「……って事がこないだあってん」
「へえ……それってかなり面白いですね!」
本当に楽しそうに目の前の彼女は頷く。
彼女、赤月巴は俺の話をいつもよく聞き、素晴らしくイイ反応を返してくる。
楽しそうな返事、的を射た質問。
どんなときでも自分が不愉快になることや、彼女が不愉快そうにしていることがない。
自分にとって最上の話し相手だ。
彼女にとってもそうだと良いのだが。
そう思っていただけに、あることに気づくのに時間がかかってしまった。
*おねだり
「……でな?再来週逢おうって言っとったやんか?」
「あっ、はい!そうでしたね」
そもそも、それについての話をしようと今夜は電話したのだ。
本題にはいるまでに随分の時間を要してしまったが。
「どこ行こか?巴はどこがええ?」
「わ、私ですか?えっえーと、そうですね…。
ああ前に忍足さんが話していた公園!あそこに連れて行って貰えますか?」
「公園?まあ、巴がエエって言うんならそれでエエけど」
「はい」
「じゃあ、再来週楽しみにしときな」
「もちろんです!」
そこからまたしばらく待ち合わせの話やら雑談やらでしばらく通話する。
楽しい時間というのはあっという間に過ぎるもので、
どことなく巴の声が眠そうになってきたところで会話を切り上げる。
「ほなな」
「おやすみなさーい」
忍足侑士は携帯を即座に充電器に立て、
今日交わした会話についてしばし思い起こす。
いつもと変わらない、他愛のない会話。
重要なのは内容ではなく好きな相手と会話する行為、そのものにある。
そして、次のデートの約束について。
付き合い始める前はなかなかガードが堅くて約束するのも一苦労だった。
今思えば、軟派ではないものの軽くは見えると自分も自覚があるので
彼女もそのあたりを警戒していたのだろう。
今はもちろん違うことを分かってくれていると思うのだが。
そんな彼女との約束だ。
次もきっと楽しませられるようなデートにしようと意気込む。
「今度は…公園やったな、前に話とった秋が綺麗な…」
とりあえず予習復習とばかりにガイドブックを手にする。
正直忍足も巴よりはマシだが、それでも完璧に東京を知っている訳ではない。
だから困ったことにならないように、あらかじめ行く場所の確認はしておく。
東京のガイドブックを読むなんて格好悪いという風潮もあるけれど
彼女の前で道に迷ったり電車を乗り間違える方が格好悪いに決まっている。
笑われたら「慎重なだけや」と笑い返せる自信はある。
ふと、本に挟まった付箋に気がつく。
そう言えば、これは前に出かけたときに付けたものだったか。
そんなに前のことではないけれども、懐かしさがこみ上げる。
「そういや…」
前のデートも、その前のデートも、その前の前のデートも。
「巴が行きたいっておねだりで出かけた事ってあったやろか…」
「どこ行こう?」という話になったときに、率先して語ったことは?
大概は自分からの提案や、自分が彼女に話していたところ、
または自分が好きなところに行きたいと言われたのではなかったか?
「あんまり東京くわしくないんで忍足さんのお薦めで」
そう言われたことが何度あった?
「━━━彼女は俺とおって楽しんでるんやろか?」
急に不安に襲われる。
数は多くないけれど、これまで女子と出かけることになったときは
「アタシ○○行きたい!」「△△連れてって!」なんて
なんどねだられたことだろうか。
女子の期待に応えたい自分は大体頑張って連れて行ったものだが。
そもそも冷静になって考えてみれば、彼女は甘えない。
自分で解決できそうなことは自分で何とかしてしまうし、
何とかならなそうな時でも極限まで一人で頑張ってしまっている。
そもそも、彼女は実にはっきりとした女子で
自己主張はキチンとするタイプだ。
欲しいものは欲しいと言い、行きたいところは行きたいと言うだろう。
行きたいところは一人で行ってしまっているのだろうか?
一人で?俺以外の誰かと?
まさか。
しかし、それでは、何故自分と付き合っているのだろう。
せめて自分の隣では少しくらい甘えてくれても良いんじゃないか?
もしかして俺と距離置きたいんちゃうやろか…?
今夜はなかなか眠れそうにない。
---
黄金色の葉が舞い散る街路樹を並んで歩く。
公園内の広い道だ。
周囲には二人と同じくカップルで歩いている人や犬と散歩している人、
ジョギングしている人なんかがいてそれそれがそれぞれの楽しみ方をしている。
巴と忍足も、それなりに路上のアクセサリー売りや
ファストフード販売の車を眺め冷やかしたりしながらゆっくりと歩く。
刺激も何もないあくまで平穏な風景に、二人とも落ち着くものを感じていた。
平和だなあ!
平和やなあ…
まさかお互い同じ事を考えているとは思ってもいない。
「忍足さんオススメの公園だなんていうから、
もうちょっと賑やかで派手な所じゃないかと思ってました」
「巴はそういう所の方がよかったんか?」
昨日の懸念がまた脳内にリフレインされ忍足は内心焦りを感じる。
「あっそう言うワケじゃないです!ただ……」
「ただ?」
「こういう所だっていうことでかえって嬉しいかもです。
この公園、賑やかだけどなんだか穏やかで良いですよね、和みます」
「そうか?」
自分が今思っていることを聞くなら、このタイミングかもしれないと思い
忍足は口を開く決心をする。
「ところで、なあ、聞きたいんやけど……ええか?」
しかし、やっぱり聞きづらくて言い淀んでしまう。
まさか俺と距離置きたいんちゃう?って普通訊けるかいな!
巴は何でしょう?と言った顔で真っ直ぐとこちらを見ている。
こんなカンジで彼女は律儀で真っ直ぐな少女だ。
忍足が何を言わんとしているのか待っている。
「あ、あのな?巴は俺のことどない思ってるんや?」
あほ!ストレートに訊きすぎや!
自分自身でツッコミを入れる。
おかげで彼女もストレートに答えるしかなくなってしまう。
しかし、巴は別段困った風も見せず
「はい?忍足さんのことなら、す、好きだって思っていますけど?」
恥ずかしげに頬を染めながら、即座にそう答えた。
やっぱり、俺のこと好きと思っていてくれてんのか!
もちろん忍足の聞きたかった言葉ではある。
しかし、だったらどうして。
どうして、もうちょっと自分に甘えて寄っかかってくれないのだ。
彼女のちょっと無理なお願いを聞くのも男のロマンの一つなのだ。
なぜそれを叶えてくれないのか?
そんなに不甲斐ない彼氏だと見られているのか、自分は?
俺って彼女に何を求められてるんやろか
「それなら、どうして少しも俺に甘えてくれへんねん。
彼女やったら彼氏に寄っかかりたいなーなんて思うこともあるやろ?
俺にワガママ聞いて欲しいなーおねだりしたーいとか思ったことないんか?
巴はいっつも一人で立っとって、俺寂しいわ。
なあ?もっと、俺に、甘えてくれんか?」
巴は驚いた表情をする。
そんなことを思われ、指摘されるとは思っていなかったからだ。
もちろん、彼女とて今の接し方は淡泊かなと思わないこともなかったのだが。
「それは、その…なんていうかー…つまりー」
巴は今自分の思っていることを上手く表現できない。
それでも一生懸命脳をフル回転させて、自分の言葉を探しながら言葉を続ける。
「よくわからなくって…どうしたらいいか…」
「どうしたら?」
「こっこんなコト言うのも恥ずかしいんですけどっ。
誰かをすき…好きになって、お付き合いするなんて事初めてなんでっ」
巴は本当に恥ずかしすぎて前のめりになって話す。
自分には経験が本当にないのだ。
全くどうして良いものやら分からない。
こんな事を話してる間にも、忍足には呆れられ嫌われているかもしれない。
それを思うと胃や心臓が何者かにギリギリと締め付けられているように痛い。
何か、なにか言わなければ本当に去って行かれるかもしれない。
その恐怖が巴を饒舌にさせた。
「私は忍足さんが好きですし、こんな私と忍足さんは付き合ってくれるけど、
やっぱり自分でも私って子供だなと思いますし、未熟だし。
少しでも大人に見えればいいなって頑張ってるんですっ。
甘えるとかってどうすればいいのか分からないし、
第一、第一ワガママな嫌な女だって嫌われたら困っちゃいますし」
一気に息継ぎなしに言い切る。
おかげで顔はますます赤く息は荒い。
そんな巴に忍足は目が釘付けで離せない。言葉が出ない。
なぜなら、絶句するほど可愛いと思ってしまったから。
そんな忍足の気持ちには気づかず、
未だ言葉が足りないのかとばかり巴は言葉を続ける。
「それに…前、『甘えた奴は好きじゃない』って忍足さん、言いましたし…」
身長差ゆえ上目遣い気味に忍足を見、そんなことを言う巴に忍足は堪らなくなった。
もし、今、このタイミングで世界征服を頼まれたら頑張ってしまいそうな、
彼女の言うことなら何でもきいてしまいたい気分だ。
まさに、甘えるなら今のタイミングだろう。
可愛すぎる。
何故自分は、こんな彼女の気持ちを一瞬でも疑ってしまったのだろうか。
よく考えると父子家庭の上に、他人の家に下宿するという身の上の彼女が
人に甘えるという行為を上手くできるはずがない。
相手に迷惑をかけるかもしれないような自己主張は行わない。
自分のことよりもまず相手のことを考えるのは無理無いではないか。
彼女がただ単に甘え下手なことを知り、より愛おしく感じる。
そしてその気持ちはそのまま行動に移る。
「━━━っ?忍足さんっ!?」
気づいたら、ぎゅっという音がしそうなくらい目一杯巴を抱きしめていた。
こんな人前でおおっぴらに抱きつかれたことなど一度もなかった巴は
驚き慌てふためいてしばし藻掻いてみたが、
その抱擁の堅さにしばらくしておとなしくすることにした。
やがて巴の頭の上、すぐ間近で耳に馴染んだ忍足の声が聞こえた。
「あほう!それは俺にとってホンマどうでもええ奴に対することや!
……俺がジブンのことどうでもええとでも思っとると思っとったんか」
少し怒ったようなすねたような口調で巴にささやく。
「ホンマ、ジブン、めっちゃ可愛いなあ!
男はな好きな女子には甘えられたいんやって!甘えてや。
例えジブンがどんな無茶言うたかって、
可愛いワガママの一つと笑えるぐらいの度量は俺かて持っとるわ」
軽い口調でありながら、言葉に重みがある。
巴は本能的にそれを信じて良いことを知った。
『好きな女子』という単語はまだくすぐったい気がするけれど、
自分のことを指していることはとても嬉しい。暖かい気分になる。
「…そうですね、頑張って甘えてみます」
甘えは頑張ってするものじゃないというツッコミを我慢しながらも
巴の譲歩の言葉に安堵する。
そして、忍足は気づかされてしまった。
自分がむしろ彼女に甘えているという事実に。
『彼女に甘えて欲しい、ねだられたい』と甘えているのだ。
彼女に甘えられているベタ甘な自分に酔いたいがために。
思えば自分からは進んで甘やかそうとしたことはなかった。
まだまだ俺も人間が出来てへんな。
痛切に感じた。彼女よりも実年齢的にも精神的にも大人だと思っていたが、
もしかすると彼女の方が大人なのかもしれないと初めて思った。
甘えている自分を今こうしてしっかりと受け止めてくれているのだから。
俺も、彼女にちゃんと応えんとな
これからはガンガン自分から進んで甘やかしていこうと密かに決心した。
これまでの淡泊な状態から脱出して。
「なあ、巴?」
「なんですか?」
「これからは、ベタベタに嫌になるくらい甘やかしたるからな。
朝も夜も俺無しで生きられんくらいに…な。しっかり覚悟しときや」
「…………今でも充分忍足さん無しでは生きられないんですけどね…………」
小さくそう呟く。
しかし自分でもその台詞は自分でもあまりにも恥ずかしく感じられ、慌てて次の言葉を探す。
そして丁度ひとつ忍足にお願いしたいことがあったことを思い出した。
これは甘えることになるんだろうか?そうかもしれない。そうだといいんだけれど。
「あの、さっきのアクセサリーの露天で、カワイイ指輪がいくつかあったんですけど
忍足さん、見立ててくれないですか?…………ペアリングなんで一緒に着けてくれたら嬉しいなーなんて」
あくまで恥ずかしそうにそう告げる彼女に、忍足まで赤面しそうになる。
こんな時でも「買って」とはいわない彼女が愛おしい。
そんな彼の様子を知ってか知らずかさらに言葉を続ける。
「あと、あの、その…こっこれから、ゆ、ゆうしさんって呼んでもイイですか?」
こんなおねだりを断る男が居たら決闘を申し込んでも良いかもしれないと忍足は思った。
END
「へえ……それってかなり面白いですね!」
本当に楽しそうに目の前の彼女は頷く。
彼女、赤月巴は俺の話をいつもよく聞き、素晴らしくイイ反応を返してくる。
楽しそうな返事、的を射た質問。
どんなときでも自分が不愉快になることや、彼女が不愉快そうにしていることがない。
自分にとって最上の話し相手だ。
彼女にとってもそうだと良いのだが。
そう思っていただけに、あることに気づくのに時間がかかってしまった。
*おねだり
「……でな?再来週逢おうって言っとったやんか?」
「あっ、はい!そうでしたね」
そもそも、それについての話をしようと今夜は電話したのだ。
本題にはいるまでに随分の時間を要してしまったが。
「どこ行こか?巴はどこがええ?」
「わ、私ですか?えっえーと、そうですね…。
ああ前に忍足さんが話していた公園!あそこに連れて行って貰えますか?」
「公園?まあ、巴がエエって言うんならそれでエエけど」
「はい」
「じゃあ、再来週楽しみにしときな」
「もちろんです!」
そこからまたしばらく待ち合わせの話やら雑談やらでしばらく通話する。
楽しい時間というのはあっという間に過ぎるもので、
どことなく巴の声が眠そうになってきたところで会話を切り上げる。
「ほなな」
「おやすみなさーい」
忍足侑士は携帯を即座に充電器に立て、
今日交わした会話についてしばし思い起こす。
いつもと変わらない、他愛のない会話。
重要なのは内容ではなく好きな相手と会話する行為、そのものにある。
そして、次のデートの約束について。
付き合い始める前はなかなかガードが堅くて約束するのも一苦労だった。
今思えば、軟派ではないものの軽くは見えると自分も自覚があるので
彼女もそのあたりを警戒していたのだろう。
今はもちろん違うことを分かってくれていると思うのだが。
そんな彼女との約束だ。
次もきっと楽しませられるようなデートにしようと意気込む。
「今度は…公園やったな、前に話とった秋が綺麗な…」
とりあえず予習復習とばかりにガイドブックを手にする。
正直忍足も巴よりはマシだが、それでも完璧に東京を知っている訳ではない。
だから困ったことにならないように、あらかじめ行く場所の確認はしておく。
東京のガイドブックを読むなんて格好悪いという風潮もあるけれど
彼女の前で道に迷ったり電車を乗り間違える方が格好悪いに決まっている。
笑われたら「慎重なだけや」と笑い返せる自信はある。
ふと、本に挟まった付箋に気がつく。
そう言えば、これは前に出かけたときに付けたものだったか。
そんなに前のことではないけれども、懐かしさがこみ上げる。
「そういや…」
前のデートも、その前のデートも、その前の前のデートも。
「巴が行きたいっておねだりで出かけた事ってあったやろか…」
「どこ行こう?」という話になったときに、率先して語ったことは?
大概は自分からの提案や、自分が彼女に話していたところ、
または自分が好きなところに行きたいと言われたのではなかったか?
「あんまり東京くわしくないんで忍足さんのお薦めで」
そう言われたことが何度あった?
「━━━彼女は俺とおって楽しんでるんやろか?」
急に不安に襲われる。
数は多くないけれど、これまで女子と出かけることになったときは
「アタシ○○行きたい!」「△△連れてって!」なんて
なんどねだられたことだろうか。
女子の期待に応えたい自分は大体頑張って連れて行ったものだが。
そもそも冷静になって考えてみれば、彼女は甘えない。
自分で解決できそうなことは自分で何とかしてしまうし、
何とかならなそうな時でも極限まで一人で頑張ってしまっている。
そもそも、彼女は実にはっきりとした女子で
自己主張はキチンとするタイプだ。
欲しいものは欲しいと言い、行きたいところは行きたいと言うだろう。
行きたいところは一人で行ってしまっているのだろうか?
一人で?俺以外の誰かと?
まさか。
しかし、それでは、何故自分と付き合っているのだろう。
せめて自分の隣では少しくらい甘えてくれても良いんじゃないか?
もしかして俺と距離置きたいんちゃうやろか…?
今夜はなかなか眠れそうにない。
---
黄金色の葉が舞い散る街路樹を並んで歩く。
公園内の広い道だ。
周囲には二人と同じくカップルで歩いている人や犬と散歩している人、
ジョギングしている人なんかがいてそれそれがそれぞれの楽しみ方をしている。
巴と忍足も、それなりに路上のアクセサリー売りや
ファストフード販売の車を眺め冷やかしたりしながらゆっくりと歩く。
刺激も何もないあくまで平穏な風景に、二人とも落ち着くものを感じていた。
平和だなあ!
平和やなあ…
まさかお互い同じ事を考えているとは思ってもいない。
「忍足さんオススメの公園だなんていうから、
もうちょっと賑やかで派手な所じゃないかと思ってました」
「巴はそういう所の方がよかったんか?」
昨日の懸念がまた脳内にリフレインされ忍足は内心焦りを感じる。
「あっそう言うワケじゃないです!ただ……」
「ただ?」
「こういう所だっていうことでかえって嬉しいかもです。
この公園、賑やかだけどなんだか穏やかで良いですよね、和みます」
「そうか?」
自分が今思っていることを聞くなら、このタイミングかもしれないと思い
忍足は口を開く決心をする。
「ところで、なあ、聞きたいんやけど……ええか?」
しかし、やっぱり聞きづらくて言い淀んでしまう。
まさか俺と距離置きたいんちゃう?って普通訊けるかいな!
巴は何でしょう?と言った顔で真っ直ぐとこちらを見ている。
こんなカンジで彼女は律儀で真っ直ぐな少女だ。
忍足が何を言わんとしているのか待っている。
「あ、あのな?巴は俺のことどない思ってるんや?」
あほ!ストレートに訊きすぎや!
自分自身でツッコミを入れる。
おかげで彼女もストレートに答えるしかなくなってしまう。
しかし、巴は別段困った風も見せず
「はい?忍足さんのことなら、す、好きだって思っていますけど?」
恥ずかしげに頬を染めながら、即座にそう答えた。
やっぱり、俺のこと好きと思っていてくれてんのか!
もちろん忍足の聞きたかった言葉ではある。
しかし、だったらどうして。
どうして、もうちょっと自分に甘えて寄っかかってくれないのだ。
彼女のちょっと無理なお願いを聞くのも男のロマンの一つなのだ。
なぜそれを叶えてくれないのか?
そんなに不甲斐ない彼氏だと見られているのか、自分は?
俺って彼女に何を求められてるんやろか
「それなら、どうして少しも俺に甘えてくれへんねん。
彼女やったら彼氏に寄っかかりたいなーなんて思うこともあるやろ?
俺にワガママ聞いて欲しいなーおねだりしたーいとか思ったことないんか?
巴はいっつも一人で立っとって、俺寂しいわ。
なあ?もっと、俺に、甘えてくれんか?」
巴は驚いた表情をする。
そんなことを思われ、指摘されるとは思っていなかったからだ。
もちろん、彼女とて今の接し方は淡泊かなと思わないこともなかったのだが。
「それは、その…なんていうかー…つまりー」
巴は今自分の思っていることを上手く表現できない。
それでも一生懸命脳をフル回転させて、自分の言葉を探しながら言葉を続ける。
「よくわからなくって…どうしたらいいか…」
「どうしたら?」
「こっこんなコト言うのも恥ずかしいんですけどっ。
誰かをすき…好きになって、お付き合いするなんて事初めてなんでっ」
巴は本当に恥ずかしすぎて前のめりになって話す。
自分には経験が本当にないのだ。
全くどうして良いものやら分からない。
こんな事を話してる間にも、忍足には呆れられ嫌われているかもしれない。
それを思うと胃や心臓が何者かにギリギリと締め付けられているように痛い。
何か、なにか言わなければ本当に去って行かれるかもしれない。
その恐怖が巴を饒舌にさせた。
「私は忍足さんが好きですし、こんな私と忍足さんは付き合ってくれるけど、
やっぱり自分でも私って子供だなと思いますし、未熟だし。
少しでも大人に見えればいいなって頑張ってるんですっ。
甘えるとかってどうすればいいのか分からないし、
第一、第一ワガママな嫌な女だって嫌われたら困っちゃいますし」
一気に息継ぎなしに言い切る。
おかげで顔はますます赤く息は荒い。
そんな巴に忍足は目が釘付けで離せない。言葉が出ない。
なぜなら、絶句するほど可愛いと思ってしまったから。
そんな忍足の気持ちには気づかず、
未だ言葉が足りないのかとばかり巴は言葉を続ける。
「それに…前、『甘えた奴は好きじゃない』って忍足さん、言いましたし…」
身長差ゆえ上目遣い気味に忍足を見、そんなことを言う巴に忍足は堪らなくなった。
もし、今、このタイミングで世界征服を頼まれたら頑張ってしまいそうな、
彼女の言うことなら何でもきいてしまいたい気分だ。
まさに、甘えるなら今のタイミングだろう。
可愛すぎる。
何故自分は、こんな彼女の気持ちを一瞬でも疑ってしまったのだろうか。
よく考えると父子家庭の上に、他人の家に下宿するという身の上の彼女が
人に甘えるという行為を上手くできるはずがない。
相手に迷惑をかけるかもしれないような自己主張は行わない。
自分のことよりもまず相手のことを考えるのは無理無いではないか。
彼女がただ単に甘え下手なことを知り、より愛おしく感じる。
そしてその気持ちはそのまま行動に移る。
「━━━っ?忍足さんっ!?」
気づいたら、ぎゅっという音がしそうなくらい目一杯巴を抱きしめていた。
こんな人前でおおっぴらに抱きつかれたことなど一度もなかった巴は
驚き慌てふためいてしばし藻掻いてみたが、
その抱擁の堅さにしばらくしておとなしくすることにした。
やがて巴の頭の上、すぐ間近で耳に馴染んだ忍足の声が聞こえた。
「あほう!それは俺にとってホンマどうでもええ奴に対することや!
……俺がジブンのことどうでもええとでも思っとると思っとったんか」
少し怒ったようなすねたような口調で巴にささやく。
「ホンマ、ジブン、めっちゃ可愛いなあ!
男はな好きな女子には甘えられたいんやって!甘えてや。
例えジブンがどんな無茶言うたかって、
可愛いワガママの一つと笑えるぐらいの度量は俺かて持っとるわ」
軽い口調でありながら、言葉に重みがある。
巴は本能的にそれを信じて良いことを知った。
『好きな女子』という単語はまだくすぐったい気がするけれど、
自分のことを指していることはとても嬉しい。暖かい気分になる。
「…そうですね、頑張って甘えてみます」
甘えは頑張ってするものじゃないというツッコミを我慢しながらも
巴の譲歩の言葉に安堵する。
そして、忍足は気づかされてしまった。
自分がむしろ彼女に甘えているという事実に。
『彼女に甘えて欲しい、ねだられたい』と甘えているのだ。
彼女に甘えられているベタ甘な自分に酔いたいがために。
思えば自分からは進んで甘やかそうとしたことはなかった。
まだまだ俺も人間が出来てへんな。
痛切に感じた。彼女よりも実年齢的にも精神的にも大人だと思っていたが、
もしかすると彼女の方が大人なのかもしれないと初めて思った。
甘えている自分を今こうしてしっかりと受け止めてくれているのだから。
俺も、彼女にちゃんと応えんとな
これからはガンガン自分から進んで甘やかしていこうと密かに決心した。
これまでの淡泊な状態から脱出して。
「なあ、巴?」
「なんですか?」
「これからは、ベタベタに嫌になるくらい甘やかしたるからな。
朝も夜も俺無しで生きられんくらいに…な。しっかり覚悟しときや」
「…………今でも充分忍足さん無しでは生きられないんですけどね…………」
小さくそう呟く。
しかし自分でもその台詞は自分でもあまりにも恥ずかしく感じられ、慌てて次の言葉を探す。
そして丁度ひとつ忍足にお願いしたいことがあったことを思い出した。
これは甘えることになるんだろうか?そうかもしれない。そうだといいんだけれど。
「あの、さっきのアクセサリーの露天で、カワイイ指輪がいくつかあったんですけど
忍足さん、見立ててくれないですか?…………ペアリングなんで一緒に着けてくれたら嬉しいなーなんて」
あくまで恥ずかしそうにそう告げる彼女に、忍足まで赤面しそうになる。
こんな時でも「買って」とはいわない彼女が愛おしい。
そんな彼の様子を知ってか知らずかさらに言葉を続ける。
「あと、あの、その…こっこれから、ゆ、ゆうしさんって呼んでもイイですか?」
こんなおねだりを断る男が居たら決闘を申し込んでも良いかもしれないと忍足は思った。
END
「━━━っ、そ、そんなアホな事あるかい……」
忍足侑士は我が目を疑った。
ちなみに自分の脳も正常かどうか疑った。
なにしろ、早暁。
自宅の玄関を開けてみたら自分の彼女がいるだなんて
そんなことがあると思う訳がない。
しかも、うずくまって寝ている。
*Sleeping Pretty
「おいおい、とうとう巴の幻覚まで見るようになったんかい」
高校生の自分と中学生の彼女。
彼らの年代にとっては遠恋のようなものだ。
お互い部活も忙しくなかなか合う暇もない。
出来るなら毎日会ってお互いの存在を確かめたい、愛しい彼女。
彼女のことを考えすぎて、幻覚まで見るようになったと
彼が考えてしまっても不思議ではない。
なぜなら、普通、女子中学生がこんな早朝に他人の自宅前で
眠っている訳がないからだ。
もっとも、巴ならありえない訳ではないとちらと思ったりもしたが。
「どないしたもんやろな?おーい、ともえー」
声をかけてみるが、うずくまった体勢でありながら熟睡しているらしい。
身じろぎすらせずにすやすやとよく寝ている。
顔は伏せているので表情までは分からないが、きっと安らかに違いない。
とりあえず忍足は向かい合ってしゃがんでみる。
「なあ、ともえちゃーん?なあ?━━━まいったなあ」
すっかり困惑してしまう。
大体、彼女は早朝に何をしにきたのだろうか。
忍足はこれから部の朝練に参加するつもりでこんな早くに家を出ようとしたのだが
今日の部活をサボったりとか学校自体休みだったら
彼女に気づくのはいつになっただろうか。
きっと、同じフロアの住人に起こされるハメになっていたのだろうか。
いや、この物騒な昨今、下手すれば即通報だ。
彼女の目の前にしゃがみ込み、彼女の耳元に囁きかけてみる。
「このまま寝とったらどうなるかわからんで?ジブン?」
いっそのこと、どうにかしてみようか。
もっとも寝こけている彼女をどうにかしてもつまらないことこの上ないが。
煩いくらいに喋り、ウザイくらいに行動する、動く生身の彼女が好きなのだ。
寝ている彼女はただの人形と同じだ。つまらない。
寝顔なんかを見ている分には楽しいがそれだけだ。
もっとも今は寝顔すら観察できないので、そんな些細な楽しささえ味わえない。
それにしても巴はしつこいまでに起きる気配がない。
寝息がなければ、死んでいるのではないかと疑うまでに。
「しゃあないなあ………よっ」
丁度具合の良いことに彼女はいわゆる体育座りもしくは三角座りと呼ばれる座り方だ。
忍足としては別に彼女をこのまま寝かしたい訳でもないので
何の気遣いもせず強引にお姫様抱っこに持ち込む。
しかし、起きない。
コイツ……ワザと寝たふりしてんのとちゃうやろな?
彼女の状態に疑いを抱かない訳にはいかないが
こうやって彼女を抱く恩恵も受けた訳だし
ずっしりと重い感触は意識のないもの特有の力の抜けた重さだ。
きっと本当に寝ているのだろう。そういうことにしておこう。
忍足は仕方なしに抱いたまま彼女を部屋に入れる。
あーあ、今日の朝練はサボらなあかんな。
あとで跡部にメール入れとかな。
そんな細かいことを考えながら部屋の片隅にあるソファに彼女を横たわらせる。
広めのワンルームの彼の部屋には当然ベッドもあるわけだが
心の隅に躊躇いがあり、意図的に避ける。
彼女の目が覚めたら、何を思うか手に取るように分かるし
自分自身、どんな手を使っても自制心を保ちたい。
そういう意味では部屋に入れた時点で負けに近いのだが。
これまで頑として巴を部屋に入れたことはなかった。
もちろんこの歳になって清いお付き合いがしたいとは思わなかったが
自分の部屋に連れ込んでその流れで…というのは
あまりにも手軽でケジメもなくて、変なところに拘りある彼は嫌だった。
遊びの相手ならそんなこと躊躇わない。
遊びの相手じゃないからそこのところキッチリとしておきたい。
もちろん、彼女からはっきりOKを貰った状態でというのなら別だが
いまのところ、その兆しすらない。
まだテニス命の中2なのだから仕方のないことだが。
15分経過。
流石にいらついてきた。
いささか可哀想ではあるが、忍足の部屋までやってきたのは彼女の意思だ。
流石に室外では早朝と言うことで躊躇われたが
今度は意を決して、耳元で大声を出してみる。
「巴!はよ起きんかい!」
「………っ!」
流石に大声がそうしたのか、身体をびくっと振るわせて巴は目覚めた。
巴の眼前には当然見知らぬ場所が広がっている。
「え?」
ここはどこ?と言おうとして彼女は気づく。
自分は忍足の部屋の前に来ていた。
そして今目の前には忍足の姿。答えは自ずと出るものだ。
「あー、忍足さんのお部屋でしたか?初めて中に入りましたけど」
まだ眠りから醒めやらぬボンヤリとした声で巴は言う。
そしてきょろきょろと周囲を見渡す。
忍足は一人暮らしだと聞いていたが、
案外部屋は生活感がありながらも綺麗に片づいていてこざっぱりとしている。
機能性を優先にした部屋という印象で合理的な彼にふさわしい。
同年代男子の部屋というと、
リョーマをはじめ青学テニス部の面々の部屋しか見たことがないけれど
やはりそれぞれ個性と彼らの生活が出ていた。
たしかに彼の部屋だなあとしみじみ巴は思った。
「で、ジブン、何でこんな時間に俺の部屋の前になんておったん?」
興味深げに周囲を見渡している巴を面白げに眺めながら忍足は訊く。
それに答えるために巴はようやく忍足へと視線を向ける。
今日初めて二人の目が合う。
巴は彼から視線を外さないまま、きっぱりと簡潔に答えた。
「ああ、それは誕生日だからですよ!おめでとうございます!」
今日が何月何日かは忍足自身理解していたので意外だとは言えないが、
しかしながら想定外の返答に目を丸くする。
「は?」
そして、聞き返してみる。
自分の誕生日を彼女はどう祝ってくれるのだろう?
たしかに昨日まではそんなことを色々考えていた。
しかしまさか自分の誕生日祝いに玄関先で寝こけている女が居るとは思わなかった。
巴も忍足の言いたいことは瞬時に理解し、話を続ける。
「別に、私だって忍足さんの家の前で寝ていることがお祝いだなんて言いませんよ!
実は、誕生日プレゼントに忍足さんが何を欲しがっているのかわからなくって
氷帝の皆さんに訊いてみたりもしたんですけれど、あまり役に立たなくて……」
巴は本当に忍足の欲しいものが知りたかったというのに、
氷帝学園の面々と言えば、
「私がプレゼントでーすって言ってみそ」
「オレ、ポッキー詰め合わせとかマジマジうれCー!」
「俺様に馬鹿なこときいてんじゃねえよ、アーン?…なあ、樺地?」
「━━━ウス」
などと、非常に役に立たない情報ばかりを仕入れる結果となってしまった。
もちろん彼らに真面目な相談を持ちかける巴にも責任がないとは言い切れない。
げんなりする回想を振り切って言葉を紡ぐ。
「それで、自分なりに一生懸命考えてみたんですけど、
自分が祝われる立場だったりしたら何が良いかなーって思ったときに
会いたいな、って思っちゃったんです。
朝、誰よりも早く一番にあっておめでとうって言って欲しいかなって」
だから早朝、巴は忍足が朝練で家を出る前に会おうと思った。
しかし、実際家を出る時間は知らなかったし
それを本人に訊いたりして、彼女の思惑がバレてしまっては
喜び半分になってしまうだろうから、始発で早めに来て家の前で待っていた。
そしたら寝てしまった。
「そういう訳です」
「おーまーえーはーアーホーかー」
忍足はリズミカルに関西人独特の歌うような節回しでツッコミを入れる。
「そらジブンが俺のことよう考えてくれて嬉しないって言うんは嘘になる。
せやけど、彼女がそんな危ないことしたら心配でたまらんで」
心底心配そうに巴にそう告げる。
しかし彼女にはあまり心配の理由が分かっていないのか
さほど反省の色もなくきょとんとしている。
「スイマセン。━━━待ちくたびれて寝ちゃったって言うのもありますけど
ここしばらくは『これ』のおかげで眠れてなくって眠かったんです」
がさごそと彼女の傍らに置かれた紙袋から出された『これ』は
編み目の細かい、明らかに手慣れた者が作った手の込んだ手編みのマフラー。
落ち着いたアースカラーはどの服にも馴染むように見える。
忍足も思わず「へえ?」と感嘆混じりに声を上げる。
その声で巴も満足そうな表情になる。
「まだ10月だし、マフラーの時期には早いんですが
どうせなら冬の初めから身につけて欲しいなーなんて思っちゃったり」
照れくさそうに、えへへと笑う。
「…そやな、せっかくやからジブンが俺の首に巻いてくれへんか」
「いま、ですか?」
「そうや、今や」
彼女が彼の首に巻こうと身体を近づける。
まさしく彼にマフラーを巻き付けた瞬間
忍足は彼女の腰を自らの身体に引き寄せて、そのまま彼女の口元に唇を寄せる。
「……んっ」
案外巴は抵抗せず、そのまま為すがままにされる。
むしろ彼女自ら身体をすり寄せてくる感覚を覚えて満足を覚えた。
背中の添えられた彼女の手の感触にゾクゾクさせられる。
━━━これはOKやって思うてもええかな?
そう思いはしたが、しかし自分でも驚いたことに
脳内で自制心がこれ以上はやめとけと働きかけていた。
惜しげに身体を離し、彼女の首筋へと顔を埋める。
ここで流されてやるんは、自分的にみっともないからなあ。
お互いガッコにもちゃんと行かなあかんしな。
こんな時現実的すぎる自分が悲しい。そう思った。
そしてそのまま顔をうずめた体勢で懇願するような口調で彼女にこう言った。
巴は首にくすぐったさを感じだが、そのままにしておいた。
自分の肩に掛かる忍足の体重が心地良い。
「なあ、季節が終わってこのマフラーはずさなあかんようになったら
またジブンの手ではずしてくれんか?」
忍足の言葉の意図がつかめず、巴は少なからず困惑する。
「はい?」
「そんで、そのときは━━━」
忍足は埋めたままの顔を上げ、彼女の耳元に、唇が触れるか触れないかの位置で
お得意の低めの甘いボイスでこうお願いした。
「今以上にジブンに触れてええやろか?とりあえず許可欲しいねんけど」
まあ、今すぐでもかまわへんねんけどな、ジブンの心の準備がまだやろ?
巴はしばらく経ってようやく忍足の意図に気付き、
しかしながら顔を真っ赤にしながら、躊躇いつつも何度も何度もうなづく。
「え、エエですよ……」
「おっ?ジブン、そのイントネーション大阪弁感染ったんちゃうん?
ええ傾向やな、うん」
満足げに巴の目を見据えつつかすかに笑う。
その笑顔は、いつもクセ者と呼ばれるときとはかけ離れた彼自身の笑顔だった。
「巴、待っとき、春になったら」
「春になったら?」
もう一度彼女の耳元に口を寄せ低く甘く囁いた。
「お前を今日みたいに寝かせたりせえへんから、眠り姫さん」
END
忍足侑士は我が目を疑った。
ちなみに自分の脳も正常かどうか疑った。
なにしろ、早暁。
自宅の玄関を開けてみたら自分の彼女がいるだなんて
そんなことがあると思う訳がない。
しかも、うずくまって寝ている。
*Sleeping Pretty
「おいおい、とうとう巴の幻覚まで見るようになったんかい」
高校生の自分と中学生の彼女。
彼らの年代にとっては遠恋のようなものだ。
お互い部活も忙しくなかなか合う暇もない。
出来るなら毎日会ってお互いの存在を確かめたい、愛しい彼女。
彼女のことを考えすぎて、幻覚まで見るようになったと
彼が考えてしまっても不思議ではない。
なぜなら、普通、女子中学生がこんな早朝に他人の自宅前で
眠っている訳がないからだ。
もっとも、巴ならありえない訳ではないとちらと思ったりもしたが。
「どないしたもんやろな?おーい、ともえー」
声をかけてみるが、うずくまった体勢でありながら熟睡しているらしい。
身じろぎすらせずにすやすやとよく寝ている。
顔は伏せているので表情までは分からないが、きっと安らかに違いない。
とりあえず忍足は向かい合ってしゃがんでみる。
「なあ、ともえちゃーん?なあ?━━━まいったなあ」
すっかり困惑してしまう。
大体、彼女は早朝に何をしにきたのだろうか。
忍足はこれから部の朝練に参加するつもりでこんな早くに家を出ようとしたのだが
今日の部活をサボったりとか学校自体休みだったら
彼女に気づくのはいつになっただろうか。
きっと、同じフロアの住人に起こされるハメになっていたのだろうか。
いや、この物騒な昨今、下手すれば即通報だ。
彼女の目の前にしゃがみ込み、彼女の耳元に囁きかけてみる。
「このまま寝とったらどうなるかわからんで?ジブン?」
いっそのこと、どうにかしてみようか。
もっとも寝こけている彼女をどうにかしてもつまらないことこの上ないが。
煩いくらいに喋り、ウザイくらいに行動する、動く生身の彼女が好きなのだ。
寝ている彼女はただの人形と同じだ。つまらない。
寝顔なんかを見ている分には楽しいがそれだけだ。
もっとも今は寝顔すら観察できないので、そんな些細な楽しささえ味わえない。
それにしても巴はしつこいまでに起きる気配がない。
寝息がなければ、死んでいるのではないかと疑うまでに。
「しゃあないなあ………よっ」
丁度具合の良いことに彼女はいわゆる体育座りもしくは三角座りと呼ばれる座り方だ。
忍足としては別に彼女をこのまま寝かしたい訳でもないので
何の気遣いもせず強引にお姫様抱っこに持ち込む。
しかし、起きない。
コイツ……ワザと寝たふりしてんのとちゃうやろな?
彼女の状態に疑いを抱かない訳にはいかないが
こうやって彼女を抱く恩恵も受けた訳だし
ずっしりと重い感触は意識のないもの特有の力の抜けた重さだ。
きっと本当に寝ているのだろう。そういうことにしておこう。
忍足は仕方なしに抱いたまま彼女を部屋に入れる。
あーあ、今日の朝練はサボらなあかんな。
あとで跡部にメール入れとかな。
そんな細かいことを考えながら部屋の片隅にあるソファに彼女を横たわらせる。
広めのワンルームの彼の部屋には当然ベッドもあるわけだが
心の隅に躊躇いがあり、意図的に避ける。
彼女の目が覚めたら、何を思うか手に取るように分かるし
自分自身、どんな手を使っても自制心を保ちたい。
そういう意味では部屋に入れた時点で負けに近いのだが。
これまで頑として巴を部屋に入れたことはなかった。
もちろんこの歳になって清いお付き合いがしたいとは思わなかったが
自分の部屋に連れ込んでその流れで…というのは
あまりにも手軽でケジメもなくて、変なところに拘りある彼は嫌だった。
遊びの相手ならそんなこと躊躇わない。
遊びの相手じゃないからそこのところキッチリとしておきたい。
もちろん、彼女からはっきりOKを貰った状態でというのなら別だが
いまのところ、その兆しすらない。
まだテニス命の中2なのだから仕方のないことだが。
15分経過。
流石にいらついてきた。
いささか可哀想ではあるが、忍足の部屋までやってきたのは彼女の意思だ。
流石に室外では早朝と言うことで躊躇われたが
今度は意を決して、耳元で大声を出してみる。
「巴!はよ起きんかい!」
「………っ!」
流石に大声がそうしたのか、身体をびくっと振るわせて巴は目覚めた。
巴の眼前には当然見知らぬ場所が広がっている。
「え?」
ここはどこ?と言おうとして彼女は気づく。
自分は忍足の部屋の前に来ていた。
そして今目の前には忍足の姿。答えは自ずと出るものだ。
「あー、忍足さんのお部屋でしたか?初めて中に入りましたけど」
まだ眠りから醒めやらぬボンヤリとした声で巴は言う。
そしてきょろきょろと周囲を見渡す。
忍足は一人暮らしだと聞いていたが、
案外部屋は生活感がありながらも綺麗に片づいていてこざっぱりとしている。
機能性を優先にした部屋という印象で合理的な彼にふさわしい。
同年代男子の部屋というと、
リョーマをはじめ青学テニス部の面々の部屋しか見たことがないけれど
やはりそれぞれ個性と彼らの生活が出ていた。
たしかに彼の部屋だなあとしみじみ巴は思った。
「で、ジブン、何でこんな時間に俺の部屋の前になんておったん?」
興味深げに周囲を見渡している巴を面白げに眺めながら忍足は訊く。
それに答えるために巴はようやく忍足へと視線を向ける。
今日初めて二人の目が合う。
巴は彼から視線を外さないまま、きっぱりと簡潔に答えた。
「ああ、それは誕生日だからですよ!おめでとうございます!」
今日が何月何日かは忍足自身理解していたので意外だとは言えないが、
しかしながら想定外の返答に目を丸くする。
「は?」
そして、聞き返してみる。
自分の誕生日を彼女はどう祝ってくれるのだろう?
たしかに昨日まではそんなことを色々考えていた。
しかしまさか自分の誕生日祝いに玄関先で寝こけている女が居るとは思わなかった。
巴も忍足の言いたいことは瞬時に理解し、話を続ける。
「別に、私だって忍足さんの家の前で寝ていることがお祝いだなんて言いませんよ!
実は、誕生日プレゼントに忍足さんが何を欲しがっているのかわからなくって
氷帝の皆さんに訊いてみたりもしたんですけれど、あまり役に立たなくて……」
巴は本当に忍足の欲しいものが知りたかったというのに、
氷帝学園の面々と言えば、
「私がプレゼントでーすって言ってみそ」
「オレ、ポッキー詰め合わせとかマジマジうれCー!」
「俺様に馬鹿なこときいてんじゃねえよ、アーン?…なあ、樺地?」
「━━━ウス」
などと、非常に役に立たない情報ばかりを仕入れる結果となってしまった。
もちろん彼らに真面目な相談を持ちかける巴にも責任がないとは言い切れない。
げんなりする回想を振り切って言葉を紡ぐ。
「それで、自分なりに一生懸命考えてみたんですけど、
自分が祝われる立場だったりしたら何が良いかなーって思ったときに
会いたいな、って思っちゃったんです。
朝、誰よりも早く一番にあっておめでとうって言って欲しいかなって」
だから早朝、巴は忍足が朝練で家を出る前に会おうと思った。
しかし、実際家を出る時間は知らなかったし
それを本人に訊いたりして、彼女の思惑がバレてしまっては
喜び半分になってしまうだろうから、始発で早めに来て家の前で待っていた。
そしたら寝てしまった。
「そういう訳です」
「おーまーえーはーアーホーかー」
忍足はリズミカルに関西人独特の歌うような節回しでツッコミを入れる。
「そらジブンが俺のことよう考えてくれて嬉しないって言うんは嘘になる。
せやけど、彼女がそんな危ないことしたら心配でたまらんで」
心底心配そうに巴にそう告げる。
しかし彼女にはあまり心配の理由が分かっていないのか
さほど反省の色もなくきょとんとしている。
「スイマセン。━━━待ちくたびれて寝ちゃったって言うのもありますけど
ここしばらくは『これ』のおかげで眠れてなくって眠かったんです」
がさごそと彼女の傍らに置かれた紙袋から出された『これ』は
編み目の細かい、明らかに手慣れた者が作った手の込んだ手編みのマフラー。
落ち着いたアースカラーはどの服にも馴染むように見える。
忍足も思わず「へえ?」と感嘆混じりに声を上げる。
その声で巴も満足そうな表情になる。
「まだ10月だし、マフラーの時期には早いんですが
どうせなら冬の初めから身につけて欲しいなーなんて思っちゃったり」
照れくさそうに、えへへと笑う。
「…そやな、せっかくやからジブンが俺の首に巻いてくれへんか」
「いま、ですか?」
「そうや、今や」
彼女が彼の首に巻こうと身体を近づける。
まさしく彼にマフラーを巻き付けた瞬間
忍足は彼女の腰を自らの身体に引き寄せて、そのまま彼女の口元に唇を寄せる。
「……んっ」
案外巴は抵抗せず、そのまま為すがままにされる。
むしろ彼女自ら身体をすり寄せてくる感覚を覚えて満足を覚えた。
背中の添えられた彼女の手の感触にゾクゾクさせられる。
━━━これはOKやって思うてもええかな?
そう思いはしたが、しかし自分でも驚いたことに
脳内で自制心がこれ以上はやめとけと働きかけていた。
惜しげに身体を離し、彼女の首筋へと顔を埋める。
ここで流されてやるんは、自分的にみっともないからなあ。
お互いガッコにもちゃんと行かなあかんしな。
こんな時現実的すぎる自分が悲しい。そう思った。
そしてそのまま顔をうずめた体勢で懇願するような口調で彼女にこう言った。
巴は首にくすぐったさを感じだが、そのままにしておいた。
自分の肩に掛かる忍足の体重が心地良い。
「なあ、季節が終わってこのマフラーはずさなあかんようになったら
またジブンの手ではずしてくれんか?」
忍足の言葉の意図がつかめず、巴は少なからず困惑する。
「はい?」
「そんで、そのときは━━━」
忍足は埋めたままの顔を上げ、彼女の耳元に、唇が触れるか触れないかの位置で
お得意の低めの甘いボイスでこうお願いした。
「今以上にジブンに触れてええやろか?とりあえず許可欲しいねんけど」
まあ、今すぐでもかまわへんねんけどな、ジブンの心の準備がまだやろ?
巴はしばらく経ってようやく忍足の意図に気付き、
しかしながら顔を真っ赤にしながら、躊躇いつつも何度も何度もうなづく。
「え、エエですよ……」
「おっ?ジブン、そのイントネーション大阪弁感染ったんちゃうん?
ええ傾向やな、うん」
満足げに巴の目を見据えつつかすかに笑う。
その笑顔は、いつもクセ者と呼ばれるときとはかけ離れた彼自身の笑顔だった。
「巴、待っとき、春になったら」
「春になったら?」
もう一度彼女の耳元に口を寄せ低く甘く囁いた。
「お前を今日みたいに寝かせたりせえへんから、眠り姫さん」
END
赤月巴に手を振って向かってくる宍戸亮が、
突如ギョッとした顔になる。
無理もない。
なぜなら巴が手にしていたのが大きな花束。
二人の性格からしても、二人の逢瀬に花ほど似合わないものはない。
*感謝の花束
「なっ、なんだよ!お前!花束なんて持って…なんのつもりだよ」
今日は宍戸の誕生日だ。
だからもちろん誕生日祝いとして花束を持つということは
アリなのかもしれないが体育会系男子への誕生日プレゼントとして
これほどそぐわないものはない。
その事は同じく体育会系な巴にも分からないことでは無いはずなのだが。
それで「なんのつもりだ」という言葉が出てしまった。
「なんのつもり…ってお祝いですよ?」
はい、と華やかな黄色を基調とした花束を宍戸に手渡す。
その華やかすぎるほどの色のチョイスもあり得ない。
「お前…なあ…?」
なんか、おかしいんじゃねーのか?
と、いう一言はかろうじて飲み込む。
プレゼントを選ぶセンスがおかしかろうか、
一応自分の彼女の立場にある。
そんな女性に向けていい言葉ではない。
そういうところは紳士すぎるほど紳士だ。
「あっ…宍戸さん…もしかして、自分へのプレゼントだと思いましたねー?」
ニヤニヤして巴は宍戸の顔を窺う。
すこし意地の悪い顔だ。
宍戸はその顔を見て憮然とした表情になる。
そりゃ、今日俺の誕生日に花束なんて持ってこられたら自分のだと思うだろうが。
「答えは、じゃーん!宍戸さんのお母さんへのプレゼントでーす」
「……お袋?なんで?」
宍戸の頭の中には疑問符の嵐だ。
今日は自分の誕生日であって、母親の誕生日ではない。
それなのに巴は母親宛のプレゼントを持ってきたという。
「それは、頑張って宍戸さんをこの世に誕生させてくれたからですよ
その事についてはも~~~~~のすごく感謝してるんです!」
巴は本当に嬉しそうにそう語る。
それを見て宍戸も嬉しくなり、思わずめずらしく抱きしめてしまう。
「えっ?えええ?宍戸さん?」
ストレートに態度に表すことが少ない彼の
あまりにもストレートな表現に戸惑いを隠せない。
「サンキュ、きっとお袋も喜ぶと思う。━━━もちろん、俺もな」
耳元で普段聴くことの無いほどの柔らかい声で巴に感謝の言葉を紡ぐ。
「俺も、お袋も今日はイイ記念日になるよ。
俺は━━━そういう前向きな事を恥ずかしがらずやるお前を好きになったんだったな」
END
突如ギョッとした顔になる。
無理もない。
なぜなら巴が手にしていたのが大きな花束。
二人の性格からしても、二人の逢瀬に花ほど似合わないものはない。
*感謝の花束
「なっ、なんだよ!お前!花束なんて持って…なんのつもりだよ」
今日は宍戸の誕生日だ。
だからもちろん誕生日祝いとして花束を持つということは
アリなのかもしれないが体育会系男子への誕生日プレゼントとして
これほどそぐわないものはない。
その事は同じく体育会系な巴にも分からないことでは無いはずなのだが。
それで「なんのつもりだ」という言葉が出てしまった。
「なんのつもり…ってお祝いですよ?」
はい、と華やかな黄色を基調とした花束を宍戸に手渡す。
その華やかすぎるほどの色のチョイスもあり得ない。
「お前…なあ…?」
なんか、おかしいんじゃねーのか?
と、いう一言はかろうじて飲み込む。
プレゼントを選ぶセンスがおかしかろうか、
一応自分の彼女の立場にある。
そんな女性に向けていい言葉ではない。
そういうところは紳士すぎるほど紳士だ。
「あっ…宍戸さん…もしかして、自分へのプレゼントだと思いましたねー?」
ニヤニヤして巴は宍戸の顔を窺う。
すこし意地の悪い顔だ。
宍戸はその顔を見て憮然とした表情になる。
そりゃ、今日俺の誕生日に花束なんて持ってこられたら自分のだと思うだろうが。
「答えは、じゃーん!宍戸さんのお母さんへのプレゼントでーす」
「……お袋?なんで?」
宍戸の頭の中には疑問符の嵐だ。
今日は自分の誕生日であって、母親の誕生日ではない。
それなのに巴は母親宛のプレゼントを持ってきたという。
「それは、頑張って宍戸さんをこの世に誕生させてくれたからですよ
その事についてはも~~~~~のすごく感謝してるんです!」
巴は本当に嬉しそうにそう語る。
それを見て宍戸も嬉しくなり、思わずめずらしく抱きしめてしまう。
「えっ?えええ?宍戸さん?」
ストレートに態度に表すことが少ない彼の
あまりにもストレートな表現に戸惑いを隠せない。
「サンキュ、きっとお袋も喜ぶと思う。━━━もちろん、俺もな」
耳元で普段聴くことの無いほどの柔らかい声で巴に感謝の言葉を紡ぐ。
「俺も、お袋も今日はイイ記念日になるよ。
俺は━━━そういう前向きな事を恥ずかしがらずやるお前を好きになったんだったな」
END
観月が中等部から高等部にあがる事によって変化したもの。
校舎と寮の位置。
一部の外部入学生徒。
そしてもうひとつ。
今まで最上級生であった身が一気に最下級生になってしまった事。
これはつまり、今までのように自由に自分の予定を突き通す事が出来ない、と言う事で。
「そういった理由で。申し訳ありません」
そうやって観月に頭を下げられると、巴に何も言える筈もない。
高等部の特別練習日と巴の誕生日、それが今回見事に重なった。
休日なので一日観月と一緒にいられる、と思いきや休日であったが為に一日会えないという皮肉な結果。
とは言え、目の前で頭を下げて謝る観月に落ち度はまったくない。
部活を優先するのも当然だ。
「じゃあ、先にお祝いしちゃいましょう!」
と、前倒しで誕生日祝をしてもらったのが先週の事。
観月の前できき分け良い彼女を通した巴は、
今、早川に愚痴りまくっていた。
「あーあ、せっかくの誕生日にヒトリかあ」
「そんなに当日に祝って欲しかったんならそう言えばよかったじゃない」
「……そんなワガママ言いたくない」
「じゃ、我慢しなさい」
ばっさりと早川が切り捨てる。
そもそも彼女はこういった非生産的会話が好きではない。
それでも、いささかなげやりではあるが巴の相手をしてやっているのは、結局選択肢がひとつしかなかった彼女がここで愚痴るくらいしかうっぷんのはけ口がないのだとわかっているからだ。
「楓ちゃん、明日の予定は?」
「別に何もないから自主練習に費やすつもりだけど」
相変わらず練習熱心である。
もっとも、それに関しては巴も大差ない。
勢いよく顔を上げる。
「じゃあ、一緒に行こう!」
「あら、私はさしずめ観月さんの代理、なのかしら?」
意地悪く言う早川に巴が頬を膨らませる。
当然、わざと言ったのだが。
「そんなんじゃないって!」
「はいはい。
ほら、貴方まだお風呂入ってないんじゃないの? もうすぐ利用時間が終わるわよ」
早川の言葉を聞いて時計に目を遣り、慌てて立ち上がる。
「うわ! ホントだ! 急がないと!」
慌ただしく入浴準備を整える巴に、
「慌ててお風呂に入るのはいいけど、あがったらちゃんと髪乾かしてから寝なさいよ。
全館冷房なんだから濡れたままじゃ風邪引くわよ」
早川がさながら母親のように声をかけたが、聞こえているのかいないのか、巴は猛ダッシュで部屋を飛び出して言った。
……先に廊下は走るな、と忠告した方がよかったかもしれない。
そして翌朝。
部屋中、いや寮内に響きわたったのは早川の怒号だった。
「アンタねえ、人の忠告をなんだと思ってるのよ!」
彼女が怒るのも無理はない。
忠告を受けたその日に巴はうかつにも睡魔に負けて濡れ髪のまま眠りこんでしまい、まんまと風邪を引いて寝込んでいるのだから。
「うぅ、反省してます……」
情けない声をだす巴に、早川は容赦ない罵声をあびせる。
「当たり前よ!
言っとくけど、私に感染したりしたらただじゃおかないから」
そう言うと、巴の額にタオルでくるんだ保冷剤をのせると、傍らに置いてあった自分のスポーツバックを持って立ち上がった。
「あれ、楓ちゃんどっか行っちゃうの?」
「昨日も言ったでしょ。自主練習」
いいながら振り返ると巴がさながら捨てられた子犬のような目でこちらを見ている。
「……寂しい」
一瞬迷う素振りを見せた早川だったが、すぐに思いなおすと「自業自得よ」ともっともな台詞を投げかけて部屋を去った。
扉の閉まる音。
廊下を去っていく早川の足音。
それが段々と小さくなり、消える。
静寂の中で、自分の熱っぽい息を吐く音だけが耳につく。
そういえば、熱出したのも久しぶりだな。
観月さんは、今頃どうしてるかなあ。
もう部活に行ったのかな。今日は特別練習だって言ってたし。
初めて今日予定がつぶれていて良かった、と思った。
観月と約束をしていたら、心配をかけていただろうし、自分のがっかり具合だって今の比じゃなかっただろうから。
そんなことを考えている間に、ゆっくりと巴は眠りについていた。
額に当たる冷たい感触に、意識が戻る。
人の気配にうっすらと瞼を開く。
「おや、起こしてしまいましたか?」
耳に心地いい声。
視界に入ったその姿に、一気に覚醒する。
「み、みみみみみ観月さん!?」
慌てて顔をあげた拍子にタオルが落ちた。
どうやら保冷剤を取り替えてくれていたらしい。
熱があるのに勢いにまかせて急に起き上がったりした為、めまいに襲われる。
「大丈夫ですか? 巴くん」
かけられた声に、我に返る。
夢じゃない、本当に本物の観月だ。
「……観月さん?」
「なんですか?」
「今、何時ですか?」
「1時を少し過ぎたあたりですね」
時計に目を遣り観月が答える。
平静を装っているが、なんとなく巴の狼狽ぶりを楽しんでいる節がある。
そうわかっていても訳がわからないので尋ねずにはいられない。
巴に腹芸などできる筈がないのだ。
「観月さん、部活は? なんでこんなところにいるんですか?」
巴の質問に、観月は巴が机の上に置いていた携帯電話を手にとって渡した。
受け取ると、メール着信を示す青いランプが点灯している。
「キミの質問の答えは、おそらくこの中です」
二つ折りの携帯を開く。
発信元は、……早川。
そして、ルドルフテニス部の皆。
「一年に一度の事ですからね。
特例としてボクも彼らの思惑に乗ったわけですが……」
ここで、観月が言葉を途切れさせる。
「キミは病人なわけですし、ボクがここにいる事が落ち着かないと言うことであれば遠慮なく言ってください。
ただ、本音の答えを。
その答えが肯定でも否定でも、ボクに対する気遣いや遠慮はなしにして正直な気持ちだけで答えてください」
しばらく、返事がなかった。
巴は携帯電話の画面を凝視したままだ。
やがて、ゆっくりと携帯を閉じると、観月のほうを向く。
「観月さん、私、果報者ですねぇ」
そんな事を言ってなんともうれしそうな顔を見せる。
自分だけの力でその表情を引き出したわけでないことは若干複雑だが、彼女のそんな顔を見られるのは素直に嬉しい。
せっかくの誕生日に風邪で寝込んでしまっている不運よりも、皆にこうして想われている幸福を喜ぶ事ができる。
それが彼女の最大の長所なのだろう。
「……正直なところ、観月さんが傍にいたら、緊張してもったいなくておちおち寝ていられないです。
でも……観月さんが傍にいてくれたら、嬉しいです。ここにいてもらってもいいですか?」
考え考え口にした巴の言葉に、観月はにっこり微笑んだ。
「んふっ、当然ですよ。
ああそうだ、言い忘れていました。巴くん……」
そう言うと、観月は他にこの場に誰も彼らの言葉を聞く人がいないにもかかわらず、巴の耳元に顔を寄せ、小さな声で囁いた。
――― HAPPY BIRTHDAY!! ―――
校舎と寮の位置。
一部の外部入学生徒。
そしてもうひとつ。
今まで最上級生であった身が一気に最下級生になってしまった事。
これはつまり、今までのように自由に自分の予定を突き通す事が出来ない、と言う事で。
「そういった理由で。申し訳ありません」
そうやって観月に頭を下げられると、巴に何も言える筈もない。
高等部の特別練習日と巴の誕生日、それが今回見事に重なった。
休日なので一日観月と一緒にいられる、と思いきや休日であったが為に一日会えないという皮肉な結果。
とは言え、目の前で頭を下げて謝る観月に落ち度はまったくない。
部活を優先するのも当然だ。
「じゃあ、先にお祝いしちゃいましょう!」
と、前倒しで誕生日祝をしてもらったのが先週の事。
観月の前できき分け良い彼女を通した巴は、
今、早川に愚痴りまくっていた。
「あーあ、せっかくの誕生日にヒトリかあ」
「そんなに当日に祝って欲しかったんならそう言えばよかったじゃない」
「……そんなワガママ言いたくない」
「じゃ、我慢しなさい」
ばっさりと早川が切り捨てる。
そもそも彼女はこういった非生産的会話が好きではない。
それでも、いささかなげやりではあるが巴の相手をしてやっているのは、結局選択肢がひとつしかなかった彼女がここで愚痴るくらいしかうっぷんのはけ口がないのだとわかっているからだ。
「楓ちゃん、明日の予定は?」
「別に何もないから自主練習に費やすつもりだけど」
相変わらず練習熱心である。
もっとも、それに関しては巴も大差ない。
勢いよく顔を上げる。
「じゃあ、一緒に行こう!」
「あら、私はさしずめ観月さんの代理、なのかしら?」
意地悪く言う早川に巴が頬を膨らませる。
当然、わざと言ったのだが。
「そんなんじゃないって!」
「はいはい。
ほら、貴方まだお風呂入ってないんじゃないの? もうすぐ利用時間が終わるわよ」
早川の言葉を聞いて時計に目を遣り、慌てて立ち上がる。
「うわ! ホントだ! 急がないと!」
慌ただしく入浴準備を整える巴に、
「慌ててお風呂に入るのはいいけど、あがったらちゃんと髪乾かしてから寝なさいよ。
全館冷房なんだから濡れたままじゃ風邪引くわよ」
早川がさながら母親のように声をかけたが、聞こえているのかいないのか、巴は猛ダッシュで部屋を飛び出して言った。
……先に廊下は走るな、と忠告した方がよかったかもしれない。
そして翌朝。
部屋中、いや寮内に響きわたったのは早川の怒号だった。
「アンタねえ、人の忠告をなんだと思ってるのよ!」
彼女が怒るのも無理はない。
忠告を受けたその日に巴はうかつにも睡魔に負けて濡れ髪のまま眠りこんでしまい、まんまと風邪を引いて寝込んでいるのだから。
「うぅ、反省してます……」
情けない声をだす巴に、早川は容赦ない罵声をあびせる。
「当たり前よ!
言っとくけど、私に感染したりしたらただじゃおかないから」
そう言うと、巴の額にタオルでくるんだ保冷剤をのせると、傍らに置いてあった自分のスポーツバックを持って立ち上がった。
「あれ、楓ちゃんどっか行っちゃうの?」
「昨日も言ったでしょ。自主練習」
いいながら振り返ると巴がさながら捨てられた子犬のような目でこちらを見ている。
「……寂しい」
一瞬迷う素振りを見せた早川だったが、すぐに思いなおすと「自業自得よ」ともっともな台詞を投げかけて部屋を去った。
扉の閉まる音。
廊下を去っていく早川の足音。
それが段々と小さくなり、消える。
静寂の中で、自分の熱っぽい息を吐く音だけが耳につく。
そういえば、熱出したのも久しぶりだな。
観月さんは、今頃どうしてるかなあ。
もう部活に行ったのかな。今日は特別練習だって言ってたし。
初めて今日予定がつぶれていて良かった、と思った。
観月と約束をしていたら、心配をかけていただろうし、自分のがっかり具合だって今の比じゃなかっただろうから。
そんなことを考えている間に、ゆっくりと巴は眠りについていた。
額に当たる冷たい感触に、意識が戻る。
人の気配にうっすらと瞼を開く。
「おや、起こしてしまいましたか?」
耳に心地いい声。
視界に入ったその姿に、一気に覚醒する。
「み、みみみみみ観月さん!?」
慌てて顔をあげた拍子にタオルが落ちた。
どうやら保冷剤を取り替えてくれていたらしい。
熱があるのに勢いにまかせて急に起き上がったりした為、めまいに襲われる。
「大丈夫ですか? 巴くん」
かけられた声に、我に返る。
夢じゃない、本当に本物の観月だ。
「……観月さん?」
「なんですか?」
「今、何時ですか?」
「1時を少し過ぎたあたりですね」
時計に目を遣り観月が答える。
平静を装っているが、なんとなく巴の狼狽ぶりを楽しんでいる節がある。
そうわかっていても訳がわからないので尋ねずにはいられない。
巴に腹芸などできる筈がないのだ。
「観月さん、部活は? なんでこんなところにいるんですか?」
巴の質問に、観月は巴が机の上に置いていた携帯電話を手にとって渡した。
受け取ると、メール着信を示す青いランプが点灯している。
「キミの質問の答えは、おそらくこの中です」
二つ折りの携帯を開く。
発信元は、……早川。
そして、ルドルフテニス部の皆。
「一年に一度の事ですからね。
特例としてボクも彼らの思惑に乗ったわけですが……」
ここで、観月が言葉を途切れさせる。
「キミは病人なわけですし、ボクがここにいる事が落ち着かないと言うことであれば遠慮なく言ってください。
ただ、本音の答えを。
その答えが肯定でも否定でも、ボクに対する気遣いや遠慮はなしにして正直な気持ちだけで答えてください」
しばらく、返事がなかった。
巴は携帯電話の画面を凝視したままだ。
やがて、ゆっくりと携帯を閉じると、観月のほうを向く。
「観月さん、私、果報者ですねぇ」
そんな事を言ってなんともうれしそうな顔を見せる。
自分だけの力でその表情を引き出したわけでないことは若干複雑だが、彼女のそんな顔を見られるのは素直に嬉しい。
せっかくの誕生日に風邪で寝込んでしまっている不運よりも、皆にこうして想われている幸福を喜ぶ事ができる。
それが彼女の最大の長所なのだろう。
「……正直なところ、観月さんが傍にいたら、緊張してもったいなくておちおち寝ていられないです。
でも……観月さんが傍にいてくれたら、嬉しいです。ここにいてもらってもいいですか?」
考え考え口にした巴の言葉に、観月はにっこり微笑んだ。
「んふっ、当然ですよ。
ああそうだ、言い忘れていました。巴くん……」
そう言うと、観月は他にこの場に誰も彼らの言葉を聞く人がいないにもかかわらず、巴の耳元に顔を寄せ、小さな声で囁いた。
――― HAPPY BIRTHDAY!! ―――
「ん、どうして観月が来ているんだ」
かけられた言葉に不機嫌に観月が振り返る。
どうしてもこうしても、今日が練習日であるからに他ならない。
巴の誕生日だからという理由で部活を休むほど観月は不真面目な部員ではない。
―――これが一年前であったら、日程をずらす程度の事はやったかもしれないが。
「部活がある日に学校に来ていて何がおかしいと言うんですか、赤澤君」
観月ににらみつけられても赤澤はどこ吹く風である。
とぼけた口調でこんな妙な事を言った。
「いや、お前昨日から熱を出して寝込んでいたのに無理に部活に出たりしないほうがいいんじゃないのか?」
「は?」
思わず彼らしくもない間の抜けた返答を返してしまった。
何を寝ぼけた事を言っているのか。
観月は昨日どころかもうずっと健康そのものである。
「何を馬鹿な事を……!」
突然口をふさがれた。
木更津である。
「そうそう、まだ熱も下がってないのに無茶はしない方がいいだーね」
「う、うん。そう。顔色も良くないみたいだし」
その横から口を出す柳沢と野村。
訳が分からない。
なおも何か言おうとする観月を制して木更津が口を開いた。
「さっき、早川からメールが来てさ」
「早川くんから?」
それがこの状況となんの関わりがあるというのか。
「赤月、今朝から熱出して寝込んでるそうだぞ」
「……!」
それでか。
やっとこの周りの不可解な言動の意味が分かった。
しかしそれで納得して彼らの思うままに踊るほど観月は単純な性格をしていない。
彼女に関する事で彼らに借りを作るのは嫌だ。
「それはわかりました。
しかし、そんな個人的理由ではボクが部活を休む理由にはなりません」
観月がそんな事を言うくらいは予測が出来ていたのだろう。
木更津がくすくすと、例の非常に感に触る(今の観月にとっては、だが)笑いをし、赤澤が苦笑いを浮かべる。
「まあそういうな観月。
別にいつも部活をサボっていいと言っているわけじゃない。
今日は赤月の誕生日なんだろう? 年に一度の特例だ」
「そうそう、それに観月は勘違いしているみたいだけど、これは僕らの巴への誕生日プレゼントであって、観月に拒否権はないんだよ」
自分の意思は、この際関係ないのだと。
したがってこれは貸しにも借りにもならない。
さすがに何年も付き合っているだけあって観月の性格を良く分かっている。
無駄な意地を張り通してしまう前に、先手を打たれた。
「…………わかりました。
キミたちの言うとおり、体調不良で練習に参加しても益はありませんからね。
失礼する事にします。 言っておきますが、これは特例ですからね。今日が彼女の誕生日で、しかも病気だからですよ。そこのところは勘違いしないでください」
幸いと言うかなんと言うか、立ち去る観月の背に「やっぱり素直じゃないだーね」と揶揄する柳沢の言葉は届いていない。
しかし、だ。
彼女の事を心配するあまりに勢い彼らに乗せられてここまで来てしまったものの、病気のときと言うものは一人でゆっくりと養生していたいものなのではないだろうか。
早川に案内されて巴のところまで到着した頃にようやくそんな事に気がついた。
やはり、動転しているらしい。
巴は、よく眠っている。
思ったよりは大丈夫そうだ。
これならば今日一日おとなしく寝ていれば明日には元気になる程度の風邪だろう。
どちらにせよ、今日はもう練習に戻る事は出来ないのだから、ここでゆっくりと彼女の目が覚めるのを待つ事にしよう。
それからの事はそれから考えればいい。
抜けた分の練習は夜にでも自主練習で補おう。
観月にしては珍しく、そんな場当たり的な事を考えながら、傍らの学習机の椅子を引いて、腰を下ろす。
たまには、こうやってゆっくり静かに彼女の寝顔を眺めているのも、悪くはない。
かけられた言葉に不機嫌に観月が振り返る。
どうしてもこうしても、今日が練習日であるからに他ならない。
巴の誕生日だからという理由で部活を休むほど観月は不真面目な部員ではない。
―――これが一年前であったら、日程をずらす程度の事はやったかもしれないが。
「部活がある日に学校に来ていて何がおかしいと言うんですか、赤澤君」
観月ににらみつけられても赤澤はどこ吹く風である。
とぼけた口調でこんな妙な事を言った。
「いや、お前昨日から熱を出して寝込んでいたのに無理に部活に出たりしないほうがいいんじゃないのか?」
「は?」
思わず彼らしくもない間の抜けた返答を返してしまった。
何を寝ぼけた事を言っているのか。
観月は昨日どころかもうずっと健康そのものである。
「何を馬鹿な事を……!」
突然口をふさがれた。
木更津である。
「そうそう、まだ熱も下がってないのに無茶はしない方がいいだーね」
「う、うん。そう。顔色も良くないみたいだし」
その横から口を出す柳沢と野村。
訳が分からない。
なおも何か言おうとする観月を制して木更津が口を開いた。
「さっき、早川からメールが来てさ」
「早川くんから?」
それがこの状況となんの関わりがあるというのか。
「赤月、今朝から熱出して寝込んでるそうだぞ」
「……!」
それでか。
やっとこの周りの不可解な言動の意味が分かった。
しかしそれで納得して彼らの思うままに踊るほど観月は単純な性格をしていない。
彼女に関する事で彼らに借りを作るのは嫌だ。
「それはわかりました。
しかし、そんな個人的理由ではボクが部活を休む理由にはなりません」
観月がそんな事を言うくらいは予測が出来ていたのだろう。
木更津がくすくすと、例の非常に感に触る(今の観月にとっては、だが)笑いをし、赤澤が苦笑いを浮かべる。
「まあそういうな観月。
別にいつも部活をサボっていいと言っているわけじゃない。
今日は赤月の誕生日なんだろう? 年に一度の特例だ」
「そうそう、それに観月は勘違いしているみたいだけど、これは僕らの巴への誕生日プレゼントであって、観月に拒否権はないんだよ」
自分の意思は、この際関係ないのだと。
したがってこれは貸しにも借りにもならない。
さすがに何年も付き合っているだけあって観月の性格を良く分かっている。
無駄な意地を張り通してしまう前に、先手を打たれた。
「…………わかりました。
キミたちの言うとおり、体調不良で練習に参加しても益はありませんからね。
失礼する事にします。 言っておきますが、これは特例ですからね。今日が彼女の誕生日で、しかも病気だからですよ。そこのところは勘違いしないでください」
幸いと言うかなんと言うか、立ち去る観月の背に「やっぱり素直じゃないだーね」と揶揄する柳沢の言葉は届いていない。
しかし、だ。
彼女の事を心配するあまりに勢い彼らに乗せられてここまで来てしまったものの、病気のときと言うものは一人でゆっくりと養生していたいものなのではないだろうか。
早川に案内されて巴のところまで到着した頃にようやくそんな事に気がついた。
やはり、動転しているらしい。
巴は、よく眠っている。
思ったよりは大丈夫そうだ。
これならば今日一日おとなしく寝ていれば明日には元気になる程度の風邪だろう。
どちらにせよ、今日はもう練習に戻る事は出来ないのだから、ここでゆっくりと彼女の目が覚めるのを待つ事にしよう。
それからの事はそれから考えればいい。
抜けた分の練習は夜にでも自主練習で補おう。
観月にしては珍しく、そんな場当たり的な事を考えながら、傍らの学習机の椅子を引いて、腰を下ろす。
たまには、こうやってゆっくり静かに彼女の寝顔を眺めているのも、悪くはない。
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