『あとのまつり』忍足×巴
「で、なんで私たち、こんな所でお茶してるんでしょうね?」
10月のよく晴れた休日の昼下がり、客席のほとんどが埋まったカフェで、赤月巴はいかにも腑に落ちないといった表情で目の前の男――忍足侑士に問いかけた。
忍足の返事よりも早くカラン…と巴のグラスの氷が返事をするように音を立てた。
『これにて上映は終了致しました』
映画の感動に浸る間もなく、無機質なアナウンスに促されてふたりは席を立った。
映画館を出る人々の流れに任せて表へ出ると、そのまま映画館前のカフェへと吸い込まれていった。
「いや、普通に映画の後のお茶やろ」
「そうじゃなくて、ちゃんと説明してください」
目の前でしれっとした表情でアイスコーヒーを飲む忍足に答えを要求する。
「せやから、たまたま映画鑑賞券を2枚貰ったんやけど、部活の男どもは『ラブロマンスなんて男と行くもんかー』なんて言うてな、仕方なく一人で行こうと思ってたところに丁度良くジブンが歩いとったっちゅーことやな」
「ちゅーことやな、じゃなくて……無理に連れ込まれたようなものじゃないですか」
確かに映画館前で巴は忍足に会った。
「丁度ええとこに!」と急に腕を引っ張られ、2時間あまり映画を見たあと現在に至る。
ちなみに巴は同居人菜々子に頼まれて駅前のケーキ屋にクッキーを買いに来ただけだった。
完全におつかい途中といった、パーカーとジーンズを身につけ手荷物は携帯と財布だけといった出で立ちで。
いま居るカフェがファミレス的なところだから良いものの、おしゃれなカフェなら気恥ずかしかったかもしれない。
「まあ、ええやん、なかなかおもろかったやろあの映画。主人公らのラブラブっぷりが評判やったんやで」
彼女の不服そうな表情は何のその、何事もなかったかのように忍足は話しかけた。
それに対して巴も忍足のおごりというミルクレープをつつきながら、まんざらでもない表情で肯定する。
「それはまあ……」
「そやろ、な? よかったやん、ジブンもタダで観れて。それにしてもまあ、最後あのヒーローは愛してる愛してる言いすぎやって。あれは凄いよな」
すっかり忍足のペースで話が進んでいるようだったので、巴は自分がここにいる理由の追及を諦めて話に付き合うことにした。
「ですよねえ、あれだけ言われたらきっと絆されちゃいますよねえ」
「――巴も絆されるんか?」
忍足はふいに真顔になって、巴に問いかけた。
よくよく考えると普段呼ばれることのない名前で呼んでいる。そういえばこれまでは「赤月」と呼ばれていたような。
巴はその言葉に一瞬ドキっと胸の鼓動が高鳴った気がしたが、理由については未だ気づいておらず、その結果高鳴りについては無視することにした。
「いえ、そういう愛してるとかって、私にはまだ早いかなあって。自分でいうのも難ですがテニス馬鹿ですから」
巴らしいとはいえ、そのつれない言葉に少々肩を落としながら、忍足は引き続き質問を投げかける。
「それやったら、いつなら早くなくなるん?」
「ええ? そ、それは分からないですよ、まだ中学生ですよ?」
巴は急に何を言うのだと言わんばかりに慌てて答える。
ロマンス映画は観ても、そう言った出来事が自分に降りかかることは全く想像したことがなかったからだ。
急にそんなことを訊かれても答えられるはずがない。
なんだか喉が急激に渇いたような気がして、慌てて自分のアイスカフェオレを啜り上げた。
「……そんな気持ちに早いも中学生も無いって思うんやけどな……まあ、ええわ」
忍足は「よっしゃ」と手をパンっと一つ調子よく叩き、ニヤリと笑って巴に宣言する。
「せやったら、ジブンが早くなくなった頃合いに言うてみたるわ」
「???」
「愛してるって言うたら、そのとき巴が絆されるかどうか知りたいしな。まあ見とき」
忍足も自分のアイスコーヒーを一気に煽り、そう巴に宣言した。
後日、『まあ見とき』そう言った忍足はそれを正確に実行に移すことになる。
そのときになって初めて巴は今日の話題の意味に気付いたが、もはや後の祭りであった。
END
「で、なんで私たち、こんな所でお茶してるんでしょうね?」
10月のよく晴れた休日の昼下がり、客席のほとんどが埋まったカフェで、赤月巴はいかにも腑に落ちないといった表情で目の前の男――忍足侑士に問いかけた。
忍足の返事よりも早くカラン…と巴のグラスの氷が返事をするように音を立てた。
『これにて上映は終了致しました』
映画の感動に浸る間もなく、無機質なアナウンスに促されてふたりは席を立った。
映画館を出る人々の流れに任せて表へ出ると、そのまま映画館前のカフェへと吸い込まれていった。
「いや、普通に映画の後のお茶やろ」
「そうじゃなくて、ちゃんと説明してください」
目の前でしれっとした表情でアイスコーヒーを飲む忍足に答えを要求する。
「せやから、たまたま映画鑑賞券を2枚貰ったんやけど、部活の男どもは『ラブロマンスなんて男と行くもんかー』なんて言うてな、仕方なく一人で行こうと思ってたところに丁度良くジブンが歩いとったっちゅーことやな」
「ちゅーことやな、じゃなくて……無理に連れ込まれたようなものじゃないですか」
確かに映画館前で巴は忍足に会った。
「丁度ええとこに!」と急に腕を引っ張られ、2時間あまり映画を見たあと現在に至る。
ちなみに巴は同居人菜々子に頼まれて駅前のケーキ屋にクッキーを買いに来ただけだった。
完全におつかい途中といった、パーカーとジーンズを身につけ手荷物は携帯と財布だけといった出で立ちで。
いま居るカフェがファミレス的なところだから良いものの、おしゃれなカフェなら気恥ずかしかったかもしれない。
「まあ、ええやん、なかなかおもろかったやろあの映画。主人公らのラブラブっぷりが評判やったんやで」
彼女の不服そうな表情は何のその、何事もなかったかのように忍足は話しかけた。
それに対して巴も忍足のおごりというミルクレープをつつきながら、まんざらでもない表情で肯定する。
「それはまあ……」
「そやろ、な? よかったやん、ジブンもタダで観れて。それにしてもまあ、最後あのヒーローは愛してる愛してる言いすぎやって。あれは凄いよな」
すっかり忍足のペースで話が進んでいるようだったので、巴は自分がここにいる理由の追及を諦めて話に付き合うことにした。
「ですよねえ、あれだけ言われたらきっと絆されちゃいますよねえ」
「――巴も絆されるんか?」
忍足はふいに真顔になって、巴に問いかけた。
よくよく考えると普段呼ばれることのない名前で呼んでいる。そういえばこれまでは「赤月」と呼ばれていたような。
巴はその言葉に一瞬ドキっと胸の鼓動が高鳴った気がしたが、理由については未だ気づいておらず、その結果高鳴りについては無視することにした。
「いえ、そういう愛してるとかって、私にはまだ早いかなあって。自分でいうのも難ですがテニス馬鹿ですから」
巴らしいとはいえ、そのつれない言葉に少々肩を落としながら、忍足は引き続き質問を投げかける。
「それやったら、いつなら早くなくなるん?」
「ええ? そ、それは分からないですよ、まだ中学生ですよ?」
巴は急に何を言うのだと言わんばかりに慌てて答える。
ロマンス映画は観ても、そう言った出来事が自分に降りかかることは全く想像したことがなかったからだ。
急にそんなことを訊かれても答えられるはずがない。
なんだか喉が急激に渇いたような気がして、慌てて自分のアイスカフェオレを啜り上げた。
「……そんな気持ちに早いも中学生も無いって思うんやけどな……まあ、ええわ」
忍足は「よっしゃ」と手をパンっと一つ調子よく叩き、ニヤリと笑って巴に宣言する。
「せやったら、ジブンが早くなくなった頃合いに言うてみたるわ」
「???」
「愛してるって言うたら、そのとき巴が絆されるかどうか知りたいしな。まあ見とき」
忍足も自分のアイスコーヒーを一気に煽り、そう巴に宣言した。
後日、『まあ見とき』そう言った忍足はそれを正確に実行に移すことになる。
そのときになって初めて巴は今日の話題の意味に気付いたが、もはや後の祭りであった。
END
「なあ、立海に転校してこねえ?」
赤月巴は切原赤也のその言葉に、ドキリとした。
そして、ついに言われてしまったな、とこっそり思った。
まさか昼下がりの公園のストリートテニスコートのベンチでこう改まった話を切り出されるとは思わなかったが。
今日は天気のいい日曜日、声のトーンが高くよく通る声の持ち主の二人の周囲には、同じくストリートテニスに興じている顔見知りが沢山いた。
彼のいまの台詞を耳にしてしまった者もいることだろう。
青学テニス部員と共通の知り合いも多いというのに。
巴はあわてて切原をコート外のベンチに引っ張っていった。
3月のジュニア選抜合宿で知り合って、こうして二人で逢うことも多くなって早三ヶ月。
巴は二人の距離が縮まれば縮まるほど、そういう話になってしまうのではないかと正直危惧していた。
まもなく関東大会が始まる。
当然とも言えるけれども、関東大会への出場権を二人は得ている。
お互い昨年の全国大会優勝・準優勝校だから決勝付近まで対戦することは無いだろうが、こんなところで負ける筈はない両校だから結局のところはいずれ対戦することになる。
倒さねばならない敵として、ネットを挟むのだ。
だから、巴は切原がいつかそう言い出しそうだなと感じていた。
切原は立海大の主将だからミクスドで出てきて巴と対戦することは無いだろうが、それにしてもかの学校からしてみれば青学は去年からの因縁もあって大いに叩き潰したい敵である。
そんな学校に、自分が好ましく思う女子を置いておきたくないと思うのは当然だろうと、自分にしたってあまり楽しいことではないしと巴は思う。
でも、やっぱり性格の差なのか性別の差なのか、巴はそれに素直に肯定できない。
だからこそ「ええー、しませんよー」そう何事も無いようにアッサリと回答した。
「なんで!」
「なんでって……そっちこそなんで転校なんて言葉を簡単に口にするんですか」
中学生の身分では一人で決められない事項だということは切原にもわかっていることだろう。
それでも巴にそうして欲しいのだとわかっているけれども、わかりたくない。
彼はこちらの事情を鑑みていない。彼の少々幼い一本気な性格からいって仕方ないことにも思えたけれども、そのことについては不満が残る。
学校が違うと寂しいから、一緒にいたい。
敵味方に分かれて戦いたくない。
そんな気持ちならば自分も一緒だけれども、そんな事で簡単に学校まで移るような女だと思われるのは嫌だった。
それ以上に嫌なことがあるのだけれども、言っていいのかどうか少々迷っていた。
彼がどう受け取るかわからなかったから。
「──簡単に口に出来るようなことなら、もっと早く言ってるさ」
切原は苦々しげな表情で吐き捨てるように言った。
彼の事だから、もっとムキになって応えてくると思ったので、巴はその表情に少したじろいだ。
「だけど、もしお前が怪我をしたりしたら、どうすればいい? むしろオレはその怪我を狙う立場なんだぜ。あいつは右をひねったから右を狙っていけ、ぶつけるくらいの気持ちでいけ──部員にもそう言うだろうけど、言えねえし出来ねえんだよ、お前に対してだけはさ」
ゆえにいまの状況が苦しいのだと切原は説明する。
切原だって、相手を傷つけなければそれに越したことは無いと頭のどこかで分ってはいるが、それでもアレが自分のテニスなのだということも知っている。そもそもキレてしまえばすべてを超越してしまうのだ。
まだ、そんな場面に遭遇していないけれどもネットの向こうにいるのが巴であっても、デビル化してしまえばどうなるか分らない。
すべてが分らなくなって、血を求めて──我にかえると目の前に倒れているのは彼女かもしれない。
そんなとき、どうすればいい? 駆け寄って抱きしめていいのか? そんな権利があるわけない。
「だから、転校してこいっていうんですか? 私だけに青学の友達とか信用とかすべてを捨てさせて? 裏切り者だとかスパイとか言われてこれから暮らせと?」
巴は暗にお前だけが心配だと言われて嬉しくないわけではなかったが、ついムキになる。
怪我をする、させる前提なのが何よりも気に入らない。
先ほど言いよどんでいた、転校したくない理由まで一気に迸る。
「誰かを傷つけなければ保てない、そんなテニスがまかり通ってその上で常勝を掲げる学校に行くなんて、まっぴら! ──いくら試合中でも、去年の手塚先輩やリョーマくん……あんなに対戦相手を苦しめなければ戦えない校風になら私は染まれませんし、そんなことで得る常勝ならいりません」
親友の那美は小学生の頃に、試合中人を傷つけてしまった経験がトラウマになって苦しんでいる。
手塚や河村をはじめとして先輩方が試合中痛みを堪えてなお戦い続ける様は見ていて辛かった。
自分はスポーツドクターになりたいのだ。
だからこそ試合には怪我が付き物とはいえ、それをむしろ推奨するような考えには従えない。
「…………っ!」
巴の剣幕に切原は何も言えず、ギリっと何かに耐えるように唇を固く結んだ。
確かにそういうことになる。そう言われてしまえば何も言えなかった。
現状が自分には少々辛いことだからといって、彼女にも辛いことを強いたいわけではない。
そのまま視線で巴に話の続きを促す。
「それに、それ以前に、私はテニスを初めて1年です。まだまだ負けることが多い私みたいな人間には『常勝』なんて言葉は向いてません。勝つ事が全てなんていうテニスは求めていないんです、だから立海大には行けません」
「なあ、それって俺のプレイスタイル全否定じゃねえかよ」
巴の言うこともわかるけれども、それでも切原はぼやきたくなった。
じゃあ、なんでそんな俺と一緒にいるんだよ。そう気持ちを疑っても仕方が無いだろう。
「そうですね、でも私は切原さんのテニスが好きで一緒にいるわけじゃないですし……もちろんテニスごと好きになれれば良かったでしょうけど」
「おい──」その台詞に切原は思わず顔を赤くする。
「そ、それはつまりテニス部分以外のところで俺のことを…す…き…ってか想ってるってこと…かよ…」
切原のあまりにもストレートな質問に巴もつられて顔を赤くしながら、それに応える。
巴もここまでいま言うつもりは無かったのだけれど、話の雲行きが怪しくなってしまったこともあり、切原がまだまだ子どもじみた考えの持ち主ということもあり、いっそ言ってしまった方がわかりやすいと判断して言い過ぎるくらいに言うことにした。
「そう、聞こえませんでしたか? ようするに……嫌いなプレイスタイルに目をつぶれるほど盲目だってこと……です……」
「っいやったあ!」
ガバッ。
そう形容するしかないくらいに大げさに切原は巴に抱きついた。
ギューギューと腕を締め付けてくる切原の中で「ここ、公園! 公園です! みんな見てます!」と言う巴の声は切原には伝わらない。
切原本人が聞こえない振りをしているのだから伝わる筈も無いのだが。
巴は抗議に応じない切原の頬にむけて両腕をいっぱいに伸ばし、ようやくたどり着いた頬をつまんだ。
「いてーっ」切原は声を上げ、うっかりと拘束をゆるめてしまった。
「調子に乗り過ぎです!」そう言いながら、周囲をきょろきょろと窺うと自分たちに絡み付いていた視線がパッと離れていった。
ここはコートの外のベンチとはいえ、コートを見るために置かれているものだったから、視界が良い。
特に青学の先輩方と通じている数人の顔を確認してしまった。絶対見ていたと確信した。
あーあ、明日には部の方にもなんか変な噂になって伝わっているんだろうな、そう思うと頭が痛い。
頭を抱えながらも、二人の話の続きとして切原に釘を刺す事にした。
「だからって、私はやっぱり人を傷つけるようなテニスは許せないですし、その点は切原さんにも改めてもらいたいと思ってます。これだけはわかって欲しいです」
「う……はい」
巴の鋭い視線が切原に突き刺さる、その痛みに耐えかねて切原も慌てて頷く。
ここで頷けなければ、彼女を喪ってしまうかもしれないという焦りがそうさせたというのもあるが。
「転校もそう言うわけで無しです」
「……おう」
残念そうに項垂れて殊勝に話を聞く切原の様子に、巴は思わず頬を緩める。
見ればまるでやんちゃな中型犬が飼い主に叱られているようだ。
この人のこういうところが堪らないんだよねと、内心思う。
子どもじみて暴力的で、そんな彼に嫌悪を覚えたことが無いと言えば嘘になるのに、それでもこんなに気になってしまうなんて、嫌いになれないなんて、むしろそういうところも魅力かもしれないなんて思うなんて、どうしようもないと自分でも思う。
だから、ついつい余計な事を付け足してしまったのかもしれない。
「でも、もし、この先私がこのまま切原さんが好きなままで、切原さんもこの先いい方向に変わるようだったら、考えてもいいです」
「マジかよ」
何を、とは訊かないまま、切原はぱっと顔を輝かせて希望のまなざしで巴を見つめた。
「ただし、立海大学への進学を、ですけどね。スポーツ医学を学ぶ学部があるようですし」
「だーいーがーくー?」
いまじゃないのかよ、そう少々不満げに口を尖らせて、聞き返した。
持ち上げておいて落とすなよ、表情がそう告げている。
巴は予想通りの反応に半ば苦笑しつつ応えた。
「一応青学の大学にも医学部はあるんですけどね、でもこのまま内部でずーっと行くのも怠けちゃいそうですし…外部受験をしてもいいなって思ってたんですよ。だから、立海大は選択肢の一つとしてアリかなって」
そして巴はニヤリとしてこう続けた。
「それに、私が立海大への進学を考えたら、切原さんは内部受験にも力が入るんじゃないですか? いくらテニスの成績が良くてもあの学校はある程度の成績が保てないと、上がれないんですよね? 幸村さんから聞きましたよ」
「ゆき……! ちぇ、何でもお見通しかよ。……まあ、いいか。じゃあ、俺も頑張るから、お前も頑張れよ。立海大は結構難関だぜ?」
切原は聞きたくない名詞を聞き少々へこみもしたが、そこは立ち直りの早い性格ゆえあっさりと立ち直って笑顔で巴の言葉を受けた。
いまではないけれども、いつか一緒の学校に通う事があるかもしれない。
しつこくして嫌われたいわけではないのだから、その答えだけでもいまは良しとした方が良さそうだと判断する。
それに「はい、私も頑張りますから」とニコニコと笑いながらこちらを見ている彼女を見て、どうでもいい気持ちになってしまった。
彼女を、そして人を傷つけないテニスを心がける、それに加えて進学できるようにも頑張る。
それだけでこの笑顔がこの先も見られるのであればそれはとても簡単なことのように思えたからだ。
「じゃあ、約束、な。証文代わりに──」
そういって切原の唇が巴のそれにサッと触れていった。
感じるのは周囲からの視線、そしてそれは一瞬の後に気まずそうに離れていった。
巴は切原が離れたその唇で、
「ぎゃーっ!!! だからっ! ここは公園で! みんな見てるって言ってるじゃないですか!」
公園中に響き渡るような絶叫をある意味証文代わりに残していった。
巴はどうしようもないくらい切原にハマっている自覚はあったが、周囲を気にせずムードに溺れられるほどの経験値はまだなかった。
一方隣で切原は「わりぃ、わりぃ」とカラッと笑っている。周りの目は特に気にならないらしい。
そう言うところも結構彼のいいところなんだけれど、そう巴は思ったけれども、これ以上調子に載せないためには口をつぐんでいるしか無いと判断した。
END
巴にとっては生まれてから当然のようにあるものなのだが、周囲の大人にとってはそうでないものがある。
学校の先生や部活顧問、下宿先の越前家夫妻などは携帯電話やパソコンがそうだと言う。
いまやあるのが普通みたいだけど、そうじゃないんだな、便利ってありがたいなと巴は実感している。
特にネットを介せば日本だろうが世界だろうがどこでも連絡が取れるし、音声通話ソフトを使えば通話どころかテレビ電話ですら無料で出来ちゃったりするのだから本当に良い世の中になったものだと、生まれてから十数年の若者が生意気にもしみじみと思う。
プロテニスプレイヤーとして駆け出した巴の想い人手塚国光はあいにく日本に留まっていない。
本人にもよくわからないのだがと言わしめるほど世界中を遠征していて、なかなか捕まらないのだ。
けれど、手塚がネットにつなげる環境のところにいればなんとか連絡が出来るし、こうして電話代など気にすることもなく会話も出来る。
手塚から「いま良いだろうか」と携帯電話にメールがくれば、それが通話の合図で、マイクのついた無線のヘッドフォンを着けながら巴はそそくさとパソコンを立ち上げる。
「──で、いま赤月は何をしていた?」
「はい、この間の全仏オープンの録画を見直してました。さすがに技を盗むのは難しいですけど参考になるかな~って」
「そうか向上心のあるところはお前の良いところだな。で? 見ていてどう思った」
お互いの気持ちは通じ合っていると思うのだが、話すと相変わらずの先輩後輩で部活から脱しきれていないような感じがして、巴はそのことを少し気にしていた。
もっともくだけた話題をする手塚もあまり想像できないままなので、仕方ないとは思うのだが。
なので、そのままテニスの技術向上について延々を話し合うことになってしまった。
手塚は巴の都合の良さそうな時間、例えば休日だったり、部活が早く終わる日の夜だったり、そんなときにしか連絡してこない。
元部長ゆえの生真面目さか生来の性格ゆえか、自分も試合や練習で疲れているはずなのに、時差のために昼夜逆転していてもそれは必ず守る。
巴のことを気遣ってくれているのがよくわかる。
だからこの時間はとても貴重で、テニスの話以外にもすることがあるような気がして焦りを覚えたりもするのだが、相変わらずそれ以外の話をどうすれば切り出せるのかわからないままなので結局小一時間テニス論だけで通話終了したりすることもある。
きっと今日もそうなるのだろうと、半ばあきらめながら、それでも熱心に手塚と会話をする。
「あっ」
つけっぱなしだったTVにはカラフルな色彩のウェアを着たトッププロ選手が映っている。
日本でたとえ学校のユニフォームだとしてもそんな色を身につける選手はあまりいないので思わず声を上げてしまった。
「どうした?」
通話では巴の驚きがどこから来ているのかはわからない。手塚はどうしたのかと尋ねてみた。
「いえ、何かあったわけじゃないんですけど、いまテレビに映ってる選手のウェアがすごい色だったのでちょっと驚いちゃって」
「ああウェアか、たしかに有名選手になればなるほど大手メーカーとのタイアップがあったりして人目を引くようなウェアを身に着ける傾向にあるな」
納得したように、手塚はそう返した。
「ということは……先輩もこのままいくと、ピンクとか黄色のウェアを身につけるってことですか! えええ!」
それは、想像できない。というか何となくしたくない。
でも着る可能性があるのだということを知らされて心底驚きの声を上げてしまう。
厳しさが先に立って巴はあまり意識したことがなかったが、手塚は確かにルックスもスタイルも完璧で問題がない。だから、着てみれば案外似合うかもしれない、しかしそれにしてもキャラじゃない。
どうやって阻止すれば良いのだろうと真剣に考え始める。
「何を考えてパニックに陥っているのか安易に想像はつくが……落ち着け。いますぐ着なければならないという話ではないし、そもそも色は選手に自由に選ばせてもらえるだろう」
自分に自信がある手塚だから、そんな話は来ないとは言わない。むしろトップ選手に混じってメーカーから提供があることは前提で話している。巴もそれに気づいて少し安心する。
プロに混じって苦労はあるだろうけど、それでも上を見続けている、自分なんか…と卑下しない手塚の心に、まだまだこの人は強くなるということを確信して安心した。
「よかった~、手塚先輩の青学ジャージ姿と制服姿とかとにかくシンプルな姿しか想像できなかったので、ちょっと怖くなっちゃいました」
強烈な色のユニフォームの手塚が怖い。そんな直接的な言葉はさすがに巴も遠慮した。
「……そうか、でもいまお前が見ている選手の舞台に俺が立てるようになる頃には覚悟してもらわないとな」
「えっ、やっぱりああいう色のウェアを着るってことですか?」
「そうではなく、俺があの選手の年齢に、そしてランキングになる頃には──流石に俺もお前の横で普段とは違う格好をしたくなっているだろうからな」
「?」
手塚には見えないが、巴はさも意味が分からないという表情で首を傾げていた。
普段と違う格好とはどういうことだろう。
「ほら、あの、白いタキシードと言うかタキシードじゃなくて着物でも良いんだが、その時にはお前が隣にいると良いと言うか……………………いや、いまの言葉は忘れてくれ。俺は一体いま何を言いたかったんだろうな……………………通話切るぞ、身体に気をつけてな」
珍しく手塚は一方的に言いたいことを言って通話を終えてしまった。
流石に最後の言葉に巴は手塚が何を伝えたかったのかはわかる。
TVの中で試合をしている選手は23歳。
23歳のころの未来の手塚と自分。
10年近く先の未来だけれど、その言葉を信じて待っていても良いのだろうか。
電話でテニスの話しかしない間柄でも? いま初めてそのテニス以外の話をしたわけだけれど。
ヘッドフォンから聞こえた手塚の低く響く声は甘く、その意味も相まって破壊力抜群で、巴はゆでダコと言われても否定できないくらい真っ赤になった。
手塚国光という人はなんて一本筋の通った人なんだろう。まだ10代なのに、付き合いたいと決めた女性との未来を早くも考えてくれている。
この先プロとしての彼、日本で自分の道を歩く巴が、果たして何年後もこのままで、お互いを想うままでいられる保証はないというのに。
いや、保証がないからこそ、未来を描いてしまうものなのだろうか。
「耳元でそんなこと言われたら……従うしかないじゃない……」なんとか気持ちを落ち着かせようと、深呼吸をしながら思わずこぼす。
ふと、白でありながらも、白いタキシードを着た手塚はきっと誰よりも派手に映ることだろうなと思ってしまい、それを想像してしまったら更に気持ちは落ち着かなくなってしまった。
いまの言葉、実際に逢って聞いたものではなくてよかったと巴は目の前のパソコンに感謝した。逢えばもちろん嬉しいけれども、そんな状況に耐えられそうになかったし、きっとそれは手塚も同じ思いだろうと簡単に想像できたから。
それにきっと、彼は巴が目の前にいないからこそあんなことが言えたのだろうこともまた想像できたから。
耳元に残る声を反芻しながら、改めて良い世の中になったものだと巴はしみじみ感じていた。
END
「あー、あー」巴は喉が少々おかしいことが気になった。ちょっとガサガサしていて腫れた感じだ。
今日は一日空気が乾燥していたからだろうか?
それとも、いつもより多めにかいた汗が冷えて体温を奪っていたからだろうか?
風呂に入って、体もほかほかで喉も湿気で潤したはずなのにおかしいなと、赤月巴は居間でテレビを見ていた倫子と菜々子に話しかけてみた。
「喉? うーん風邪…かしらねえ、念のため喉に効くお薬を出しましょうか」
菜々子は心配そうに眉をひそめて、薬箱を取りにいこうと腰を浮かせたところに、思い出したように倫子の声が上がった。
「そうそう、去年漬けた花梨の蜂蜜漬けがあるわ、それを飲んだら良いんじゃない」
「花梨? 漬けてましたっけ」
不思議そうに菜々子は言うが、「そうよ、そうだった」と倫子は話を続ける。
「巴ちゃんは知ってる? 花梨って喉に良いのよ。蜂蜜もね。だから去年ご近所からいただいたのを漬けたのよ」
やっと役に立つ、ウキウキと倫子は巴にそう話した。
「へえ、そうなんですか! 花梨は知ってますけど、蜂蜜漬けは飲んだ事がないから楽しみ!」
巴は苦い薬よりも確かに良いと、そそくさと席を立ち台所へと向かう。
保存庫を開けると確かに梅酒やぬか漬けなどが並んでいる中に、『かりん』と書かれた瓶が入っていた。
深い琥珀色の花梨の蜂蜜漬けは、木になっている淡い黄色の花梨の実からは想像できない色だったがふたを開けてみると、確かに花梨の甘くさわやかな香りと蜂蜜独特の香りが混ざって漂ってきた。
棚から出してきたレードルでそれをすくうと、蜂蜜漬けの割にはさらっとした感じの液体をコップに流し入れた。
「……蜂蜜漬けってなんだか、お酒っぽい匂いなんだー。実の水分とか発酵するとかそんな感じかな?」
巴はあまり気にすることなく、蜂蜜漬けを大きめのコップに1/3くらい汲み上げて作業を終了させた。
そしてそのコップに水を注いで希釈させ、ようやく蜂蜜漬けは口にすることが出来るようなった。
台所の食卓にちょこんと座ってそれを味わうことにした。
コップの中の液体を眺めてやっぱりちょっと蜂蜜にしては水っぽいなあと巴はややいぶかしく思ったが、そこは初めて口にするものだからそんなものなんだろうなと、警戒心薄めでコップに口をつけた。
口に広がる味は確かに花梨と蜂蜜で甘いが、喉を通すとカッとした熱いものを飲み込むような感じがした。
やっぱり喉がおかしいんだなと巴はすんなり納得した。
「でも、おいしいなー」ぐびぐびと夢中で半分以上飲み干した。
なんだか体が温かくなってきたようだ。顔もほてりだした気がする。
「……薬効かな? それとも、熱が出始めちゃったかなあ」
喉がおかしいとなれば、それが腫れてしまえば簡単に熱も出る。
悪化しないようにこれを飲んだはずだが、ちょっと遅かったのかもしれない。
「──何飲んでるの?」
台所で顔を真っ赤にしながら何かを飲んでいる巴を、不思議そうにリョーマは眺めた。
「あ、おばさんが漬けた花梨だよー。蜂蜜で漬けたんだって、花梨って美味しいねえ」
「へえ、俺も飲んでみようかな」
リョーマもスタスタと台所に入ってきて、巴に近づくとギョッとした表情になり、慌てて保存庫の中を確認する。
顔を真っ赤にした巴の周囲に漂う香りはしょっちゅう自分の父親が漂わせているものと似ている。
もしかして──リョーマはそう思った。
「どうしたのー?」そのリョーマの態度が気になって、巴は彼の行動を窺う。
リョーマはガサガサと保存庫をあさっているようだった。
「あの、クソ親父が」
チッと思わず舌打ちしてしまう。『かりん』と書かれた瓶は確かに一本しか入っていない。
去年、母が蜂蜜漬けを漬けたのだと話していたのは覚えているから、それは確かに『花梨の蜂蜜漬け」だったのだろう、かつては。
しかし、その瓶の隣に置いてある一升瓶を見て頭を抱えたくなった。
導きだされる答えはひとつだ。ノンアルコールの蜂蜜漬けに物足りなかった父親が、母の知らないところで後で酒を足したのだろう。
巴が帯びた酒気がそれを物語っている。
苦々しい顔で瓶を再び保存庫に戻して巴のところまで戻る。
「赤月、お前平気? それ、お酒みたいなんだけど」
「へ? ……って、ええええええー! 確かにちょっとそれっぽいな~とは思ったけど!」
そう思ったなら飲むなよと心でツッコみつつ、リョーマは巴が握ったままのコップを取り上げる。
「結構飲んだ?」
「う~ん、蜂蜜だと思って飲んだから……」
リョーマは巴の口にしたコップを口に付けた。
「あっ!」巴は声を上げる。中身がお酒だとわかったからということもあるし、自分の口にした物をリョーマも口にしているからというのもある。
一緒に住んでいて今更というのはあるけれども、これって間接キスかなあと、ぼんやり思うと急に気恥ずかしくなってきた。
頬がほてっているのはお酒のせいだけではないはずだと、自身は自覚してしまった。
先ほどよりさらに体温上昇させている巴を横目に、リョーマは先ほど口にしたコップの中身をシンクに捨てて、新たに水を入れ直して巴に渡した。
「これ飲んだら部屋に戻りなよ」
水を必死に飲みながら、リョーマの言葉に同意する。
一気飲みに近い早さでコップの中身をすっかり空にして、巴は食卓から立ち上がろうとした。
「あっ……!」がくんと膝が落ちる。なかなか上手く力が入らなかった。
それは則ちお酒の副作用と言うか酔いのためであったが、巴には初めての感覚だったので瞬間恐怖すら感じた。
自分はどうしてしまったのだろう? そう思い、混乱してしまった。
その巴の表情にリョーマはこれは酔ってるんだろうねと理解して、深くため息をついた。
なぜ彼女がこの花梨の蜂蜜漬けを口にすることになったのか、それはリョーマの知るところではなかったけれど、しかし結果は間接的にとはいえ自分の父親がこの状態を引き起こしている。
もちろん巴の不注意にも非はあるけれども、この真っ赤になってふらついている彼女を見ていま責めるべきではないことは明らかで。
とりあえずは自分がこの場を片付けて、彼女をさっさと部屋に返すほか無いだろうと結論づけた。
居間にいる母や菜々子を呼ぶことも考えたけれども、そうなったらひと騒動起きることは容易に想像できてリョーマにしてみればただ騒がしく面倒なことだ。
「ほら、腕、貸しなよ」
「えええ、いきなり何? 意味が分からないし」
巴のはっきりした返答に、とりあえず意識や思考は酔っていても確かなようで、リョーマはホッとした。
「だって、ちゃんと立てないんでしょ」そういって有無も言わさず巴の腕を自分の肩に回してなかば引きずるように台所を出た。
幸いにしてそこから部屋までは誰に会うこともなく進み、巴の部屋まで入ることが出来た。
「ふう、やっと着いた。お前案外重いね──って、おい!」
部屋に着いたとたん巴はズルズルとリョーマの体をたどりながら、くずおれた。
それにつきあうようにリョーマも身を屈め、なんとか巴がどこかに体をぶつけたりすることなくそのまま部屋に横にさせることに成功した。
ただし、気づいたらまるでリョーマが巴に膝枕をさせるような格好になっていた。
「……俺もまだまだだね……」
振り落とそうと思えばいくらでも簡単に出来そうな体勢だ。
なのに出来ないのは、どうしてだろう。やはり、巴に対してだからだろうなとリョーマは思う。
これが桃城や堀尾だったらば遠慮なく投げ出すところだ。同性だから気持ち悪いし、いっそ蹴飛ばしてみたい。
顔をまだ真っ赤に染めながらも、すやすやと眠る巴を眺めおろす。
お酒のせいだろうか、彼女の顔はとても楽しそうだった。かわいいと言っても良いかもしれない。あくまで欲目で、だが。
リョーマ自身はその彼女を振り落とせない理由に気づいていたが、これまでもあえて気づかないようにしていた。
微妙なバランスの上に成り立っている二人の関係を壊しかねないからだ。
軽口のたたける奇妙な同居人、楽しい同級生、頼もしい部活仲間、時には大事にしたいと思う異性──自分の性格ではこれまでこんな関係を築くことはなかった。でも、それは築いてみればとても良いものだった。似たような心地よい関係を青学テニス部全体と築いているけれども、彼らは同性でそしてなにより巴じゃない。いとおしむような気持ちをも抱くのは巴に対してだけで。
だから、もしこれまで築いていたものが崩れてしまうようなことがあったらと思うと、少し怖い。
だから、しばらくはまだ、このままでいい。
けれど──。
「目が覚めたら、どんな顔するんだろうね、赤月は。まあその頃には俺は全身筋肉痛かもしれないけど……ね」
巴の目が覚めないように細心の注意を払って自分の足を楽な体勢に組み替えて、リョーマは彼女の部屋の中央に腰を落ち着けた。
そして彼女の布団を必死で手を伸ばして掴み、相当ぐっすりと眠りに落ちているらしい彼女にかぶせた。
せめて、夜明けまでは、このままでいたい。
彼女が目覚める瞬間まで。二人の関係が変わるかもしれない、その瞬間まで。
たまにはクソ親父に感謝しても良いかもしれないと思いながら、巴の温もりと重さを感じながら、リョーマは朝を待つことにした。
「この貸しはとてつもなく大きいからね、赤月」
END
「ふわーーーぁ」
こんなに早起きをしたのは久しぶりで、大きなあくびをこらえることが出来ない。
結局、涙目になりながら大きなあくびを一つ。
よかった。目の前のドアを涙で歪ませながらチェックする。
観月さんはまだ出てこない。
私はほっと胸を撫で下ろす。
こんなところを観月さんに見られたら、真田さんよろしく「たるんでますね」って言われそうで怖い。
私こと赤月巴はいまストーカーのごとく聖ルドルフ学院高等部男子寮の前に立っている。
しかも、夜も明けたばかりの早朝だ。
先ほどから犬の散歩の人やウォーキングの人をぼちぼち見つけるようになったけれども、それでも街はまだ半分眠っている状態で。
私もようやく動き出した電車に乗って男子寮まできていた。
それは何故かと訊かれたら、答えに迷うことはない。
今日は5月27日。
観月さんの誕生日だから。
昨日寝る前に急に朝一番におめでとうを言いたくなっていまに至るってところかな。
あ、目の前のドアの中から人影のようなものが見える。
誰が出てくるのか見定めるべく、半透明のガラス製のドアを凝視する。
そのシルエットは、視力が2.0以上らしい(なぜならそれ以上は測定してくれなかったから)この目が見間違えるはずもない。
ましてや自分の好きな人ならば、なおさら。
しばらくして出てきた姿はまごうことなく、観月さんそのもので。
出てくることを予想していたのに、実際こうやって出てくるとドキンと胸が弾んだ。
どどどうしよう……何を言おうかな……。
そうやって、パニくってる間にもこちらに向かってくる。
そりゃそうか、なにも数百メートル先に居たってわけじゃないから向こうだって気づくよね。
「巴くん、キミはなにをしてるんですか、こんなところで」
観月さんは早朝だからか、声を潜めて私に声をかけた。
だんだん近づいてくる。
真新しい高等部の制服姿の観月さんはまだ見慣れないようでドキドキする。
新入生の観月さんって想像できないけれど、どういう生活してるんだろう。
そんなことを思っている間にもうすでに目の前に立っていた。
「おはようございます、観月さん」
「おはよう、巴くん。今朝も早くから元気なものですね」
え!?
何の変哲もないただの朝の挨拶に聞こえるけれども、私は驚いてしまった。
なぜって、絶対「こんな朝早くから待ち伏せとは、キミはバカとしか言いようがありませんね」って言われるんだと思ったから。
でもそうじゃなくって穏やかな笑顔すら見せている。
これまでの経験上、どうしたんだろって疑わざるを得ないっていうか。
「──なにビックリしたような顔をしてるんですか」
「だって、……開口一番観月さんに怒られるんじゃないかなって、思ってましたから……」
これを言ってしまえば、やっぱり怒られちゃうかもしれないなあと思ったけど、観月さんには嘘をつきたくない。
正直に言うことにした。
「その、正直な物言いをキミの美点であると言うべきなんでしょうね」
ちょっとこめかみをヒクつかせながら怒るかなあと思ったけど、観月さんはそれでも落ち着いてそう言った。
もう、ホントどうしたんだろ。
もちろん私だってMってワケじゃないから、優しい観月さんは嬉しいけど、なんかヘン。
「んふっ、さすがに自分の誕生日が今日だってことは理解していますよ、その日の朝からキミが待っているのは何故か想像できますから」
そりゃそうでしょうとも。
「ある意味シナリオ通りと言うか──いえ、そんなシナリオは必要ないんですが、それでもキミの気持ちはボクだってとても嬉しいです。朝からかわいい自分の彼女が健気に待っていることを喜ばない男が居るでしょうか」
う~~~~わ~~~~! 『かわいい彼女』!!! 天にも昇る気持ちかも。
喜ばせたい観月さんに喜ばせてもらっちゃダメなんだろうけど。
「だから、今日はキミの無鉄砲とも言える行為を注意しないようにしようかと──ま、あくまで今日だけですけどね。キミがボクを驚かせたり喜ばせようとしたりしたかったのは伝わりましたから、大目に見ることにしますよ。ただし……」
「ただし?」
なんだろ?
「男子寮の前で待ち伏せなんて、今日限りでお願いしますよ」
「え、なんでですか?」
「なんで、って……そりゃ、同じ寮の飢えた男どもにキミの姿を見せることも勿体無いですからね。つまらないヤキモチだとキミは笑いますか?」
まさか! そんなこと笑えるわけないよ。ってか、観月さん朝から濃いこと言うなあ!
慌てて否定するべくブンブンと頭を横に振った。
あ、観月さん満足そうに笑ってる。
「じゃあ、行きましょうか」
私の右手を取って促した。
「どこへですか?」
「どこへって、何言ってるんですか。学校に決まってます、ボクの誕生日だからといって朝練は待ってくれませんよ」
さすがに「何をしにきたんですか、キミは」と少しあきれた表情に変わり、でもそれはすぐにいつもの表情に──いや、いつもの表情よりも柔らかく甘い表情になった。
ああ、こういう観月さんの顔は滅多にみることが出来ないけれども、それだけに私はこの顔に弱い。
もうどうしてくれようって思うくらい。
「……そうでした」
観月さんと手をつなぐのは珍しい。
ベタつくような付き合いも手が不自由するのも苦手だと知っているから仕方ないなと思ってたけど、どうやら今日は特別らしい。
「観月さん、手、良いんですか?」
気づかないふりして、そのままつないで歩いちゃえば良かったんだろうけど、これまた正直に訊いちゃう。
思ったことをすぐに口に出すことを観月さんは私の美点だって言ってくれたけど、これはさすがにまずいかなと思うな。
それが表情に出ちゃったのか、観月さんは面白そうに私を眺めてから、「んふっ」と軽く笑った。
「今日はボクの誕生日で、キミはボクをお祝いしてくれるつもりなんでしょう? じゃあ手ぐらい繋がせて欲しいと甘えたっていいですよね」
ギュッとさっきよりも強く手を握られる。
その少しひんやりして思ったよりも大きくて男の人らしい手を私も握り返した。
「もちろんです、観月さんの手ならいくらでも握っちゃいたいです!──でも、観月さんの誕生日なのに私ばっかり嬉しいみたいです」
「そんなこと、ないですよ」
「そうですか?」
「ええ、放課後にもっと嬉しくさせていただきますから、覚悟、しておいてくださいね」
観月さんはそう言って微笑んだ。
覚悟、させていただきます。
END
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