40000万HIT記念。
感謝の気持ちを込めてアンケート1位のカップリングのフリーSSです。
そのまま保存したり自サイトにアップして頂いて結構です。
ただし、お約束があります(簡単な言葉で言いますよ)。
・登場人物や文章を勝手に変えないこと
・書いた人は「ななせなな」であることを表記すること
・勝手に同人誌など印刷物に使用しないこと
・このページに直接リンクを貼らないこと
この4点は守って下さいね。
最低限のことですが、これが守られてないとさすがにへこみます。
***
感謝の気持ちを込めてアンケート1位のカップリングのフリーSSです。
そのまま保存したり自サイトにアップして頂いて結構です。
ただし、お約束があります(簡単な言葉で言いますよ)。
・登場人物や文章を勝手に変えないこと
・書いた人は「ななせなな」であることを表記すること
・勝手に同人誌など印刷物に使用しないこと
・このページに直接リンクを貼らないこと
この4点は守って下さいね。
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『ma cherie』ななせなな
「ふわぁ、いい天気ですね」
4月に入り桜前線と共に急激に柔らかくなった陽ざしに眠気を誘われ、赤月巴はベンチの隣に腰かける観月はじめの左肩にもたれかかった。
二人に吹き付ける風は昨日から日本列島を覆っている寒気の影響かひんやりとしているが、それが暖かな日の光と相まってスポーツをする者にとって暑すぎず、寒すぎずちょうど良い気候となっていた。
現に目の前のテニスコートの中では休憩中だというのに、聖ルドルフの名ダブルスとも言える二名が楽しげにラリーを続けている。
よほど冬の冷気を四散させた太陽の下で動けることが嬉しいらしい。
観月に言わせれば、単に体力配分を忘れた馬鹿者がはしゃいでいるにすぎないのだが。
「気持ちいい陽射しではありますけど……まだ、屋外で昼寝しないでくださいよ」
観月は隣でぼうっとしている彼女が風邪をひくことを懸念する。
しっかり者で頑張り屋━━━巴に対する世間の評価はそんなカンジだったが、それにしては案外抜けている所も多くてうっかり屋さんでもある。
肌寒い屋外でうたた寝をして風邪をひくのは今に始まったことではなく、観月の懸念も実に的を射たものであった。
「はーい、わかってますよお」
クスクスと笑いながら、観月の左肩に預けていた身体をさらにぎゅうぎゅうと彼に押しつける。
「ほら、こうすればもっとあったかくなりますから」半分寝ぼけたような声で話す。
そうですね、体温だけじゃなくて、心まで暖かくなりますね。
観月はそう思いながらも、そういうキャラではないことを重々自覚しているので言わないことにした。
口に出してしまえば巴は舞い上がるだろうが、周囲にいる邪魔者達の反応が不快だ。
彼女を喜ばせる事が出来るのなら千の言葉も万の言葉も厭わないつもりだが、さすがにいまは場が悪すぎた。
現にこうしてくっついているだけで、「お熱いだーね」と冷やかす声が聞こえるのだから。
とりあえず、冷やかす声はキツイ眼差しでかき消すことにして、
いまは隣にあるぬくもりに集中することにした。
休憩終了まで、あと5分。
それぐらいは彼氏としての恩恵にあずかっても良いはずだ。
例え、練習中であっても。
ズシッ、と不意に巴の重みが増した。
スースーと深く、まるで時計の秒針のように正確に刻む呼気は寝息に違いない。
どうやら本当にうたた寝を始めてしまったらしい。
「巴く━━━」
「観月…さん…?」
彼女を起こそうとしたところ、彼女の口から自分の名前がこぼれ出た。
寝ぼけているのか、それとも本当に寝言なのかは判別付かないが、彼女が自分の名前の次にこぼす言葉が何であるのかが気になって、観月はそのまま彼女を待った。
「……これから…も、ずっと、こうだといいですね……あったかい……」
「ずっと?」
寝言に返事をしてはいけないという話を聞いたことがあるけれど、観月は思わず応えてしまった。
しまったと思いつつも、引き続き彼女の動向を窺った。
「ずっと……いっしょに……いたい…です」
その言葉に思わず自分から笑みが生まれるのを抑えきれない。
多分、チームメイトの悪友達はアレコレ言うのだろうが、先ほど遠慮したことを翻して、やはり言わせておけばいいと思いきる。
『お熱いだーね』そんなことを言われるようなことをついついしたくなってしまう。
それで本当に何か言われるようであれば、しれっと「彼女がいない僻みですか?それとも嫉妬ですか?」そう応えればいい。
彼女の重みを受けているだけだった自分の左腕を、起こしてしまわぬようそっと彼女の肩に回して無防備に崩れていた眠る身体を安定させる。
すこしだけその手に力を入れて、二人の間にはジャージの布地以外存在しないほど密着させて。
「そうですね、ボクもそうありたいですね。
━━━これからも、よろしく。ボクの……かわいい人」
この春の柔らかく暖かい陽射しにも負けない、暖かな存在に観月も少しだけ身体を預けて目を閉じた。
END
「ふわぁ、いい天気ですね」
4月に入り桜前線と共に急激に柔らかくなった陽ざしに眠気を誘われ、赤月巴はベンチの隣に腰かける観月はじめの左肩にもたれかかった。
二人に吹き付ける風は昨日から日本列島を覆っている寒気の影響かひんやりとしているが、それが暖かな日の光と相まってスポーツをする者にとって暑すぎず、寒すぎずちょうど良い気候となっていた。
現に目の前のテニスコートの中では休憩中だというのに、聖ルドルフの名ダブルスとも言える二名が楽しげにラリーを続けている。
よほど冬の冷気を四散させた太陽の下で動けることが嬉しいらしい。
観月に言わせれば、単に体力配分を忘れた馬鹿者がはしゃいでいるにすぎないのだが。
「気持ちいい陽射しではありますけど……まだ、屋外で昼寝しないでくださいよ」
観月は隣でぼうっとしている彼女が風邪をひくことを懸念する。
しっかり者で頑張り屋━━━巴に対する世間の評価はそんなカンジだったが、それにしては案外抜けている所も多くてうっかり屋さんでもある。
肌寒い屋外でうたた寝をして風邪をひくのは今に始まったことではなく、観月の懸念も実に的を射たものであった。
「はーい、わかってますよお」
クスクスと笑いながら、観月の左肩に預けていた身体をさらにぎゅうぎゅうと彼に押しつける。
「ほら、こうすればもっとあったかくなりますから」半分寝ぼけたような声で話す。
そうですね、体温だけじゃなくて、心まで暖かくなりますね。
観月はそう思いながらも、そういうキャラではないことを重々自覚しているので言わないことにした。
口に出してしまえば巴は舞い上がるだろうが、周囲にいる邪魔者達の反応が不快だ。
彼女を喜ばせる事が出来るのなら千の言葉も万の言葉も厭わないつもりだが、さすがにいまは場が悪すぎた。
現にこうしてくっついているだけで、「お熱いだーね」と冷やかす声が聞こえるのだから。
とりあえず、冷やかす声はキツイ眼差しでかき消すことにして、
いまは隣にあるぬくもりに集中することにした。
休憩終了まで、あと5分。
それぐらいは彼氏としての恩恵にあずかっても良いはずだ。
例え、練習中であっても。
ズシッ、と不意に巴の重みが増した。
スースーと深く、まるで時計の秒針のように正確に刻む呼気は寝息に違いない。
どうやら本当にうたた寝を始めてしまったらしい。
「巴く━━━」
「観月…さん…?」
彼女を起こそうとしたところ、彼女の口から自分の名前がこぼれ出た。
寝ぼけているのか、それとも本当に寝言なのかは判別付かないが、彼女が自分の名前の次にこぼす言葉が何であるのかが気になって、観月はそのまま彼女を待った。
「……これから…も、ずっと、こうだといいですね……あったかい……」
「ずっと?」
寝言に返事をしてはいけないという話を聞いたことがあるけれど、観月は思わず応えてしまった。
しまったと思いつつも、引き続き彼女の動向を窺った。
「ずっと……いっしょに……いたい…です」
その言葉に思わず自分から笑みが生まれるのを抑えきれない。
多分、チームメイトの悪友達はアレコレ言うのだろうが、先ほど遠慮したことを翻して、やはり言わせておけばいいと思いきる。
『お熱いだーね』そんなことを言われるようなことをついついしたくなってしまう。
それで本当に何か言われるようであれば、しれっと「彼女がいない僻みですか?それとも嫉妬ですか?」そう応えればいい。
彼女の重みを受けているだけだった自分の左腕を、起こしてしまわぬようそっと彼女の肩に回して無防備に崩れていた眠る身体を安定させる。
すこしだけその手に力を入れて、二人の間にはジャージの布地以外存在しないほど密着させて。
「そうですね、ボクもそうありたいですね。
━━━これからも、よろしく。ボクの……かわいい人」
この春の柔らかく暖かい陽射しにも負けない、暖かな存在に観月も少しだけ身体を預けて目を閉じた。
END
待っててくれとは言われなかった。
けれども、待つなとも言われなかった。
それが不安の種でもあり希望の光でもある。
東京での生活は二年目となり、二度目の全国大会もとっくに終わって、彼が隣に居ない冬が再びやってきた。
きっと彼と出会ってから数えてみると会う時間よりも会わない時間の方が多いはずだ。
東京で出来た知り合いの中で誰よりも顔を会わせていない。
メールなら毎日やりとりしている、と言いたいところだけれども筆無精な彼からの返事はせいぜい週に数回。
しかも、どれも簡潔な返事で健全な中学生女子としては物足りない。
それも内容はテニスのことばかり。
生来の性格と相まってプロとして海外生活に踏み出したばかりの彼に余裕などあるはずもないが、それを仕方ないと達観できるほど赤月巴は大人ではない。
14歳の女子の世界は狭く、ドイツだのプロだのと言われてもピンと来ない。
けれども16歳の彼はその場所に今現在立っている。
自分の世界観を超えた遠い場所に。
---
越前家は既に夕食を終え、居間のテレビは世界の天気予報を映していた。
巴は食後の作業━━━編み物の手を止めて、テレビに集中する。
それは手塚国光がドイツへと旅立っていった日から続いている習慣だ。
巴がドイツの天気を知ったところで何が出来る訳でもない。
雨が降ったからといって傘を用意することも、暑いからといって水を用意することも。
ドイツの天気はここ1~2週間ほど冷え込みが続いているようだ。
ヨーロッパの石畳は冷え込むと聞いたが、風邪などひいていないだろうか。
自己管理の徹底している彼に限ってそんなことはあり得ないとは誰よりも分かっているつもりだが、それでも心配だ。
その気持ちを先日メールに託したものの、彼からの返事は『自分のことよりもお前こそ気を付けた方がいいだろう』との事だった。
都会に出て行った息子を心配する母親の気持ちとは、それよりも岐阜から東京に送り出してくれた父・京四郎の気持ちとはこんなカンジなのだろうか。
今年の春に一時帰国した彼と気持ちが通じ合ったと思っていたのだが、通じ合う前よりも片想い感が強いのは何故なんだろう。
世界の天気予報が世界の金融情報へと変わった瞬間に隣に座る越前の手がリモコンに伸びる。
切り替えられたのは年末特番特有のお笑い芸人達が大集合したニギヤカな番組だ。
目の前では薄ら寒い笑いが繰り広げられている。
「お前さあ、そんなに陰鬱とした目でテレビ見てるくらいだったら、会ってくれば?」
公園にでも散歩に行けばと言うような気軽さでリョーマは巴にそう言った。
帰国子女でプロを視野に入れている彼にとっての世界は広い。
巴が考えたこともなかったドイツ行きをさも簡単そうに語る。
「もう、簡単に言わないでよ。
ドイツに行くなんてリョーマくんが思うほど簡単な事じゃないよ」
巴の現実としては、当然簡単なことではない。
中学生女子が好きな男を追っかけてドイツくんだりまで行けるはずがない。
「ま、それもそうだね、お前自身がそう思ってるんなら仕方ないよね」
「どういうことよ?リョーマくん?」
その思わせぶりな言葉にはなにか裏があるのでは。
野生のカンといわれることがしばしばだが、こういう時のカンを外さないのが巴のセールスポイントのひとつだ。
手に持っていた編み棒をメキメキといわせながら、リョーマを問いつめる。
編み棒に繋がった筒状の、それ単体では何かわかりにくい作品がぶらんと揺れる。
「言わないと、リョーマくんのプライベート有ること無いこと朋ちゃんに言ってやる!」
「なっ……いっいいよ、すればいいじゃん」
目の前の動揺した表情を見れば答えは一目瞭然なのに、強がる言葉を述べる。
「かっわいくないなあ、リョーマくんは。呪ってやる」
憮然とした表情で心底憎々しげに巴は声を出した。
その迫力に押されたのか、リョーマは思いがけないことを巴に告げた。
「可愛くなくて結構。お前みたいに手塚先輩に好かれたいとかそんなこと全く思ってないし。
ていうか、あの人が帰国してる事、お前知らなかったワケ?」
その思いも寄らぬ言葉に巴の頭は真っ白になった。
毎日とりとめのないメールを送っているが、手塚の返事に帰国という文字はなかった。
というよりも、よく考えてみれば先週から返事がない。
それに、誰からも教えてもらえなかった。
リョーマでさえ知っているというのに。
それなら、自分の立場は何なのだろうか。
たとえ単なる後輩だったとしても、もうちょっとせめて連絡くらいあってもいいのではないだろうか。
まなじりに熱いものがじわりと湧いてくる。
「ちょっ……ちょっと! 俺はたまたま大石先輩に聞いただけだからね。
直接手塚部長に聞いた訳じゃないし、俺を恨むなよ!」
巴の涙に動揺して、慌ててリョーマは言い訳を口走る。
リョーマにしたって、こんな情報くらい巴は知っていると思っていた。
だからあえて話題にすることでもないと思っていたのだ。
確かに二人が会ったとか、そういう話をサッパリ聞かないことについては不審に思っていたけれども、そこまで気にする義理はないと傍観を決め込んでいた。
さて、何と言って巴を慰めるべきなのか。
リョーマが思案していると突如巴は立ち上がって、編み物を握ったまま部屋を飛び出した。
「おい、赤月!」
「ちょっと出掛けてくるから!」
コートも着ず、室内着にしているトレーニングジャージのまま巴は外に飛び出していった。
もちろん、トレーニングジャージならそのまま外に出てもおかしい格好ではないが、年の瀬にその格好では些か薄着過ぎる。普通の人なら風邪をひいてしまうかもしれない。
「まあ……あいつなら風邪はひかないか」
普段の走り込みを思えば。
どうせ夜道を全速力で走るのだろう。想い人の自宅まで。
それなら寒さなど感じないし、じきに全身汗だくになるだろう。
---
リョーマの予想通り、全身に汗をかきながら『手塚』と表札に書かれた門扉の前に到着した。
門の奥に佇む立派な家屋には煌々と明かりがついており、誰かが在宅中であることは容易に分かった。
勢いに任せて走ってきたので、携帯電話を自宅に置いてきてしまった巴は手塚をどう呼び出そうかと悩む。
インターフォンを鳴らすことは、少し高いハードルだ。
軽く三分ほど門前をうろついて考えたがそれ以外に方法がある訳もなく、思い切って人差し指を伸ばす。
ボタンが指に触れようとしたその時、期せずして門の奥の玄関が開かれた。
そして奥から出てきたその人物と目があった。
「母が可愛い不審者がうろついていると言っていたが……お前のことだったのか、赤月」
それは、実家の父よりも強く会いたいと思っていた相手だった。
巴が手塚の姿を確認して晴れ晴れとした表情になった一方、少し呆れた表情で巴を不審者呼ばわりする手塚からは、僅かながらの感情の揺れも確認できない。
そのことに巴は気付き少々ガッカリする。
いつもと全く変わらない表情で門を出て、巴の前に手塚は立った。
自分はこんなにも会いたくて、会えてとても嬉しいのに。
帰国を自分に教えなかったのは会いたくないからだったのだ思うに至る。
せっかくの再会に冷静なのはそのせいなのだろう。
想いが通じ合っていると思っていたのは自分の勘違いだったのだ。
その勘違いを春から半年以上ひたすら引きずって浮かれていた自分はなんて愚かなのだろうと思う。
肩をあからさまに落とし、「すみません、手塚先輩」と目の前に立つ当の人物に謝罪する。
町内20周を言い渡されるかもしれない、いやその前に迷惑だと嫌悪感を表されるかもしれない。
けれども、そんな決定的な言葉など巴は聞きたくなかったので、頭を下げつつ一気に言葉を吐いた。
「私、いままで手塚先輩が帰国していたことを知らなくて、さっき知ってどうしても会いたくなってここまで走ってきたんですけど……こんな夜にアポもなくて、ごめんなさい。そ、そりゃあ、手塚先輩も迷惑ですよね。帰国を知らせていない相手が勝手に押し掛けてきて家の前をうろうろして本当に不審者だし、お母様だって不安になるし、それ以前に毎日のようにメールなんかしちゃうストーカーだし、多分先輩にしてみればただの後輩なんだろうし、あーーーーもーーーー、何言ってるんだか自分でも分からないので、帰ります!今のことは忘れて下さい!もう私のことも忘れて下さって構わないですから━━━」
久しぶりに見た手塚に名残惜しさを感じながらもくるりと後ろを向き、巴はそのまま帰宅の体勢に入る。
これ以上彼に迷惑をかけてはいけないのだと、そればかりを思う。
「もう、私も手塚先輩は『ただの先輩』なんだって思うことにしますから…………っ」
完全に話を終えないままに駆け出す体勢をとった瞬間に、「待て」と左手をガシッと掴まれた。
その勢いで身体はくるりと回り、やっとの思いで背を向けた手塚と再び顔を合わせることになってしまった。
「『ただの先輩』なのだと思うのなら町内20周行ってもらうぞ」
ここは笑うところなのだろうか、手塚が巴に向かっていった言葉の真意を測りかねてぽかんとしてしまう。
すぐに左手から離れた手塚の感触を惜しみながら。
「自分勝手に一方的に喋って帰ってしまうなんて卑怯も良いところだ。誰が迷惑だなどと言った? 母も不審者とは確かに言ったが『可愛い不審者』だと言ったろう、お前のことを知っていてあえて言ったに決まっている。毎日送られてくるメールだってお前からなら嬉しいに決まっているし活力にもなる。それに『忘れろ』とはどういう事だ、ふざけるな。ストーカー? 上等だ」
手塚も巴に対抗するかのように、それとも巴に逃げられることを恐れるかのように自分の気持ちを一気に吐露する。
まるで突如嵐に見舞われたような気分になって巴は手塚を見る。
言葉のなかにほのめかされたものにも気付かずに。
「こんなによく喋る先輩を初めて見ました」
もうちょっと気の利いた言葉が言えればいいのだが、ようやく巴の口から出てきた言葉は単なるしかも的はずれな感想だった。
「俺だって必死なんだ饒舌にもなる」
特になにか表情を変えることもなく手塚は巴の言葉に誠実に返答した。
そのあたりが手塚らしい手塚だった。
「必死……? だって、私、手塚先輩の気持ちが分かりません。
帰国のことだって他の人から聞かされる位だしどうでもいいんだとばかり。
それにクリスマスカードだって送ったのに何のリアクションもないし」
無愛想だし、甘い言葉だって言われたことはないし、メールの返事も簡潔だ。
それなのにこの人は今になってなにが必死だと言うんだろう。
ついつい手塚を責めるような口調になる。
これまでの状況から言って、春にちょっと甘い雰囲気になった方が不思議なくらいだ。
奇跡的すぎる。
巴の口調に珍しく気まずそうに表情を崩して手塚は口を開いた。
「それはだな……帰国のことについては24日に成田に到着したが、お前にはテニス部のクリスマス会があるだろう?
帰国を知らせると迎えに来るかもしれないし、そうするとお前の負担になると思って事前に言えなかった。
それに……携帯電話をドイツに置いてきてしまったことに帰国後気付いてメールも送れず、そのまま無精してしまった。すまない」
珍しく言い訳がましくも本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
いつも正しく誠実に生きる彼にはこのように頭を下げる場面などほとんどないので、巴は初めて見る彼の姿に驚きを隠せずうろたえる。
「そ、そんな……頭を下げるほどの事じゃあ……」
「いや、頭を下げるだけで済む事じゃないだろう?
無精をしただけでなく、実際のところ俺はお前に会うのが恐くて避けていたのだからな」
「え?」
ドキッと胸が大きく跳ねる。
そうかもしれないとは思っていたが、実際避けていたと彼自身の口から告白されるのはキツイ。
思わずギュッと目を閉じて身を竦めた。
こうすることで僅かでもダメージが減少できるかのように。
「半年以上お前に会わなかった時間が俺を臆病にさせるんだ。
毎日メールは来るけれども、ただの先輩の俺に向けてのメールだったら?
実際に会ったお前がすでに俺ではなく他の奴を見ていたら?
さすがにそんな事を正気で受け入れることは出来ないだろうからな」
再びドキッと胸が大きく跳ねる。先ほどとは違う意味で。
あの手塚国光が自分に向かって何を言っているのだろう。
臆病?彼にそんなところがあるとは思えない。
それも巴自身に関してのことで。
あまりの告白に先ほど身を竦めたまま固まって動けない。
その氷のようなガチガチの巴を解凍するかのように手塚は上から覆い被さった。
絶賛成長中の手塚は春に別れたときよりもまた少し背が伸びていて、本当の意味で覆い被さるような格好だ。
こうなることで巴の身体は一層固まる。
もう声も出ないし、何が起こっているのか理解することも敵わない。
「こんな俺だが……、それでもお前は俺の元に走ってきてくれたんだな。
俺でさえも不安だったんだから、お前にとってはもっと不安だったろう。
迷惑だとかそんなことはお前の見当違いで、俺自身に問題と責任がある。
悪かったな、赤月。ありがとう」
手塚の言葉が染みこんでくる。
まるで全身にお湯をかけられたかのように熱く、身も心も解けていくように感じた。
やっとのことで、手塚の腕の中しきりに頷いた。
そして手塚の顔を見上げて笑った。
「先輩、やっぱり今日は饒舌ですね。
こんなに先輩の長い話を聞くのは初めてかもしれません」
こんなときにかける言葉としては不適当かもしれないが、やはり感想としてはこれしか出てこなかった。
巴は手塚が悪いと思ったことなどこれっぽっちもなかったし、だから本当は謝罪など欲しくはなかった。
ただ、手塚が懺悔することを突っぱねる気もなかった。
それで彼の気が晴れるというのならばいくらでもすればいいと思う。
自分の気持ちはいつだってひとつで固まっているのだから。
これもまた珍しく手塚は屈託のない笑顔で巴の言葉に応えた。
「まあ、ドイツでは滅多に日本語を話すことはないからな。
それにお前に話しかけるとなるとテンションが高くなっても仕方がない。
好きな相手を目の前にしてそういうことになるのは……世間では普通のことなのだろう?」
解凍する熱が高温すぎたのか、巴は全身が燃え上がるように感じた。
冷静に考えれば今の体勢自体が相当燃料ではあるけれども、手塚が直接自分の気持ちを口にする以上の燃料があるだろうか。
なにしろ、普段のメールは一行メールの男が語る言葉なのだ。
その貴重な言葉のひとつひとつを大事に巴は記憶に刻みつける。
ふと、自分の右手に握りしめていた物を思い出す。
越前家を飛び出すときにそのまま握りしめていた編み物だ。
そっと手塚から身を離して、右手を掲げる。
「先輩、これ、なんだと思いますか?」
「なんだ? これは━━━編み物だな」
急に巴に話題を変えられたことに少々戸惑いながら生真面目に答える。
「はい、そうですよ。ドイツは寒いから……完成したら先輩に送ろうと思ってたんです。帰国のことを知っていたら、なにがなんでも頑張って完成させたのに!」
「それは……すまなかった」
「本当にそうですよ、待つ身にもなって下さいよ。
あっ、待っててくれなんて言わなかった~なんて言葉はナシですよ」
手塚が言いそうなセリフを巴は先に封じた。
しかし、手塚はその言葉を否定した。
「そんなこと今となっては言わないし言えないな。
嫌になっても、悪いがお前には待っててもらうぞ。
待てなくなったお前のことを考えるのは精神的な負担でプレイにも影響しかねないからな」
「はい?」と手塚の言葉に目を白黒させてる巴に
「なにしろ、俺は駆け出しのプロテニスプレイヤーだからな、些細なことであれ万難を排したい」
そう付け加えて、もう一度巴をぎゅっと抱きしめた。
やはり二人には身長差があり、それは抱きしめると言うよりは覆い被さるような形だったが二人とも気にしなかった。
「万難を排したいなら……約束してもらえますか?
今度帰国するときは、家族よりとは言いませんからせめて大石先輩よりは早く連絡して下さいね。
もう、他の人から帰国を知らされるのは嫌ですから」
「そう、だな。努力する」
「それと、先輩の無精でせっかくのクリスマスを二人で過ごせなかったんですから埋め合わせして下さいよ」
「ああ、クリスマスのことなら……本当はお前あてのプレゼントを用意していたんだが」
「それは当然いただきますけど、そうじゃなくて。
埋め合わせとして、ドイツにまた行くまで毎日会って下さいね。
私は女子ですから遅れることもあるかもしれませんけど、怒らず待っていてもらいます。
走らせるのもナシですからね。待つ方の気持ちをよ~く噛み締めてもらいますから」
「……それも仕方あるまいな、契約成立だ」
覆い被さる形に重なってひとつになっていた影が一旦ふたつに離れる。
背の高いほうの影は躊躇いがちに身を屈め、ふたつの影は同じ高さに再び重なった。
「せんぱ……っ」
突然のことに声を挙げた巴に、全てを言わせず口の端で笑い手塚は答えた。
「契約書にはサインが必要だろう。なあ、赤月?」
END
けれども、待つなとも言われなかった。
それが不安の種でもあり希望の光でもある。
東京での生活は二年目となり、二度目の全国大会もとっくに終わって、彼が隣に居ない冬が再びやってきた。
きっと彼と出会ってから数えてみると会う時間よりも会わない時間の方が多いはずだ。
東京で出来た知り合いの中で誰よりも顔を会わせていない。
メールなら毎日やりとりしている、と言いたいところだけれども筆無精な彼からの返事はせいぜい週に数回。
しかも、どれも簡潔な返事で健全な中学生女子としては物足りない。
それも内容はテニスのことばかり。
生来の性格と相まってプロとして海外生活に踏み出したばかりの彼に余裕などあるはずもないが、それを仕方ないと達観できるほど赤月巴は大人ではない。
14歳の女子の世界は狭く、ドイツだのプロだのと言われてもピンと来ない。
けれども16歳の彼はその場所に今現在立っている。
自分の世界観を超えた遠い場所に。
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越前家は既に夕食を終え、居間のテレビは世界の天気予報を映していた。
巴は食後の作業━━━編み物の手を止めて、テレビに集中する。
それは手塚国光がドイツへと旅立っていった日から続いている習慣だ。
巴がドイツの天気を知ったところで何が出来る訳でもない。
雨が降ったからといって傘を用意することも、暑いからといって水を用意することも。
ドイツの天気はここ1~2週間ほど冷え込みが続いているようだ。
ヨーロッパの石畳は冷え込むと聞いたが、風邪などひいていないだろうか。
自己管理の徹底している彼に限ってそんなことはあり得ないとは誰よりも分かっているつもりだが、それでも心配だ。
その気持ちを先日メールに託したものの、彼からの返事は『自分のことよりもお前こそ気を付けた方がいいだろう』との事だった。
都会に出て行った息子を心配する母親の気持ちとは、それよりも岐阜から東京に送り出してくれた父・京四郎の気持ちとはこんなカンジなのだろうか。
今年の春に一時帰国した彼と気持ちが通じ合ったと思っていたのだが、通じ合う前よりも片想い感が強いのは何故なんだろう。
世界の天気予報が世界の金融情報へと変わった瞬間に隣に座る越前の手がリモコンに伸びる。
切り替えられたのは年末特番特有のお笑い芸人達が大集合したニギヤカな番組だ。
目の前では薄ら寒い笑いが繰り広げられている。
「お前さあ、そんなに陰鬱とした目でテレビ見てるくらいだったら、会ってくれば?」
公園にでも散歩に行けばと言うような気軽さでリョーマは巴にそう言った。
帰国子女でプロを視野に入れている彼にとっての世界は広い。
巴が考えたこともなかったドイツ行きをさも簡単そうに語る。
「もう、簡単に言わないでよ。
ドイツに行くなんてリョーマくんが思うほど簡単な事じゃないよ」
巴の現実としては、当然簡単なことではない。
中学生女子が好きな男を追っかけてドイツくんだりまで行けるはずがない。
「ま、それもそうだね、お前自身がそう思ってるんなら仕方ないよね」
「どういうことよ?リョーマくん?」
その思わせぶりな言葉にはなにか裏があるのでは。
野生のカンといわれることがしばしばだが、こういう時のカンを外さないのが巴のセールスポイントのひとつだ。
手に持っていた編み棒をメキメキといわせながら、リョーマを問いつめる。
編み棒に繋がった筒状の、それ単体では何かわかりにくい作品がぶらんと揺れる。
「言わないと、リョーマくんのプライベート有ること無いこと朋ちゃんに言ってやる!」
「なっ……いっいいよ、すればいいじゃん」
目の前の動揺した表情を見れば答えは一目瞭然なのに、強がる言葉を述べる。
「かっわいくないなあ、リョーマくんは。呪ってやる」
憮然とした表情で心底憎々しげに巴は声を出した。
その迫力に押されたのか、リョーマは思いがけないことを巴に告げた。
「可愛くなくて結構。お前みたいに手塚先輩に好かれたいとかそんなこと全く思ってないし。
ていうか、あの人が帰国してる事、お前知らなかったワケ?」
その思いも寄らぬ言葉に巴の頭は真っ白になった。
毎日とりとめのないメールを送っているが、手塚の返事に帰国という文字はなかった。
というよりも、よく考えてみれば先週から返事がない。
それに、誰からも教えてもらえなかった。
リョーマでさえ知っているというのに。
それなら、自分の立場は何なのだろうか。
たとえ単なる後輩だったとしても、もうちょっとせめて連絡くらいあってもいいのではないだろうか。
まなじりに熱いものがじわりと湧いてくる。
「ちょっ……ちょっと! 俺はたまたま大石先輩に聞いただけだからね。
直接手塚部長に聞いた訳じゃないし、俺を恨むなよ!」
巴の涙に動揺して、慌ててリョーマは言い訳を口走る。
リョーマにしたって、こんな情報くらい巴は知っていると思っていた。
だからあえて話題にすることでもないと思っていたのだ。
確かに二人が会ったとか、そういう話をサッパリ聞かないことについては不審に思っていたけれども、そこまで気にする義理はないと傍観を決め込んでいた。
さて、何と言って巴を慰めるべきなのか。
リョーマが思案していると突如巴は立ち上がって、編み物を握ったまま部屋を飛び出した。
「おい、赤月!」
「ちょっと出掛けてくるから!」
コートも着ず、室内着にしているトレーニングジャージのまま巴は外に飛び出していった。
もちろん、トレーニングジャージならそのまま外に出てもおかしい格好ではないが、年の瀬にその格好では些か薄着過ぎる。普通の人なら風邪をひいてしまうかもしれない。
「まあ……あいつなら風邪はひかないか」
普段の走り込みを思えば。
どうせ夜道を全速力で走るのだろう。想い人の自宅まで。
それなら寒さなど感じないし、じきに全身汗だくになるだろう。
---
リョーマの予想通り、全身に汗をかきながら『手塚』と表札に書かれた門扉の前に到着した。
門の奥に佇む立派な家屋には煌々と明かりがついており、誰かが在宅中であることは容易に分かった。
勢いに任せて走ってきたので、携帯電話を自宅に置いてきてしまった巴は手塚をどう呼び出そうかと悩む。
インターフォンを鳴らすことは、少し高いハードルだ。
軽く三分ほど門前をうろついて考えたがそれ以外に方法がある訳もなく、思い切って人差し指を伸ばす。
ボタンが指に触れようとしたその時、期せずして門の奥の玄関が開かれた。
そして奥から出てきたその人物と目があった。
「母が可愛い不審者がうろついていると言っていたが……お前のことだったのか、赤月」
それは、実家の父よりも強く会いたいと思っていた相手だった。
巴が手塚の姿を確認して晴れ晴れとした表情になった一方、少し呆れた表情で巴を不審者呼ばわりする手塚からは、僅かながらの感情の揺れも確認できない。
そのことに巴は気付き少々ガッカリする。
いつもと全く変わらない表情で門を出て、巴の前に手塚は立った。
自分はこんなにも会いたくて、会えてとても嬉しいのに。
帰国を自分に教えなかったのは会いたくないからだったのだ思うに至る。
せっかくの再会に冷静なのはそのせいなのだろう。
想いが通じ合っていると思っていたのは自分の勘違いだったのだ。
その勘違いを春から半年以上ひたすら引きずって浮かれていた自分はなんて愚かなのだろうと思う。
肩をあからさまに落とし、「すみません、手塚先輩」と目の前に立つ当の人物に謝罪する。
町内20周を言い渡されるかもしれない、いやその前に迷惑だと嫌悪感を表されるかもしれない。
けれども、そんな決定的な言葉など巴は聞きたくなかったので、頭を下げつつ一気に言葉を吐いた。
「私、いままで手塚先輩が帰国していたことを知らなくて、さっき知ってどうしても会いたくなってここまで走ってきたんですけど……こんな夜にアポもなくて、ごめんなさい。そ、そりゃあ、手塚先輩も迷惑ですよね。帰国を知らせていない相手が勝手に押し掛けてきて家の前をうろうろして本当に不審者だし、お母様だって不安になるし、それ以前に毎日のようにメールなんかしちゃうストーカーだし、多分先輩にしてみればただの後輩なんだろうし、あーーーーもーーーー、何言ってるんだか自分でも分からないので、帰ります!今のことは忘れて下さい!もう私のことも忘れて下さって構わないですから━━━」
久しぶりに見た手塚に名残惜しさを感じながらもくるりと後ろを向き、巴はそのまま帰宅の体勢に入る。
これ以上彼に迷惑をかけてはいけないのだと、そればかりを思う。
「もう、私も手塚先輩は『ただの先輩』なんだって思うことにしますから…………っ」
完全に話を終えないままに駆け出す体勢をとった瞬間に、「待て」と左手をガシッと掴まれた。
その勢いで身体はくるりと回り、やっとの思いで背を向けた手塚と再び顔を合わせることになってしまった。
「『ただの先輩』なのだと思うのなら町内20周行ってもらうぞ」
ここは笑うところなのだろうか、手塚が巴に向かっていった言葉の真意を測りかねてぽかんとしてしまう。
すぐに左手から離れた手塚の感触を惜しみながら。
「自分勝手に一方的に喋って帰ってしまうなんて卑怯も良いところだ。誰が迷惑だなどと言った? 母も不審者とは確かに言ったが『可愛い不審者』だと言ったろう、お前のことを知っていてあえて言ったに決まっている。毎日送られてくるメールだってお前からなら嬉しいに決まっているし活力にもなる。それに『忘れろ』とはどういう事だ、ふざけるな。ストーカー? 上等だ」
手塚も巴に対抗するかのように、それとも巴に逃げられることを恐れるかのように自分の気持ちを一気に吐露する。
まるで突如嵐に見舞われたような気分になって巴は手塚を見る。
言葉のなかにほのめかされたものにも気付かずに。
「こんなによく喋る先輩を初めて見ました」
もうちょっと気の利いた言葉が言えればいいのだが、ようやく巴の口から出てきた言葉は単なるしかも的はずれな感想だった。
「俺だって必死なんだ饒舌にもなる」
特になにか表情を変えることもなく手塚は巴の言葉に誠実に返答した。
そのあたりが手塚らしい手塚だった。
「必死……? だって、私、手塚先輩の気持ちが分かりません。
帰国のことだって他の人から聞かされる位だしどうでもいいんだとばかり。
それにクリスマスカードだって送ったのに何のリアクションもないし」
無愛想だし、甘い言葉だって言われたことはないし、メールの返事も簡潔だ。
それなのにこの人は今になってなにが必死だと言うんだろう。
ついつい手塚を責めるような口調になる。
これまでの状況から言って、春にちょっと甘い雰囲気になった方が不思議なくらいだ。
奇跡的すぎる。
巴の口調に珍しく気まずそうに表情を崩して手塚は口を開いた。
「それはだな……帰国のことについては24日に成田に到着したが、お前にはテニス部のクリスマス会があるだろう?
帰国を知らせると迎えに来るかもしれないし、そうするとお前の負担になると思って事前に言えなかった。
それに……携帯電話をドイツに置いてきてしまったことに帰国後気付いてメールも送れず、そのまま無精してしまった。すまない」
珍しく言い訳がましくも本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
いつも正しく誠実に生きる彼にはこのように頭を下げる場面などほとんどないので、巴は初めて見る彼の姿に驚きを隠せずうろたえる。
「そ、そんな……頭を下げるほどの事じゃあ……」
「いや、頭を下げるだけで済む事じゃないだろう?
無精をしただけでなく、実際のところ俺はお前に会うのが恐くて避けていたのだからな」
「え?」
ドキッと胸が大きく跳ねる。
そうかもしれないとは思っていたが、実際避けていたと彼自身の口から告白されるのはキツイ。
思わずギュッと目を閉じて身を竦めた。
こうすることで僅かでもダメージが減少できるかのように。
「半年以上お前に会わなかった時間が俺を臆病にさせるんだ。
毎日メールは来るけれども、ただの先輩の俺に向けてのメールだったら?
実際に会ったお前がすでに俺ではなく他の奴を見ていたら?
さすがにそんな事を正気で受け入れることは出来ないだろうからな」
再びドキッと胸が大きく跳ねる。先ほどとは違う意味で。
あの手塚国光が自分に向かって何を言っているのだろう。
臆病?彼にそんなところがあるとは思えない。
それも巴自身に関してのことで。
あまりの告白に先ほど身を竦めたまま固まって動けない。
その氷のようなガチガチの巴を解凍するかのように手塚は上から覆い被さった。
絶賛成長中の手塚は春に別れたときよりもまた少し背が伸びていて、本当の意味で覆い被さるような格好だ。
こうなることで巴の身体は一層固まる。
もう声も出ないし、何が起こっているのか理解することも敵わない。
「こんな俺だが……、それでもお前は俺の元に走ってきてくれたんだな。
俺でさえも不安だったんだから、お前にとってはもっと不安だったろう。
迷惑だとかそんなことはお前の見当違いで、俺自身に問題と責任がある。
悪かったな、赤月。ありがとう」
手塚の言葉が染みこんでくる。
まるで全身にお湯をかけられたかのように熱く、身も心も解けていくように感じた。
やっとのことで、手塚の腕の中しきりに頷いた。
そして手塚の顔を見上げて笑った。
「先輩、やっぱり今日は饒舌ですね。
こんなに先輩の長い話を聞くのは初めてかもしれません」
こんなときにかける言葉としては不適当かもしれないが、やはり感想としてはこれしか出てこなかった。
巴は手塚が悪いと思ったことなどこれっぽっちもなかったし、だから本当は謝罪など欲しくはなかった。
ただ、手塚が懺悔することを突っぱねる気もなかった。
それで彼の気が晴れるというのならばいくらでもすればいいと思う。
自分の気持ちはいつだってひとつで固まっているのだから。
これもまた珍しく手塚は屈託のない笑顔で巴の言葉に応えた。
「まあ、ドイツでは滅多に日本語を話すことはないからな。
それにお前に話しかけるとなるとテンションが高くなっても仕方がない。
好きな相手を目の前にしてそういうことになるのは……世間では普通のことなのだろう?」
解凍する熱が高温すぎたのか、巴は全身が燃え上がるように感じた。
冷静に考えれば今の体勢自体が相当燃料ではあるけれども、手塚が直接自分の気持ちを口にする以上の燃料があるだろうか。
なにしろ、普段のメールは一行メールの男が語る言葉なのだ。
その貴重な言葉のひとつひとつを大事に巴は記憶に刻みつける。
ふと、自分の右手に握りしめていた物を思い出す。
越前家を飛び出すときにそのまま握りしめていた編み物だ。
そっと手塚から身を離して、右手を掲げる。
「先輩、これ、なんだと思いますか?」
「なんだ? これは━━━編み物だな」
急に巴に話題を変えられたことに少々戸惑いながら生真面目に答える。
「はい、そうですよ。ドイツは寒いから……完成したら先輩に送ろうと思ってたんです。帰国のことを知っていたら、なにがなんでも頑張って完成させたのに!」
「それは……すまなかった」
「本当にそうですよ、待つ身にもなって下さいよ。
あっ、待っててくれなんて言わなかった~なんて言葉はナシですよ」
手塚が言いそうなセリフを巴は先に封じた。
しかし、手塚はその言葉を否定した。
「そんなこと今となっては言わないし言えないな。
嫌になっても、悪いがお前には待っててもらうぞ。
待てなくなったお前のことを考えるのは精神的な負担でプレイにも影響しかねないからな」
「はい?」と手塚の言葉に目を白黒させてる巴に
「なにしろ、俺は駆け出しのプロテニスプレイヤーだからな、些細なことであれ万難を排したい」
そう付け加えて、もう一度巴をぎゅっと抱きしめた。
やはり二人には身長差があり、それは抱きしめると言うよりは覆い被さるような形だったが二人とも気にしなかった。
「万難を排したいなら……約束してもらえますか?
今度帰国するときは、家族よりとは言いませんからせめて大石先輩よりは早く連絡して下さいね。
もう、他の人から帰国を知らされるのは嫌ですから」
「そう、だな。努力する」
「それと、先輩の無精でせっかくのクリスマスを二人で過ごせなかったんですから埋め合わせして下さいよ」
「ああ、クリスマスのことなら……本当はお前あてのプレゼントを用意していたんだが」
「それは当然いただきますけど、そうじゃなくて。
埋め合わせとして、ドイツにまた行くまで毎日会って下さいね。
私は女子ですから遅れることもあるかもしれませんけど、怒らず待っていてもらいます。
走らせるのもナシですからね。待つ方の気持ちをよ~く噛み締めてもらいますから」
「……それも仕方あるまいな、契約成立だ」
覆い被さる形に重なってひとつになっていた影が一旦ふたつに離れる。
背の高いほうの影は躊躇いがちに身を屈め、ふたつの影は同じ高さに再び重なった。
「せんぱ……っ」
突然のことに声を挙げた巴に、全てを言わせず口の端で笑い手塚は答えた。
「契約書にはサインが必要だろう。なあ、赤月?」
END
平静な顔を装って帰宅して、自室に入るなり器用にも顔色を変えた。
人間がここまで赤くなれることなんて滅多にないくらいに。
「なんだったんだろう……今日のアレ」
ルドルフのテニス部員に混じってクリスマス会に参加して。
観月さんの隣に座って、プレゼント交換は観月さんからのものがまわってきて。
一緒に帰って、雪を見て。
ルドルフに転校しないかと誘われた。
うそみたい。
後ろ手に閉めたドアにもたれ掛かり、ぎゅっと頬をつねってみる。
「いったあっい!」
どうやら現実世界の住人らしい。
自分でつねって赤く晴れたヒリヒリする頬をそっとなでて、
その痛みでしかめられた表情は一転して微笑みに変わった。
微笑み、というよりもニヤケ顔と言ったほうがいいのかも。
とにかくまともな表情でいられなかった。
人をまるで自分の持ち駒のように扱う彼が優しくしてくれて、
おまけに自分の元へ来いだなんて言うなんて。
それはなんて愛の告白にも似た甘い言葉だろうか。
もちろん、出会ってから数か月で彼の性格は学んだつもり。
決して一筋縄ではいかない。
転校のことにしたって、自分を都合のよい持ち駒にするための方便にしかすぎないかもしれない。
そんなことは誘われたその場でわかってはいたけど、それでも嬉しい。
単純バカだと謗られたとしてもそんなことはどうでもいいんだよね。
要は、彼がどんな理由であれ自分を欲しているか欲していないか。
それだけのことが重要で。
彼の本心なんて、実際のところどうだっていい。
いまは、なんとしても彼の隣に居座って近い距離をキープしたい。
恋人だとか、パートナーだとか、そんなもの今は気にしない。
そんなものは後からいくらだってついてくる。
つけてみせる。
「あ、ケータイ……?」
不意にブルブルと携帯電話が震えだした。
慌てて開くと、『良い返事、待ってますよ』とだけのメッセージ。
それだけのメッセージなのに、やはり嬉しくて。
思わず保護メールに設定してしまう。
作業を終えて携帯電話を閉じた瞬間に、また再び震え始めた。
『言い忘れてました、おやすみなさい。良い夢を』
こんな日に、良い夢以外見られるはずないと思いながら、これもまた保護。
なんで観月さんはこんなに私を舞い上がらせるようなことばかりするんだろう。
よくわからないけど。
「ヤバい、嬉しすぎる」
今度は先ほどつねった頬とは反対側の頬をつねってみる。
やっぱり痛い。
両頬がヒリヒリすることに安心した。
ちょっとマゾっぽくもある。
「しまった……眠れないかも」
両頬の痛みによる意識の覚醒と、
今日起こった事による精神的な興奮で
観月さんの言うところの『良い夢』が見られないかもしれない。
ルドルフに転校を決める事への心細さとか、観月さんに心を委ねる不安とか。
そんなことより、いま眠れないことが何よりも大問題に思える。
良い夢って絶対観月さんの夢のはずなのに。
見られないと困るじゃない。
幸せなところに大きな落とし穴がひとつ。
END
人間がここまで赤くなれることなんて滅多にないくらいに。
「なんだったんだろう……今日のアレ」
ルドルフのテニス部員に混じってクリスマス会に参加して。
観月さんの隣に座って、プレゼント交換は観月さんからのものがまわってきて。
一緒に帰って、雪を見て。
ルドルフに転校しないかと誘われた。
うそみたい。
後ろ手に閉めたドアにもたれ掛かり、ぎゅっと頬をつねってみる。
「いったあっい!」
どうやら現実世界の住人らしい。
自分でつねって赤く晴れたヒリヒリする頬をそっとなでて、
その痛みでしかめられた表情は一転して微笑みに変わった。
微笑み、というよりもニヤケ顔と言ったほうがいいのかも。
とにかくまともな表情でいられなかった。
人をまるで自分の持ち駒のように扱う彼が優しくしてくれて、
おまけに自分の元へ来いだなんて言うなんて。
それはなんて愛の告白にも似た甘い言葉だろうか。
もちろん、出会ってから数か月で彼の性格は学んだつもり。
決して一筋縄ではいかない。
転校のことにしたって、自分を都合のよい持ち駒にするための方便にしかすぎないかもしれない。
そんなことは誘われたその場でわかってはいたけど、それでも嬉しい。
単純バカだと謗られたとしてもそんなことはどうでもいいんだよね。
要は、彼がどんな理由であれ自分を欲しているか欲していないか。
それだけのことが重要で。
彼の本心なんて、実際のところどうだっていい。
いまは、なんとしても彼の隣に居座って近い距離をキープしたい。
恋人だとか、パートナーだとか、そんなもの今は気にしない。
そんなものは後からいくらだってついてくる。
つけてみせる。
「あ、ケータイ……?」
不意にブルブルと携帯電話が震えだした。
慌てて開くと、『良い返事、待ってますよ』とだけのメッセージ。
それだけのメッセージなのに、やはり嬉しくて。
思わず保護メールに設定してしまう。
作業を終えて携帯電話を閉じた瞬間に、また再び震え始めた。
『言い忘れてました、おやすみなさい。良い夢を』
こんな日に、良い夢以外見られるはずないと思いながら、これもまた保護。
なんで観月さんはこんなに私を舞い上がらせるようなことばかりするんだろう。
よくわからないけど。
「ヤバい、嬉しすぎる」
今度は先ほどつねった頬とは反対側の頬をつねってみる。
やっぱり痛い。
両頬がヒリヒリすることに安心した。
ちょっとマゾっぽくもある。
「しまった……眠れないかも」
両頬の痛みによる意識の覚醒と、
今日起こった事による精神的な興奮で
観月さんの言うところの『良い夢』が見られないかもしれない。
ルドルフに転校を決める事への心細さとか、観月さんに心を委ねる不安とか。
そんなことより、いま眠れないことが何よりも大問題に思える。
良い夢って絶対観月さんの夢のはずなのに。
見られないと困るじゃない。
幸せなところに大きな落とし穴がひとつ。
END
NENEGARD+の鈴弥さまへの生誕祝い『おとなになれば』の不完全Ver.です。
もちろん、これも単体として読めるようにしておりますが、完全Ver.のほうは当然ながらもうちょっとちゃんとしたオチをつけてありますよ。
自分でも恥ずかしくて照れるくらい甘いオチですが。
***
もちろん、これも単体として読めるようにしておりますが、完全Ver.のほうは当然ながらもうちょっとちゃんとしたオチをつけてありますよ。
自分でも恥ずかしくて照れるくらい甘いオチですが。
***
「大型スポーツ店がターミナル駅のそばに出来たんですが、
練習帰りに一緒に行きますか?」
日曜日の練習後、赤月巴は珍しく観月はじめにそう誘われた。
今年の春出会ってから半年以上経ったが練習後のお誘いは珍しい。
折しも、その日は巴の誕生日で━━━観月どころか周囲の誰からもお祝いはまだもらえていなかったので、これは天から与えられた誕生日祝いにも感じられた。
ましてや、常日頃から淡い気持ちを抱いている観月からのお誘いであれば。
舞い上がった巴は、考える間もなく首を縦に振っていた。
そして、いつも通うテニスクラブでの練習を終えて二人はそのスポーツショップが開店したという駅の改札を出た。
その駅は、田舎から出てきたものが必ず(祭かと思った……)と思うくらい人での多い駅で、東京歴一年未満の巴も例に漏れず流れが掴めず挙動不審になっていた。
改札のある駅ビルの、年末を控えてクリスマス向けに色鮮やかにディスプレイされたいくつもの店舗を物珍しげにキョロキョロと眺めつつ観月の後ろをついて歩いていた。
改札口からは100メートルも離れてはいなかったが、観月と今はぐれたら確実に迷子になるという予感があった。
いや、予感というよりも絶対そうなる自信があった。
それゆえにご自慢の動体視力をフル活動させ観月…店舗…観月と必死に目は捉えていた。
が、ふと巴の目はひとつの店舗に留まった。
それと同時に鼻もなにかを嗅ぎ付けた。
やわらかでいて華やかな、いかにも女性的な香りだった。
それは、目の前のいかにもヨーロッパ然とした小綺麗な店舗から漂ってくる香りで、気付いたら足が店舗の前で止まっていた。
「巴くん?」
急に巴が止まった事に気付いた観月も足を止め、何があったのかと問いかける。
その声で巴は我に返った。
「なんだか良い香りだなって思って、足を止めてスミマセン」
「いえキミも女性ですし、このあたりに興味があっても不思議じゃありませんよ。
ああ、この店ですか」
巴の視線を辿って観月も同じ店舗へと視線を向けた。
「南仏のフレグランスのブランドですね。
スキンケアとかホームフレグランスとか扱っているんですよ」
ボクもいくつか使用したことがありますよ、と言いながら店先に足を向ける。
「え?み、観月さん?」
お店に入るんですか、と観月の行動に少し戸惑いを見せる。
そんな巴の様子にクスリとひとつ笑いこう答えた。
「きっとキミはよほどの機会に恵まれない限り入ろうなんて思わないでしょう?
だから今ボクがその機会を与えてあげますよ」
躊躇する巴を気にせず、観月はスルリと店内に入っていった。
慌てて巴もそれに続く。
決して店に入りたくないというわけではない。むしろその逆だ。
観月が推察したようにそのタイミングが掴めなかっただけなのだ。
「うわぁ……」
巴は店内の雰囲気に圧倒されて思わず口から声がこぼれ出た。
落ち着いた色調で整えられた店内は、ラケットバッグ片手の中学生には似つかわしくないように思われて少し居心地が悪い。
スーツを着た店員が「いらっしゃいませ」と声を掛けてくることにすら緊張する。
まるで、中学生がこんな店に来るなんて似つかわしくないんじゃないか。
そう思って不安げに観月を見るも、観月は堂々とその場に溶け込んでいて、中学生がこの空間にいても少しもおかしいことはないと彼の身体は語っているようだった。
迷い無く商品を手に取っている観月を見て、なるほど確かにこの店の製品を使ったことがあるのだろうと納得する。
そんな彼の背中を眺めて少し安心して、巴も周囲をぐるりと見回す。
店内はスキンケア製品などが香りごとに綺麗に陳列されており、その様々な香りに好奇心が刺激される。
なにかのボトルを真剣に見ている観月を横目にして、まずは店内端から探索を開始した。
取り扱っている香りは巴でも知っている香り━━━例えばラヴェンダー、などもあれば名前すら聞いたことのない香りもあった。
ボディーローションやオードトワレ、様々なテスターが置かれており、それが面白くて片っ端から香りを楽しんだ。
その香りはまだローティーンの巴には早いと思われるものがほとんどだったが、
ちょっと大人の世界を垣間見た気がして、それはそれで面白かった。
とりわけ中でも気に入ったのは薔薇の香りで、安い芳香剤などに使われている香りとは違って自然に近い、それでいて落ち着いた女性らしい香りだった。
そして薔薇の好きな観月の気に入りそうな香りだった。
(こういう香りを身に纏ったら、観月さんも喜んでくれるかな)
なんとなくぼんやりそう考えているときに、当の観月から声がかかった。
「なにか気になる香りでもありましたか?」
ちょうど観月のことを考えているタイミングで本人から声がかかった驚きで、巴は心臓を大きく跳ね上がらせつつ振り返った。
まったく彼は色んな意味で心臓に悪いと思いながら。
観月に言わせればこれはお互い様なのだが、巴はその事をまだ知らない。
「あっ、これ……薔薇の香りなんですよ」
巴はやわらかな芳香を放つボディーローションのテスターのボトルを観月へと向けた。
観月はそのままボトルを受け取るかと思いきや、そのまま鼻をボトルへと寄せる。
まるで、デート中にこの店を訪れたカップルさながらに。
巴の手はそれほど伸びていなかったため、期せず観月の顔が自分へと接近する格好になった。
目の前に揺れる観月の髪は今までにないくらい巴に近かった。
先ほどとは違う意味で心臓をどくどくさせながら、平然を装おうと話を続ける。
しかしながら、話し始めた瞬間に観月の顔は巴の近くから離れ、平静を装う努力はすぐに必要なくなってしまった。
逆にガッカリした表情にならないよう気を付けなければならなかった。
「こんな香りなんて良いかなあって。
ちょっとステキだし買っちゃおうかなあ、なんて思ったりして」
「んふっ、たしかにボクもこの香りは好きですね。でも……」
観月は少し考えるような表情で言葉を濁らせる。
「でも?」と巴は不安げにオウム返しにその言葉の意味を問いかける。
その言葉の意味するところが、良いことなのか悪いことなのか心配で仕方なかった。
「キミには似合いませんね」
きっぱりとそう告げられた。
言葉が深々と巴の心まで突き刺さり、その感情はあからさまに顔に表れてしまった。
それを見て観月もマズイことを口走ってしまったと気付いたのか、
少々驚いたように目を開いて少し考えた後、取り繕うように言葉を紡いだ。
「ちょっと言葉が足りなかったですね。キミが悪いとかそういう事じゃないですよ。
ただ、まだキミにはちょっと早いんですよ。
こういう馥郁とした香りは、どんな女性でももう少し大人にならないと似合いません。
今のキミが付ける香りとしてはあまりにもアンバランスです」
「早い……ですか」
観月のその言葉に少し興味が出て、巴は話の続きを促す。
まだ中1ということもあって、巴はあまり似合う香りだとかそういったことを気にしたことがなかった。
「ええ、簡単に言うなら……そうですね、キミは女性のスーツをどう思いますか?」
突飛な質問に巴は律儀に答える。
「えーと、オトナ?ってカンジですかね。
私にはまだ似合わないかなあ、せいぜい制服程度ですよね……あ」
観月の質問の意図するところに気付いた。
化粧にしろ衣服にしろ、年齢によって似合う似合わないがある。
小学校の時に来ていた服をいま着ても幼稚にしか見えないように、
いま社会人が着るようなスーツを着てもムダに背伸びしたようにしか見えないように。
香りもきっとそうなんだろうと巴は考えた。
これまで興味を持っていなかったので知らなかったが。
「わかりましたか?キミは察しが良いので助かります。
今のキミに似合う香りだってもちろんあるんですから気落ちしないでくださいよ」
そう言いながら、観月は「こっちに来てください」と巴を店の中心にある陳列棚に誘導した。
どうやら期間限定の特設コーナーとなっているらしいその棚には、落ち着いたレモン色の商品が所狭しと並んでいた。
「観月さん、このコーナーは?」
まだ巴がチェックしていなかったコーナーだった。
彼がここに巴を連れてきたのはいったい何のためなのか。
巴はその意図を本人に確認する。
当の観月はスプレー式の小瓶を手に取り、ムエットに中身を吹き付けていた。
「ほら」
観月はそのムエットを巴の鼻先でゆらゆらと振って見せた。
ふんわりと独特のとろりとした甘みと酸っぱい香りが同時に巴の鼻をくすぐった。
「これ、ハニーレモンって香りらしいですよ」と観月は説明した。
「ハニーレモン……たしかに甘いだけでも酸っぱいだけでもない不思議な香りですね」
部活終了後に食べるハニーレモンとも違う丸みのある香りに巴は魅了される。
「そうでしょう?ボクもさっきテスターを嗅いでそう思いましたよ。
こういう爽やかな香りならいまのキミにも似合うと思いますよ、ボクは」
そう言って観月は手にしていたムエットを巴に手渡し、空いた手で商品のボディーローションを手に取る。
「ちょっと待っていてください」と言ってレジへと向かっていった。
個人的な買い物かなと思い、巴はまた店内をぶらつきながら観月の会計を待った。
しばらくしてこの店のショップ袋らしい青い紙袋を下げた彼が戻ってきて、そのまま店を出ることにした。
店から少し離れたところで「これを、キミに」と観月は先ほどの袋を巴に差し出した。
「え?観月さん、それってさっき買ったヤツじゃないですか」
それをどうして自分に渡そうとするのか?その意図を測りかねて巴は混乱する。
その様子は観月には簡単に見て取れた。
自分の誕生日に人から物を差し出されたら普通は誕生日プレゼントだと簡単に気付くだろうが、どうやら巴はそうでないらしかった。
あまりにも自分のことに無頓着すぎる巴に頭痛を覚えながら丁寧に解説してやる。
「今日はキミの誕生日ですよね。さすがにボクだってその位知ってますよ。
本当は目的地のスポーツ用品店でなにか買ってあげようかと思ったんですが、
こっちの方が女性への贈り物なら相応しいですからね」
まだ知り合ってから1年も経っておらず、観月はデータマンとしては少々忸怩たるものがあるが巴の『贈られて嬉しいプレゼント』までは把握していなかった。
贈られて嬉しいかどうか分からないものを人にあげる趣味は観月にはなかったので、今日直接巴の欲しがる物を買って贈ろうと思っていたのだ。
もっとも、そこまで本人に説明する気は毛頭無いのだが。
おずおずと、しかし本当に嬉しそうに紙袋を手に取る巴の表情を見て、満足感が広がる。
「でも、まあ、来年からは現地調達じゃなくて、
あらかじめキミの欲しいものを徹底的にリサーチして贈ることにしますよ」
「えっ!いいんですか?」
観月の発言に目を丸くして巴は応える。
『来年からは』という言葉は、どういう形であれ長く関わりたいという意思の現れだ。
他人をゲームの駒として扱うような冷淡な面がある彼が、自分と長く関わりたいと思ってくれていることに驚きを覚える。
「別に、驚くことはないでしょう?同じテニスクラブで練習する仲間なんですから、どちらかが辞めない限りは今年限りのお付き合いという訳でもないでしょう」
『仲間』という言葉には落胆せずにはいられなかったが、それでもこの先があることを巴は素直に喜んだ。
嬉しくて、紙袋を胸に抱きしめて、笑う。
気恥ずかしさで、観月の少し前を歩き始めた。
目的地のスポーツ用品店がどこにあるかは分かっていないが、間違っていたら後ろの観月が声を掛けるだろうからそのまま進む。
観月の言葉は、この短い間でもいろいろあったがそれでも全面的に信用している。
だから『来年からは』という言葉も信じる。
信じたい。
「━━━いつか」
言いにくそうに小さな声で観月が声を出す。
雑踏に紛れるか紛れないか、ギリギリの声で。
「いつか、キミが大人になって、あの店の薔薇の香りが似合うような女性になったら、
その時は是非ともボクにあの香りをキミに贈らせて下さい」
背後から聞こえる観月の声は、あまりにも巴自身に都合の良い言葉で信じられない思いだった。
だから、きっとプレゼントで嬉しさが突き抜けすぎたための幻聴なんだと疑った。
観月が自分に向かってそんなことを言うなんて、都合のいい夢でしかないと。
「ボクの、一番好みの香りですから是非キミに身に纏ってもらいたいんです」
そのあと続けられた言葉は、観月の普段の声からしてもあまりにも小さく、
そして周囲のざわめき、巴自信の感情のオーバーフローによって彼女の耳には届かなかった。
正確に言えば、聴力にも自信がある巴の耳には届いていたが現実の物として認識されず、
この後随分長い間、自分自身の妄想と言うことで処理されていた。
END
練習帰りに一緒に行きますか?」
日曜日の練習後、赤月巴は珍しく観月はじめにそう誘われた。
今年の春出会ってから半年以上経ったが練習後のお誘いは珍しい。
折しも、その日は巴の誕生日で━━━観月どころか周囲の誰からもお祝いはまだもらえていなかったので、これは天から与えられた誕生日祝いにも感じられた。
ましてや、常日頃から淡い気持ちを抱いている観月からのお誘いであれば。
舞い上がった巴は、考える間もなく首を縦に振っていた。
そして、いつも通うテニスクラブでの練習を終えて二人はそのスポーツショップが開店したという駅の改札を出た。
その駅は、田舎から出てきたものが必ず(祭かと思った……)と思うくらい人での多い駅で、東京歴一年未満の巴も例に漏れず流れが掴めず挙動不審になっていた。
改札のある駅ビルの、年末を控えてクリスマス向けに色鮮やかにディスプレイされたいくつもの店舗を物珍しげにキョロキョロと眺めつつ観月の後ろをついて歩いていた。
改札口からは100メートルも離れてはいなかったが、観月と今はぐれたら確実に迷子になるという予感があった。
いや、予感というよりも絶対そうなる自信があった。
それゆえにご自慢の動体視力をフル活動させ観月…店舗…観月と必死に目は捉えていた。
が、ふと巴の目はひとつの店舗に留まった。
それと同時に鼻もなにかを嗅ぎ付けた。
やわらかでいて華やかな、いかにも女性的な香りだった。
それは、目の前のいかにもヨーロッパ然とした小綺麗な店舗から漂ってくる香りで、気付いたら足が店舗の前で止まっていた。
「巴くん?」
急に巴が止まった事に気付いた観月も足を止め、何があったのかと問いかける。
その声で巴は我に返った。
「なんだか良い香りだなって思って、足を止めてスミマセン」
「いえキミも女性ですし、このあたりに興味があっても不思議じゃありませんよ。
ああ、この店ですか」
巴の視線を辿って観月も同じ店舗へと視線を向けた。
「南仏のフレグランスのブランドですね。
スキンケアとかホームフレグランスとか扱っているんですよ」
ボクもいくつか使用したことがありますよ、と言いながら店先に足を向ける。
「え?み、観月さん?」
お店に入るんですか、と観月の行動に少し戸惑いを見せる。
そんな巴の様子にクスリとひとつ笑いこう答えた。
「きっとキミはよほどの機会に恵まれない限り入ろうなんて思わないでしょう?
だから今ボクがその機会を与えてあげますよ」
躊躇する巴を気にせず、観月はスルリと店内に入っていった。
慌てて巴もそれに続く。
決して店に入りたくないというわけではない。むしろその逆だ。
観月が推察したようにそのタイミングが掴めなかっただけなのだ。
「うわぁ……」
巴は店内の雰囲気に圧倒されて思わず口から声がこぼれ出た。
落ち着いた色調で整えられた店内は、ラケットバッグ片手の中学生には似つかわしくないように思われて少し居心地が悪い。
スーツを着た店員が「いらっしゃいませ」と声を掛けてくることにすら緊張する。
まるで、中学生がこんな店に来るなんて似つかわしくないんじゃないか。
そう思って不安げに観月を見るも、観月は堂々とその場に溶け込んでいて、中学生がこの空間にいても少しもおかしいことはないと彼の身体は語っているようだった。
迷い無く商品を手に取っている観月を見て、なるほど確かにこの店の製品を使ったことがあるのだろうと納得する。
そんな彼の背中を眺めて少し安心して、巴も周囲をぐるりと見回す。
店内はスキンケア製品などが香りごとに綺麗に陳列されており、その様々な香りに好奇心が刺激される。
なにかのボトルを真剣に見ている観月を横目にして、まずは店内端から探索を開始した。
取り扱っている香りは巴でも知っている香り━━━例えばラヴェンダー、などもあれば名前すら聞いたことのない香りもあった。
ボディーローションやオードトワレ、様々なテスターが置かれており、それが面白くて片っ端から香りを楽しんだ。
その香りはまだローティーンの巴には早いと思われるものがほとんどだったが、
ちょっと大人の世界を垣間見た気がして、それはそれで面白かった。
とりわけ中でも気に入ったのは薔薇の香りで、安い芳香剤などに使われている香りとは違って自然に近い、それでいて落ち着いた女性らしい香りだった。
そして薔薇の好きな観月の気に入りそうな香りだった。
(こういう香りを身に纏ったら、観月さんも喜んでくれるかな)
なんとなくぼんやりそう考えているときに、当の観月から声がかかった。
「なにか気になる香りでもありましたか?」
ちょうど観月のことを考えているタイミングで本人から声がかかった驚きで、巴は心臓を大きく跳ね上がらせつつ振り返った。
まったく彼は色んな意味で心臓に悪いと思いながら。
観月に言わせればこれはお互い様なのだが、巴はその事をまだ知らない。
「あっ、これ……薔薇の香りなんですよ」
巴はやわらかな芳香を放つボディーローションのテスターのボトルを観月へと向けた。
観月はそのままボトルを受け取るかと思いきや、そのまま鼻をボトルへと寄せる。
まるで、デート中にこの店を訪れたカップルさながらに。
巴の手はそれほど伸びていなかったため、期せず観月の顔が自分へと接近する格好になった。
目の前に揺れる観月の髪は今までにないくらい巴に近かった。
先ほどとは違う意味で心臓をどくどくさせながら、平然を装おうと話を続ける。
しかしながら、話し始めた瞬間に観月の顔は巴の近くから離れ、平静を装う努力はすぐに必要なくなってしまった。
逆にガッカリした表情にならないよう気を付けなければならなかった。
「こんな香りなんて良いかなあって。
ちょっとステキだし買っちゃおうかなあ、なんて思ったりして」
「んふっ、たしかにボクもこの香りは好きですね。でも……」
観月は少し考えるような表情で言葉を濁らせる。
「でも?」と巴は不安げにオウム返しにその言葉の意味を問いかける。
その言葉の意味するところが、良いことなのか悪いことなのか心配で仕方なかった。
「キミには似合いませんね」
きっぱりとそう告げられた。
言葉が深々と巴の心まで突き刺さり、その感情はあからさまに顔に表れてしまった。
それを見て観月もマズイことを口走ってしまったと気付いたのか、
少々驚いたように目を開いて少し考えた後、取り繕うように言葉を紡いだ。
「ちょっと言葉が足りなかったですね。キミが悪いとかそういう事じゃないですよ。
ただ、まだキミにはちょっと早いんですよ。
こういう馥郁とした香りは、どんな女性でももう少し大人にならないと似合いません。
今のキミが付ける香りとしてはあまりにもアンバランスです」
「早い……ですか」
観月のその言葉に少し興味が出て、巴は話の続きを促す。
まだ中1ということもあって、巴はあまり似合う香りだとかそういったことを気にしたことがなかった。
「ええ、簡単に言うなら……そうですね、キミは女性のスーツをどう思いますか?」
突飛な質問に巴は律儀に答える。
「えーと、オトナ?ってカンジですかね。
私にはまだ似合わないかなあ、せいぜい制服程度ですよね……あ」
観月の質問の意図するところに気付いた。
化粧にしろ衣服にしろ、年齢によって似合う似合わないがある。
小学校の時に来ていた服をいま着ても幼稚にしか見えないように、
いま社会人が着るようなスーツを着てもムダに背伸びしたようにしか見えないように。
香りもきっとそうなんだろうと巴は考えた。
これまで興味を持っていなかったので知らなかったが。
「わかりましたか?キミは察しが良いので助かります。
今のキミに似合う香りだってもちろんあるんですから気落ちしないでくださいよ」
そう言いながら、観月は「こっちに来てください」と巴を店の中心にある陳列棚に誘導した。
どうやら期間限定の特設コーナーとなっているらしいその棚には、落ち着いたレモン色の商品が所狭しと並んでいた。
「観月さん、このコーナーは?」
まだ巴がチェックしていなかったコーナーだった。
彼がここに巴を連れてきたのはいったい何のためなのか。
巴はその意図を本人に確認する。
当の観月はスプレー式の小瓶を手に取り、ムエットに中身を吹き付けていた。
「ほら」
観月はそのムエットを巴の鼻先でゆらゆらと振って見せた。
ふんわりと独特のとろりとした甘みと酸っぱい香りが同時に巴の鼻をくすぐった。
「これ、ハニーレモンって香りらしいですよ」と観月は説明した。
「ハニーレモン……たしかに甘いだけでも酸っぱいだけでもない不思議な香りですね」
部活終了後に食べるハニーレモンとも違う丸みのある香りに巴は魅了される。
「そうでしょう?ボクもさっきテスターを嗅いでそう思いましたよ。
こういう爽やかな香りならいまのキミにも似合うと思いますよ、ボクは」
そう言って観月は手にしていたムエットを巴に手渡し、空いた手で商品のボディーローションを手に取る。
「ちょっと待っていてください」と言ってレジへと向かっていった。
個人的な買い物かなと思い、巴はまた店内をぶらつきながら観月の会計を待った。
しばらくしてこの店のショップ袋らしい青い紙袋を下げた彼が戻ってきて、そのまま店を出ることにした。
店から少し離れたところで「これを、キミに」と観月は先ほどの袋を巴に差し出した。
「え?観月さん、それってさっき買ったヤツじゃないですか」
それをどうして自分に渡そうとするのか?その意図を測りかねて巴は混乱する。
その様子は観月には簡単に見て取れた。
自分の誕生日に人から物を差し出されたら普通は誕生日プレゼントだと簡単に気付くだろうが、どうやら巴はそうでないらしかった。
あまりにも自分のことに無頓着すぎる巴に頭痛を覚えながら丁寧に解説してやる。
「今日はキミの誕生日ですよね。さすがにボクだってその位知ってますよ。
本当は目的地のスポーツ用品店でなにか買ってあげようかと思ったんですが、
こっちの方が女性への贈り物なら相応しいですからね」
まだ知り合ってから1年も経っておらず、観月はデータマンとしては少々忸怩たるものがあるが巴の『贈られて嬉しいプレゼント』までは把握していなかった。
贈られて嬉しいかどうか分からないものを人にあげる趣味は観月にはなかったので、今日直接巴の欲しがる物を買って贈ろうと思っていたのだ。
もっとも、そこまで本人に説明する気は毛頭無いのだが。
おずおずと、しかし本当に嬉しそうに紙袋を手に取る巴の表情を見て、満足感が広がる。
「でも、まあ、来年からは現地調達じゃなくて、
あらかじめキミの欲しいものを徹底的にリサーチして贈ることにしますよ」
「えっ!いいんですか?」
観月の発言に目を丸くして巴は応える。
『来年からは』という言葉は、どういう形であれ長く関わりたいという意思の現れだ。
他人をゲームの駒として扱うような冷淡な面がある彼が、自分と長く関わりたいと思ってくれていることに驚きを覚える。
「別に、驚くことはないでしょう?同じテニスクラブで練習する仲間なんですから、どちらかが辞めない限りは今年限りのお付き合いという訳でもないでしょう」
『仲間』という言葉には落胆せずにはいられなかったが、それでもこの先があることを巴は素直に喜んだ。
嬉しくて、紙袋を胸に抱きしめて、笑う。
気恥ずかしさで、観月の少し前を歩き始めた。
目的地のスポーツ用品店がどこにあるかは分かっていないが、間違っていたら後ろの観月が声を掛けるだろうからそのまま進む。
観月の言葉は、この短い間でもいろいろあったがそれでも全面的に信用している。
だから『来年からは』という言葉も信じる。
信じたい。
「━━━いつか」
言いにくそうに小さな声で観月が声を出す。
雑踏に紛れるか紛れないか、ギリギリの声で。
「いつか、キミが大人になって、あの店の薔薇の香りが似合うような女性になったら、
その時は是非ともボクにあの香りをキミに贈らせて下さい」
背後から聞こえる観月の声は、あまりにも巴自身に都合の良い言葉で信じられない思いだった。
だから、きっとプレゼントで嬉しさが突き抜けすぎたための幻聴なんだと疑った。
観月が自分に向かってそんなことを言うなんて、都合のいい夢でしかないと。
「ボクの、一番好みの香りですから是非キミに身に纏ってもらいたいんです」
そのあと続けられた言葉は、観月の普段の声からしてもあまりにも小さく、
そして周囲のざわめき、巴自信の感情のオーバーフローによって彼女の耳には届かなかった。
正確に言えば、聴力にも自信がある巴の耳には届いていたが現実の物として認識されず、
この後随分長い間、自分自身の妄想と言うことで処理されていた。
END
なんの冗談なのか。
ラケットを握りしめている右手はビリビリと細かく振動して麻痺している。
これが全国区の男子の球を受けるということなのだろうか。
女子の膂力では到底敵うことの出来ない力。
カラン、と足下にラケットが転がり落ちた。
「あ~! 参りましたあ、桃城先輩」
ネット越しに対峙していた桃城新部長に向かって、赤月巴は白旗を揚げる。
「なんだあ? 俺の思いっきりの打球を受けてみたいっていったのお前だろ?
なのにたった3球で終了かよ、甘いなあ赤月」
自分の力を周囲に思い知らせたためか満足げな表情だ。
周囲からは感心した声や戦慄した声、
「チッ……馬鹿力が……女子相手になに本気だしてんだ」との声も聞こえてくる。
最後に聞こえた言葉に「何だと、海堂テメエ!」と反応しつつ、
コートにころがしたままの巴のラケットをちらりと見遣る。
「おい、赤月悪いな。 ガット思いっきり歪ましちまってよ」
その言葉で巴は慌てて自分のラケットを拾い上げた。
自分の手に戻ってきたラケットは確かにガットが歪んでいた。
どれだけ力の入った打球を受けたらこんなコトになるのだろうか。
夏の全国大会が終わった後、張り直したガットは使い物にならなくなっていた。
ガットに入れていたステンシルマークのクマは死んでいた。
「ううっ、せっかく入れたクマもお亡くなりに…練習用、これだけなのに…。
しかもこのクマのステンシルマーク、遠いお店でしか入れてくれないのに」
週末、練習試合があるため試合用のラケットを練習に使うのは躊躇われる。
現状では「遠いお店」に再び行くか、マーク無しだが近場で済ますの2択だ。
コートを離れながら「どうしたものかなあ」と呟いてみる。
とりあえず今日のところは練習が終わるまで、筋トレや走り込みに専念するしかない。
ラケットがないのだから仕方ないことだ。
ベンチにラケットをひとまず置いて「走り込み行ってきまーす」と外へ出ようとした。
コートの出入り口で走り込みからかえってきたリョーマにバッタリと出会った。
「なに、赤月は桃城部長とやってたんじゃなかったの?」
事情を知らないリョーマは不思議そうに尋ねた。
普段なら桃城と巴が打ち合うのなら練習時間いっぱい使っていてもおかしくないのだ。
聞いてみてもおかしくないことだった。
「それがさあ、聞いてよリョーマくん」
これまでのいきさつと、ラケットをどうすればいいのか悩んでいることを話す。
リョーマは今まで良い相談相手になったことがなかったが、話したかった。
なんだかんだいって、今一番近しい相手なのだ。
「ふーん、じゃあ今から行ってくればいいじゃん。 ロードワークと思ってさ」
その「遠くの店」に行けばいいとリョーマはあっさりと言い切った。
その店とはリョーマがかつて3本のガットを張り替えに行った大型スポーツ店のことだ。
リョーマに出来ることが自分にも出来ないはずはないと常々巴は思っていたが、
さすがに性差に寄る部分は無理もある。
中一女子の走ることの出来る距離ではない。
青い顔をして「さすがに、無理だってー!!」と絶叫をコート内に響かせた。
---
結局、行くことになってしまった。
部長の温情によって自転車を貸してもらえたが両足にはパワーアンクル装備済みだ。
なぜか複雑そうな表情をしたリョーマには「気を付けて行った方が良いよ」見送られた。
行きは何とか頑張って店まで到達し、ガットを張り替えクマの模様も再び入れたが
帰りは目的も「学校に帰り着く」ことしかなく、段々足も重くなってきた。
秋をとっくに迎えた太陽は足早に地平線へと消えていこうとしていた。
しかし「夕暮れってキレイ」などと思う余裕が当然あるはずもなく、
川岸のサイクリングロードをよたよたと走っていた。
道は目の前に橋が迫って登り斜面へと突入し、足の負担がさらに重くなってきた。
「……ちょっ、ちょっと休憩……」
いくら女子の中では体力自慢を誇る巴といえど、やはりこの距離では疲れる。
自転車を止めて、ちょっと土手に座って休憩を取ることにした。
川から土手に吹き上げる風は、自転車で火照った体には心地よくてついぼうっとしてしまう。
何となく眠たくなってきたときに、耳慣れた音がどこかから聞こえてきた。
「ん、誰か壁打ちしてるのかな?」
パコーンパコーンと規則正しく聞こえる独特の音はテニスボールの音に違いない。
大きい橋のある河川敷では、よく壁打ちをしている人がいる。
きっとこの橋のところでも誰かが打っているのだろうと簡単に推測できた。
しかも打っている人物はかなりの実力の持ち主だ。
聞こえる音の間隔の速度はとても早い。乱れやムダが全くない。
しかもどうやら同じ場所に打ち込まれているように聞こえる。
巴はその壁打ちをしている人物に興味を抱き、土手を駆け下り橋の下へと向かった。
壁打ちの主は、呼吸も全く乱さず正確なフォームで淡々とボールを打ち返していた。
その人物に巴は見覚えがあった。
「あー、切原さん……!」
壁打ちは巴の声によって中断された。
戻ってきたボールを左手で受けて、切原は声のする方へ振り向いた。
「アンタはー…えーと青学のムダに元気な女だ、赤月だっけか」
いかにもうろ覚えですという表情で答える。
都大会でも全国大会でも対戦した学校の選手同士とはいえ、
切原はシングルス、巴はミクスドでさほど接点がなかったのだから仕方のないことだ。
巴にとっては、青学への乱入事件や対青学戦で見せた彼のプレイが強烈すぎて忘れようにも忘れられなかったのだが。
「そうです、こんにちは」
「ああ」
会話が続かない。
橋の上を通る車の音だけが聞こえてくる。
巴も勢いで声を掛けてしまったので、何を言うか考えていなかった。
二人の間に話題などあるわけがなかった。
そもそも学校同士の交流がほとんどないのだから。
この夏の大会に至っては双方敵同士だったのだ。
しばらく気まずい沈黙が続いたが、それを破ったのは切原の方だった。
「アンタも一緒にやるか、壁打ち」
「はい?」
とっさに何を言われたかよく分からなかった巴のカバンを指さして
「ほら、アンタもラケット持ってるんでしょ」と誘いかける。
「一緒に壁打ちですか?」
「ま、こんな狭い場所じゃ二人で向かって打ち合うわけにもいかねえし。
ミクスド練習だと思ってやらねえ?
ちょうど一人でやって飽きてきたところなんだよな」
心底飽きたような表情をして言う切原に、ちょっと笑いながら巴は頷いた。
彼は残酷なプレイをするけれども、実際話してみると案外コドモな面が目につく。
中学生を超越した人が周囲に多い巴には、中学生らしい中学生が新鮮でありホッとする。
「いいですよ、私も自転車に飽きてきたところなんで気分転換に」
ラケットバッグから先ほどガットを新調したばかりのラケットを取り出して
いそいそと切原の隣に並ぶ。「さ、やりますか」
またボールの規則正しい音が周囲に響き始めた。
お互いひとつのボールを交互に壁に当てていく。
さすがにまだまだ未熟な巴はたまに外れた場所にボールを当てているが
切原の打球は普段のラフプレーから想像できないほど正確だった。
こういうところが、基礎がキッチリとしているところが
やはり立海大付属中テニス部の新部長たるゆえんなのだろうと巴は内心納得する。
「や、やっぱり凄いですねえ、切原さん」
二人はボールを大外しすることなく打ち続けるので、
止めるタイミングが掴めないままもうすでに時計は半周近くまわっていた。
ボールを外さないのは、つまり巴のボールを引きうけ
また彼女へと綺麗な形でかえす切原の技術が凄いからで、
やはり『常勝』という言葉を背負うのに相応しい人だと感心した。
「アンタも結構イイ線行ってると思うぜ。
ここまで俺に付き合える女子って立海でも涼香ぐらいだしな」
巴は夏に対戦した背の高い迫力美女の姿を思い出す。
確か彼女が『涼香』だったはずだ。
「えーと、原さんでしたっけ」
「そう、原。真田さんのことが好きだっつー奇特な俺の幼馴染みだ」
さらりと人の恋バナを他人に暴露する切原。
『あの真田』を慕う女子がいるという爆弾投下に驚いて巴は目測を誤る。
「え、あああ~っ!」叫び声も虚しくラケットは空を切り、
ボールはラケットの下をすり抜けて川へと吸い込まれてしまった。
「ごっごめんなさい!ボール、川に落としちゃいました」
切原=恐い人というイメージが脳内で抜けきらない巴は平謝りをする。
目が赤くなったらどうしよう。
それよりデビル化したらどうしよう。
顔を青くした巴を面白げに見ながら彼は「いや構わねえよ」と案外あっさり答えた。
「タイムリミット…だしな、もうこんなに暗い」
これ以上続けていても、やがてボールが見えずに同じ結果になっていただろうと言う。
「それでも、ボールのことはホントにすみません!」
その巴の言葉に「じゃあ、はい」と切原は右手を出す。
意味が分からず巴はきょとんとした顔をする。
「どうせ、アンタのバッグにも1個や2個ボールが入ってるでしょ。
それで良いから替わりによこせよ」
「ええ、でも、私のボールで良いんですか?別に新しくもないですよ」
自らのラケットバッグをのぞき込んでボールを探しながら巴は答える。
バッグの中にはストリートコートで遊んだりする時用の使い古されたボールしか入っていない。
人のボールを川に落としてしまった替わりならせめて新しいもので返したいものだが
どうやら今回はそれはかなわないらしい。
「いいよ、次に会ったときまでの人質…いやボール質だな。
次に会ったら新しいのと交換な、それでいいぜ」
ニヤリと彼独特の表情を浮かべながら切原はそう答えた。
その言葉で巴は躊躇いがちに彼にボールを手渡した。
手の中のボールに印刷されていたクマの絵と彼女のラケットを返す返す見ながら
「そんなにクマ好きかよ…ガキ」と、切原は呆れたように呟いた。
幸い巴の耳には届かなかった。
「次って、いつもこんな場所にいるんですか?
それなら返しに来ますけど」
まさか立海の部長がこんな所でいつも壁打ちをしているとは思えない。
そういえば何故ここにいるのだろうかと、巴は初めて疑問に思った。
「まっさか、仮にも新部長様だぜ、俺。
今日はたまたま練習が早く終わったからここで打ってただけ。
テニススクール行くにも中途半端な時間だったからな」
「ああ、そういうことでしたか」
納得の表情を浮かべる。
そんな巴を見て、切原もふと気付いたように疑問を口に出す。
「俺のことよりも、青学の奴らこそこの辺よく来るワケ?
越前リョーマともこの辺で会ったことがあるんだけどよ」
青学とは遠く離れたこの場所で青学の選手と2回も遭遇してしまった切原は
心底不思議そうに疑問を口に出した。
「そんなこともないんですけど…ほら、この先に大型スポーツ店があるじゃないですか、
あそこに用があってここを通るんですよ」
「ああ…あの店な、俺も良く行くぜ。ガットの張り替えが速いし。
俺みたいなプレーすると結構ガットが痛みやすいんだよな」
うんうんと頷いた。まああの店なら遠くても行っちゃうよなと納得する。
「そうですよね、結構イイ店で…遠くさえなければ行くんですけどねー。
今日も自転車で時間かけてきたんですけど……ああああああああ!」
巴はなにかにスイッチを入れられたように急に叫びだした。
さすがの切原もその突然の声にビクッと驚く。
「な、なんだよ、いきなり」
「もうこんな時間じゃないですか!桃城先輩の自転車借りてきたのに!
遅くなったら、すっごく怒られる~!どうしよう!」
すでに練習を終えるような時間だった。
巴が帰ってこないと、桃城は帰宅するための自転車がない。
自転車がないだけならそのときには徒歩でも帰宅するだろうが
面倒見の良い彼のことだから巴のことを待っているだろう。
なんだかんだいって人の良い他の部員達も。
遅くなれば当然彼らは心配するし、心配を掛けるようなことをした彼女を怒るだろう。
巴としても怒られるのが恐いのではなく、心配してくれる人たちに申し訳なく思う。
もう頭が真っ白になってしまった。
「あの、すみません…もう帰りますんで!じゃっ!」
切原の問いかけにも答えず、慌てて土手を駆け上り、
巴を心配して待っているだろう人々のところへと帰っていった。
「……なんだあ?慌ただしいヤツだなあ」
あまりの突然なことに呆気にとられつつ切原は巴を見送った。
「おもしれえ女━━━ま、悪くねえな」
手の中に入ったままのテニスボールをぎゅっと握りしめる。
---
「あら、赤也ってこんなボール持ってたっけ?……かわいい」
練習中、切原の倒れたラケットバッグから転がり落ちたテニスボールを原は拾い上げた。
持ち主には似つかわしくないクマの柄が入っている。
彼がこんなファンシーなテニスボールを持っているかと思うと微笑ましく、
思わずクスクスと笑い声がこぼれ落ちる。
もしかしたら幼馴染みの彼の新たな一面を見てしまったのかもしれない。
引退した三年生にでも見つかれば酷くからかわれるだろうにと思いながら問いかける。
「ねえ赤也、このテニスボール、どうしたの?」
手にしたボールを「これ、これ」と掲げて、少し離れたところにいた切原に見せる。
周囲にいた部員達の目が一斉に原の手に集まった。
「なんだよ━━━ええっ、ちょ、それナシだろ涼香」
切原は原の手にあるボールが自分のボールだと即座に気付き慌てて飛んできた。
そしてもの凄いスピードでもぎ取り自分の手に取り返した。
「ちょっと乱暴ね」と原の抗議にも耳を貸さない。
「それにしても、ふふっ随分可愛いボールを持ってるじゃない。
赤也ってばこんな趣味があったの?」
からかい気味な原の言葉を少し顔を歪めて「うるせえよ」と切り捨てる。
「で、どうしたの?自分で買ったワケじゃないでしょう」
「…………まあ…………言ってみれば、シンデレラの靴、みたいなものかな」
「はあ?赤也熱でもあるの?」
切原が狂ってしまったのではないかと原は本気で心配になった。
このどうしようもないくらいガキっぽい彼が乙女チックな事を言っている。
狂ってはいなくても高熱は出していそうだ。
「靴じゃねえか、ボールだもんな。
ま、次に会うときに持ち主に返そうかと思って今日持ってきたんだ」
「ふーん、まあいいけどね、どんな相手に返すのか見物だわ。
どう考えても女子の持ち物じゃない、それ」
テニス中心の生活で馬鹿ばっかりやってても、結局思春期男子というところか。
半ば呆れた表情で「色気づいちゃって」と面と向かって言ってやる。
「ばっ……!ちげーよ、そんなんじゃねえよ。ただ━━━」
照れくさそうな顔を隠そうともせず、慌てて原の言葉を切原は否定した。
「ただ?」
これまでの経験からいって、切原はなんだかんだ言っても誰かに聞いて欲しいのだと察した原は
そのまま切原の言葉を待つ。幼馴染みも大変だ。
「おもしれえヤツだったから、また話してみたいって思っただけだよ」
「そう?」
「そうなの!お前ら女子はなんでも色恋に結びつけるんだからなー」
テニス部エースという肩書きから興味もないのに、いろんな恋愛ネタに巻き込まれてきた切原は心底うんざりと言った表情で言葉を吐き出す。
「そうなんですか?」
「ああもう、しつこい涼━━━え?ええええええええええ?」
長身の原の後ろからひょこっと顔を出した少女は切原を驚かせるものだった。
「なんで、赤月がこんな所にいるんだよ!!!」
どうやら切原は本気で驚いているようだった。
原は、ため息をつきながら「それは今日は青学と練習試合だからよ」と答える。
切原は話題にしていた相手がこの場に、よりによって原の後ろにいることに驚いているだけだったのだが話し相手の原はそれを知らない。
「いや、覚えてるってば……よく来たな青学さん」
慌ててその場を離れて彼らから少しばかり離れたところに控えていた
青学の選手達を迎えに走っていった。
原は素直に切原は青学の選手がこの場にいることを驚いているのだと思っていた。
「まったく赤也もボンヤリしてるわね、真田さんを見習えばいいのに」
やれやれ、と巴を振り返る。
真田に恐ろしい印象を持つ巴は曖昧に笑って返す。
果たして真田を見習うことが立海にとって良いのか分からなかったからだ。
「じゃあ、女子の更衣室に案内するからミクスドの女子はこちらへ━━━」
女子選手達を案内しようとしたところで、ふと巴の持ち物に目を留める。
「あら赤月さんはこのクマの絵のブランドが好きなの?」
つい最近何処かで見たようなクマの絵を見ながら尋ねる。
一緒について来た青学の女子選手達も口を揃えて「巴は好きだよねー」と答える。
「はい、試合用ではさすがに使いませんけどラケットもボールもこの柄なんですよ」
ふと原の頭の上にピコーンと電球が灯った。
ラケットも『ボール』もこの柄。
『ま、次に会うときに持ち主に返そうかと思って今日持ってきたんだ』との切原の言葉。
どうやら本当に切原は今日青学が来ることを忘れていたわけではないらしい。
こんなところに、とんだシンデレラがいたもんだ。
「ねえ、赤月さん突然だけどガラスの靴を持って王子様がきたらあなたどうする?」
「そりゃまた突然ですねえ、でも、そうですね……」
うーんと一瞬考え込んでからまた再び口を開いた。
周囲の人間が一斉に耳をそばだてる。
「テニスが強ければ考えてあげても良いですよ」
これは面白い答えが聞けたと、原は内心にやりとする。
切原が聞いたらどう反応するだろうか?
周囲の女子達も興味のある話題らしくクスクスと笑いながら興味深く巴の答えを聞いた。
「へえ、どのくらいなの?その強さは」
「少なくても…そうですね、リョーマくん程度には」
身近で強い相手と言うことで同居人の名前を屈託なく巴は挙げた。
「べつにだからといってリョーマくんが恋愛対象ってワケじゃないですよ」とどこか言い訳がましくとってつける巴に、
周囲の女子達が「それじゃあ一生カレシできないよ」とからかう姿は原にも微笑ましく映った。
ポニーテールの女子がくるりと原を振り返って「ですよねえ?」と同意を求める。
「そうね、あまりにもハードルが高いんじゃないかしら」
『リョーマくん程度に強い相手』という括りに、自分の想い人を脳裏に思い浮かべて内心焦りながらもそう答えた。心からの答えだった。
切原は一度越前リョーマに負けていることを原は知っている。
巴がその事を知っているかどうかは分からないが、
そんな王子様の条件を知ったら切原は打倒リョーマに躍起にならざるを得ないだろう。
「ホント勇ましいお姫様ね」
面白くなりそうだ、あとで切原に伝えなくては。
これを伝えたらあの幼馴染みはどんな反応を示すだろうか。
原にはそれが楽しみで仕方なかった。
---
「ボールはやっぱり返せねえし、受け取れない」
新品のボール缶を巴から差し出されるも、切原はこれを拒絶した。
なぜ拒絶されたのか分からない巴に切原は言葉を続けた。
「━━━俺がもっと強くなったときに受け取ってくれねえか?」
ちょっと真剣にも見えるその表情に気圧されながら巴は頷いた。
「よくわからないですけど、切原さんが強くなったときですね。
じゃあ、私も受け取るのに条件があるんですけど」
「条件?」
「はい、たまにはこの間みたいに壁打ち付き合ってくれますか?
切原さんと壁を打つの楽しかったんで。
そしたらボールのことはいつでもいいですよ」
「そうだな……仕方ないから付き合ってやるか」
目の前の巴を本当に面白いヤツだと思いながら切原は快諾する。
「仕方ないのはこっちの方ですよ、そのボール古いけど気に入ってるんですから」
「まーまー、いつか絶対返してやるから……待ってろ」
その時は、近い将来絶対やってくるから。
手のなかにあるクマ柄のボールをぎゅっと握りしめ誓いを立てる。
END
ラケットを握りしめている右手はビリビリと細かく振動して麻痺している。
これが全国区の男子の球を受けるということなのだろうか。
女子の膂力では到底敵うことの出来ない力。
カラン、と足下にラケットが転がり落ちた。
「あ~! 参りましたあ、桃城先輩」
ネット越しに対峙していた桃城新部長に向かって、赤月巴は白旗を揚げる。
「なんだあ? 俺の思いっきりの打球を受けてみたいっていったのお前だろ?
なのにたった3球で終了かよ、甘いなあ赤月」
自分の力を周囲に思い知らせたためか満足げな表情だ。
周囲からは感心した声や戦慄した声、
「チッ……馬鹿力が……女子相手になに本気だしてんだ」との声も聞こえてくる。
最後に聞こえた言葉に「何だと、海堂テメエ!」と反応しつつ、
コートにころがしたままの巴のラケットをちらりと見遣る。
「おい、赤月悪いな。 ガット思いっきり歪ましちまってよ」
その言葉で巴は慌てて自分のラケットを拾い上げた。
自分の手に戻ってきたラケットは確かにガットが歪んでいた。
どれだけ力の入った打球を受けたらこんなコトになるのだろうか。
夏の全国大会が終わった後、張り直したガットは使い物にならなくなっていた。
ガットに入れていたステンシルマークのクマは死んでいた。
「ううっ、せっかく入れたクマもお亡くなりに…練習用、これだけなのに…。
しかもこのクマのステンシルマーク、遠いお店でしか入れてくれないのに」
週末、練習試合があるため試合用のラケットを練習に使うのは躊躇われる。
現状では「遠いお店」に再び行くか、マーク無しだが近場で済ますの2択だ。
コートを離れながら「どうしたものかなあ」と呟いてみる。
とりあえず今日のところは練習が終わるまで、筋トレや走り込みに専念するしかない。
ラケットがないのだから仕方ないことだ。
ベンチにラケットをひとまず置いて「走り込み行ってきまーす」と外へ出ようとした。
コートの出入り口で走り込みからかえってきたリョーマにバッタリと出会った。
「なに、赤月は桃城部長とやってたんじゃなかったの?」
事情を知らないリョーマは不思議そうに尋ねた。
普段なら桃城と巴が打ち合うのなら練習時間いっぱい使っていてもおかしくないのだ。
聞いてみてもおかしくないことだった。
「それがさあ、聞いてよリョーマくん」
これまでのいきさつと、ラケットをどうすればいいのか悩んでいることを話す。
リョーマは今まで良い相談相手になったことがなかったが、話したかった。
なんだかんだいって、今一番近しい相手なのだ。
「ふーん、じゃあ今から行ってくればいいじゃん。 ロードワークと思ってさ」
その「遠くの店」に行けばいいとリョーマはあっさりと言い切った。
その店とはリョーマがかつて3本のガットを張り替えに行った大型スポーツ店のことだ。
リョーマに出来ることが自分にも出来ないはずはないと常々巴は思っていたが、
さすがに性差に寄る部分は無理もある。
中一女子の走ることの出来る距離ではない。
青い顔をして「さすがに、無理だってー!!」と絶叫をコート内に響かせた。
---
結局、行くことになってしまった。
部長の温情によって自転車を貸してもらえたが両足にはパワーアンクル装備済みだ。
なぜか複雑そうな表情をしたリョーマには「気を付けて行った方が良いよ」見送られた。
行きは何とか頑張って店まで到達し、ガットを張り替えクマの模様も再び入れたが
帰りは目的も「学校に帰り着く」ことしかなく、段々足も重くなってきた。
秋をとっくに迎えた太陽は足早に地平線へと消えていこうとしていた。
しかし「夕暮れってキレイ」などと思う余裕が当然あるはずもなく、
川岸のサイクリングロードをよたよたと走っていた。
道は目の前に橋が迫って登り斜面へと突入し、足の負担がさらに重くなってきた。
「……ちょっ、ちょっと休憩……」
いくら女子の中では体力自慢を誇る巴といえど、やはりこの距離では疲れる。
自転車を止めて、ちょっと土手に座って休憩を取ることにした。
川から土手に吹き上げる風は、自転車で火照った体には心地よくてついぼうっとしてしまう。
何となく眠たくなってきたときに、耳慣れた音がどこかから聞こえてきた。
「ん、誰か壁打ちしてるのかな?」
パコーンパコーンと規則正しく聞こえる独特の音はテニスボールの音に違いない。
大きい橋のある河川敷では、よく壁打ちをしている人がいる。
きっとこの橋のところでも誰かが打っているのだろうと簡単に推測できた。
しかも打っている人物はかなりの実力の持ち主だ。
聞こえる音の間隔の速度はとても早い。乱れやムダが全くない。
しかもどうやら同じ場所に打ち込まれているように聞こえる。
巴はその壁打ちをしている人物に興味を抱き、土手を駆け下り橋の下へと向かった。
壁打ちの主は、呼吸も全く乱さず正確なフォームで淡々とボールを打ち返していた。
その人物に巴は見覚えがあった。
「あー、切原さん……!」
壁打ちは巴の声によって中断された。
戻ってきたボールを左手で受けて、切原は声のする方へ振り向いた。
「アンタはー…えーと青学のムダに元気な女だ、赤月だっけか」
いかにもうろ覚えですという表情で答える。
都大会でも全国大会でも対戦した学校の選手同士とはいえ、
切原はシングルス、巴はミクスドでさほど接点がなかったのだから仕方のないことだ。
巴にとっては、青学への乱入事件や対青学戦で見せた彼のプレイが強烈すぎて忘れようにも忘れられなかったのだが。
「そうです、こんにちは」
「ああ」
会話が続かない。
橋の上を通る車の音だけが聞こえてくる。
巴も勢いで声を掛けてしまったので、何を言うか考えていなかった。
二人の間に話題などあるわけがなかった。
そもそも学校同士の交流がほとんどないのだから。
この夏の大会に至っては双方敵同士だったのだ。
しばらく気まずい沈黙が続いたが、それを破ったのは切原の方だった。
「アンタも一緒にやるか、壁打ち」
「はい?」
とっさに何を言われたかよく分からなかった巴のカバンを指さして
「ほら、アンタもラケット持ってるんでしょ」と誘いかける。
「一緒に壁打ちですか?」
「ま、こんな狭い場所じゃ二人で向かって打ち合うわけにもいかねえし。
ミクスド練習だと思ってやらねえ?
ちょうど一人でやって飽きてきたところなんだよな」
心底飽きたような表情をして言う切原に、ちょっと笑いながら巴は頷いた。
彼は残酷なプレイをするけれども、実際話してみると案外コドモな面が目につく。
中学生を超越した人が周囲に多い巴には、中学生らしい中学生が新鮮でありホッとする。
「いいですよ、私も自転車に飽きてきたところなんで気分転換に」
ラケットバッグから先ほどガットを新調したばかりのラケットを取り出して
いそいそと切原の隣に並ぶ。「さ、やりますか」
またボールの規則正しい音が周囲に響き始めた。
お互いひとつのボールを交互に壁に当てていく。
さすがにまだまだ未熟な巴はたまに外れた場所にボールを当てているが
切原の打球は普段のラフプレーから想像できないほど正確だった。
こういうところが、基礎がキッチリとしているところが
やはり立海大付属中テニス部の新部長たるゆえんなのだろうと巴は内心納得する。
「や、やっぱり凄いですねえ、切原さん」
二人はボールを大外しすることなく打ち続けるので、
止めるタイミングが掴めないままもうすでに時計は半周近くまわっていた。
ボールを外さないのは、つまり巴のボールを引きうけ
また彼女へと綺麗な形でかえす切原の技術が凄いからで、
やはり『常勝』という言葉を背負うのに相応しい人だと感心した。
「アンタも結構イイ線行ってると思うぜ。
ここまで俺に付き合える女子って立海でも涼香ぐらいだしな」
巴は夏に対戦した背の高い迫力美女の姿を思い出す。
確か彼女が『涼香』だったはずだ。
「えーと、原さんでしたっけ」
「そう、原。真田さんのことが好きだっつー奇特な俺の幼馴染みだ」
さらりと人の恋バナを他人に暴露する切原。
『あの真田』を慕う女子がいるという爆弾投下に驚いて巴は目測を誤る。
「え、あああ~っ!」叫び声も虚しくラケットは空を切り、
ボールはラケットの下をすり抜けて川へと吸い込まれてしまった。
「ごっごめんなさい!ボール、川に落としちゃいました」
切原=恐い人というイメージが脳内で抜けきらない巴は平謝りをする。
目が赤くなったらどうしよう。
それよりデビル化したらどうしよう。
顔を青くした巴を面白げに見ながら彼は「いや構わねえよ」と案外あっさり答えた。
「タイムリミット…だしな、もうこんなに暗い」
これ以上続けていても、やがてボールが見えずに同じ結果になっていただろうと言う。
「それでも、ボールのことはホントにすみません!」
その巴の言葉に「じゃあ、はい」と切原は右手を出す。
意味が分からず巴はきょとんとした顔をする。
「どうせ、アンタのバッグにも1個や2個ボールが入ってるでしょ。
それで良いから替わりによこせよ」
「ええ、でも、私のボールで良いんですか?別に新しくもないですよ」
自らのラケットバッグをのぞき込んでボールを探しながら巴は答える。
バッグの中にはストリートコートで遊んだりする時用の使い古されたボールしか入っていない。
人のボールを川に落としてしまった替わりならせめて新しいもので返したいものだが
どうやら今回はそれはかなわないらしい。
「いいよ、次に会ったときまでの人質…いやボール質だな。
次に会ったら新しいのと交換な、それでいいぜ」
ニヤリと彼独特の表情を浮かべながら切原はそう答えた。
その言葉で巴は躊躇いがちに彼にボールを手渡した。
手の中のボールに印刷されていたクマの絵と彼女のラケットを返す返す見ながら
「そんなにクマ好きかよ…ガキ」と、切原は呆れたように呟いた。
幸い巴の耳には届かなかった。
「次って、いつもこんな場所にいるんですか?
それなら返しに来ますけど」
まさか立海の部長がこんな所でいつも壁打ちをしているとは思えない。
そういえば何故ここにいるのだろうかと、巴は初めて疑問に思った。
「まっさか、仮にも新部長様だぜ、俺。
今日はたまたま練習が早く終わったからここで打ってただけ。
テニススクール行くにも中途半端な時間だったからな」
「ああ、そういうことでしたか」
納得の表情を浮かべる。
そんな巴を見て、切原もふと気付いたように疑問を口に出す。
「俺のことよりも、青学の奴らこそこの辺よく来るワケ?
越前リョーマともこの辺で会ったことがあるんだけどよ」
青学とは遠く離れたこの場所で青学の選手と2回も遭遇してしまった切原は
心底不思議そうに疑問を口に出した。
「そんなこともないんですけど…ほら、この先に大型スポーツ店があるじゃないですか、
あそこに用があってここを通るんですよ」
「ああ…あの店な、俺も良く行くぜ。ガットの張り替えが速いし。
俺みたいなプレーすると結構ガットが痛みやすいんだよな」
うんうんと頷いた。まああの店なら遠くても行っちゃうよなと納得する。
「そうですよね、結構イイ店で…遠くさえなければ行くんですけどねー。
今日も自転車で時間かけてきたんですけど……ああああああああ!」
巴はなにかにスイッチを入れられたように急に叫びだした。
さすがの切原もその突然の声にビクッと驚く。
「な、なんだよ、いきなり」
「もうこんな時間じゃないですか!桃城先輩の自転車借りてきたのに!
遅くなったら、すっごく怒られる~!どうしよう!」
すでに練習を終えるような時間だった。
巴が帰ってこないと、桃城は帰宅するための自転車がない。
自転車がないだけならそのときには徒歩でも帰宅するだろうが
面倒見の良い彼のことだから巴のことを待っているだろう。
なんだかんだいって人の良い他の部員達も。
遅くなれば当然彼らは心配するし、心配を掛けるようなことをした彼女を怒るだろう。
巴としても怒られるのが恐いのではなく、心配してくれる人たちに申し訳なく思う。
もう頭が真っ白になってしまった。
「あの、すみません…もう帰りますんで!じゃっ!」
切原の問いかけにも答えず、慌てて土手を駆け上り、
巴を心配して待っているだろう人々のところへと帰っていった。
「……なんだあ?慌ただしいヤツだなあ」
あまりの突然なことに呆気にとられつつ切原は巴を見送った。
「おもしれえ女━━━ま、悪くねえな」
手の中に入ったままのテニスボールをぎゅっと握りしめる。
---
「あら、赤也ってこんなボール持ってたっけ?……かわいい」
練習中、切原の倒れたラケットバッグから転がり落ちたテニスボールを原は拾い上げた。
持ち主には似つかわしくないクマの柄が入っている。
彼がこんなファンシーなテニスボールを持っているかと思うと微笑ましく、
思わずクスクスと笑い声がこぼれ落ちる。
もしかしたら幼馴染みの彼の新たな一面を見てしまったのかもしれない。
引退した三年生にでも見つかれば酷くからかわれるだろうにと思いながら問いかける。
「ねえ赤也、このテニスボール、どうしたの?」
手にしたボールを「これ、これ」と掲げて、少し離れたところにいた切原に見せる。
周囲にいた部員達の目が一斉に原の手に集まった。
「なんだよ━━━ええっ、ちょ、それナシだろ涼香」
切原は原の手にあるボールが自分のボールだと即座に気付き慌てて飛んできた。
そしてもの凄いスピードでもぎ取り自分の手に取り返した。
「ちょっと乱暴ね」と原の抗議にも耳を貸さない。
「それにしても、ふふっ随分可愛いボールを持ってるじゃない。
赤也ってばこんな趣味があったの?」
からかい気味な原の言葉を少し顔を歪めて「うるせえよ」と切り捨てる。
「で、どうしたの?自分で買ったワケじゃないでしょう」
「…………まあ…………言ってみれば、シンデレラの靴、みたいなものかな」
「はあ?赤也熱でもあるの?」
切原が狂ってしまったのではないかと原は本気で心配になった。
このどうしようもないくらいガキっぽい彼が乙女チックな事を言っている。
狂ってはいなくても高熱は出していそうだ。
「靴じゃねえか、ボールだもんな。
ま、次に会うときに持ち主に返そうかと思って今日持ってきたんだ」
「ふーん、まあいいけどね、どんな相手に返すのか見物だわ。
どう考えても女子の持ち物じゃない、それ」
テニス中心の生活で馬鹿ばっかりやってても、結局思春期男子というところか。
半ば呆れた表情で「色気づいちゃって」と面と向かって言ってやる。
「ばっ……!ちげーよ、そんなんじゃねえよ。ただ━━━」
照れくさそうな顔を隠そうともせず、慌てて原の言葉を切原は否定した。
「ただ?」
これまでの経験からいって、切原はなんだかんだ言っても誰かに聞いて欲しいのだと察した原は
そのまま切原の言葉を待つ。幼馴染みも大変だ。
「おもしれえヤツだったから、また話してみたいって思っただけだよ」
「そう?」
「そうなの!お前ら女子はなんでも色恋に結びつけるんだからなー」
テニス部エースという肩書きから興味もないのに、いろんな恋愛ネタに巻き込まれてきた切原は心底うんざりと言った表情で言葉を吐き出す。
「そうなんですか?」
「ああもう、しつこい涼━━━え?ええええええええええ?」
長身の原の後ろからひょこっと顔を出した少女は切原を驚かせるものだった。
「なんで、赤月がこんな所にいるんだよ!!!」
どうやら切原は本気で驚いているようだった。
原は、ため息をつきながら「それは今日は青学と練習試合だからよ」と答える。
切原は話題にしていた相手がこの場に、よりによって原の後ろにいることに驚いているだけだったのだが話し相手の原はそれを知らない。
「いや、覚えてるってば……よく来たな青学さん」
慌ててその場を離れて彼らから少しばかり離れたところに控えていた
青学の選手達を迎えに走っていった。
原は素直に切原は青学の選手がこの場にいることを驚いているのだと思っていた。
「まったく赤也もボンヤリしてるわね、真田さんを見習えばいいのに」
やれやれ、と巴を振り返る。
真田に恐ろしい印象を持つ巴は曖昧に笑って返す。
果たして真田を見習うことが立海にとって良いのか分からなかったからだ。
「じゃあ、女子の更衣室に案内するからミクスドの女子はこちらへ━━━」
女子選手達を案内しようとしたところで、ふと巴の持ち物に目を留める。
「あら赤月さんはこのクマの絵のブランドが好きなの?」
つい最近何処かで見たようなクマの絵を見ながら尋ねる。
一緒について来た青学の女子選手達も口を揃えて「巴は好きだよねー」と答える。
「はい、試合用ではさすがに使いませんけどラケットもボールもこの柄なんですよ」
ふと原の頭の上にピコーンと電球が灯った。
ラケットも『ボール』もこの柄。
『ま、次に会うときに持ち主に返そうかと思って今日持ってきたんだ』との切原の言葉。
どうやら本当に切原は今日青学が来ることを忘れていたわけではないらしい。
こんなところに、とんだシンデレラがいたもんだ。
「ねえ、赤月さん突然だけどガラスの靴を持って王子様がきたらあなたどうする?」
「そりゃまた突然ですねえ、でも、そうですね……」
うーんと一瞬考え込んでからまた再び口を開いた。
周囲の人間が一斉に耳をそばだてる。
「テニスが強ければ考えてあげても良いですよ」
これは面白い答えが聞けたと、原は内心にやりとする。
切原が聞いたらどう反応するだろうか?
周囲の女子達も興味のある話題らしくクスクスと笑いながら興味深く巴の答えを聞いた。
「へえ、どのくらいなの?その強さは」
「少なくても…そうですね、リョーマくん程度には」
身近で強い相手と言うことで同居人の名前を屈託なく巴は挙げた。
「べつにだからといってリョーマくんが恋愛対象ってワケじゃないですよ」とどこか言い訳がましくとってつける巴に、
周囲の女子達が「それじゃあ一生カレシできないよ」とからかう姿は原にも微笑ましく映った。
ポニーテールの女子がくるりと原を振り返って「ですよねえ?」と同意を求める。
「そうね、あまりにもハードルが高いんじゃないかしら」
『リョーマくん程度に強い相手』という括りに、自分の想い人を脳裏に思い浮かべて内心焦りながらもそう答えた。心からの答えだった。
切原は一度越前リョーマに負けていることを原は知っている。
巴がその事を知っているかどうかは分からないが、
そんな王子様の条件を知ったら切原は打倒リョーマに躍起にならざるを得ないだろう。
「ホント勇ましいお姫様ね」
面白くなりそうだ、あとで切原に伝えなくては。
これを伝えたらあの幼馴染みはどんな反応を示すだろうか。
原にはそれが楽しみで仕方なかった。
---
「ボールはやっぱり返せねえし、受け取れない」
新品のボール缶を巴から差し出されるも、切原はこれを拒絶した。
なぜ拒絶されたのか分からない巴に切原は言葉を続けた。
「━━━俺がもっと強くなったときに受け取ってくれねえか?」
ちょっと真剣にも見えるその表情に気圧されながら巴は頷いた。
「よくわからないですけど、切原さんが強くなったときですね。
じゃあ、私も受け取るのに条件があるんですけど」
「条件?」
「はい、たまにはこの間みたいに壁打ち付き合ってくれますか?
切原さんと壁を打つの楽しかったんで。
そしたらボールのことはいつでもいいですよ」
「そうだな……仕方ないから付き合ってやるか」
目の前の巴を本当に面白いヤツだと思いながら切原は快諾する。
「仕方ないのはこっちの方ですよ、そのボール古いけど気に入ってるんですから」
「まーまー、いつか絶対返してやるから……待ってろ」
その時は、近い将来絶対やってくるから。
手のなかにあるクマ柄のボールをぎゅっと握りしめ誓いを立てる。
END
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HN:
ななせなな
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