついたことを口走ったのだから仕方ない。
「だから、ボクにいくらでも甘えて良いし、こうしていつでももたれ掛かりなさい」
「でも……」
戸惑い気味の巴の声を聞き、自分でも何を言っているんだと思いつつ、観月は話を続けた。
「もしも、その扱いに納得がいかないと言うのであれば。
それならキミの持てる精一杯で、ずっとボクの隣に居続ける努力をしてください。
たったそれだけ……それだけでボクは報われるんですよ」
「え、そんなことで良いんですか? 簡単なことですよ」
「どんな簡単なことでも、物事を持続させるというのは案外難しいことですよ。
いくら、キミとボクとの仲と言ってもね。
━━━あ、あと一つお願いがあります」
「それも、簡単なことでしょうか……?」
急に無理なお願いが来るかもしれないと思い巴は少しドキドキする。
アメとムチは観月の得意とするところだったから、いつものように脳内では警戒警報のサイレンが鳴り響いている。
甘い言葉の後に振るわれるムチは相当痛そうだ。
「ええ……んふ。いえ、簡単かもしれないし、難しいかもしれません。
毎年、この日にまたこの公園で二人で過ごしましょうって事ですから」
『この日』つまり観月の誕生日ということだ。
「いいですけど、そうしたら毎年観月さんのお誕生日は公園ですよ!?
そりゃ、今年は何をして良いんだか思いつきませんでしたけど……。
でも、来年こそはちゃんとしますから!」
この公園に来たのは必然ではない。偶然のことだ。
たまたま、巴がせっかく二人で会うというのに計画が立てられなかっただけで。
この公園自体に何か思い入れがあるわけでも用事があるわけでもない。
「構いませんよ、ここが良いんです、良くなりました。
だって、ここに来ればボクのいまの気持ちをまた思い出すでしょう?」
ありのままの彼女、赤月巴と一緒に過ごしたい。
ただそれだけの純粋な願いを自覚し、彼女に告げた場所。
「だからこそ、いいんです」
「?」
納得していなさそうな巴の表情を楽しげに眺めつつ、芝生に伏せられた彼女の手に自分の手を重ねた。
じんわりとした暖かみが観月の手のひらに広がった。
こんな暖かさを味わえるのなら、いつでも何度だってここに来ても構わないとすら彼は思う。
それがたとえ自分の誕生日ではないとしても。
「だって、いまキミ━━━巴のことをこんなに好きになっている自分のことを、いつだって忘れたくないですからね」
「そっ、そう言うことなら……」
アメとムチのムチも甘い言葉のラッシュだったらしい。
目が回る思いで巴は観月の言葉を受け止める。
「ちなみに」
巴の耳元へ観月が口を寄せる。
恐ろしいほど近い距離から彼の声が発せられて、思わず巴は体を震わせる。
「毎年プレゼントはちゃんといただきますからね━━━キミを」
そう言って耳元に近づけられていた筈の彼の唇は、頬を掠めてあらためて巴の唇にたどり着いた。
END
---27日AM---
朝、目が覚めたら最悪のコンディションだった。
目が覚めたら、というのがそもそも語弊がある。
覚醒するほど眠ってはいない。
ゆえに、肌はガサガサ、目は赤く窪んでいる。
これを女子が最悪と言わずして何と言うのだろうか。
よりによって、自分の一番好きな人の誕生日の朝に。
「あ~あ……酷い顔だあ」
鏡の中の自分を見て、巴は軽く絶望した。
いくら何でも、平常時でもこの顔はない。
しかも今日は平常時ではない。
『今日の観月の誕生日をどうするか』ばかり考えていて眠れなかったことが原因だが、
眠るにしろ眠らないにしろ、せめて寝る前にパックぐらいやっておくんだったと後悔した。
これでは自己管理が出来ていないことがバレバレで、観月は男女の別なく自己管理の出来ない人間のことを軽蔑していた。
さすがにそれが巴のこととなれば、イキナリ嫌われるということは無さそうだが、それにしても説教のひとつやふたつは余裕で待ち受けている。
それが、特別な日の出来事となるというのだから、『最悪』としか言いようがない。
目が覚めたのは、朝練に出るのにギリギリの時間。
時計を気にしつつ、慌てて小物入れの中から普段使わずに放置している基礎化粧品一式を取り出しペタペタと塗り始めた。
こんな顔で観月に会えるはずがない。
焦りが募って涙が出そうになる。
今日、誕生日プレゼントをいかにして渡すかを考える前に、自分自身のコンディションについてももうちょっと考えるべきだった。
化粧水やクリームを塗れば、即ちガサガサの肌は若さもあってなんとか治まった感があるが、腫れたままの目はどうしようもなかった。
「あ! 時間!」
ピピピピ……と携帯電話からアラームが鳴り出した。
寮を出る時間ということだ。
アラームを切った瞬間、部屋のドアが外からノックされた。
隣の部屋の早川に違いない。
朝から相変わらずサッパリとした声で「もう行くわよ?」と巴に呼びかけている。
「楓ちゃーん……!」
扉を少し開いて巴は顔を出した。
「ちょっと……何よその顔!」
早川がめずらしくギョッとした顔で巴を見た。
普段から彼女には大雑把なところがあるので肌荒れならばたまに見ることがあったが、どんな時もグッスリ快眠しそして滅多に泣いたりもしない巴は当然目を腫らしていることなど稀だ。
なので、滅多に目にしない巴のその顔に驚いてしまった。
「そう、そうなの! ね、ね、どうしたらいいかなあ!」
いかにも『泣きつく』といった感じで巴は早川に縋る。
早川にしろ、こんな目の腫れが一瞬で直る魔法なぞ知るわけがなく。
「どうしようもないわよ」
と、すげなく縋り付く巴を振り払う。
それでも巴の視線は早川に頼りきりで、彼女は負けたように肩を落としてこう言った。
「……あー…、じゃあ、今日はもう体調不良って事で朝練休みなさいな。
それなら観月さんに会う時間は放課後だけになるし……。
通常の登校時間までに冷やしておけば何とかなるでしょ」
「部の方には私が伝えておくから」と言い残して早川は先に登校していった。
巴は慌てて冷やすための氷を食堂の冷蔵庫まで取りに行き、腫れが治まるようにと必死に祈りながら登校時間まで目を冷やすことに専念した。
--
朝練は聖ルドルフ学園の中高等部合同で行われていた。
寮の場所が男女離れていることもあり、観月が朝練の時に巴を迎えに行くことは付き合い始めた頃はともかくとして最近では珍しいことだった。
ゆえにお互い朝一番に出会う場所はコートの中だったが、今朝に限って巴の姿は朝練開始時刻となっても見えなかった。
「おはようございます、観月さん」
観月は後ろからかけられた声に反応して振り向くと、そこには巴の友人が立っていた。
「ああ、おはよう、早川。それで、巴くんはどうしたんですか?」
挨拶もそこそこに━━━むしろ本人的には省略して本題だけ聞きたい位だったが、開口一番早川に巴の今朝の行方を尋ねた。
いつもなら、朝一番であれば早川の隣には巴が居るはずだ。
90%以上の確率で。データを駆使するまでもなく。
一緒にやってきて一緒にウェアに着替えて一緒にコートに出てくるのだから。
「それが……赤月は体調が少し優れなくて今朝は休むとのことです」
全くの嘘ではないが本当でもないために、早川は言いにくそうに観月にそう伝えた。
「体調が? それで大事を取ったわけですか……」
うっかり「こんな日に?」と観月は続けそうになる。
今日が特別な日なのは自らと巴の二人だけの都合であって、早川をはじめ他人には全く関係がなかったので慌てて言葉を飲み込んだ。
早川は充分と言っていいほど、主に巴に巻き込まれているのであるが、それに甘えることにも抵抗がある。
もっとも少し残念そうな表情は隠しようもなく、今更早川の前で隠しても仕方がないのでそのままだった。
「あっ、でも、夕方には万全にしておきたいって意味もあるみたいですよ」
早川も観月と同じ位慌てて訳の分からないフォローを入る。
この件で彼の機嫌を損ねてしまって、とばっちりが来てはたまらないといった思惑もあったがそこは表に出さず、あくまで観月との放課後のためといったニュアンスだけを前面に押し出す。
「そうですか、朝から巴くんの姿を見られないのは残念ですが、仕方ないですね。
朝練に無理矢理出ることで、ますます体調を崩してしまってはいけませんしね」
こんな日に朝一番の自分の恋しい人と逢えない不運をこっそり嘆きながら、観月はアップの輪に入っていった。
次に逢えるのは数時間後、最後に逢ったのが昨日の放課後なのだから、それを計算に入れると1日近く逢えない時間があるということだ。
しかも、朝逢えると思っていた分きっとここから放課後まで長く感じるのだろうことはこれまでの経験上分かっている。
この不運な気持ちを抱く引き金になった巴には、あとで小言の一つでも言わなければ気が済まない。
あれほど自己管理を徹底せよと言い続けていたというのに。
決して自分が寂しいから文句を言うのではない。
あくまで、彼女のために。
多分。
続く
朝、目が覚めたら最悪のコンディションだった。
目が覚めたら、というのがそもそも語弊がある。
覚醒するほど眠ってはいない。
ゆえに、肌はガサガサ、目は赤く窪んでいる。
これを女子が最悪と言わずして何と言うのだろうか。
よりによって、自分の一番好きな人の誕生日の朝に。
「あ~あ……酷い顔だあ」
鏡の中の自分を見て、巴は軽く絶望した。
いくら何でも、平常時でもこの顔はない。
しかも今日は平常時ではない。
『今日の観月の誕生日をどうするか』ばかり考えていて眠れなかったことが原因だが、
眠るにしろ眠らないにしろ、せめて寝る前にパックぐらいやっておくんだったと後悔した。
これでは自己管理が出来ていないことがバレバレで、観月は男女の別なく自己管理の出来ない人間のことを軽蔑していた。
さすがにそれが巴のこととなれば、イキナリ嫌われるということは無さそうだが、それにしても説教のひとつやふたつは余裕で待ち受けている。
それが、特別な日の出来事となるというのだから、『最悪』としか言いようがない。
目が覚めたのは、朝練に出るのにギリギリの時間。
時計を気にしつつ、慌てて小物入れの中から普段使わずに放置している基礎化粧品一式を取り出しペタペタと塗り始めた。
こんな顔で観月に会えるはずがない。
焦りが募って涙が出そうになる。
今日、誕生日プレゼントをいかにして渡すかを考える前に、自分自身のコンディションについてももうちょっと考えるべきだった。
化粧水やクリームを塗れば、即ちガサガサの肌は若さもあってなんとか治まった感があるが、腫れたままの目はどうしようもなかった。
「あ! 時間!」
ピピピピ……と携帯電話からアラームが鳴り出した。
寮を出る時間ということだ。
アラームを切った瞬間、部屋のドアが外からノックされた。
隣の部屋の早川に違いない。
朝から相変わらずサッパリとした声で「もう行くわよ?」と巴に呼びかけている。
「楓ちゃーん……!」
扉を少し開いて巴は顔を出した。
「ちょっと……何よその顔!」
早川がめずらしくギョッとした顔で巴を見た。
普段から彼女には大雑把なところがあるので肌荒れならばたまに見ることがあったが、どんな時もグッスリ快眠しそして滅多に泣いたりもしない巴は当然目を腫らしていることなど稀だ。
なので、滅多に目にしない巴のその顔に驚いてしまった。
「そう、そうなの! ね、ね、どうしたらいいかなあ!」
いかにも『泣きつく』といった感じで巴は早川に縋る。
早川にしろ、こんな目の腫れが一瞬で直る魔法なぞ知るわけがなく。
「どうしようもないわよ」
と、すげなく縋り付く巴を振り払う。
それでも巴の視線は早川に頼りきりで、彼女は負けたように肩を落としてこう言った。
「……あー…、じゃあ、今日はもう体調不良って事で朝練休みなさいな。
それなら観月さんに会う時間は放課後だけになるし……。
通常の登校時間までに冷やしておけば何とかなるでしょ」
「部の方には私が伝えておくから」と言い残して早川は先に登校していった。
巴は慌てて冷やすための氷を食堂の冷蔵庫まで取りに行き、腫れが治まるようにと必死に祈りながら登校時間まで目を冷やすことに専念した。
--
朝練は聖ルドルフ学園の中高等部合同で行われていた。
寮の場所が男女離れていることもあり、観月が朝練の時に巴を迎えに行くことは付き合い始めた頃はともかくとして最近では珍しいことだった。
ゆえにお互い朝一番に出会う場所はコートの中だったが、今朝に限って巴の姿は朝練開始時刻となっても見えなかった。
「おはようございます、観月さん」
観月は後ろからかけられた声に反応して振り向くと、そこには巴の友人が立っていた。
「ああ、おはよう、早川。それで、巴くんはどうしたんですか?」
挨拶もそこそこに━━━むしろ本人的には省略して本題だけ聞きたい位だったが、開口一番早川に巴の今朝の行方を尋ねた。
いつもなら、朝一番であれば早川の隣には巴が居るはずだ。
90%以上の確率で。データを駆使するまでもなく。
一緒にやってきて一緒にウェアに着替えて一緒にコートに出てくるのだから。
「それが……赤月は体調が少し優れなくて今朝は休むとのことです」
全くの嘘ではないが本当でもないために、早川は言いにくそうに観月にそう伝えた。
「体調が? それで大事を取ったわけですか……」
うっかり「こんな日に?」と観月は続けそうになる。
今日が特別な日なのは自らと巴の二人だけの都合であって、早川をはじめ他人には全く関係がなかったので慌てて言葉を飲み込んだ。
早川は充分と言っていいほど、主に巴に巻き込まれているのであるが、それに甘えることにも抵抗がある。
もっとも少し残念そうな表情は隠しようもなく、今更早川の前で隠しても仕方がないのでそのままだった。
「あっ、でも、夕方には万全にしておきたいって意味もあるみたいですよ」
早川も観月と同じ位慌てて訳の分からないフォローを入る。
この件で彼の機嫌を損ねてしまって、とばっちりが来てはたまらないといった思惑もあったがそこは表に出さず、あくまで観月との放課後のためといったニュアンスだけを前面に押し出す。
「そうですか、朝から巴くんの姿を見られないのは残念ですが、仕方ないですね。
朝練に無理矢理出ることで、ますます体調を崩してしまってはいけませんしね」
こんな日に朝一番の自分の恋しい人と逢えない不運をこっそり嘆きながら、観月はアップの輪に入っていった。
次に逢えるのは数時間後、最後に逢ったのが昨日の放課後なのだから、それを計算に入れると1日近く逢えない時間があるということだ。
しかも、朝逢えると思っていた分きっとここから放課後まで長く感じるのだろうことはこれまでの経験上分かっている。
この不運な気持ちを抱く引き金になった巴には、あとで小言の一つでも言わなければ気が済まない。
あれほど自己管理を徹底せよと言い続けていたというのに。
決して自分が寂しいから文句を言うのではない。
あくまで、彼女のために。
多分。
続く
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