「ほえー自分のパスポートって、こんなのなんだー。
お父さんの持ってるやつと色が違うんだ…ふーん」
できたてほやほやの自分のパスポートを眺めつつ、巴は旅券事務所をあとにした。
巴は先日、Jr選抜大会において跡部とペアを組んで優勝した。
大会の優勝者はオーストラリアでの国際大会の参加券が与えられるため
Jr選抜参加者には、事前にパスポートの用意が必須となっていたのだ。
巴はパスポートを持っていなかったので、選抜前に申請を出して
ちょうど大会終了直後の今日に受け取ることになったのだった。
大会で敗退すれば、このパスポートもムダになるところだったが、
優勝したために相応の重みを持って受け取ることが出来た。
「おっと…パスポートに見とれてる場合じゃなかった!
待ち合わせ!」
この後、跡部と待ち合わせてオーストラリアの大会に向けて打ち合わせる予定だった。
自分を律し、それを他人にも求める跡部は当然時間にも厳しい。
これまでの付き合いで遅れたら冷たい言葉が飛ぶのは分かっている。
持ち前の脚力を生かしてあわてて待ち合わせの場所へと走っていった。
*10years
跡部と待ち合わせしている駅前広場。
待ち合わせの時間まであと5分あったが、跡部は既に待っていた。
もっとも、時間に間に合うように巴も到着したので怒るようなことはなかった。
そういうところは非常にフェアな男だ。
「よぉ、なんだか嬉しそうな顔をしてるじゃねえか。どうした?」
巴はいつも顔色が良いが、今日は特に良く見えたのでそう尋ねてみる。
こういう時の巴の顔は正直で、良いことがあったときはよく分かる。
「はいっ!今日パスポートが出来たので受け取りに行ってきたんですよ」
じゃーん、と言いながら、巴は自分のパスポートを高く掲げる。
それは何の変哲もない5年用の赤いパスポートだが
巴が掲げることによって何か特別な物のようにも感じられる。
実際初めてパスポートを取得した巴にとっては重要な物だったが。
「なんだ?お前パスポート持ってなかったのか」
どれだけ素晴らしい物が出てくるかと思えば単なるパスポート。
年に何度も海外に行く跡部には見慣れた物で、やや拍子抜けする。
こういうもので喜べるところはやっぱりガキだなとも思う。
「世の中の皆が皆、海外へ行く訳じゃないんですよ、跡部さんじゃあるまいし」
跡部の内心を悟った巴は少しムッとした表情で抗議する。
表情のコロコロと変わる、そんな巴を面白げに眺めて、
「俺じゃあるまいし…って…まあいい。見せてみろよ、パスポート」
手に持っていた巴のパスポートをひょいと取り上げ、後ろのページを開く。
身分証明の写真と巴本人を交互に見比べて感想を素直に述べる。
「案外、キレイに映ってるじゃねーか、写真」
確かにどんな人でも気を抜くと指名手配犯のようになってしまう証明写真が
まるで有名写真家にでも撮ってもらったかのような良い出来になっていた。
学生証やパスポートの写真に失敗したという話はよく聞くが、
逆に成功したという話は滅多に聞いたことがない。
コイツは妙なところで運が良いというか何というか…。
巴の奥の深さに跡部はとにかく感心した。
「はい!近所の写真館のおじさんの力作です。リョーマくんが連れてってくれました」
跡部の言葉を素直に褒め言葉として受け取り、
嬉しそうにニコニコとして巴はそう答える。
『リョーマ』という単語は余計だったとは気づいていない。
当然その単語に反応して眉を跳ね上げる跡部の様子にも気づいていない。
ただ跡部からパスポートを取り返して大事そうに鞄にしまっている。
「越前と…ね」
巴に聞こえないくらい押し殺した小さな声で呟く。
こんなところで気分を害するのは、大人げないと跡部は必死に自分を押さえる。
越前リョーマは巴の同居人で同級生で同じ部活の仲間だ。
そのことを考えると非常にやるせない気分になるし、
いっそこのまま連れ去って氷帝に入学させて自分の家に住まわせたいとも思う。
けれども、それを行えるのは『自分』ではない。
結局、そういったことは跡部といえども大人の手が必要になってしまう。
自分はまだ世間では15才でしかない。
世の中の全てを自分の手で賄えると思えるほど、幼くはない。
いま、巴を自分の手中に入れたとしても、
全てが自分の思い通りに、自分の力のみで動かせる訳ではないのだ。
せめて、自分の足だけで世界に立てるようになるまでは待つべきだ。
誰かの手を借りてまで、彼女をそばに置こうなんてまっぴらだ。
それがつまらない嫉妬のためだというならばなおさらだ。
そう彼のプライドはそう告げている。
彼女を自分の籠に閉じこめて鍵をかけてしまうのはまだ早い。
「━━━今日パスポートを作ったって事は次のパスポートの更新は18才の時だな、
じゃあ次の次くらいが妥当って所か……」
まるで独り言を呟くように跡部は声を出した。
何か考えているような表情だったが、巴には何を考えているのか分からなかった。
もちろん、そこまで人の気持ちに聡い彼女だったなら、
跡部とてこれまでも苦労しなかったのだろうが。
「なにが妥当なんですか?次って?」
経験上、跡部が考えていることを読める訳がないと思っている巴は
探ることをはなから諦めて、直接声に出して問いただしてみる。
一体、なにが妥当だというのだろうか?
回数には意味があるのだろうか?
「パスポートの更新手続きと変更手続きは1度にした方が楽だって事だよ」
そんな簡単なことも分からないのかと言外に匂わせて跡部はそう答える。
更新手続きは未成年は5年ごと。
13才の巴が次に更新するのは18才で、さらに次は23才。
変更手続きと言えば、住所氏名が変わるときにするものだろう。
そこでなぜ、変更の話になるのか分からない。
「えっと…やっぱり意味が分からないんですけど…?」
跡部は自分についてなにか予知しているとでも言うのだろうか?
頭の中はクエスチョンマークだらけで混乱を来している。
この人の言っている意味が掴めない。
それが表情にも出ているため、跡部は思わずいらだち紛れに答える。
いちいち説明するのも恥ずかしいと思いながら。
「鈍いヤツだな、ちょうど10年後ぐらいにお前の姓を変えてやるってんだよ、俺が。
そうなるとパスポートも変更手続きしないといけないだろう?」
姓を、跡部が、変えてくれる。
その意味に気づくと同時に頭を抱える。
跡部は色々と常人離れしているが、言動に置いても相当のものだと巴は痛感する。
まさか、プロポーズだったとはついぞ気づかなかった。
もっともこの年齢でこんな事態に陥るとは普通の人は思うはずもないだろう。
自分自身、他人より突き抜けた部分があることは自覚していたが
それでもやはり跡部に比べれば凡庸な何て事のない女子中学生だ。
夢物語、妄想の一環として跡部の隣に立つ自分を想像したことはあるが、
これは想像の範囲外だ。
「ええっ」
あまりのことに巴は頭がパンクしてまともな答えが出てこない。
跡部自身は少し喋りすぎたと思い、巴の反応も気にしない。
正直彼とてここまで言うつもりではなかった。
『越前』というスイッチを押されるまでは。
このスイッチを押されてはどんな冷静な自分も焦り始める。
確実にじわじわと近づく目に見える脅威だった。
「まあ、そういうことだ」
「はあ」
「次からは跡部家専属の写真館で、もっとキレイに撮ってやるよ」
もちろん、連れて行くのは越前じゃなく、この俺だ。
そのときには彼女の隣に立って写真を撮るのも良いだろう。
きっといい絵になるに違いないと跡部は想像する。
「気が早いですよ…10年後なんてどうなってるかも分からないのに」
いくら巴でも、10年後のことを言われても困ってしまう。
人の心は移ろいやすいものだ。
自分が引き続き跡部のことが好きなのは間違いなさそうだが、
果たして跡部もそうだろうか?
カリスマ性のある彼は色んな人間を惹き付ける。
彼に近づく人間の中に彼の眼鏡に叶う者がいないとも限らない。
今現在、巴が彼の隣に立つのを許されているのも不思議なくらいなのだから。
そのとき、自分はあっさり捨てられるのではないだろうか?
この可能性は否定できず、巴の心に突き刺さる。
「バカか?お前は。お前はこの俺様が選んだ女なんだぜ?
10年後も俺が目を離せない様なイイ女であるに決まってる」
彼女が彼女で━━━ひたむきで明るくて真っ直ぐに自分を見つめる、
そのままの彼女でいるならば、これからもずっと隣に並んでいたい。
跡部はそう願う。
「でも、私自身はそれほどイイ女である自信がないんですが…」
心底自信がなさそうに巴はそう告げる。
自分は全てに於いて凡庸だ。
特別賢くもなければ美人でもない。
跡部のようなカリスマ性も持ち合わせている訳でない。
彼の隣を歩くたびに繰り返す疑問は、ここでも当然わき上がる。
当然、跡部の隣を歩けるように努力は続けているけれども
それが実になったことはまだ無かった。
「せいぜい、俺に見合うように女磨いとけよ」
しかし、跡部はそんな巴の悩みも気にしない。
巴は巴であればいい、そう思っている。
巴が密かに頑張っているのも知っている。
いつか実になればいいとは思っているが、そうでなくても構わないとも思っている。
もっとも、何事にも向上していく彼女を見るのは嬉しく楽しいものだが。
「み、磨き過ぎちゃったときはどうすればいいんですか?」
余計な心配という気もしないでもないが、
自分の頑張っている現状を鑑みて巴はそう尋ねる。
あると思えないが、自分が頑張りすぎて素晴らしい女性になる可能性。
そんな未来だってあるかも知れない。
非常に前向きな巴は、そんな可能性について訊かずにはいられなかった。
たしかに、私は頑張るけど、その時跡部さんはどうするの?
そう試す一言でもあった。
「アーン?その時は俺が頑張ってお前に見合う男になるに決まってるだろうが」
至極当然と言った表情で跡部はそう返す。
他人が努力するなら、自分もそれ相応、いやそれ以上の努力をする。
それをこれまで当然だとしてきた。それが例えどんなことだとしてもだ。
巴がいい女になるべく努力するというのなら、自分もそれ相応の努力をしよう。
好きな相手に対してのことならば、なおさらだ。
それが当然だと難なく答える。
「ま、互いに頑張ればちょうど10年後ぐらいには誰にも有無を言わせない
世界一の新郎新婦になってると思わねえか?」
そんなバカみたいに誠実なところを見せられて、
それに加えていつしか自分に寄り添っていて、
とどめに耳元でそんなことを低く囁かれたら頷くしかないじゃない?
なんだかんだ言ってもう自分は彼に陥落しているのだ。
10年後、自分がいい女だったとしても、そうじゃないとしても
彼の隣にいるのは自分であってみせる。
そう決意を込めながら、ひとつ大きく頷いてみせた。
「じゃあ、これは約束の証にもらっとくぜ?」
頷き顔を上げた勢いでかすかに上ずった額に、約束の印をひとつ落とす。
「まあ、これからはどこにでも何度でも約束の印付けてやるから覚悟してな」
思わず何か庇うように額を手で押さえつつ巴は問う。
「10年後まで━━━約束の日までですか?」
「いや?これからずっと一生に決まってんだろ、覚悟しとけ」
跡部自身、今日こんな事まで話すつもりはなかったのだが、
それでもいつかは話すことだから今でも構わないかと思い直す。
早いか遅いかだけの差だ。
END
お父さんの持ってるやつと色が違うんだ…ふーん」
できたてほやほやの自分のパスポートを眺めつつ、巴は旅券事務所をあとにした。
巴は先日、Jr選抜大会において跡部とペアを組んで優勝した。
大会の優勝者はオーストラリアでの国際大会の参加券が与えられるため
Jr選抜参加者には、事前にパスポートの用意が必須となっていたのだ。
巴はパスポートを持っていなかったので、選抜前に申請を出して
ちょうど大会終了直後の今日に受け取ることになったのだった。
大会で敗退すれば、このパスポートもムダになるところだったが、
優勝したために相応の重みを持って受け取ることが出来た。
「おっと…パスポートに見とれてる場合じゃなかった!
待ち合わせ!」
この後、跡部と待ち合わせてオーストラリアの大会に向けて打ち合わせる予定だった。
自分を律し、それを他人にも求める跡部は当然時間にも厳しい。
これまでの付き合いで遅れたら冷たい言葉が飛ぶのは分かっている。
持ち前の脚力を生かしてあわてて待ち合わせの場所へと走っていった。
*10years
跡部と待ち合わせしている駅前広場。
待ち合わせの時間まであと5分あったが、跡部は既に待っていた。
もっとも、時間に間に合うように巴も到着したので怒るようなことはなかった。
そういうところは非常にフェアな男だ。
「よぉ、なんだか嬉しそうな顔をしてるじゃねえか。どうした?」
巴はいつも顔色が良いが、今日は特に良く見えたのでそう尋ねてみる。
こういう時の巴の顔は正直で、良いことがあったときはよく分かる。
「はいっ!今日パスポートが出来たので受け取りに行ってきたんですよ」
じゃーん、と言いながら、巴は自分のパスポートを高く掲げる。
それは何の変哲もない5年用の赤いパスポートだが
巴が掲げることによって何か特別な物のようにも感じられる。
実際初めてパスポートを取得した巴にとっては重要な物だったが。
「なんだ?お前パスポート持ってなかったのか」
どれだけ素晴らしい物が出てくるかと思えば単なるパスポート。
年に何度も海外に行く跡部には見慣れた物で、やや拍子抜けする。
こういうもので喜べるところはやっぱりガキだなとも思う。
「世の中の皆が皆、海外へ行く訳じゃないんですよ、跡部さんじゃあるまいし」
跡部の内心を悟った巴は少しムッとした表情で抗議する。
表情のコロコロと変わる、そんな巴を面白げに眺めて、
「俺じゃあるまいし…って…まあいい。見せてみろよ、パスポート」
手に持っていた巴のパスポートをひょいと取り上げ、後ろのページを開く。
身分証明の写真と巴本人を交互に見比べて感想を素直に述べる。
「案外、キレイに映ってるじゃねーか、写真」
確かにどんな人でも気を抜くと指名手配犯のようになってしまう証明写真が
まるで有名写真家にでも撮ってもらったかのような良い出来になっていた。
学生証やパスポートの写真に失敗したという話はよく聞くが、
逆に成功したという話は滅多に聞いたことがない。
コイツは妙なところで運が良いというか何というか…。
巴の奥の深さに跡部はとにかく感心した。
「はい!近所の写真館のおじさんの力作です。リョーマくんが連れてってくれました」
跡部の言葉を素直に褒め言葉として受け取り、
嬉しそうにニコニコとして巴はそう答える。
『リョーマ』という単語は余計だったとは気づいていない。
当然その単語に反応して眉を跳ね上げる跡部の様子にも気づいていない。
ただ跡部からパスポートを取り返して大事そうに鞄にしまっている。
「越前と…ね」
巴に聞こえないくらい押し殺した小さな声で呟く。
こんなところで気分を害するのは、大人げないと跡部は必死に自分を押さえる。
越前リョーマは巴の同居人で同級生で同じ部活の仲間だ。
そのことを考えると非常にやるせない気分になるし、
いっそこのまま連れ去って氷帝に入学させて自分の家に住まわせたいとも思う。
けれども、それを行えるのは『自分』ではない。
結局、そういったことは跡部といえども大人の手が必要になってしまう。
自分はまだ世間では15才でしかない。
世の中の全てを自分の手で賄えると思えるほど、幼くはない。
いま、巴を自分の手中に入れたとしても、
全てが自分の思い通りに、自分の力のみで動かせる訳ではないのだ。
せめて、自分の足だけで世界に立てるようになるまでは待つべきだ。
誰かの手を借りてまで、彼女をそばに置こうなんてまっぴらだ。
それがつまらない嫉妬のためだというならばなおさらだ。
そう彼のプライドはそう告げている。
彼女を自分の籠に閉じこめて鍵をかけてしまうのはまだ早い。
「━━━今日パスポートを作ったって事は次のパスポートの更新は18才の時だな、
じゃあ次の次くらいが妥当って所か……」
まるで独り言を呟くように跡部は声を出した。
何か考えているような表情だったが、巴には何を考えているのか分からなかった。
もちろん、そこまで人の気持ちに聡い彼女だったなら、
跡部とてこれまでも苦労しなかったのだろうが。
「なにが妥当なんですか?次って?」
経験上、跡部が考えていることを読める訳がないと思っている巴は
探ることをはなから諦めて、直接声に出して問いただしてみる。
一体、なにが妥当だというのだろうか?
回数には意味があるのだろうか?
「パスポートの更新手続きと変更手続きは1度にした方が楽だって事だよ」
そんな簡単なことも分からないのかと言外に匂わせて跡部はそう答える。
更新手続きは未成年は5年ごと。
13才の巴が次に更新するのは18才で、さらに次は23才。
変更手続きと言えば、住所氏名が変わるときにするものだろう。
そこでなぜ、変更の話になるのか分からない。
「えっと…やっぱり意味が分からないんですけど…?」
跡部は自分についてなにか予知しているとでも言うのだろうか?
頭の中はクエスチョンマークだらけで混乱を来している。
この人の言っている意味が掴めない。
それが表情にも出ているため、跡部は思わずいらだち紛れに答える。
いちいち説明するのも恥ずかしいと思いながら。
「鈍いヤツだな、ちょうど10年後ぐらいにお前の姓を変えてやるってんだよ、俺が。
そうなるとパスポートも変更手続きしないといけないだろう?」
姓を、跡部が、変えてくれる。
その意味に気づくと同時に頭を抱える。
跡部は色々と常人離れしているが、言動に置いても相当のものだと巴は痛感する。
まさか、プロポーズだったとはついぞ気づかなかった。
もっともこの年齢でこんな事態に陥るとは普通の人は思うはずもないだろう。
自分自身、他人より突き抜けた部分があることは自覚していたが
それでもやはり跡部に比べれば凡庸な何て事のない女子中学生だ。
夢物語、妄想の一環として跡部の隣に立つ自分を想像したことはあるが、
これは想像の範囲外だ。
「ええっ」
あまりのことに巴は頭がパンクしてまともな答えが出てこない。
跡部自身は少し喋りすぎたと思い、巴の反応も気にしない。
正直彼とてここまで言うつもりではなかった。
『越前』というスイッチを押されるまでは。
このスイッチを押されてはどんな冷静な自分も焦り始める。
確実にじわじわと近づく目に見える脅威だった。
「まあ、そういうことだ」
「はあ」
「次からは跡部家専属の写真館で、もっとキレイに撮ってやるよ」
もちろん、連れて行くのは越前じゃなく、この俺だ。
そのときには彼女の隣に立って写真を撮るのも良いだろう。
きっといい絵になるに違いないと跡部は想像する。
「気が早いですよ…10年後なんてどうなってるかも分からないのに」
いくら巴でも、10年後のことを言われても困ってしまう。
人の心は移ろいやすいものだ。
自分が引き続き跡部のことが好きなのは間違いなさそうだが、
果たして跡部もそうだろうか?
カリスマ性のある彼は色んな人間を惹き付ける。
彼に近づく人間の中に彼の眼鏡に叶う者がいないとも限らない。
今現在、巴が彼の隣に立つのを許されているのも不思議なくらいなのだから。
そのとき、自分はあっさり捨てられるのではないだろうか?
この可能性は否定できず、巴の心に突き刺さる。
「バカか?お前は。お前はこの俺様が選んだ女なんだぜ?
10年後も俺が目を離せない様なイイ女であるに決まってる」
彼女が彼女で━━━ひたむきで明るくて真っ直ぐに自分を見つめる、
そのままの彼女でいるならば、これからもずっと隣に並んでいたい。
跡部はそう願う。
「でも、私自身はそれほどイイ女である自信がないんですが…」
心底自信がなさそうに巴はそう告げる。
自分は全てに於いて凡庸だ。
特別賢くもなければ美人でもない。
跡部のようなカリスマ性も持ち合わせている訳でない。
彼の隣を歩くたびに繰り返す疑問は、ここでも当然わき上がる。
当然、跡部の隣を歩けるように努力は続けているけれども
それが実になったことはまだ無かった。
「せいぜい、俺に見合うように女磨いとけよ」
しかし、跡部はそんな巴の悩みも気にしない。
巴は巴であればいい、そう思っている。
巴が密かに頑張っているのも知っている。
いつか実になればいいとは思っているが、そうでなくても構わないとも思っている。
もっとも、何事にも向上していく彼女を見るのは嬉しく楽しいものだが。
「み、磨き過ぎちゃったときはどうすればいいんですか?」
余計な心配という気もしないでもないが、
自分の頑張っている現状を鑑みて巴はそう尋ねる。
あると思えないが、自分が頑張りすぎて素晴らしい女性になる可能性。
そんな未来だってあるかも知れない。
非常に前向きな巴は、そんな可能性について訊かずにはいられなかった。
たしかに、私は頑張るけど、その時跡部さんはどうするの?
そう試す一言でもあった。
「アーン?その時は俺が頑張ってお前に見合う男になるに決まってるだろうが」
至極当然と言った表情で跡部はそう返す。
他人が努力するなら、自分もそれ相応、いやそれ以上の努力をする。
それをこれまで当然だとしてきた。それが例えどんなことだとしてもだ。
巴がいい女になるべく努力するというのなら、自分もそれ相応の努力をしよう。
好きな相手に対してのことならば、なおさらだ。
それが当然だと難なく答える。
「ま、互いに頑張ればちょうど10年後ぐらいには誰にも有無を言わせない
世界一の新郎新婦になってると思わねえか?」
そんなバカみたいに誠実なところを見せられて、
それに加えていつしか自分に寄り添っていて、
とどめに耳元でそんなことを低く囁かれたら頷くしかないじゃない?
なんだかんだ言ってもう自分は彼に陥落しているのだ。
10年後、自分がいい女だったとしても、そうじゃないとしても
彼の隣にいるのは自分であってみせる。
そう決意を込めながら、ひとつ大きく頷いてみせた。
「じゃあ、これは約束の証にもらっとくぜ?」
頷き顔を上げた勢いでかすかに上ずった額に、約束の印をひとつ落とす。
「まあ、これからはどこにでも何度でも約束の印付けてやるから覚悟してな」
思わず何か庇うように額を手で押さえつつ巴は問う。
「10年後まで━━━約束の日までですか?」
「いや?これからずっと一生に決まってんだろ、覚悟しとけ」
跡部自身、今日こんな事まで話すつもりはなかったのだが、
それでもいつかは話すことだから今でも構わないかと思い直す。
早いか遅いかだけの差だ。
END
タタン…タタン…タタン…
タタン…タタン…
タタン…
単調なリズムをレールに刻みながら列車は街から自然のあるところへと走っていく。
眠りから覚めたばかりの春の空気のなかを颯爽と抜けていくその列車は、赤月巴をはじめとする青春学園中等部テニス部レギュラー陣を乗せて都内より一歩先んじて春を迎えている房総へと向かっていた。
「わあっ!海、海!リョーマ君、海だよっ…何寝てるの!」
岐阜の山奥から昨年上京してきたばかりの巴には
東京湾を眺めながら走る列車は、刺激が強すぎて興奮している。
もし彼女が犬ならば、既に尻尾がちぎれそうなくらい振っていることだろう。
「……はぁ?海?そりゃ海ぐらいあるでしょ、
バカじゃないの?お前」
眠たげな目を一瞬開いて越前リョーマは一つ言い放ち、
再び睡眠に還る。
「えー!だって海なのに!クールだなあ、
まったくもー信じられない!」
横から加勢するかのような声がした。
「ホント!ホント!
おチビにはこの東京湾の偉大さがわからにゃいかなあ!」
「くすくす…英二にはその偉大さが分かるんだ、教えてよ」
「おっ、不二は知りたいんだ?
じゃあ、じーっくり聞かせようじゃないの!」
一瞬で彼らはすぐに自分たちの話題に夢中になってしまった。
残念━━━そう思いながら周囲を見回すと、
相変わらずの面々が、睡眠を取ったり千葉名物ハマグリ弁当を食べていたりトランプに興じていたり
千葉の蘊蓄を語ったりとそれぞれの作業に没頭していた。
「あーん、海も良いけど早く駅に着かないかなあ…」
巴はふと寂しくなり、駅で待っているはずの人物に思いを馳せる。
先日行われたジュニア選抜でミクスドのペアを組んだ相手、
天根ヒカルのことを。
ババロアを救ってくれた出会いから、ほんの数日でどんどん惹かれていった相手。
ダビデさん、この間あったばっかりだけど、元気かなあ。
青学テニス部は春休みを利用して六角中学テニス部と合同合宿を行うことになった。
両校は親しく交流があり、男子だけは夏も合同合宿を行っていた。
今回は巴が天根と先日ペアを組み、U-16大会出場の権利を得たこともあって
巴や那美ら女子の参加が許された。
本来なら卒業したはずの3年生が来ることは異例なのだが
中学生でも高校生でもないこの期間に身体が鈍っては困るという申し出があり特別に3年生の参加も許された。
おかげで相変わらずのにぎやかなご一行様だ、
『━━━次は○○駅、○○駅です』
アナウンスが流れる。次は彼女らが下車する駅━━━六角中の面々が迎えに来ているはずの駅だった。
「よし、皆忘れ物をするなよ!降りる準備をしろよー」
ついクセでお母さんのように場を仕切ってしまう大石の声で
巴も慌てて自分の荷をまとめる。
散らかしたおやつも慌ててかたづける。
列車は閑散とした駅に滑り込み、
まるで青学の面々のためだけにドアは開かれたようだ。
開いたドアからは潮の香りが流れ込んでくる。海に近い証拠だ。
全員がホームに降り立つと、
直ぐさまネイビーとアイボリーの古ぼけたツートンカラーの列車は遠ざかっていく。
「おい、モエリン」
巴が振り向くと、
そこには乾が大きな黒い袋を巴に差し出した形で立っていた。
「お前の大きい荷物は俺が大事にもってやるから、
代わりにこれを大事にもっていろよ」
そういって乾はラケットバッグやら私物のつまった複数の彼女の荷物を引き受け、その代わりに彼のもっていた袋を手渡した。
袋は見た目よりも案外軽く、何が入っているものか全く見当がつかないが、合宿でテニス用具やらいろいろ持参していたのでそれらの内の一つだと思った。
「これって、何の袋ですか?」
「乾特製野菜汁制作キットだ」
乾のメガネがきらりと光る。彼以外の人間は逆に青くなる。
「わー!乾!おまえってやつは何持ってきてるんだにゃ!」
「………砂浜走りたいか………?」
「先輩!恐ろしい人だ…」
周囲の部員達は口々に悲鳴を上げる。
その時、巴は不意に後ろから首を締められた。
「ぐっ……!な、なにするんですか!菊丸先輩!?」
後ろから飛びかかられたりすることは日常茶飯事なので
さほど驚かずにその格好のまましれっと歩きながら問いかける。
「捨てろー!それ、その袋!捨てろー!!!」
「袋?乾先輩の野菜汁キットですか?私だって捨てたいです!」
「それ、捨てないといけねーな、いけねーよ」
「……それ、捨てたらどうなるか分かってるだろうな?」
そんな感じで和気相合とホームから改札へと彼らは移動してきた。
駅の改札をくぐると、原色の大きな字が目に飛び込んできた。
『歓迎!青学テニス部!ウェルカム!』
いつの間に作ったのか派手な横断幕と六角中テニス部の面々が待ち受けていた。
ジュニア選抜の合宿に参加して以来、見慣れた面々。
葵に佐伯に……。
並んだ顔を一人一人確認していく。
合宿はほんの数日前のことなのに何故か懐かしい。
一番見たかった顔のところで巴の視線が止まる。
なにかおかしい。
巴の表情が凍る。
天根ヒカルことダビデの顔はとても歓迎しているものの表情ではなかった。
本物のダビデ像のように厳めしい。
巴はダビデとは心が通じ合ったと思っていたので
頭から冷水をぶちまけられた様なショックを感じた。
まさか、こんな形で歓迎を受けるとは思わなかった。
「ダ、ダビデさん、こんにちは━━━」
巴はそれでも気を取り直してダビデに声をかけた。
しかし、ダビデはフイッと顔を背け改札に背を向けて歩き出す。
「今夜のバーベキューの買い出しに行ってくる。
ついでに近所の畜産農家に頼んである鶏肉をとりにく…………ぷっ」
口調自体はいつものダビデだ。
「こんのダビデがぁ!寒いんだよ!」
どこからかツッコミ担当の黒羽のとびげりがダビデに炸裂する。
流石にダビデもその強烈さには耐えきれず足がよろめく。
しかし、その歩みは止めず、駅前に止めてあった自らの自転車に乗ろうとした。
「あっ、ちょ…ちょっと待ってくださいよ!ダビデさん!!」
巴は、手に持っていた黒い大きな袋を放り投げてダビデを追いかける。
巴の後ろからは、乾の怒声と他の人間の歓声が追って上がる。
ダビデは既に自転車を漕ぎ始めていたが
巴は尋常じゃない脚力を生かして近づき、
彼の自転車の後部のステップに飛び乗る。
その衝撃に自転車はふらつくが、ダビデは気合いでそれを持ち直す。
「おい、あぶないじゃないか!…飛び乗るなんて」
少し慌てた声で後ろの巴に声をかける。
しかし、ダビデは後ろに乗る少女を降ろそうとはしなかった。
二人はそのまま、海沿いの道を自転車で駆けていく。
「ふふっ…」
巴はかすかに笑う。
「なんだ?」
「また、一緒に自転車に乗れましたね」
「そーだな」
「ねえ?どうして、さっきはあんなに不機嫌そうだったんですか?」
思い詰めた声で唐突に核心に触れる。
その言葉に動揺してか自転車は大きくバランスを崩す。
巴はぎゅっとダビデの背中にしがみつき、
ダビデはまたそれに動揺して自転車を危うくする。
後ろに好きな女子がいるだけでも大変緊張するのに
それ以上に密着されてしまっては、
緊張どころの話ではなくなってしまう。
普段、六角中テニス部という男だらけの空間に暮らす彼にとっては
同年代の女子は異星人にも等しい脅威だ。
他の男子がラッキーと思う境遇でも、
自分にはそう思うだけの余裕がない。
なにかあってからでは困るので、
丁度海岸に降りられる場所で自転車を止める。
「うわあ!水際に行けますね!行っていいですか?」
先ほどの思い詰めた声とは打ってかわって明るい声で問いかける。
本当に海が珍しい様子で、ダビデは暖かい気持ちになる。
良い返事の代わりに黙って彼女の手を取り、海岸へと降りる。
「きっと、嫉妬した。君には知っといて欲しい」
珍しく、自分の言ったことには笑わない。
急に先ほどの問いに対しての返事がやってきて、巴は戸惑う。
「嫉妬……ですか?私、なにかダビデさんに誤解を与えるようなことをしました?」
巴は疑問に思って素直にそう口にする。
普段、ダジャレ以外は上手いことを口にする彼ではないから
この発言もきっとなにか理由があってのこと。
嫉妬だというのなら確かに嫉妬したのだろう。
しかし、自分は誤解されるような行為
━━━たとえば、あり得ないけれど他の異性とイチャイチャするなど
そんなことはした覚えが全くないのでどうしても疑問に思う。
すると、
「君が、他のヤツと楽しそうに電車を降りてきたから、
面白くなかった」
照れくさそうな、不本意そうな表情でそう語った。
自分でも、つまらないことで嫉妬するなんて滑稽だと分かっている。
分かっているが事実そう感じてしまうのだから仕方がない。
女子をここまで身近に感じたことはなかったから、
こんな気持ちも初めてなのだけれど、これを人は嫉妬と呼ぶのだろう。
今、水際で波と戯れる彼女はとても可愛い。
その彼女にまとわりつく男どもをうっとおしく思うのは罪なのだろうか、
そのダビデの表情を見た巴は何とも言えない気持ちになった。
かわいい。
かわいすぎる。
ダビデが嫉妬キャラだとは思いも寄らないことだった。
この私に、嫉妬。
しかも青学テニス部相手に。ありえない。
思わず笑いが込み上げてくる。
波と戯れるのをひとまず止めてダビデと向かい合う。
「はははっ、ダビデさん、面白すぎます…」
「人のそういう気持ちを笑うのはどうかと思うけど」
憮然とした表情で面白くなさそうにダビデは答える。
しかし、そんな表情のダビデの目をしっかり見据えて巴は言う。
「スイマセン…だって…そうですね、たとえて言うなら、
私と青学の皆さんの仲の良さって、六角中の仲の良さと変わらないですもん。
ダビデさんと黒羽さんがじゃれ合っているようなものです」
「………俺と………バネさん………」
それを考えるとそれに対して嫉妬するのはなんだか気持ちが悪い。
「そうですよ」
ここがキメ時だと言うように、巴はダビデの両腕をしっかりと掴みはっきりという。
男の人って、ホントにつまらないことを考えすぎるというか
単純で実に可愛いと思う。
普段嫉妬とは関係なさそうな、ダビデならなおさら可愛い。
彼の新たな面を発見して、こういうとこも好きだなあ。
そう、しみじみ思う。
「だいたい、例えば誰かが私に対して、万が一そういう気持ちを抱いたとしても
私の目に映る異性はすでにダビデさんしかいない訳で、
嫉妬とか、そんなことをするだけムダってもんですよ!」
「ムダ……」
なんだか自分の抱いた気持ちが馬鹿馬鹿しく思えてきて、気が抜ける。
彼女が自分に対して、いつからそのように思ってくれていたのかは分からないが
嬉しい、それは確かだ。
その気持ちに応えて、嫉妬なんてしなくて良いくらい自信を持とう。
ダビデは内心、そう決心した。
「でも、そんなダビデさんも良いですね!
そうですね…たまには嫉妬してくれてもイイですよ?ほどほどに!」
それが好きのバロメーターだというのなら
どんどん嫉妬して欲しいと笑顔で微笑む彼女にダビデは、
「勘弁してくれ…」
そう呟くしかなかった。
巴は前向きすぎて怖い。怖いけれど、可愛い。
まあ、そんなところも好きなのだけど。
「あ…そう言えば、買い出し!」
買い出しから戻ったらダビデだけ周囲から盛大に嫉妬ともとれる叱責を被るのは別のお話。
彼女が自分の隣にいる優越感から、他の男から嫉妬されるのは案外悪くないと巴に言うと
「バカ…!」と真っ赤になってうつむかれるのも、また別のお話。
END
タタン…タタン…
タタン…
単調なリズムをレールに刻みながら列車は街から自然のあるところへと走っていく。
眠りから覚めたばかりの春の空気のなかを颯爽と抜けていくその列車は、赤月巴をはじめとする青春学園中等部テニス部レギュラー陣を乗せて都内より一歩先んじて春を迎えている房総へと向かっていた。
「わあっ!海、海!リョーマ君、海だよっ…何寝てるの!」
岐阜の山奥から昨年上京してきたばかりの巴には
東京湾を眺めながら走る列車は、刺激が強すぎて興奮している。
もし彼女が犬ならば、既に尻尾がちぎれそうなくらい振っていることだろう。
「……はぁ?海?そりゃ海ぐらいあるでしょ、
バカじゃないの?お前」
眠たげな目を一瞬開いて越前リョーマは一つ言い放ち、
再び睡眠に還る。
「えー!だって海なのに!クールだなあ、
まったくもー信じられない!」
横から加勢するかのような声がした。
「ホント!ホント!
おチビにはこの東京湾の偉大さがわからにゃいかなあ!」
「くすくす…英二にはその偉大さが分かるんだ、教えてよ」
「おっ、不二は知りたいんだ?
じゃあ、じーっくり聞かせようじゃないの!」
一瞬で彼らはすぐに自分たちの話題に夢中になってしまった。
残念━━━そう思いながら周囲を見回すと、
相変わらずの面々が、睡眠を取ったり千葉名物ハマグリ弁当を食べていたりトランプに興じていたり
千葉の蘊蓄を語ったりとそれぞれの作業に没頭していた。
「あーん、海も良いけど早く駅に着かないかなあ…」
巴はふと寂しくなり、駅で待っているはずの人物に思いを馳せる。
先日行われたジュニア選抜でミクスドのペアを組んだ相手、
天根ヒカルのことを。
ババロアを救ってくれた出会いから、ほんの数日でどんどん惹かれていった相手。
ダビデさん、この間あったばっかりだけど、元気かなあ。
青学テニス部は春休みを利用して六角中学テニス部と合同合宿を行うことになった。
両校は親しく交流があり、男子だけは夏も合同合宿を行っていた。
今回は巴が天根と先日ペアを組み、U-16大会出場の権利を得たこともあって
巴や那美ら女子の参加が許された。
本来なら卒業したはずの3年生が来ることは異例なのだが
中学生でも高校生でもないこの期間に身体が鈍っては困るという申し出があり特別に3年生の参加も許された。
おかげで相変わらずのにぎやかなご一行様だ、
『━━━次は○○駅、○○駅です』
アナウンスが流れる。次は彼女らが下車する駅━━━六角中の面々が迎えに来ているはずの駅だった。
「よし、皆忘れ物をするなよ!降りる準備をしろよー」
ついクセでお母さんのように場を仕切ってしまう大石の声で
巴も慌てて自分の荷をまとめる。
散らかしたおやつも慌ててかたづける。
列車は閑散とした駅に滑り込み、
まるで青学の面々のためだけにドアは開かれたようだ。
開いたドアからは潮の香りが流れ込んでくる。海に近い証拠だ。
全員がホームに降り立つと、
直ぐさまネイビーとアイボリーの古ぼけたツートンカラーの列車は遠ざかっていく。
「おい、モエリン」
巴が振り向くと、
そこには乾が大きな黒い袋を巴に差し出した形で立っていた。
「お前の大きい荷物は俺が大事にもってやるから、
代わりにこれを大事にもっていろよ」
そういって乾はラケットバッグやら私物のつまった複数の彼女の荷物を引き受け、その代わりに彼のもっていた袋を手渡した。
袋は見た目よりも案外軽く、何が入っているものか全く見当がつかないが、合宿でテニス用具やらいろいろ持参していたのでそれらの内の一つだと思った。
「これって、何の袋ですか?」
「乾特製野菜汁制作キットだ」
乾のメガネがきらりと光る。彼以外の人間は逆に青くなる。
「わー!乾!おまえってやつは何持ってきてるんだにゃ!」
「………砂浜走りたいか………?」
「先輩!恐ろしい人だ…」
周囲の部員達は口々に悲鳴を上げる。
その時、巴は不意に後ろから首を締められた。
「ぐっ……!な、なにするんですか!菊丸先輩!?」
後ろから飛びかかられたりすることは日常茶飯事なので
さほど驚かずにその格好のまましれっと歩きながら問いかける。
「捨てろー!それ、その袋!捨てろー!!!」
「袋?乾先輩の野菜汁キットですか?私だって捨てたいです!」
「それ、捨てないといけねーな、いけねーよ」
「……それ、捨てたらどうなるか分かってるだろうな?」
そんな感じで和気相合とホームから改札へと彼らは移動してきた。
駅の改札をくぐると、原色の大きな字が目に飛び込んできた。
『歓迎!青学テニス部!ウェルカム!』
いつの間に作ったのか派手な横断幕と六角中テニス部の面々が待ち受けていた。
ジュニア選抜の合宿に参加して以来、見慣れた面々。
葵に佐伯に……。
並んだ顔を一人一人確認していく。
合宿はほんの数日前のことなのに何故か懐かしい。
一番見たかった顔のところで巴の視線が止まる。
なにかおかしい。
巴の表情が凍る。
天根ヒカルことダビデの顔はとても歓迎しているものの表情ではなかった。
本物のダビデ像のように厳めしい。
巴はダビデとは心が通じ合ったと思っていたので
頭から冷水をぶちまけられた様なショックを感じた。
まさか、こんな形で歓迎を受けるとは思わなかった。
「ダ、ダビデさん、こんにちは━━━」
巴はそれでも気を取り直してダビデに声をかけた。
しかし、ダビデはフイッと顔を背け改札に背を向けて歩き出す。
「今夜のバーベキューの買い出しに行ってくる。
ついでに近所の畜産農家に頼んである鶏肉をとりにく…………ぷっ」
口調自体はいつものダビデだ。
「こんのダビデがぁ!寒いんだよ!」
どこからかツッコミ担当の黒羽のとびげりがダビデに炸裂する。
流石にダビデもその強烈さには耐えきれず足がよろめく。
しかし、その歩みは止めず、駅前に止めてあった自らの自転車に乗ろうとした。
「あっ、ちょ…ちょっと待ってくださいよ!ダビデさん!!」
巴は、手に持っていた黒い大きな袋を放り投げてダビデを追いかける。
巴の後ろからは、乾の怒声と他の人間の歓声が追って上がる。
ダビデは既に自転車を漕ぎ始めていたが
巴は尋常じゃない脚力を生かして近づき、
彼の自転車の後部のステップに飛び乗る。
その衝撃に自転車はふらつくが、ダビデは気合いでそれを持ち直す。
「おい、あぶないじゃないか!…飛び乗るなんて」
少し慌てた声で後ろの巴に声をかける。
しかし、ダビデは後ろに乗る少女を降ろそうとはしなかった。
二人はそのまま、海沿いの道を自転車で駆けていく。
「ふふっ…」
巴はかすかに笑う。
「なんだ?」
「また、一緒に自転車に乗れましたね」
「そーだな」
「ねえ?どうして、さっきはあんなに不機嫌そうだったんですか?」
思い詰めた声で唐突に核心に触れる。
その言葉に動揺してか自転車は大きくバランスを崩す。
巴はぎゅっとダビデの背中にしがみつき、
ダビデはまたそれに動揺して自転車を危うくする。
後ろに好きな女子がいるだけでも大変緊張するのに
それ以上に密着されてしまっては、
緊張どころの話ではなくなってしまう。
普段、六角中テニス部という男だらけの空間に暮らす彼にとっては
同年代の女子は異星人にも等しい脅威だ。
他の男子がラッキーと思う境遇でも、
自分にはそう思うだけの余裕がない。
なにかあってからでは困るので、
丁度海岸に降りられる場所で自転車を止める。
「うわあ!水際に行けますね!行っていいですか?」
先ほどの思い詰めた声とは打ってかわって明るい声で問いかける。
本当に海が珍しい様子で、ダビデは暖かい気持ちになる。
良い返事の代わりに黙って彼女の手を取り、海岸へと降りる。
「きっと、嫉妬した。君には知っといて欲しい」
珍しく、自分の言ったことには笑わない。
急に先ほどの問いに対しての返事がやってきて、巴は戸惑う。
「嫉妬……ですか?私、なにかダビデさんに誤解を与えるようなことをしました?」
巴は疑問に思って素直にそう口にする。
普段、ダジャレ以外は上手いことを口にする彼ではないから
この発言もきっとなにか理由があってのこと。
嫉妬だというのなら確かに嫉妬したのだろう。
しかし、自分は誤解されるような行為
━━━たとえば、あり得ないけれど他の異性とイチャイチャするなど
そんなことはした覚えが全くないのでどうしても疑問に思う。
すると、
「君が、他のヤツと楽しそうに電車を降りてきたから、
面白くなかった」
照れくさそうな、不本意そうな表情でそう語った。
自分でも、つまらないことで嫉妬するなんて滑稽だと分かっている。
分かっているが事実そう感じてしまうのだから仕方がない。
女子をここまで身近に感じたことはなかったから、
こんな気持ちも初めてなのだけれど、これを人は嫉妬と呼ぶのだろう。
今、水際で波と戯れる彼女はとても可愛い。
その彼女にまとわりつく男どもをうっとおしく思うのは罪なのだろうか、
そのダビデの表情を見た巴は何とも言えない気持ちになった。
かわいい。
かわいすぎる。
ダビデが嫉妬キャラだとは思いも寄らないことだった。
この私に、嫉妬。
しかも青学テニス部相手に。ありえない。
思わず笑いが込み上げてくる。
波と戯れるのをひとまず止めてダビデと向かい合う。
「はははっ、ダビデさん、面白すぎます…」
「人のそういう気持ちを笑うのはどうかと思うけど」
憮然とした表情で面白くなさそうにダビデは答える。
しかし、そんな表情のダビデの目をしっかり見据えて巴は言う。
「スイマセン…だって…そうですね、たとえて言うなら、
私と青学の皆さんの仲の良さって、六角中の仲の良さと変わらないですもん。
ダビデさんと黒羽さんがじゃれ合っているようなものです」
「………俺と………バネさん………」
それを考えるとそれに対して嫉妬するのはなんだか気持ちが悪い。
「そうですよ」
ここがキメ時だと言うように、巴はダビデの両腕をしっかりと掴みはっきりという。
男の人って、ホントにつまらないことを考えすぎるというか
単純で実に可愛いと思う。
普段嫉妬とは関係なさそうな、ダビデならなおさら可愛い。
彼の新たな面を発見して、こういうとこも好きだなあ。
そう、しみじみ思う。
「だいたい、例えば誰かが私に対して、万が一そういう気持ちを抱いたとしても
私の目に映る異性はすでにダビデさんしかいない訳で、
嫉妬とか、そんなことをするだけムダってもんですよ!」
「ムダ……」
なんだか自分の抱いた気持ちが馬鹿馬鹿しく思えてきて、気が抜ける。
彼女が自分に対して、いつからそのように思ってくれていたのかは分からないが
嬉しい、それは確かだ。
その気持ちに応えて、嫉妬なんてしなくて良いくらい自信を持とう。
ダビデは内心、そう決心した。
「でも、そんなダビデさんも良いですね!
そうですね…たまには嫉妬してくれてもイイですよ?ほどほどに!」
それが好きのバロメーターだというのなら
どんどん嫉妬して欲しいと笑顔で微笑む彼女にダビデは、
「勘弁してくれ…」
そう呟くしかなかった。
巴は前向きすぎて怖い。怖いけれど、可愛い。
まあ、そんなところも好きなのだけど。
「あ…そう言えば、買い出し!」
買い出しから戻ったらダビデだけ周囲から盛大に嫉妬ともとれる叱責を被るのは別のお話。
彼女が自分の隣にいる優越感から、他の男から嫉妬されるのは案外悪くないと巴に言うと
「バカ…!」と真っ赤になってうつむかれるのも、また別のお話。
END
『デート』
ったく、変なヤツだな、お前は。
俺と練習したいんなら、こんなテニスクラブじゃなくても
ちゃんと設備の整った俺らの学校でもイイじゃねえか。
その方がよほど効率の良い練習が出来るだろうが。
なのにこんな……。
は?外でやる方がデートっぽくていい?
なに言ってやがる。
お前が「練習しましょー」なんて誘いに来たんだろうが。
デート、じゃなくて練習だ。
…………バカ言え。
お前から誘って貰えなくても
俺だって女子の一人や二人、ちゃんとしたデートに誘えるぞ。
もっとも、デートに誘うならお前一人でいいがな。
最初っから出かけたかったならそう言えよ。
なんでもテニスって言えば俺が動くと思ってるのか?
うるせー、俺様に向かってテニス馬鹿とか言うな。
お前だってそうに違いねえだろうが。
デートの口実の割にはテニスやる気満々だったくせによ。
まあ、その、俺はお前と居られれば
テニスでもデートでも構わないけどな。
ばっ馬鹿!赤くなったとか言うなよ。
年上からかってるんじゃねえよ。
でもって、自分も赤くなってるんじゃねえ…この馬鹿巴が。
END
ったく、変なヤツだな、お前は。
俺と練習したいんなら、こんなテニスクラブじゃなくても
ちゃんと設備の整った俺らの学校でもイイじゃねえか。
その方がよほど効率の良い練習が出来るだろうが。
なのにこんな……。
は?外でやる方がデートっぽくていい?
なに言ってやがる。
お前が「練習しましょー」なんて誘いに来たんだろうが。
デート、じゃなくて練習だ。
…………バカ言え。
お前から誘って貰えなくても
俺だって女子の一人や二人、ちゃんとしたデートに誘えるぞ。
もっとも、デートに誘うならお前一人でいいがな。
最初っから出かけたかったならそう言えよ。
なんでもテニスって言えば俺が動くと思ってるのか?
うるせー、俺様に向かってテニス馬鹿とか言うな。
お前だってそうに違いねえだろうが。
デートの口実の割にはテニスやる気満々だったくせによ。
まあ、その、俺はお前と居られれば
テニスでもデートでも構わないけどな。
ばっ馬鹿!赤くなったとか言うなよ。
年上からかってるんじゃねえよ。
でもって、自分も赤くなってるんじゃねえ…この馬鹿巴が。
END
『発熱』
熱が下がらない。
身体が重い。
誰か助けて。
そう思いながら巴は寝返りを打ち続けていた。
合宿前からどうも体調が良くないとは思っていたが、終盤になり体力が落ちたところで高熱に襲われた。
疲れがたまっていたせいだろうか。
ジュニア選抜合宿の合宿所はバスでやってきたぐらいだから
都内から少し離れた位置にあり、気軽に帰ることが出来ない。
まして、高熱で立つのもやっとの体調ならばなおさらだ。
そのため、彼女は合宿所にて寝込むことになった。
インフルエンザの疑いがあったので、熱が下がるまでは参加者に割り当てられた部屋ではなく
参加者の部屋から少し離れた小さな和室を借りて横になることになった。
そこは確かに静かで、療養には適しているかも知れないが
普段から越前家というにぎやかな(南次郎が、だが)家庭で、
そして合宿所でも仲の良い友人達と一緒に過ごしていたため
病気で気が弱っている巴にとっては少し心細くもあった。
日中で、合宿所にいる人間が練習で皆出払っていることもあるけれども周りは水を打ったように静かだ。
誰も頼るべき人が居ないことを思い知らされる。
苦しいとこぼしても誰も助けてくれない。
その心の弱さの性か、単に熱で逆上せているせいか涙がこぼれる。
そしてそのまま意識を闇に沈めた。
額のひんやりとした感触で目を覚ます。
まるで10kgのリストバンドがついてるようにも感じる重い手で
額を探ると、湿ったタオルが置かれていた。
「お、目をさましたか?」
ぼんやりと声がする方へ視線を彷徨わせると、まだ見慣れた、とは言い難い斬新な姿が目に入る。
この、何というか日本人離れしたヘアスタイル━━━。
「……ダビデさん…?」
ええっ!?なんでここに?
青学の人たちが来ているならともかく、ダビデさんが?
おもわず、がばっと体を起こそうとする。
しかし、ダビデこと天根ヒカルが急に起きあがろうとする巴を止める。
「急に起きあがろうとするとかえってよくないぞ」
そしてそろそろとゆっくり彼女を起こしてくれる。
「あ、ありがとうございます。…でもダビデさんが何故ここへ?」
それが気になった。
元々、青学と六角は仲が良いこともあり何度となく対面はしていたが
個人的に親しくなったのは、この合宿がはじまってからだ。
初日にペアを組んでもらったことがきっかけだった。
以来、一緒に練習したりダブルスの試合に付き合ってもらったりもした。
しかし、寝込んでいる自分を気遣ってもらえるほどの付き合いだとは、
さすがの巴でもそこまでは思い上がっていなかった。
「何故…?そりゃ毎日練習していた相手が居ないとなると
どうしても気になる…あ、そうそう」
はい、とお盆を渡される。
その上には、鮮やかなオレンジ色の缶詰のみかんが硝子の器に盛られていた。
「あ…!みかんですか!」
熱のせいでしばらく食欲がなかった巴だったが
冷たくて甘いみかんなら確かに食べられそうな気がした。
「そっちの乾が言うことには、ビタミンCは風邪に有効だそうだからな。
缶詰のみかんで悪いけど。
アルミ缶のなかにある、みかん………、ぷっ」
心の中で「バネさーーーーーーーん!」と呼ぶも当然バネさんこと黒羽は出てこない。
黒羽の跳び蹴りツッコミが見られないことを残念に思いつつも
誰にも邪魔されず二人っきりというこの環境が壊されないことに安堵した。
それよりこれからはバネさんが居なければ、自らツッコむべきなんだろうか。
これからも、ダブルスをダビデさんと組みたいと思うならば。
急に妄想に取り憑かれて、かぁっと熱が上昇したように感じだ。
不意に、ダビデの視線を巴は感じた。
これは早く食べろと言うことなのだろうかと慌ててスプーンでみかんを掬い口へと運ぶ。
冷たく、つるっとした感触は熱でボンヤリした喉に心地良い。
その甘酸っぱさも初めて美味しいものを食べたかのように新鮮に感じる。
それで弾みがつき、熱を忘れたかのようにパクパクと頬張り始める。
「なあ…?お前、美味そうに食べるなあ」
ぽつりと天根が呟く。
「はい?」
「いや、人に風邪をうつすと当人は治るって言うのは本当かなと思って」
そして、巴が食べようと持っていたスプーンを自分の口に含む。
「……もっと、積極的に感染する努力、してみて良い?」
そう言って珍しく真剣に巴の目を見据える天根に、巴は異を唱えることが出来なかった。
もしかしたら本当に人にうつせば治るかも知れないけれど、
熱は下がりそうにないなあ、と熱に沸いた頭でボンヤリ思った。
今度は風邪での発熱じゃなくて天根熱で。
END
熱が下がらない。
身体が重い。
誰か助けて。
そう思いながら巴は寝返りを打ち続けていた。
合宿前からどうも体調が良くないとは思っていたが、終盤になり体力が落ちたところで高熱に襲われた。
疲れがたまっていたせいだろうか。
ジュニア選抜合宿の合宿所はバスでやってきたぐらいだから
都内から少し離れた位置にあり、気軽に帰ることが出来ない。
まして、高熱で立つのもやっとの体調ならばなおさらだ。
そのため、彼女は合宿所にて寝込むことになった。
インフルエンザの疑いがあったので、熱が下がるまでは参加者に割り当てられた部屋ではなく
参加者の部屋から少し離れた小さな和室を借りて横になることになった。
そこは確かに静かで、療養には適しているかも知れないが
普段から越前家というにぎやかな(南次郎が、だが)家庭で、
そして合宿所でも仲の良い友人達と一緒に過ごしていたため
病気で気が弱っている巴にとっては少し心細くもあった。
日中で、合宿所にいる人間が練習で皆出払っていることもあるけれども周りは水を打ったように静かだ。
誰も頼るべき人が居ないことを思い知らされる。
苦しいとこぼしても誰も助けてくれない。
その心の弱さの性か、単に熱で逆上せているせいか涙がこぼれる。
そしてそのまま意識を闇に沈めた。
額のひんやりとした感触で目を覚ます。
まるで10kgのリストバンドがついてるようにも感じる重い手で
額を探ると、湿ったタオルが置かれていた。
「お、目をさましたか?」
ぼんやりと声がする方へ視線を彷徨わせると、まだ見慣れた、とは言い難い斬新な姿が目に入る。
この、何というか日本人離れしたヘアスタイル━━━。
「……ダビデさん…?」
ええっ!?なんでここに?
青学の人たちが来ているならともかく、ダビデさんが?
おもわず、がばっと体を起こそうとする。
しかし、ダビデこと天根ヒカルが急に起きあがろうとする巴を止める。
「急に起きあがろうとするとかえってよくないぞ」
そしてそろそろとゆっくり彼女を起こしてくれる。
「あ、ありがとうございます。…でもダビデさんが何故ここへ?」
それが気になった。
元々、青学と六角は仲が良いこともあり何度となく対面はしていたが
個人的に親しくなったのは、この合宿がはじまってからだ。
初日にペアを組んでもらったことがきっかけだった。
以来、一緒に練習したりダブルスの試合に付き合ってもらったりもした。
しかし、寝込んでいる自分を気遣ってもらえるほどの付き合いだとは、
さすがの巴でもそこまでは思い上がっていなかった。
「何故…?そりゃ毎日練習していた相手が居ないとなると
どうしても気になる…あ、そうそう」
はい、とお盆を渡される。
その上には、鮮やかなオレンジ色の缶詰のみかんが硝子の器に盛られていた。
「あ…!みかんですか!」
熱のせいでしばらく食欲がなかった巴だったが
冷たくて甘いみかんなら確かに食べられそうな気がした。
「そっちの乾が言うことには、ビタミンCは風邪に有効だそうだからな。
缶詰のみかんで悪いけど。
アルミ缶のなかにある、みかん………、ぷっ」
心の中で「バネさーーーーーーーん!」と呼ぶも当然バネさんこと黒羽は出てこない。
黒羽の跳び蹴りツッコミが見られないことを残念に思いつつも
誰にも邪魔されず二人っきりというこの環境が壊されないことに安堵した。
それよりこれからはバネさんが居なければ、自らツッコむべきなんだろうか。
これからも、ダブルスをダビデさんと組みたいと思うならば。
急に妄想に取り憑かれて、かぁっと熱が上昇したように感じだ。
不意に、ダビデの視線を巴は感じた。
これは早く食べろと言うことなのだろうかと慌ててスプーンでみかんを掬い口へと運ぶ。
冷たく、つるっとした感触は熱でボンヤリした喉に心地良い。
その甘酸っぱさも初めて美味しいものを食べたかのように新鮮に感じる。
それで弾みがつき、熱を忘れたかのようにパクパクと頬張り始める。
「なあ…?お前、美味そうに食べるなあ」
ぽつりと天根が呟く。
「はい?」
「いや、人に風邪をうつすと当人は治るって言うのは本当かなと思って」
そして、巴が食べようと持っていたスプーンを自分の口に含む。
「……もっと、積極的に感染する努力、してみて良い?」
そう言って珍しく真剣に巴の目を見据える天根に、巴は異を唱えることが出来なかった。
もしかしたら本当に人にうつせば治るかも知れないけれど、
熱は下がりそうにないなあ、と熱に沸いた頭でボンヤリ思った。
今度は風邪での発熱じゃなくて天根熱で。
END
*あなたのかおり
相変わらず潮の香りに慣れない。
岐阜の山の香りとはあまりにもかけ離れていて緊張する。
そう、私が言うと
「それでも、来てくれたんだな」
まんざらでもなさそうにバネさんこと黒羽春風はそう答えた。
「はい、だって、コレがバネさんの香りでしょう?」
黒潮の、房総の海の香り。
千葉の海辺の街に暮らすバネさんの香り。
「それなら、私は大好きな香りに違いないですし、
こうやって二人で時を重ねていけばすぐに慣れるんじゃないですかね」
今日はバネさんの誕生日。
学校が終わってから部活もそこそこにダッシュで電車を乗り継いで
バネさんの住む街までやってきた。
そして今、駅の近くの海岸の堤防に二人で並んでお祝いしている。
9月も末の空気は既に冷えたものだけれども二人でくっついていると暖かい。
帰りの電車のこととか門限のこととかを考えると
二人であって居られる時間なんて限られているけれども
それでも、今日ここで、バネさんの暮らす街で逢いたかった。
ふたりでお誕生日をお祝いしたかった。
ふと、プレゼントを渡すことを思い出して慌ててカバンの中から包みを取り出す。
「そうそう、はい、プレゼントです!」
背が高くてスッキリとしたスタイルのバネさんに似合いそうな秋物のシャツ。
気に入ってくれると良いんだけど。
「おっ、サンキュー」
バネさんは嬉しそうに顔をほころばせる。
「でもな、赤月。俺はお前がここまで来てくれるだけで充分だったんだけどな」
その一言に体中の血が頭に上がったような気がした。
それをバネさんはめざとく気づく。
「そーゆーとこ、かわいいよな、お前」
そういって、自然と私を肩を寄せてそこに顔を埋める。
「バッ…バネさん!?」
あまりの動作とその台詞に動揺を隠せない。
普段冷静そうに見えて案外さらっと大胆なコトするんだなあ。
「……んっ、お前からは岐阜の山の香りはしないなあ……甘い香りがするだけで」
「そりゃそうですよ、今東京に住んでるんですし」
甘い香りという言葉に照れを感じるけれども
シャンプーや石けんだってバネさんの好みに合うように気を抜いてはいない。
その甲斐があったかなと嬉しく思う。
「ま、いいか。いずれお前からも潮の、俺の香りがするんだからよ」
そういって、コレまでにないほどお互いの身体が密着する。
今日逢っただけでもう、潮の香りになれてしまった気がした。
頬に寄せられた唇がくすぐったい。
END
相変わらず潮の香りに慣れない。
岐阜の山の香りとはあまりにもかけ離れていて緊張する。
そう、私が言うと
「それでも、来てくれたんだな」
まんざらでもなさそうにバネさんこと黒羽春風はそう答えた。
「はい、だって、コレがバネさんの香りでしょう?」
黒潮の、房総の海の香り。
千葉の海辺の街に暮らすバネさんの香り。
「それなら、私は大好きな香りに違いないですし、
こうやって二人で時を重ねていけばすぐに慣れるんじゃないですかね」
今日はバネさんの誕生日。
学校が終わってから部活もそこそこにダッシュで電車を乗り継いで
バネさんの住む街までやってきた。
そして今、駅の近くの海岸の堤防に二人で並んでお祝いしている。
9月も末の空気は既に冷えたものだけれども二人でくっついていると暖かい。
帰りの電車のこととか門限のこととかを考えると
二人であって居られる時間なんて限られているけれども
それでも、今日ここで、バネさんの暮らす街で逢いたかった。
ふたりでお誕生日をお祝いしたかった。
ふと、プレゼントを渡すことを思い出して慌ててカバンの中から包みを取り出す。
「そうそう、はい、プレゼントです!」
背が高くてスッキリとしたスタイルのバネさんに似合いそうな秋物のシャツ。
気に入ってくれると良いんだけど。
「おっ、サンキュー」
バネさんは嬉しそうに顔をほころばせる。
「でもな、赤月。俺はお前がここまで来てくれるだけで充分だったんだけどな」
その一言に体中の血が頭に上がったような気がした。
それをバネさんはめざとく気づく。
「そーゆーとこ、かわいいよな、お前」
そういって、自然と私を肩を寄せてそこに顔を埋める。
「バッ…バネさん!?」
あまりの動作とその台詞に動揺を隠せない。
普段冷静そうに見えて案外さらっと大胆なコトするんだなあ。
「……んっ、お前からは岐阜の山の香りはしないなあ……甘い香りがするだけで」
「そりゃそうですよ、今東京に住んでるんですし」
甘い香りという言葉に照れを感じるけれども
シャンプーや石けんだってバネさんの好みに合うように気を抜いてはいない。
その甲斐があったかなと嬉しく思う。
「ま、いいか。いずれお前からも潮の、俺の香りがするんだからよ」
そういって、コレまでにないほどお互いの身体が密着する。
今日逢っただけでもう、潮の香りになれてしまった気がした。
頬に寄せられた唇がくすぐったい。
END
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