「あー! まいったな」
会員になっているテニスクラブの入り口に貼られた紙を見て、切原赤也は声をあげた。
時は年末。クリスマスの飾りが取り外されると同時に、街の至る所に『年末年始の休業日』のお知らせが増えていた。
このテニスクラブでも例外では無かったようで、素っ気ない白い紙には休業日が印刷されていた。
「まあ、確かに明日から休みなのはちょっと困っちゃいますけど、仕方ないですよー」
苦々しく頭を掻いている彼を横目に、ふふっと笑いながら赤月巴はそうフォローした。
テニスクラブの休業日を知るだけでこんなにがっくりしている彼を、巴はほほ笑ましく見ている。
彼がどんなときでも、実生活でもテニスのプレイでも自分の感情を抑えないところも巴は結構気に入っているのだ。
ただ、それを言うと調子に乗ることが分かり切っているから口にする予定はいまのところない。
「だってよー」
切原は不満げな表情を隠そうとしない。
「年明けまでお前と会う用事が無くなるじゃん、俺とお前ってテニスな間柄なワケだし」
……だから、クリスマスも殆どテニスで終わったんですか……、先日のクリスマスをデートというよりラリーとケンタッキーで終了した記憶を反すうさせつつ、内心ツッコんだ。
ライバル校の選手同士の立場、お互いの性格も相まって2人の関係は実に曖昧だ。
恋愛感情を仄めかせて始まった関係だったはずが、単なるテニス仲間とさほど変わり無い関係が続いている。
会って、テニスをして、たまにご飯食べて遊んで……それは友情の域を超えないレベルでの付き合いだ。
ごく、たまーにその域を超えることが無かったわけでは無いけれども、それが持続するわけでも無く気付いたらいつのまにか友情の域内に戻っている気がする。
それでも巴は切原が引退したらもうちょっとどうにかなるだろうと思っていたわけだが、そうでは無かったのだろうか。
やっぱり単なるテニス仲間でしかなかったのか。ちょっと毛色の変わった女子というだけ、それだけちょっと特別な。
そう思ったらいたたまれない気持ちになって、思ったことを理性というフィルターを通さずに口に出していた。
「それは、テニスが出来ないと私と会う必要がないってことですか? それ以外は嫌ですか」
これまでも漠然と感じていた不安。もやもやの原因を、気付いたら彼にぶつけていた。
これで希望も友情すらも全て断たれてしまうかもしれないことには、口から全ての言葉が出終わったあとに気付いた。
いま2人の立つ場所がテニスクラブの入り口で、これからプレイするために訪れたのだということを思い出したのも、その後のことで、出来るならいまの発言を取り消したいと心底思った。
こんなやり取りを、こんな場所で今年最後になるもしれないテニスをプレイする前にすべきではなかった。
しかし切原は「さっさとコートに出ようぜ」と、まるで巴の発言が聞こえなかったかのように、何事も彼女の手を引き、更衣室の前で別れた。
何だか顔を合わせづらいなと、だらだらテニスウェアに着替えた。
さすがに、ここで切原の前から逃げることも叶わず、しかしいつもよりも時間をかけてコートに出た。
切原は当然先に待っている。
「おっせぇよ、赤月。さっさと始めるぞ」
先ほどと変わらず、何事も無かったように切原は物事を進めていく。
ただ、黙々とアップを済ませて2人で打ち合うことに集中する。
テニスをすれば、ネットを挟んで向き合えば、巴もテニスプレイヤーらしく余計なことは考えずプレイに打ち込むことが出来た。
ただ、それは問題を先送りにしているだけだと一瞬だけ思ったけれども、さすがに切原とのテニスは面白い。それ以降は何も考えず、テニスを楽しんだ。
「そろそろ引き上げようぜ」切原がそう声を上げた時には、こんなに時間が経ってるとは思わず驚いたくらいだ。
気付いたらウェアは汗染みが出来るほどで、気まずさから黙々といつもよりも集中していたせいかかなり没頭していたらしい。
やはり切原とのテニスは楽しい。もういっそのことこのままで関係を続けても良いのかもしれない。
つい、そう考えながらざっとシャワーを浴びて、テニスクラブのラウンジで待つ切原のところへと向かう。
コートに出た時にも気付いてはいたが、年末最後の営業のせいかテニスクラブに来る客はいつもより少なく閑散としている。
ラウンジには珍しく誰もいない。従業員も最後というせいかそれぞれ散って片づけや掃除をしているようだ。
こんな調子じゃやっぱり年末年始は休んでいた方が良いよねと納得するくらいに。
切原は珍しく物憂い顔で、ラウンジの椅子に座って待っていた。
「あ、お待たせしました」
「……ん、ああ……」
なんだろう、この気まずい雰囲気は。
やはりさっきの会話のせいだろうか、いつもなら揃ったらさっさと席を立って近くのファミレスやファストフード店に向かうのだが、なんとなくそんな雰囲気では無さそうで、内心ドキドキしつつ巴も椅子に座ってみた。
「…………」しばらく2人とも沈黙が続く。
なにかこちらから言った方が良いのだろうかと、巴はなにか良い言葉が思いついたわけでも無いのに口を開こうとした。
しかし、それは切原の言葉に遮られた。
「あ……、あのさあ」
「はい」
「…………」
「…………」
「……もしかして、俺ってお前のこと、テニス以外でも誘っていいワケ……?」
「……はい?」突然何を言い出すのかと思ったら全く想定外のことで、巴は間の抜けた返事をしてしまう。周囲に見られていたら相当変な顔をしていたに違いないとあとになって思ったくらいだ。
「むしろ、テニス以外のことも誘って欲しいんですけど」とりあえず、自分の希望を端的に述べてみた。
対する切原は「やったっ」と小さくガッツポーズをしていて、巴は小首をかしげた。
「いや、だって、なんてーの? なんとなく俺って単なるテニス仲間に思われてそうだし? てかお前、憎たらしい先輩方を始めとして他校の男子にもテニス仲間が多いじゃん。俺もその中に含まれてんのかなーなんて思ってよ。ちょっと最近へこんでたってか、そんなカンジでさ」
どうやら、切原も巴と同じようなことを感じていたらしい。
言葉足らずで、気持ちが伝わっていないのはお互い様だったらしいことに気付いた。
「つーか、テニス以外でどうやって誘えばいいんだよって話でさ、……なんか悩むじゃん」
「普通にどこいこうとか、そんなで良いんですよ」巴は急に嬉しさが込み上げてきてくすくす笑いながらそう答える。
「だって、私は切原さんに誘われたら嬉しくってどこでも行っちゃうんですから。──単なるテニス仲間だなんて思ったことは一度も無いんですから。つまり、その、切原さんは特別なんです」
「お……おう」自分の言ったこと、巴の答えに対して急に照れが来たのか切原の目元はほんのり赤くなっている。
巴もそれにつられて頬が熱くなってきた。
「こ、ここ、暑いですね……」
「そうだな……」
お互い先ほどとは違った気まずさが漂う。
「あの、私、思うんですけど」巴はそれを打ち消すべく、慌てて声を出した。
「私たち、一度ちゃんと意思を確認する必要があると思うんですけど、つまり、私は切原さんを…………私の好きな人だと思ってますけど、切原さんはどうなんですか」
実に今更な話だが、考えて見ればお互いの気持ちを確認していない。
今日になって話がこじれているのはそれが原因なのだから、ここでもう一度ちゃんとしておかなくては全く意味がないだろう。
ちょうど年末だし、すっきりさせておくに限るとばかり、巴は言い迫る。
「──赤也」切原はぼそっとそう言った。「訂正しろよ」
「え?」
「だーかーら、赤也。そう呼べよ。俺は赤也。俺はお前のことは巴って呼ぶからさ。なんつーか……普通、好きなヤツのことは名前で呼ぶだろ、巴?」
「えええ、突然すぎて無理です!」
『普通、好きなヤツのことは名前で呼ぶだろ、巴?』その言葉を脳内でうっとりと反すうしつつも巴は慌てて答えた。
「恥ずかしくって無理です。ちょっと待って下さい!」
「恥ずかしいって……俺だって、恥ずかしいっての!」
先ほどよりもよほど顔を赤くして2人して言い合う。「呼べ」「無理」の応酬がしばらく続く。
息も切れてきた頃、切原がしぶしぶと「俺が年上だから折れなきゃな」ともっともらしく呟いてから、言葉を紡ぐ。
「じゃあ、来年からそう呼べ。今日はいいから。でも絶対だからな。で、正月は初詣付き合えよ。これも絶対な」
「出来なきゃ罰ゲームキス1回な」そう笑いながら言って、切原は席を立った。
巴は「横暴です」といいながらそれに従って自分も席を立つ。心の中で「──あかや、あかや」と練習しながら。
彼を切原と呼ぶのはどうやら、この年末を持って終了らしい。
END
会員になっているテニスクラブの入り口に貼られた紙を見て、切原赤也は声をあげた。
時は年末。クリスマスの飾りが取り外されると同時に、街の至る所に『年末年始の休業日』のお知らせが増えていた。
このテニスクラブでも例外では無かったようで、素っ気ない白い紙には休業日が印刷されていた。
「まあ、確かに明日から休みなのはちょっと困っちゃいますけど、仕方ないですよー」
苦々しく頭を掻いている彼を横目に、ふふっと笑いながら赤月巴はそうフォローした。
テニスクラブの休業日を知るだけでこんなにがっくりしている彼を、巴はほほ笑ましく見ている。
彼がどんなときでも、実生活でもテニスのプレイでも自分の感情を抑えないところも巴は結構気に入っているのだ。
ただ、それを言うと調子に乗ることが分かり切っているから口にする予定はいまのところない。
「だってよー」
切原は不満げな表情を隠そうとしない。
「年明けまでお前と会う用事が無くなるじゃん、俺とお前ってテニスな間柄なワケだし」
……だから、クリスマスも殆どテニスで終わったんですか……、先日のクリスマスをデートというよりラリーとケンタッキーで終了した記憶を反すうさせつつ、内心ツッコんだ。
ライバル校の選手同士の立場、お互いの性格も相まって2人の関係は実に曖昧だ。
恋愛感情を仄めかせて始まった関係だったはずが、単なるテニス仲間とさほど変わり無い関係が続いている。
会って、テニスをして、たまにご飯食べて遊んで……それは友情の域を超えないレベルでの付き合いだ。
ごく、たまーにその域を超えることが無かったわけでは無いけれども、それが持続するわけでも無く気付いたらいつのまにか友情の域内に戻っている気がする。
それでも巴は切原が引退したらもうちょっとどうにかなるだろうと思っていたわけだが、そうでは無かったのだろうか。
やっぱり単なるテニス仲間でしかなかったのか。ちょっと毛色の変わった女子というだけ、それだけちょっと特別な。
そう思ったらいたたまれない気持ちになって、思ったことを理性というフィルターを通さずに口に出していた。
「それは、テニスが出来ないと私と会う必要がないってことですか? それ以外は嫌ですか」
これまでも漠然と感じていた不安。もやもやの原因を、気付いたら彼にぶつけていた。
これで希望も友情すらも全て断たれてしまうかもしれないことには、口から全ての言葉が出終わったあとに気付いた。
いま2人の立つ場所がテニスクラブの入り口で、これからプレイするために訪れたのだということを思い出したのも、その後のことで、出来るならいまの発言を取り消したいと心底思った。
こんなやり取りを、こんな場所で今年最後になるもしれないテニスをプレイする前にすべきではなかった。
しかし切原は「さっさとコートに出ようぜ」と、まるで巴の発言が聞こえなかったかのように、何事も彼女の手を引き、更衣室の前で別れた。
何だか顔を合わせづらいなと、だらだらテニスウェアに着替えた。
さすがに、ここで切原の前から逃げることも叶わず、しかしいつもよりも時間をかけてコートに出た。
切原は当然先に待っている。
「おっせぇよ、赤月。さっさと始めるぞ」
先ほどと変わらず、何事も無かったように切原は物事を進めていく。
ただ、黙々とアップを済ませて2人で打ち合うことに集中する。
テニスをすれば、ネットを挟んで向き合えば、巴もテニスプレイヤーらしく余計なことは考えずプレイに打ち込むことが出来た。
ただ、それは問題を先送りにしているだけだと一瞬だけ思ったけれども、さすがに切原とのテニスは面白い。それ以降は何も考えず、テニスを楽しんだ。
「そろそろ引き上げようぜ」切原がそう声を上げた時には、こんなに時間が経ってるとは思わず驚いたくらいだ。
気付いたらウェアは汗染みが出来るほどで、気まずさから黙々といつもよりも集中していたせいかかなり没頭していたらしい。
やはり切原とのテニスは楽しい。もういっそのことこのままで関係を続けても良いのかもしれない。
つい、そう考えながらざっとシャワーを浴びて、テニスクラブのラウンジで待つ切原のところへと向かう。
コートに出た時にも気付いてはいたが、年末最後の営業のせいかテニスクラブに来る客はいつもより少なく閑散としている。
ラウンジには珍しく誰もいない。従業員も最後というせいかそれぞれ散って片づけや掃除をしているようだ。
こんな調子じゃやっぱり年末年始は休んでいた方が良いよねと納得するくらいに。
切原は珍しく物憂い顔で、ラウンジの椅子に座って待っていた。
「あ、お待たせしました」
「……ん、ああ……」
なんだろう、この気まずい雰囲気は。
やはりさっきの会話のせいだろうか、いつもなら揃ったらさっさと席を立って近くのファミレスやファストフード店に向かうのだが、なんとなくそんな雰囲気では無さそうで、内心ドキドキしつつ巴も椅子に座ってみた。
「…………」しばらく2人とも沈黙が続く。
なにかこちらから言った方が良いのだろうかと、巴はなにか良い言葉が思いついたわけでも無いのに口を開こうとした。
しかし、それは切原の言葉に遮られた。
「あ……、あのさあ」
「はい」
「…………」
「…………」
「……もしかして、俺ってお前のこと、テニス以外でも誘っていいワケ……?」
「……はい?」突然何を言い出すのかと思ったら全く想定外のことで、巴は間の抜けた返事をしてしまう。周囲に見られていたら相当変な顔をしていたに違いないとあとになって思ったくらいだ。
「むしろ、テニス以外のことも誘って欲しいんですけど」とりあえず、自分の希望を端的に述べてみた。
対する切原は「やったっ」と小さくガッツポーズをしていて、巴は小首をかしげた。
「いや、だって、なんてーの? なんとなく俺って単なるテニス仲間に思われてそうだし? てかお前、憎たらしい先輩方を始めとして他校の男子にもテニス仲間が多いじゃん。俺もその中に含まれてんのかなーなんて思ってよ。ちょっと最近へこんでたってか、そんなカンジでさ」
どうやら、切原も巴と同じようなことを感じていたらしい。
言葉足らずで、気持ちが伝わっていないのはお互い様だったらしいことに気付いた。
「つーか、テニス以外でどうやって誘えばいいんだよって話でさ、……なんか悩むじゃん」
「普通にどこいこうとか、そんなで良いんですよ」巴は急に嬉しさが込み上げてきてくすくす笑いながらそう答える。
「だって、私は切原さんに誘われたら嬉しくってどこでも行っちゃうんですから。──単なるテニス仲間だなんて思ったことは一度も無いんですから。つまり、その、切原さんは特別なんです」
「お……おう」自分の言ったこと、巴の答えに対して急に照れが来たのか切原の目元はほんのり赤くなっている。
巴もそれにつられて頬が熱くなってきた。
「こ、ここ、暑いですね……」
「そうだな……」
お互い先ほどとは違った気まずさが漂う。
「あの、私、思うんですけど」巴はそれを打ち消すべく、慌てて声を出した。
「私たち、一度ちゃんと意思を確認する必要があると思うんですけど、つまり、私は切原さんを…………私の好きな人だと思ってますけど、切原さんはどうなんですか」
実に今更な話だが、考えて見ればお互いの気持ちを確認していない。
今日になって話がこじれているのはそれが原因なのだから、ここでもう一度ちゃんとしておかなくては全く意味がないだろう。
ちょうど年末だし、すっきりさせておくに限るとばかり、巴は言い迫る。
「──赤也」切原はぼそっとそう言った。「訂正しろよ」
「え?」
「だーかーら、赤也。そう呼べよ。俺は赤也。俺はお前のことは巴って呼ぶからさ。なんつーか……普通、好きなヤツのことは名前で呼ぶだろ、巴?」
「えええ、突然すぎて無理です!」
『普通、好きなヤツのことは名前で呼ぶだろ、巴?』その言葉を脳内でうっとりと反すうしつつも巴は慌てて答えた。
「恥ずかしくって無理です。ちょっと待って下さい!」
「恥ずかしいって……俺だって、恥ずかしいっての!」
先ほどよりもよほど顔を赤くして2人して言い合う。「呼べ」「無理」の応酬がしばらく続く。
息も切れてきた頃、切原がしぶしぶと「俺が年上だから折れなきゃな」ともっともらしく呟いてから、言葉を紡ぐ。
「じゃあ、来年からそう呼べ。今日はいいから。でも絶対だからな。で、正月は初詣付き合えよ。これも絶対な」
「出来なきゃ罰ゲームキス1回な」そう笑いながら言って、切原は席を立った。
巴は「横暴です」といいながらそれに従って自分も席を立つ。心の中で「──あかや、あかや」と練習しながら。
彼を切原と呼ぶのはどうやら、この年末を持って終了らしい。
END
『好きなもの・趣味』が明確な人間に贈り物をするならば、自分も同じ『好きなもの・趣味』を持たない限りはむしろそのジャンルは避けた方がいいと思う。
彼らは自分の好みを既に把握しており、種類・知識に精通している。
「あの人はあれが好きらしいから……」素人考えの中途半端な贈り物を『気持ち』以外の部分で全面的に喜べるかどうかと問われると微妙なところだろう。
もちろん、人によっては「好きだから何でも嬉しい」という考えの人もいるだろうけれども、観月はじめは違うのだ。
だから今日、15歳の誕生日にいろんな人たちから──知っている人間からも知らない人間(きっと自分にあこがれを抱いている女子だろう)からも、贈られてくる紅茶・紅茶グッズにウンザリしていた。
茶葉はまだいい。自分の好み以外は寮の食堂にでも置いてしまえばいい。
しかし、小物類は困る。
捨ててもいいが捨ててしまったことがバレるのも厄介だ。だから外面の良い自分はつい処分を躊躇ってしまう。
それゆえ困るのだ。
困るのに。
正面に立つ少女、赤月巴はニコニコと邪気の無い笑みを浮かべながら観月に明らかにティーポット大の箱を差し出している。
別に開封しなくても、形といい大きさといい、ティールームもある人気雑貨店の包装紙といい、きっとそうだと分かってしまう。
ティーポットなんて気に入ったモノが一つあれば充分だというのに、まさか彼女は自分がポットの一つも持っていないとでも思っているのだろうか。なんて気が利かないのだろう。
それなのに、自分の両手は何故彼女へ伸ばしているのだろう、戸惑いながらもその箱を手にしているのは一体。
包みを開けると案の定ティーポットだった。
さすが人気店のものだけあって、万人受けしそうな小奇麗なデザインだったが、生憎自分の好みとは少し違うようだ。
まあ、田舎から出てきた中学一年生の女子が選ぶのであればこんなものだろうか。
自分で選ぶならもう少し華やかな、部屋にあっては目を楽しませるようなものが良い。
けれども、口は彼女に礼を告げていた。
目の前の巴は先ほどよりもいっそう笑顔を輝かせていた。
ただ、自分がプレゼントを受け取っただけだというのに。
不意に己の感情が沸き立つのを感じる。
そして、彼女の口から「お誕生日おめでとうございます」そう凡庸でありきたりな言葉が出ただけだというのに。
何故こんなに暖かな気分になってしまったのだろう。
これまで、他の誰にも感じたことが無かったこの気持ちは何なんだろうと戸惑いを覚え、また、一度取り出したポットを大事そうに箱に戻している自分の手が信じられなかった。
観月はじめは決して「貰えるものならもしくは好きなものなら、何でも嬉しい」そんな風に思うことはないのに。
今日も沢山押し付けられた紅茶グッズにウンザリしていたというのに。
それなのに。
どうして。
明らかに自分には必要のないプレゼントを、彼女からは嬉々として受け取っているんだろうか。
ライバル校、それも自分の手駒にする予定の少女に対してのいまの自分の行動は、明らかに間違っていると分かっているのに。
どうして。
そして、この気持ちは。
一体、なんなのだろうか。
どう定義づければいいのだろうか。
この行動を、この気持ちを──人は、それを何と呼ぶのだろうか。
自分の中の何かが、いまは知る必要がないと叫んでいる。きっとそうなのだろうと思う。
都大会、関東大会、全国大会へとすすんでいくためには知る必要がないことだ。少なくともこの現状では。
しかしそれでも、いつか。
なぜか自分は、人は、それを何と呼ぶのか自分も知る日が来るのだと、予感ではなく確信している。
それもまた、遠い日ではなく。
END
彼らは自分の好みを既に把握しており、種類・知識に精通している。
「あの人はあれが好きらしいから……」素人考えの中途半端な贈り物を『気持ち』以外の部分で全面的に喜べるかどうかと問われると微妙なところだろう。
もちろん、人によっては「好きだから何でも嬉しい」という考えの人もいるだろうけれども、観月はじめは違うのだ。
だから今日、15歳の誕生日にいろんな人たちから──知っている人間からも知らない人間(きっと自分にあこがれを抱いている女子だろう)からも、贈られてくる紅茶・紅茶グッズにウンザリしていた。
茶葉はまだいい。自分の好み以外は寮の食堂にでも置いてしまえばいい。
しかし、小物類は困る。
捨ててもいいが捨ててしまったことがバレるのも厄介だ。だから外面の良い自分はつい処分を躊躇ってしまう。
それゆえ困るのだ。
困るのに。
正面に立つ少女、赤月巴はニコニコと邪気の無い笑みを浮かべながら観月に明らかにティーポット大の箱を差し出している。
別に開封しなくても、形といい大きさといい、ティールームもある人気雑貨店の包装紙といい、きっとそうだと分かってしまう。
ティーポットなんて気に入ったモノが一つあれば充分だというのに、まさか彼女は自分がポットの一つも持っていないとでも思っているのだろうか。なんて気が利かないのだろう。
それなのに、自分の両手は何故彼女へ伸ばしているのだろう、戸惑いながらもその箱を手にしているのは一体。
包みを開けると案の定ティーポットだった。
さすが人気店のものだけあって、万人受けしそうな小奇麗なデザインだったが、生憎自分の好みとは少し違うようだ。
まあ、田舎から出てきた中学一年生の女子が選ぶのであればこんなものだろうか。
自分で選ぶならもう少し華やかな、部屋にあっては目を楽しませるようなものが良い。
けれども、口は彼女に礼を告げていた。
目の前の巴は先ほどよりもいっそう笑顔を輝かせていた。
ただ、自分がプレゼントを受け取っただけだというのに。
不意に己の感情が沸き立つのを感じる。
そして、彼女の口から「お誕生日おめでとうございます」そう凡庸でありきたりな言葉が出ただけだというのに。
何故こんなに暖かな気分になってしまったのだろう。
これまで、他の誰にも感じたことが無かったこの気持ちは何なんだろうと戸惑いを覚え、また、一度取り出したポットを大事そうに箱に戻している自分の手が信じられなかった。
観月はじめは決して「貰えるものならもしくは好きなものなら、何でも嬉しい」そんな風に思うことはないのに。
今日も沢山押し付けられた紅茶グッズにウンザリしていたというのに。
それなのに。
どうして。
明らかに自分には必要のないプレゼントを、彼女からは嬉々として受け取っているんだろうか。
ライバル校、それも自分の手駒にする予定の少女に対してのいまの自分の行動は、明らかに間違っていると分かっているのに。
どうして。
そして、この気持ちは。
一体、なんなのだろうか。
どう定義づければいいのだろうか。
この行動を、この気持ちを──人は、それを何と呼ぶのだろうか。
自分の中の何かが、いまは知る必要がないと叫んでいる。きっとそうなのだろうと思う。
都大会、関東大会、全国大会へとすすんでいくためには知る必要がないことだ。少なくともこの現状では。
しかしそれでも、いつか。
なぜか自分は、人は、それを何と呼ぶのか自分も知る日が来るのだと、予感ではなく確信している。
それもまた、遠い日ではなく。
END
びゅうっと吹いた強い風に、新しく下ろしたばかりの真黄色のテニスボールは流され、打った人間の意図とは違ったほうへと飛んでいく。
そのボールを待ち受けていた赤月巴は慌ててそれを追う。
この距離ならば、私の足ならば、間に合うはずと、がむしゃらにボールにすがりついた。
それによって、巴の体勢は大きく乱され、無茶なフォームで打ち返すことになってしまった。
もっとも無茶なフォームのせいで、せっかく届いた球も大ホームラン。アウトもいいところだ。
バランスを大きく崩して、そのままコートに巴はごろりと転がった。
幸い、酷く身体の何処かを打ち付けることはなく、巴はそのまま仰向けに暮れ行く赤い空を眺めて、ぼんやり今日の練習がゴムのハードコートで良かったなあと思った。
これがあまりいい土ではないクレーコートだと、せっかくのお気に入りのジャージが台無しになるところだ。
「──巴くん!」こちらに向かってくる足音と共にラリーの相手だった観月の声が飛び込んできた。
巴がなかなか起き上がらないことに対して、慌てて飛んできたのだろう。
心配させてしまったかも知れないと、巴も慌てて起き上がった。
「あ、観月さん、すみません! 大丈夫ですっ」
そう言うも、観月は相変わらず心配げな顔でこちらに歩いてくる。
巴はラリーを中断させて悪いなという気持ちで、大丈夫大丈夫と言い募るも結局観月は巴の前までやって来た。
「大丈夫って簡単に言いますけどねえ、キミは……」苦虫をかみつぶしたような顔で、巴に話しかける。
あ、これは説教フラグ……そう巴は身構えた。転んだことに対してか、ボールに追いつくのがギリギリだったことか──なんのテーマにしろ、ここから長い説教が始まりそうだと肩をすくめた。
「たかがラリーで、そんな無茶な事しないでください。キミがめちゃくちゃなフォームで何処か痛めたりしたらどうするんですか、選手生命が絶たれるかも知れないんですよ」
え、と声にならない声で巴は呟いた。
まさか、いま観月がこんなことを言うとは思わなかったのだ。
かつての観月なら、部員をただの駒として扱っていた観月だったらば、こんなことは言わない。
故障を、選手生命を気にするだなんて。
もっとも、周囲の者の故障も厭わない観月はじめはとっくに居なくなっているのは、それこそ自分が知っている。
彼が悔い改めた現場にいたのだから。
それ以降は、誰に対しても選手としてのこれからについて気を配っているのも知っている。
けれどもこんな場面でいつも出るのは、その場のプレイに対する注意だ。
テニスだけでなく運動をしていれば怪我だってする。
そのことについて何かを言うなんて、これまではナンセンス以外の何ものでもなかっただろう。
「それに大体、転がってから暫く起き上がらないことに対してボクが何も思わないとでも? ──心外ですね」
上半身だけ起こしてコートに座っている状態の巴の手を取って、観月は立ち上がらせた。
その時に握りしめた両手を、巴が立ち上がっても放さない。
華奢に見える観月の案外ごつごつした男の人らしい大きな手に思わず巴はドキドキしてしまう。
ふと、観月は変わったな、巴はそう思った。
昨年4月に出逢った時の観月と、いまの観月。
人は変わるという。
まだ13年しか生きていない巴にはこれまで実感がなかったが、その言葉はきっと今の観月に当てはまるのだろう。
きっと、自分が言葉にしてしまったらとても嫌そうにするだろうけれども、以前にも増して彼は素敵な人になったと思う。
この人の元で、テニスを始めいろんなことを学べたら、一緒に経験できたらどんなに良いだろう。
そうならないだろうかと、強く思った。
このひとと、いっしょにいたい。
「失礼──」長く手を握っているのに気付いたのか、それとも巴の高まった鼓動に気付いたのか、観月も白い肌を赤らめて、さっと手を払ってしまった。
手に残る彼の体温が余韻を残し、残念感を大きく煽る。
ずっと、このまま彼の手に繋がれていたかった。
「さ、キミが大丈夫というのなら続けましょうか。明日からはジュニア選抜の合同合宿ですから、気合い入れていきましょう」
「はいっ」
「それから──、それから合宿が終わったらキミに伝えたいことがあるんです。その時には、聞いてもらえませんか?」
いまじゃいけないのかな。
巴はそう思ったけれども、あえて口をつぐむことにした。
観月が後でと言うのならば、それには意味があるのだろうと、いまの彼を素直に信じることが出来るからだ。
自分に対して、いつのまにか変わっていた観月がもはや偽りを口にすることはないと、巴はもう知っているからだ。
END
そのボールを待ち受けていた赤月巴は慌ててそれを追う。
この距離ならば、私の足ならば、間に合うはずと、がむしゃらにボールにすがりついた。
それによって、巴の体勢は大きく乱され、無茶なフォームで打ち返すことになってしまった。
もっとも無茶なフォームのせいで、せっかく届いた球も大ホームラン。アウトもいいところだ。
バランスを大きく崩して、そのままコートに巴はごろりと転がった。
幸い、酷く身体の何処かを打ち付けることはなく、巴はそのまま仰向けに暮れ行く赤い空を眺めて、ぼんやり今日の練習がゴムのハードコートで良かったなあと思った。
これがあまりいい土ではないクレーコートだと、せっかくのお気に入りのジャージが台無しになるところだ。
「──巴くん!」こちらに向かってくる足音と共にラリーの相手だった観月の声が飛び込んできた。
巴がなかなか起き上がらないことに対して、慌てて飛んできたのだろう。
心配させてしまったかも知れないと、巴も慌てて起き上がった。
「あ、観月さん、すみません! 大丈夫ですっ」
そう言うも、観月は相変わらず心配げな顔でこちらに歩いてくる。
巴はラリーを中断させて悪いなという気持ちで、大丈夫大丈夫と言い募るも結局観月は巴の前までやって来た。
「大丈夫って簡単に言いますけどねえ、キミは……」苦虫をかみつぶしたような顔で、巴に話しかける。
あ、これは説教フラグ……そう巴は身構えた。転んだことに対してか、ボールに追いつくのがギリギリだったことか──なんのテーマにしろ、ここから長い説教が始まりそうだと肩をすくめた。
「たかがラリーで、そんな無茶な事しないでください。キミがめちゃくちゃなフォームで何処か痛めたりしたらどうするんですか、選手生命が絶たれるかも知れないんですよ」
え、と声にならない声で巴は呟いた。
まさか、いま観月がこんなことを言うとは思わなかったのだ。
かつての観月なら、部員をただの駒として扱っていた観月だったらば、こんなことは言わない。
故障を、選手生命を気にするだなんて。
もっとも、周囲の者の故障も厭わない観月はじめはとっくに居なくなっているのは、それこそ自分が知っている。
彼が悔い改めた現場にいたのだから。
それ以降は、誰に対しても選手としてのこれからについて気を配っているのも知っている。
けれどもこんな場面でいつも出るのは、その場のプレイに対する注意だ。
テニスだけでなく運動をしていれば怪我だってする。
そのことについて何かを言うなんて、これまではナンセンス以外の何ものでもなかっただろう。
「それに大体、転がってから暫く起き上がらないことに対してボクが何も思わないとでも? ──心外ですね」
上半身だけ起こしてコートに座っている状態の巴の手を取って、観月は立ち上がらせた。
その時に握りしめた両手を、巴が立ち上がっても放さない。
華奢に見える観月の案外ごつごつした男の人らしい大きな手に思わず巴はドキドキしてしまう。
ふと、観月は変わったな、巴はそう思った。
昨年4月に出逢った時の観月と、いまの観月。
人は変わるという。
まだ13年しか生きていない巴にはこれまで実感がなかったが、その言葉はきっと今の観月に当てはまるのだろう。
きっと、自分が言葉にしてしまったらとても嫌そうにするだろうけれども、以前にも増して彼は素敵な人になったと思う。
この人の元で、テニスを始めいろんなことを学べたら、一緒に経験できたらどんなに良いだろう。
そうならないだろうかと、強く思った。
このひとと、いっしょにいたい。
「失礼──」長く手を握っているのに気付いたのか、それとも巴の高まった鼓動に気付いたのか、観月も白い肌を赤らめて、さっと手を払ってしまった。
手に残る彼の体温が余韻を残し、残念感を大きく煽る。
ずっと、このまま彼の手に繋がれていたかった。
「さ、キミが大丈夫というのなら続けましょうか。明日からはジュニア選抜の合同合宿ですから、気合い入れていきましょう」
「はいっ」
「それから──、それから合宿が終わったらキミに伝えたいことがあるんです。その時には、聞いてもらえませんか?」
いまじゃいけないのかな。
巴はそう思ったけれども、あえて口をつぐむことにした。
観月が後でと言うのならば、それには意味があるのだろうと、いまの彼を素直に信じることが出来るからだ。
自分に対して、いつのまにか変わっていた観月がもはや偽りを口にすることはないと、巴はもう知っているからだ。
END
「しまった……」
大晦日、赤月巴は帰省の人々で混雑する新幹線に乗り込んで、手荷物を広げて中をのぞき込んだと同時にみるみる顔が蒼くなった。
『ある』と思い込んでいた携帯電話が見つからないのだ。
「そういえば、昨日早川さんの部屋でおしゃべりしてた時に……」
巴が暮らす聖ルドルフ学院中等部女子寮には、厳しい寮母と厳格な消灯時間が存在した。
それゆえ、昨夜消灯時間ぎりぎりになって早川の部屋を慌てて飛び出した巴が、彼女の部屋に携帯電話を置いてきてしまったのだろう。
寮からこの新幹線車内に至るまでの道程で、携帯電話を落としたとは思えないし、思い返してみれば今朝携帯電話を触った記憶もないので、きっと早川の部屋にあるような気がするのだ。
しかし、それを確かめるすべは無かった。
電話であれば新幹線車内にもあるけれど、肝心の早川の携帯電話番号が分からない。
携帯電話のメモリに頼り切った生活に陥っていた巴は、それどころか普段暮らしている寮代表の電話番号すら覚えていなかった。
いっそのこと寮に戻ろうかと思っても新幹線は既に動き出している。
携帯電話のために途中下車というのもおかしなものだ。
「あ、自分の携帯にかけてみれば良かったんだ!」
巴はそのことをやっと思いつき、慌てて席を立ちデッキの公衆電話へと向かう。
幸い自分の携帯番号くらいは覚えていた。
「…………」
しかし、残念ながらしばらくコールしたあと留守番電話に切り替わってしまった。
どうやら、早川は部屋に居ないか気づかなかったらしい。
巴は、参ったなあと一瞬思ったものの、すぐに気分を切り替えて自分の席へと戻っていった。
携帯電話がないことくらいはどうと言うこともない。
実家に戻るまではすべて鉄路で、各駅に設置されているはずの公衆電話には困らない。
せいぜい新幹線を降りたときに父親に「駅に着いたよ」と連絡を入れる必要があるくらいだ。
そうすれば、実家から最寄りの駅に着けば、電話を受けた父親が駅前で車とともに待機しているはずで、もう他に電話の必要はない。
学校の友達なんかが『あけおめメール』なんて送ってくれるかもしれないけれど、これに関してはあとで謝り倒してしまえばいい。
良いことではないけれど、巴は携帯電話を忘れても不思議に思われないようなキャラクター認識をされているから、「ごめんねー忘れちゃったんだ」といえば皆気にしないだろう。
どうしても緊急な用事が発生すれば、学校や部活や寮などには家電の番号も伝えてあったはずなので、きっと問題はないはずで。
だから、「ま、いっか」と席に戻るなりいそいそとお弁当を広げて、久しぶりの帰省の道中を楽しむことにした。
先ほど顔を蒼くしていたことなど、けろっと忘れてしまった。
そのあと、脳内にあるのは年越し蕎麦と大晦日の特番は何を見るかくらいのものだった
---
帰宅して久しぶりの我が家は不思議な感じがした。
客ではないのにどこか客じみた立場におかれている気がして、巴はどこか落ち着かずそわそわした。
真新しいカーテンに、見慣れぬ椅子に増えている観葉植物――巴が知らない間に自宅内に配置されたそれらのせいだろうか。
中学入学ぶりに帰宅し、すっかり娘らしく成長した巴に戸惑っているらしい家族のせいだろうか。
それとも中学生になってからぐんぐん伸びた自分の身長によって変化した視点の高さのせいだろうか、巴はしばし考え込んだ。
こういう時、観月はじめならばどう分析するんだろうか、知り合ってから3度目の冬を迎える想い人の姿が一瞬脳内をよぎった。
しかし、ひとしきり家族に土産話を聞かせたあとは、近所を散歩してみたり久しぶりの自分の部屋を掃除したりして、それなりに落ち着きを取り戻していった。
RRRRRR――……
必要以上に綺麗になった部屋で、しばらくまったり落ち着いていると電話のベルが家中に響き渡っているのに気づいた。
家族が受話したのかそのベルはすぐに消えたが、そのあとも年末になんの用事があるのか何度も電話が鳴っていた。
巴も今日は電話が多いなとは思ったけれど、久しぶりの帰宅では普段の自宅の様子は分からない。
案外こんなものなのかな、そう思ってあまり気にしないことにして、そのまま電話については忘れてしまっていた。
---
夜も更け紅白も中盤になってきた頃、家族は近所の人たちと忘年会のあと初詣に行ってくると出て行ってしまった。
娘が久しぶりに帰ってきたというのに家族は出かけてしまい、ぽつんと一人残されてしまった巴は玄関で見送ったあと
部屋に戻ろうとした。
そんなとき、再び電話が鳴り出した。
そのタイミングの良さにドキドキしつつ、巴は受話器を手に取った。
「もしもし……?」
「――ようやく、キミが出ましたか」受話器から巴には耳馴染みのいい、一番好きな男性の声が聞こえてきた。
すこし高くどこか癖のあるしゃべり方、それは観月の声に間違いない。
「み、観月さん!? どうしたんですか、これ、私の家の電話ですよ?」
まさか、自宅にかかってくるとは思っても見なかった電話に巴は動揺を隠せない。
実家の家電という、普段あり得ないシチュエーションにドキドキと動悸も激しくなってきたようだ。
「どうもこうも……、キミ、早川の部屋に携帯電話を忘れてきたでしょう。だったらキミの声を聴こうと思ったらこうするしかないじゃないですか、そんなことくらい予想してくれないと」
さも当然といった口調で観月は答えた。
「キミの携帯電話に掛けたら、早川が出て事情を説明してくれましたよ。それでテニス部の緊急連絡先の載った名簿を見てこちらに掛けてみたんですけど……正直、困ってしまいましたよ、シナリオ外の出来事があるなんて……」
心底疲れた口調で観月が語るのが珍しく、巴は少し驚きながら「シナリオ外って?」と話を促す。
「やっぱり気づいてませんでしたか、今日は何度もキミ宛に電話したんですけどね、声を出すたびにキミのお父上に電話を切られてしまいまして……経験したことはありませんが、携帯電話のない時代の男女交際の困難さを思わずにはいられませんでしたよ」
「え、お父さんってば!」
そういえば、今日何度も鳴り響いていた電話のベルは……まさか観月からだったのだろうか、巴はいまになって気にせずにいたことを後悔した。
受話器を取っていたらもう少し早く観月と話せたというのに。
それにしても、父がそんなことをしていたとは驚きだ。観月とのことはほのめかしたことはあるけれど、キッチリと話し合ったことはないし、交際に反対しているとか(南次郎はともかく)異性を近づけたくないとかそんなことを言われたこともなかったのに。
そっくりそのまま観月に伝えると、苦笑混じりに返事が返ってきた。
「んふ……ボクもこれまた経験がありませんけど、男親というものはそうなんでしょうね。我が家でも姉がいますからなんとなくわかりますよ」
「そうですかー」
「そうですよ、まあ男としては簡単に親公認と言うよりも、少しは苦労してみたい気もしますしね。お父上のオーケーが出るまで頑張りましょうか」
なんとなく楽しげにそう話す観月に、巴は目を丸くする。
何よりも段取りを気にし、物事をスムーズに進めたいと思っている彼が、自分と付き合うことをそんな風に考えるとは思わなかった。
「え、じゃあ、ずっとオーケーが出なかったらどうするんですか」
「んー、相手を折れされて手に入れるっていうことに醍醐味があるわけだし、そのことに関しては失敗しない自信があるんですけどね」
「失敗しない自信ですか」そう言われると巴も少々気恥ずかしくなる。
「でも駄目だったら、キミを攫うまででしょう? 苦労の仕方が変わるだけですよ、安心なさい。実際、ボクはキミを青学から攫った実績がありますからね。――ところで、いまお父上はどうしているんですか?」
「父だったら、今出かけてて多分しばらく帰ってこないので大丈夫です」
「そうですか……帰ってこない、ですか」
受話器の向こうで観月は少し口ごもったあと、笑いを含んだ声でこう言った。
「これが、キミが電話の向こうでなければ――その攫う絶好のチャンスだったでしょうにね。電話越しではキミに愛をささやけてもそれ以上のことは、出来ませんからね。残念です」
それは残念かも、巴もそう思いクスリと笑い、「でも、まだ愛はささやいて貰ってませんよ?」そう返す。
「そうでしたね、『愛してますよ、巴くん』。これではお父上のボクの電話を取り次ぎたくないはずですよね、娘に付く虫はやっかいですから」
「ふふふっ、ですね」
「それにしても――キミはいつ東京に戻ってくるんですか? つまり、ボクは何日このハードルに立ち向かわなければいけないのか知りたいんですけどね」
うんざりした口調ではなく、おもしろがった感じでそう訊いてくるのは巴にとって意外だったが、案外悪くない。
実際、毎日電話をしたければ巴から掛けるという手もあるのだが、そして観月もそれは当然分かっているはずだが、そうしようとはしない態度が巴には嬉しい。
「観月さんは相手を折れされて手に入れるっていうことに醍醐味を感じるわけですよね? じゃあ、あと2日――たった2日です、頑張ってくださいね。待ってますから」
「言いますね……まあ、期待してなさい、キミの声を聴けるんだったらハードルも越えられるよう努力してみますよ」
END
大晦日、赤月巴は帰省の人々で混雑する新幹線に乗り込んで、手荷物を広げて中をのぞき込んだと同時にみるみる顔が蒼くなった。
『ある』と思い込んでいた携帯電話が見つからないのだ。
「そういえば、昨日早川さんの部屋でおしゃべりしてた時に……」
巴が暮らす聖ルドルフ学院中等部女子寮には、厳しい寮母と厳格な消灯時間が存在した。
それゆえ、昨夜消灯時間ぎりぎりになって早川の部屋を慌てて飛び出した巴が、彼女の部屋に携帯電話を置いてきてしまったのだろう。
寮からこの新幹線車内に至るまでの道程で、携帯電話を落としたとは思えないし、思い返してみれば今朝携帯電話を触った記憶もないので、きっと早川の部屋にあるような気がするのだ。
しかし、それを確かめるすべは無かった。
電話であれば新幹線車内にもあるけれど、肝心の早川の携帯電話番号が分からない。
携帯電話のメモリに頼り切った生活に陥っていた巴は、それどころか普段暮らしている寮代表の電話番号すら覚えていなかった。
いっそのこと寮に戻ろうかと思っても新幹線は既に動き出している。
携帯電話のために途中下車というのもおかしなものだ。
「あ、自分の携帯にかけてみれば良かったんだ!」
巴はそのことをやっと思いつき、慌てて席を立ちデッキの公衆電話へと向かう。
幸い自分の携帯番号くらいは覚えていた。
「…………」
しかし、残念ながらしばらくコールしたあと留守番電話に切り替わってしまった。
どうやら、早川は部屋に居ないか気づかなかったらしい。
巴は、参ったなあと一瞬思ったものの、すぐに気分を切り替えて自分の席へと戻っていった。
携帯電話がないことくらいはどうと言うこともない。
実家に戻るまではすべて鉄路で、各駅に設置されているはずの公衆電話には困らない。
せいぜい新幹線を降りたときに父親に「駅に着いたよ」と連絡を入れる必要があるくらいだ。
そうすれば、実家から最寄りの駅に着けば、電話を受けた父親が駅前で車とともに待機しているはずで、もう他に電話の必要はない。
学校の友達なんかが『あけおめメール』なんて送ってくれるかもしれないけれど、これに関してはあとで謝り倒してしまえばいい。
良いことではないけれど、巴は携帯電話を忘れても不思議に思われないようなキャラクター認識をされているから、「ごめんねー忘れちゃったんだ」といえば皆気にしないだろう。
どうしても緊急な用事が発生すれば、学校や部活や寮などには家電の番号も伝えてあったはずなので、きっと問題はないはずで。
だから、「ま、いっか」と席に戻るなりいそいそとお弁当を広げて、久しぶりの帰省の道中を楽しむことにした。
先ほど顔を蒼くしていたことなど、けろっと忘れてしまった。
そのあと、脳内にあるのは年越し蕎麦と大晦日の特番は何を見るかくらいのものだった
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帰宅して久しぶりの我が家は不思議な感じがした。
客ではないのにどこか客じみた立場におかれている気がして、巴はどこか落ち着かずそわそわした。
真新しいカーテンに、見慣れぬ椅子に増えている観葉植物――巴が知らない間に自宅内に配置されたそれらのせいだろうか。
中学入学ぶりに帰宅し、すっかり娘らしく成長した巴に戸惑っているらしい家族のせいだろうか。
それとも中学生になってからぐんぐん伸びた自分の身長によって変化した視点の高さのせいだろうか、巴はしばし考え込んだ。
こういう時、観月はじめならばどう分析するんだろうか、知り合ってから3度目の冬を迎える想い人の姿が一瞬脳内をよぎった。
しかし、ひとしきり家族に土産話を聞かせたあとは、近所を散歩してみたり久しぶりの自分の部屋を掃除したりして、それなりに落ち着きを取り戻していった。
RRRRRR――……
必要以上に綺麗になった部屋で、しばらくまったり落ち着いていると電話のベルが家中に響き渡っているのに気づいた。
家族が受話したのかそのベルはすぐに消えたが、そのあとも年末になんの用事があるのか何度も電話が鳴っていた。
巴も今日は電話が多いなとは思ったけれど、久しぶりの帰宅では普段の自宅の様子は分からない。
案外こんなものなのかな、そう思ってあまり気にしないことにして、そのまま電話については忘れてしまっていた。
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夜も更け紅白も中盤になってきた頃、家族は近所の人たちと忘年会のあと初詣に行ってくると出て行ってしまった。
娘が久しぶりに帰ってきたというのに家族は出かけてしまい、ぽつんと一人残されてしまった巴は玄関で見送ったあと
部屋に戻ろうとした。
そんなとき、再び電話が鳴り出した。
そのタイミングの良さにドキドキしつつ、巴は受話器を手に取った。
「もしもし……?」
「――ようやく、キミが出ましたか」受話器から巴には耳馴染みのいい、一番好きな男性の声が聞こえてきた。
すこし高くどこか癖のあるしゃべり方、それは観月の声に間違いない。
「み、観月さん!? どうしたんですか、これ、私の家の電話ですよ?」
まさか、自宅にかかってくるとは思っても見なかった電話に巴は動揺を隠せない。
実家の家電という、普段あり得ないシチュエーションにドキドキと動悸も激しくなってきたようだ。
「どうもこうも……、キミ、早川の部屋に携帯電話を忘れてきたでしょう。だったらキミの声を聴こうと思ったらこうするしかないじゃないですか、そんなことくらい予想してくれないと」
さも当然といった口調で観月は答えた。
「キミの携帯電話に掛けたら、早川が出て事情を説明してくれましたよ。それでテニス部の緊急連絡先の載った名簿を見てこちらに掛けてみたんですけど……正直、困ってしまいましたよ、シナリオ外の出来事があるなんて……」
心底疲れた口調で観月が語るのが珍しく、巴は少し驚きながら「シナリオ外って?」と話を促す。
「やっぱり気づいてませんでしたか、今日は何度もキミ宛に電話したんですけどね、声を出すたびにキミのお父上に電話を切られてしまいまして……経験したことはありませんが、携帯電話のない時代の男女交際の困難さを思わずにはいられませんでしたよ」
「え、お父さんってば!」
そういえば、今日何度も鳴り響いていた電話のベルは……まさか観月からだったのだろうか、巴はいまになって気にせずにいたことを後悔した。
受話器を取っていたらもう少し早く観月と話せたというのに。
それにしても、父がそんなことをしていたとは驚きだ。観月とのことはほのめかしたことはあるけれど、キッチリと話し合ったことはないし、交際に反対しているとか(南次郎はともかく)異性を近づけたくないとかそんなことを言われたこともなかったのに。
そっくりそのまま観月に伝えると、苦笑混じりに返事が返ってきた。
「んふ……ボクもこれまた経験がありませんけど、男親というものはそうなんでしょうね。我が家でも姉がいますからなんとなくわかりますよ」
「そうですかー」
「そうですよ、まあ男としては簡単に親公認と言うよりも、少しは苦労してみたい気もしますしね。お父上のオーケーが出るまで頑張りましょうか」
なんとなく楽しげにそう話す観月に、巴は目を丸くする。
何よりも段取りを気にし、物事をスムーズに進めたいと思っている彼が、自分と付き合うことをそんな風に考えるとは思わなかった。
「え、じゃあ、ずっとオーケーが出なかったらどうするんですか」
「んー、相手を折れされて手に入れるっていうことに醍醐味があるわけだし、そのことに関しては失敗しない自信があるんですけどね」
「失敗しない自信ですか」そう言われると巴も少々気恥ずかしくなる。
「でも駄目だったら、キミを攫うまででしょう? 苦労の仕方が変わるだけですよ、安心なさい。実際、ボクはキミを青学から攫った実績がありますからね。――ところで、いまお父上はどうしているんですか?」
「父だったら、今出かけてて多分しばらく帰ってこないので大丈夫です」
「そうですか……帰ってこない、ですか」
受話器の向こうで観月は少し口ごもったあと、笑いを含んだ声でこう言った。
「これが、キミが電話の向こうでなければ――その攫う絶好のチャンスだったでしょうにね。電話越しではキミに愛をささやけてもそれ以上のことは、出来ませんからね。残念です」
それは残念かも、巴もそう思いクスリと笑い、「でも、まだ愛はささやいて貰ってませんよ?」そう返す。
「そうでしたね、『愛してますよ、巴くん』。これではお父上のボクの電話を取り次ぎたくないはずですよね、娘に付く虫はやっかいですから」
「ふふふっ、ですね」
「それにしても――キミはいつ東京に戻ってくるんですか? つまり、ボクは何日このハードルに立ち向かわなければいけないのか知りたいんですけどね」
うんざりした口調ではなく、おもしろがった感じでそう訊いてくるのは巴にとって意外だったが、案外悪くない。
実際、毎日電話をしたければ巴から掛けるという手もあるのだが、そして観月もそれは当然分かっているはずだが、そうしようとはしない態度が巴には嬉しい。
「観月さんは相手を折れされて手に入れるっていうことに醍醐味を感じるわけですよね? じゃあ、あと2日――たった2日です、頑張ってくださいね。待ってますから」
「言いますね……まあ、期待してなさい、キミの声を聴けるんだったらハードルも越えられるよう努力してみますよ」
END
「は、オシャレを教えてほしい? テニスじゃなくて?」
目の前の彼女――赤月巴が突飛な事を口走るのは、いまに限った事ではなかった。
いま彼女の、その突飛な言葉を受け止めた伊武深司にしたって、これが初めてではなかった。
だからと言って、それに慣れたかというとそういうこともなく、彼女の言葉には大抵驚かされっぱなしだった。
人に驚かされっぱなしというのは悔しいしなんだか格好悪いような気がして、普段驚きを表面に出す事はなかったが──そもそも、伊武が感情を表に出す事は滅多になく、いまの彼女の突飛な言葉に対しても、かろうじてしれっとクールな表情で聞く事が出来ていたのだが。
いま居る場所は、中学生の二人連れには珍しい閑静なカフェで、そもそも感情をあらわにするような場所ではないのだが、うっかり大声を出したりしなくて良かったと内心ホッとする。
周囲を見回しても、ほかの客や店員が二人を気にする様子はない。
その突飛な事を口走った彼女はキラキラと、期待を込めて伊武を見上げている。いかにも、伊武のOKを待っているかのように。
ああ、その表情に俺は弱いんだった。内心彼女に相当やられているらしい頭を抱えながら「……………これは参ったね」そう小さくつぶやき、さて、どうしようかと考えた。
「オシャレを教えるって、どういう事さ。そもそも君っていつもなんなの? いきなり変な事を口走ったりするし、その思考回路は全く読めるものじゃないよね。その度にこっちがさんざん振り回されるってわかってるワケ、わかってないよね、わかってたら順序立てて自分の考えを相手に伝えようとするよね」
「振り回されてるって……こっちの台詞ですっ」
聞こえないようにする努力はそもそもしていないので、ぼやきが巴に聞こえるのは当然とも言えるけれど、そんな答えが返ってくるとは思わなかったので、伊武はハッとした。
どんな表情をして巴はそれを言うのか気になったけれども、なんとなくその表情を正面からとらえるのが躊躇われて、視線を窓の外の風景に彷徨わせながら、ぼやいている時よりもハッキリとしない声でそれに応えた。
応えたと言って良いものかどうかも分からない一言だったが、巴には聞こえているだろう。
「別に振り回してなんかないけど?」
自分が、巴を、振り回す?
どうやら意外な展開になっているらしい。伊武はいささか混乱した。
自分は(ぼやく以外は)普通だと思っている。他人に迷惑をかけるようなこともしないし、彼女のような予想できない発想や動きで周囲を惑わせることもない。
テニスのプレイスタイルだって、相手を追い詰めるようなことはあっても超人的な技を持つわけでもない。
こんな自分が彼女を振り回すことなんてあるわけがないのだ。
それなのに一体何を言っているのだろう。
よく分からないからか、それとも違う要因か、試合中でもないのに脈が異常に速くなってきたのを感じた。
トクトクトクトクと心臓が刻むリズムが速くて大きい。
とりあえず落ち着くのが良策だと言わんばかりに、巴の意外な言葉で忘れかけていたコーヒーカップを口に運ぶ。
冷めかけたコーヒーは香気が煎れたての時より落ちていたが、それでも少し落ち着く効果はあったようで、ようやく巴の表情を窺うことが出来た。
先ほどと相変わらず、キラキラとした目のままこちらを見つめている。
本人に言うつもりはないけれど、こういう目で見られると困ってしまう――可愛いからだ。
「深司さん、分かってなかったんですか!」
さも面白げに巴はそう言い放った。
「…………なにが?」
「だからー、深司さんは出会ってからずーーっと私を振り回しているんですってば」
気恥ずかしげに頬を赤らめて巴は話を続けた。
「だって、あっちょっと格好良い人だなーって思ってたけど、年上だし他校の人だしライバルっぽいしどうにもならないかな~って、付き合う前はドキドキしつつもハラハラしてたし、私はテニスばっかりで日焼けもしてるしオシャレじゃなくて顔もスタイルも程々だから付き合ってからもずっと愛想尽かされないか気になってばっかりだし……………………………………………………………………………………………ようするにそれくらい私は深司さんのことが好きなんですよ」
最初は調子よく話していたはずが、言葉尻のみまるで伊武がぼやくかのようにボソボソと巴は言葉を濁した。
しかし、それが聞き取れない伊武ではなく、その言葉のあまりの唐突さに思わず口に含んだコーヒーを吹き出しそうになり、顔をとっさに伏せた。
そろそろ、感情のコントロールが限界のようだ。このまま彼女と話していると、うっかり感情が外にだだ漏れになってしまいそうで怖い。
吹き出すこと、感情を表に出すことをこらえられたのは、ここしばらく無いくらいの幸運だったかもしれないなと思いつつ、ペーパーナプキンで口を押さえた。
思わず下を向いてしまったのは、吹き出すのをこらえためではなく、どちらかと言えば赤面しているかもしれない自分に耐えられなかったからだが、なんとか試合中のように瞬時に冷静な自分を取り戻すことが出来た。
そしてすぐに巴に向き直る。彼女は先ほどに引き続き頬は赤らんだままで、自分とは違ってとても感情がわかりやすい。
それは自分とは全く逆だけれど、そこが良いのだとこれだけは素直に認められる。だれも自分と似た人間を近くに置いておきたく無いものだし、自分とは違う部分を持っている人間に惹かれるものだ。
「で、せめて深司さん好みのオシャレさんに近づけたらなーって言うのが、先ほどの話の趣旨だったんですが、お願いできますか?」
気づいたら、巴はどうやら先ほどの話に戻っているらしい。
先ほどの小さな愛の告白はどこに行ったのやら、巴は先ほどのことは何でもなかったかのような顔で伊武に頭を下げた。
「……………ホント巴には負けるよ」
そんな長いやりとりではなかったはずだが、伊武はものすごい疲労感に襲われた。
巴は自分の振り回し方を全く自覚していないらしい、ものすごく強い力で相手を大きく振り回していることに。
そしてその振り回された相手は、その振り回されっぷりにとても消耗するということに。
しかし、巴に振り回されるのならば心地よい疲労に感じてしまうのだから、自分もおおよそ単純な生き物である。
――フッ、自然と諦めにも近い笑みがこぼれた。
「でも、俺の誕生日に労働させる代償は大きいからね、覚えておいて……………あー、オシャレした巴に何をしてもらおうかな、自分からオシャレにして欲しいなんて言うのが悪いんだからね、いま以上に可愛くなった君を見て俺がなにをしたってもう責められる謂われはないんだから覚悟しておくんだね」
これまで巴を振り回してきたつもりは全くなかったが、巴が振り回されていると思っているのならそれも良いような気がしてきた。
どうせなら今日のこれからの時間は、いつも彼女が感じているらしい以上に振り回してやろう。
さて、これからどうしようかと頭の中で予定を練り始めた。巴に似合いそうなテイストのショッピングビルを脳内でピックアップする。妹たちの買い物に付き合うのがこういう時に役に立つとは……と思いながら。
とりあえずこの場にいても始まらない。さっそく席を立って巴を賑やかな祝日の街なかへと促すことにした。
今年はかなり楽しい誕生日になりそうだ。
END
目の前の彼女――赤月巴が突飛な事を口走るのは、いまに限った事ではなかった。
いま彼女の、その突飛な言葉を受け止めた伊武深司にしたって、これが初めてではなかった。
だからと言って、それに慣れたかというとそういうこともなく、彼女の言葉には大抵驚かされっぱなしだった。
人に驚かされっぱなしというのは悔しいしなんだか格好悪いような気がして、普段驚きを表面に出す事はなかったが──そもそも、伊武が感情を表に出す事は滅多になく、いまの彼女の突飛な言葉に対しても、かろうじてしれっとクールな表情で聞く事が出来ていたのだが。
いま居る場所は、中学生の二人連れには珍しい閑静なカフェで、そもそも感情をあらわにするような場所ではないのだが、うっかり大声を出したりしなくて良かったと内心ホッとする。
周囲を見回しても、ほかの客や店員が二人を気にする様子はない。
その突飛な事を口走った彼女はキラキラと、期待を込めて伊武を見上げている。いかにも、伊武のOKを待っているかのように。
ああ、その表情に俺は弱いんだった。内心彼女に相当やられているらしい頭を抱えながら「……………これは参ったね」そう小さくつぶやき、さて、どうしようかと考えた。
「オシャレを教えるって、どういう事さ。そもそも君っていつもなんなの? いきなり変な事を口走ったりするし、その思考回路は全く読めるものじゃないよね。その度にこっちがさんざん振り回されるってわかってるワケ、わかってないよね、わかってたら順序立てて自分の考えを相手に伝えようとするよね」
「振り回されてるって……こっちの台詞ですっ」
聞こえないようにする努力はそもそもしていないので、ぼやきが巴に聞こえるのは当然とも言えるけれど、そんな答えが返ってくるとは思わなかったので、伊武はハッとした。
どんな表情をして巴はそれを言うのか気になったけれども、なんとなくその表情を正面からとらえるのが躊躇われて、視線を窓の外の風景に彷徨わせながら、ぼやいている時よりもハッキリとしない声でそれに応えた。
応えたと言って良いものかどうかも分からない一言だったが、巴には聞こえているだろう。
「別に振り回してなんかないけど?」
自分が、巴を、振り回す?
どうやら意外な展開になっているらしい。伊武はいささか混乱した。
自分は(ぼやく以外は)普通だと思っている。他人に迷惑をかけるようなこともしないし、彼女のような予想できない発想や動きで周囲を惑わせることもない。
テニスのプレイスタイルだって、相手を追い詰めるようなことはあっても超人的な技を持つわけでもない。
こんな自分が彼女を振り回すことなんてあるわけがないのだ。
それなのに一体何を言っているのだろう。
よく分からないからか、それとも違う要因か、試合中でもないのに脈が異常に速くなってきたのを感じた。
トクトクトクトクと心臓が刻むリズムが速くて大きい。
とりあえず落ち着くのが良策だと言わんばかりに、巴の意外な言葉で忘れかけていたコーヒーカップを口に運ぶ。
冷めかけたコーヒーは香気が煎れたての時より落ちていたが、それでも少し落ち着く効果はあったようで、ようやく巴の表情を窺うことが出来た。
先ほどと相変わらず、キラキラとした目のままこちらを見つめている。
本人に言うつもりはないけれど、こういう目で見られると困ってしまう――可愛いからだ。
「深司さん、分かってなかったんですか!」
さも面白げに巴はそう言い放った。
「…………なにが?」
「だからー、深司さんは出会ってからずーーっと私を振り回しているんですってば」
気恥ずかしげに頬を赤らめて巴は話を続けた。
「だって、あっちょっと格好良い人だなーって思ってたけど、年上だし他校の人だしライバルっぽいしどうにもならないかな~って、付き合う前はドキドキしつつもハラハラしてたし、私はテニスばっかりで日焼けもしてるしオシャレじゃなくて顔もスタイルも程々だから付き合ってからもずっと愛想尽かされないか気になってばっかりだし……………………………………………………………………………………………ようするにそれくらい私は深司さんのことが好きなんですよ」
最初は調子よく話していたはずが、言葉尻のみまるで伊武がぼやくかのようにボソボソと巴は言葉を濁した。
しかし、それが聞き取れない伊武ではなく、その言葉のあまりの唐突さに思わず口に含んだコーヒーを吹き出しそうになり、顔をとっさに伏せた。
そろそろ、感情のコントロールが限界のようだ。このまま彼女と話していると、うっかり感情が外にだだ漏れになってしまいそうで怖い。
吹き出すこと、感情を表に出すことをこらえられたのは、ここしばらく無いくらいの幸運だったかもしれないなと思いつつ、ペーパーナプキンで口を押さえた。
思わず下を向いてしまったのは、吹き出すのをこらえためではなく、どちらかと言えば赤面しているかもしれない自分に耐えられなかったからだが、なんとか試合中のように瞬時に冷静な自分を取り戻すことが出来た。
そしてすぐに巴に向き直る。彼女は先ほどに引き続き頬は赤らんだままで、自分とは違ってとても感情がわかりやすい。
それは自分とは全く逆だけれど、そこが良いのだとこれだけは素直に認められる。だれも自分と似た人間を近くに置いておきたく無いものだし、自分とは違う部分を持っている人間に惹かれるものだ。
「で、せめて深司さん好みのオシャレさんに近づけたらなーって言うのが、先ほどの話の趣旨だったんですが、お願いできますか?」
気づいたら、巴はどうやら先ほどの話に戻っているらしい。
先ほどの小さな愛の告白はどこに行ったのやら、巴は先ほどのことは何でもなかったかのような顔で伊武に頭を下げた。
「……………ホント巴には負けるよ」
そんな長いやりとりではなかったはずだが、伊武はものすごい疲労感に襲われた。
巴は自分の振り回し方を全く自覚していないらしい、ものすごく強い力で相手を大きく振り回していることに。
そしてその振り回された相手は、その振り回されっぷりにとても消耗するということに。
しかし、巴に振り回されるのならば心地よい疲労に感じてしまうのだから、自分もおおよそ単純な生き物である。
――フッ、自然と諦めにも近い笑みがこぼれた。
「でも、俺の誕生日に労働させる代償は大きいからね、覚えておいて……………あー、オシャレした巴に何をしてもらおうかな、自分からオシャレにして欲しいなんて言うのが悪いんだからね、いま以上に可愛くなった君を見て俺がなにをしたってもう責められる謂われはないんだから覚悟しておくんだね」
これまで巴を振り回してきたつもりは全くなかったが、巴が振り回されていると思っているのならそれも良いような気がしてきた。
どうせなら今日のこれからの時間は、いつも彼女が感じているらしい以上に振り回してやろう。
さて、これからどうしようかと頭の中で予定を練り始めた。巴に似合いそうなテイストのショッピングビルを脳内でピックアップする。妹たちの買い物に付き合うのがこういう時に役に立つとは……と思いながら。
とりあえずこの場にいても始まらない。さっそく席を立って巴を賑やかな祝日の街なかへと促すことにした。
今年はかなり楽しい誕生日になりそうだ。
END
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