『おふねにのって』
「あっ!赤月危ないダーネ!!!」
相変わらずの騒々しい声で柳沢の警告が聞こえたときには
既に遅かった。
柳沢の放った打球は見事に巴の後頭部に直撃していた。
それと同時に彼女の周囲の世界は白く、
きらきらとした星が飛び、周りからの声が遠ざかっていった。
背中からは冷たい汗が流れて、膝が力を失い崩れ落ちる。
特に衝撃を覚えなかったのは誰かが受け止めてくれたんだろうな、
ああ、自分は気を失うんだなと思いながら世界は暗転した。
ゆらゆら、ゆらゆら。
さながら船に揺られて眠っているようで。
なんとなく、自分が揺られていたのは覚えているような気がする。
意識がはっきりとしない中の出来事だが。
暖かいものに支えられて揺られて安心していたような気がする。
そう思いながら、重く感じるまぶたを開いてみた。
視界は一面、白かった。
それが医務室の天井であることに気づくのに少し時間がかかった。
「良かった…!目が覚めたんですね…」
耳に馴染んだ声が遠くに聞こえた。
実際はかなり近かったようだが、
覚醒したばかりの巴には自分以外の全てのことが
まだ自分とは違う世界の出来事のように感じられた。
「……観月…さん?」
「キミは柳沢の馬鹿のボールに当たって気絶してしまったんですよ。
頭に当たったので本当はすぐに動かしてはいけなかったんですが…
ボクが慌てて運んでしまいました
…すいません、無事で良かった…!」
観月のひやりとした手が頬に触れる。
巴は気持ちが良くてそのままにしておいた。
「観月さんが運んでくれたんですか?
すいません!私、重かったでしょう」
自分と体格のそう変わらない、
そして意識を失った人間を運んだのだから
随分大変だったはずだ。巴は申し訳なさで一杯になる。
しかも、これが初めてという訳ではないのだ。
昨春のジュニア選抜合宿でも倒れた巴を医務室まで運んでくれた。
「いいんです、キミが無事でいてくれれば。
それにキミを抱っこ出来たんですから、ずいぶんな役得ですね」
心底安心したように滅多に見ない無防備な笑みを観月はみせていた。
巴は役得という言葉に思わず顔を赤らめた。
それを見て、釣られて観月も赤くなる。
「普段抱っこ以上のことをしていても、未だ照れますか、キミは」
「それはそれ、これはこれ、です」
あまりの恥ずかしさに視線をそらしながら巴は答えた。
そして会話を変えようと努めた。
「あ、そうだ、観月さんが運んでくれてるときに、
ゆらゆらと船に揺られているみたいな気持ちになりました。
━━━もっとも生まれてから一度も船に乗ったことはないですが」
観月も少し気恥ずかしさがあったので、巴の話題に乗ってやる。
「船に乗ったことがない?一度も?」
「はい、岐阜の山育ちですから機会には恵まれなかったので…。
ちなみにボートすら乗ったことがないんですよ、えへへ」
観月と話している間に、巴はすっかり回復したようで、
コロコロと表情を変えながら
船についての幻想やらなにやら話し続けた。
「やっぱり、船には乗ってみたいですか?」
「そうですね!憧れの乗り物ですから!
もうひとつ憧れだった飛行機にはオーストラリアでの世界大会の時に
観月さんと一緒に乗りましたもんね!」
目をきらきらさせて巴はそう答えた。
「では、ボクと乗りに行きましょうか?
もっとも学生の身ですから豪華客船なんて招待は出来ませんけど…。
そうですね、手始めに公園のボートか、水上バスにでも」
「あはは、ボートだといい特訓にもなりそうですよね」
巴が無邪気にそう答える。
観月がボートに乗る前に言いそうな台詞だ。
それに本人は気付き、言い直す。
彼女と二人で、なぜいい特訓をしなければならないのか。
「では、水上バスにお付き合いしていただけますか?」
「喜んで!」
そうしてベッドに身体を寝かせたままだった巴は体を起こし、
両手を脇に座っていた観月の首に絡ませる。
驚いた顔で観月が巴の顔を見つめると、巴はこう言った。
「船酔いなんてしたら大変なので、
とりあえず揺れに慣れておこうと思うんですけど
また、コートまで運んでいただけますか?観月さん?」
「こちらこそ、喜んで」
どさくさ紛れに、近づいた彼女の頬に一つ唇を落としてから
観月は巴をふたたび抱き上げた。
END
「あっ!赤月危ないダーネ!!!」
相変わらずの騒々しい声で柳沢の警告が聞こえたときには
既に遅かった。
柳沢の放った打球は見事に巴の後頭部に直撃していた。
それと同時に彼女の周囲の世界は白く、
きらきらとした星が飛び、周りからの声が遠ざかっていった。
背中からは冷たい汗が流れて、膝が力を失い崩れ落ちる。
特に衝撃を覚えなかったのは誰かが受け止めてくれたんだろうな、
ああ、自分は気を失うんだなと思いながら世界は暗転した。
ゆらゆら、ゆらゆら。
さながら船に揺られて眠っているようで。
なんとなく、自分が揺られていたのは覚えているような気がする。
意識がはっきりとしない中の出来事だが。
暖かいものに支えられて揺られて安心していたような気がする。
そう思いながら、重く感じるまぶたを開いてみた。
視界は一面、白かった。
それが医務室の天井であることに気づくのに少し時間がかかった。
「良かった…!目が覚めたんですね…」
耳に馴染んだ声が遠くに聞こえた。
実際はかなり近かったようだが、
覚醒したばかりの巴には自分以外の全てのことが
まだ自分とは違う世界の出来事のように感じられた。
「……観月…さん?」
「キミは柳沢の馬鹿のボールに当たって気絶してしまったんですよ。
頭に当たったので本当はすぐに動かしてはいけなかったんですが…
ボクが慌てて運んでしまいました
…すいません、無事で良かった…!」
観月のひやりとした手が頬に触れる。
巴は気持ちが良くてそのままにしておいた。
「観月さんが運んでくれたんですか?
すいません!私、重かったでしょう」
自分と体格のそう変わらない、
そして意識を失った人間を運んだのだから
随分大変だったはずだ。巴は申し訳なさで一杯になる。
しかも、これが初めてという訳ではないのだ。
昨春のジュニア選抜合宿でも倒れた巴を医務室まで運んでくれた。
「いいんです、キミが無事でいてくれれば。
それにキミを抱っこ出来たんですから、ずいぶんな役得ですね」
心底安心したように滅多に見ない無防備な笑みを観月はみせていた。
巴は役得という言葉に思わず顔を赤らめた。
それを見て、釣られて観月も赤くなる。
「普段抱っこ以上のことをしていても、未だ照れますか、キミは」
「それはそれ、これはこれ、です」
あまりの恥ずかしさに視線をそらしながら巴は答えた。
そして会話を変えようと努めた。
「あ、そうだ、観月さんが運んでくれてるときに、
ゆらゆらと船に揺られているみたいな気持ちになりました。
━━━もっとも生まれてから一度も船に乗ったことはないですが」
観月も少し気恥ずかしさがあったので、巴の話題に乗ってやる。
「船に乗ったことがない?一度も?」
「はい、岐阜の山育ちですから機会には恵まれなかったので…。
ちなみにボートすら乗ったことがないんですよ、えへへ」
観月と話している間に、巴はすっかり回復したようで、
コロコロと表情を変えながら
船についての幻想やらなにやら話し続けた。
「やっぱり、船には乗ってみたいですか?」
「そうですね!憧れの乗り物ですから!
もうひとつ憧れだった飛行機にはオーストラリアでの世界大会の時に
観月さんと一緒に乗りましたもんね!」
目をきらきらさせて巴はそう答えた。
「では、ボクと乗りに行きましょうか?
もっとも学生の身ですから豪華客船なんて招待は出来ませんけど…。
そうですね、手始めに公園のボートか、水上バスにでも」
「あはは、ボートだといい特訓にもなりそうですよね」
巴が無邪気にそう答える。
観月がボートに乗る前に言いそうな台詞だ。
それに本人は気付き、言い直す。
彼女と二人で、なぜいい特訓をしなければならないのか。
「では、水上バスにお付き合いしていただけますか?」
「喜んで!」
そうしてベッドに身体を寝かせたままだった巴は体を起こし、
両手を脇に座っていた観月の首に絡ませる。
驚いた顔で観月が巴の顔を見つめると、巴はこう言った。
「船酔いなんてしたら大変なので、
とりあえず揺れに慣れておこうと思うんですけど
また、コートまで運んでいただけますか?観月さん?」
「こちらこそ、喜んで」
どさくさ紛れに、近づいた彼女の頬に一つ唇を落としてから
観月は巴をふたたび抱き上げた。
END
「うーん、約束の時間までは結構あるなあ…散歩でもしようかな」
12月のごくごくふつうの日曜日。
珍しくスクールも部活もない。
赤月巴は橘杏と公園のストリートテニスコートで遊ぶ約束をしていた。
約束の時間は13時半。
ルドルフの学生寮で正午キッチリに昼食を食べて、
その後すぐに出てきてみれば、待ち合わせまでまだまだあった。
早めに来たので、他の誰かと打っていようかと思い
コートを覗いてみたのだが、そこはお昼時、誰もいなかった。
仕方がないので、公園内を散歩という選択に至る。
紅葉も終わり、足下には枯れ葉が広がっている公園内を無目的に歩く。
岐阜の山の中ではしょっちゅう散策をしていたが
東京に出てきてからは目まくるしい日々の中でそんな時間は見つけられず
こういう風に葉をパリパリと踏みしめながらボンヤリ歩くのは久し振りだった。
「あれ?」
歩きながら眠りでもしたのだろうかと一瞬自分を疑う。
こんな、公園内の雑木林の中で、まさか。
目の前には、いるはずのない姿が見えた。
もちろん、都内に住む人間なのでどこにいたって構わないのだが
まず、こんな真っ昼間から公園を歩いているような人間ではない。
きっとなにかしらの目的が合ってのことだろうと思われた。
「観月さーん!」
大きく手を振って遠くを歩く観月はじめに声をかける。
おちついて眺めると、かなり遠くに観月はいた。
よく、気づいたなあと巴は我ながら感心する。
きっとこれが恋する乙女の力というものだろうか。
「ああ、巴くん…!」
観月もようやく巴の姿に気がついたようで、
視線を合わせて彼女に手を振りかえす。
手を振っていない方の手は
半透明の袋に詰めたなにかの植物を抱えていて重そうだ。
巴はまるで尻尾をぶんぶんと振る犬のように観月に駆け寄った。
今日はスクールも部活も、デートの約束すらしていなかったので
まさか逢えるとは思わなかった。
久しぶりに見る私服姿は一分の隙もなく
すくなくとも巴にはこの世で一番格好いい人が現れたと思えた。
同時に観月も、自分のデータをもってしても、
今日のこのときに巴と出会うことがあるとは思わなかったので
思いもよらないラッキーを天に感謝した。
「どうしたんです?キミはなんでこんな所を一人で歩いていたんですか?」
巴がいくら野生児だとは言え、
公園の雑木林の中を一人で歩いていて良い理由はないので
とりあえず観月は訊いてみることにした。
なにしろ物騒な世の中だ。
昼間とは言え自分の彼女が一人歩きをしているなんて心配で仕方がない。
とはいえある程度信頼しているので、頭ごなしに叱ったりもしないのだが。
「ああ、今日は杏さんとストリートテニスコートで遊ぶ約束をしてるんですが
待ち合わせの時間までちょっとあるんで、
久し振りにブラブラしてみようかなー、なんて思いまして」
「そうでしたか」
観月は突拍子もない返答がこなかった事に少しホッとする。
たまに彼女は自分の想定外の答えを返し、
そのたびに自分を動揺させてしまうので心臓に悪いことこの上ない。
しかも、今日は仲の良い橘杏との約束だ。
例えば青学で仲良しだった連中と遊ぶ━━━そんな予定でもあれば
自分は彼女のことが心配になって仕方がなかっただろう。
もっとも橘杏だけでなく不動峰中テニス部面々も一緒だとすれば
気が気じゃなくなってしまうが。
彼女はどうも仲が良い異性が多すぎで、彼氏としてはやきもきさせられる。
「それは、ともかく。観月さんは何をしているんですか?
その袋の中身はなんですか?枝…ですよね?」
巴は観月の抱えていたものに目を留めて尋ねる。
たしかに、こんな所を歩いている理由も抱えているものの存在も謎だ。
観月もそれに気づいて微笑する。
流石に野生のカンをもってしても、これは分かりませんか。
巴は観月のやや楽しげな表情に小首をかしげる。
万が一、観月にアウトドア趣味があったとしても
こんな所で薪を集めるタイプでもないし……。
「んふっ、わかりませんか?」
面白そうに問いかける。
「はい、見当もつきませんけど」
袋を凝視しながら巴は考えるが、
なにぶん袋も半透明ゴミ袋なので中身が茫洋としている。
観月は巴が中身をみたいということを察して、袋を開けてやる。
中には冬なのに未だ青々とした枝葉がつまっていた。
流石に直接見れば、山育ちの巴にはなんの植物だか理解できた。
もっとも、何故、それを観月が持っているかまではよく分からなかったが。
「ああ、ヤドリギでしたか!……でもなんで観月さんが?」
とりあえず、訊いてみなければ分からないことなので訊いてみる。
「まあ、キミはこういうコトには疎そうですけどね…。
もうすぐクリスマスですから、と言うことでピンとはきませんか?」
当然、ピンと来ない。
もともと父親と二人で過ごしてきた巴は年中行事には疎い。
それが日本のものでなければなおさらだ。
「全然」
「……でしょうね。良いでしょう教えてあげますよ。
ルドルフではクリスマスパーティーが行われるのはご存じですよね?
その飾り付けに、このヤドリギを使うんですよ。
不本意ながらボクが今年ヤドリギを持ってくる係なんです」
「へえ、よく知らないんですが、本格的なクリスマスなんですね」
観月は天真爛漫に感心する巴を見て、
やはりヤドリギが必要な意味については知らないということを確認する。
そして、あるイイコトを思いつく。
自分にとってはかなりイイ思いつきだった。
「そうですね…ヤドリギのこと、お教えしましょうか?」
「あっ、はい。是非」
そう巴が答えると、観月はヤドリギの枝を一つ上に掲げて彼女を引き寄せた。
「み、観月さん…っ?んっ」
二人が離れるのには随分時間がかかったように思われた。
巴の気分的にも、実質的にも。
キスをするのは嫌ではないけれど、話の途中に何をするんだとは思ったので
軽く観月をにらみつけるように見る。
「ヤドリギの下ではね、キスして良いことになっているんですよ。
特に女性は断ってはいけないんです。そういう習慣が向こうにはあるんですよ。
ルドルフの学生達の中にもその習慣にあやかりたい人たちが沢山いると言うことです。
んふっ…勉強になったでしょう?」
余裕の表情をして観月はそう答えた。
もちろん、肝心なこと━━━クリスマスが条件の一つだということは省いているが。
彼女に触れるには良い口実になった。
いま、ここでこんな状況で逢えたことはやっぱり運が良かったようだ。
そんな余裕そうな満足そうな表情の観月を見て、
巴は少し悔しさにも似た感情を覚える。
ヤドリギにかこつけなければキスひとつ出来ないような間柄でもあるまいし。
だから、こう言ってみた。
「じゃあ、ヤドリギの下にうっかり立っちゃったら誰とでもキスして良いんですね」
「え?」
「観月さん以外とでも」
とたんに観月は血相を変える。
そんなに慌てるくらいならこんな小道具使ってキスなんてしなければいいものを
そう思って巴はおかしみを覚えた。
巴の表情を見て、からかわれていると悟った観月はさらに意趣返しを試みた。
「そうですね、ボクはそんなことがあったら嫌ですけどね。
そうだ、パーティーの間中、キミの唇を塞いでおけばそんな展開にはなりませんよね。
良いでしょう、ではボクが直々にそうしてあげますよ。
なに、可愛い彼女を守ることぐらいボクにはなんて事ありませんよ」
つらつらと棒読み気味であるものの、観月はそう告げた。
今度は逆に巴の顔色が変わる番だった。
しかし、彼女が何かを言う前に、
「もうそろそろ、橘くんの妹さんが待っている時間じゃありませんか?」
と、さらに慌てさせる。そして冷静に考えさせる余地を与えない。
「そ、そうですね!それじゃ!」
と、巴は動揺したまま必死にストリートテニスコートへと駆けていく。
観月は「返答無しは肯定ととらえて良いんですよね」と
試合中に見せるような腹に一物ありそうな笑みで彼女を見送った。
END
12月のごくごくふつうの日曜日。
珍しくスクールも部活もない。
赤月巴は橘杏と公園のストリートテニスコートで遊ぶ約束をしていた。
約束の時間は13時半。
ルドルフの学生寮で正午キッチリに昼食を食べて、
その後すぐに出てきてみれば、待ち合わせまでまだまだあった。
早めに来たので、他の誰かと打っていようかと思い
コートを覗いてみたのだが、そこはお昼時、誰もいなかった。
仕方がないので、公園内を散歩という選択に至る。
紅葉も終わり、足下には枯れ葉が広がっている公園内を無目的に歩く。
岐阜の山の中ではしょっちゅう散策をしていたが
東京に出てきてからは目まくるしい日々の中でそんな時間は見つけられず
こういう風に葉をパリパリと踏みしめながらボンヤリ歩くのは久し振りだった。
「あれ?」
歩きながら眠りでもしたのだろうかと一瞬自分を疑う。
こんな、公園内の雑木林の中で、まさか。
目の前には、いるはずのない姿が見えた。
もちろん、都内に住む人間なのでどこにいたって構わないのだが
まず、こんな真っ昼間から公園を歩いているような人間ではない。
きっとなにかしらの目的が合ってのことだろうと思われた。
「観月さーん!」
大きく手を振って遠くを歩く観月はじめに声をかける。
おちついて眺めると、かなり遠くに観月はいた。
よく、気づいたなあと巴は我ながら感心する。
きっとこれが恋する乙女の力というものだろうか。
「ああ、巴くん…!」
観月もようやく巴の姿に気がついたようで、
視線を合わせて彼女に手を振りかえす。
手を振っていない方の手は
半透明の袋に詰めたなにかの植物を抱えていて重そうだ。
巴はまるで尻尾をぶんぶんと振る犬のように観月に駆け寄った。
今日はスクールも部活も、デートの約束すらしていなかったので
まさか逢えるとは思わなかった。
久しぶりに見る私服姿は一分の隙もなく
すくなくとも巴にはこの世で一番格好いい人が現れたと思えた。
同時に観月も、自分のデータをもってしても、
今日のこのときに巴と出会うことがあるとは思わなかったので
思いもよらないラッキーを天に感謝した。
「どうしたんです?キミはなんでこんな所を一人で歩いていたんですか?」
巴がいくら野生児だとは言え、
公園の雑木林の中を一人で歩いていて良い理由はないので
とりあえず観月は訊いてみることにした。
なにしろ物騒な世の中だ。
昼間とは言え自分の彼女が一人歩きをしているなんて心配で仕方がない。
とはいえある程度信頼しているので、頭ごなしに叱ったりもしないのだが。
「ああ、今日は杏さんとストリートテニスコートで遊ぶ約束をしてるんですが
待ち合わせの時間までちょっとあるんで、
久し振りにブラブラしてみようかなー、なんて思いまして」
「そうでしたか」
観月は突拍子もない返答がこなかった事に少しホッとする。
たまに彼女は自分の想定外の答えを返し、
そのたびに自分を動揺させてしまうので心臓に悪いことこの上ない。
しかも、今日は仲の良い橘杏との約束だ。
例えば青学で仲良しだった連中と遊ぶ━━━そんな予定でもあれば
自分は彼女のことが心配になって仕方がなかっただろう。
もっとも橘杏だけでなく不動峰中テニス部面々も一緒だとすれば
気が気じゃなくなってしまうが。
彼女はどうも仲が良い異性が多すぎで、彼氏としてはやきもきさせられる。
「それは、ともかく。観月さんは何をしているんですか?
その袋の中身はなんですか?枝…ですよね?」
巴は観月の抱えていたものに目を留めて尋ねる。
たしかに、こんな所を歩いている理由も抱えているものの存在も謎だ。
観月もそれに気づいて微笑する。
流石に野生のカンをもってしても、これは分かりませんか。
巴は観月のやや楽しげな表情に小首をかしげる。
万が一、観月にアウトドア趣味があったとしても
こんな所で薪を集めるタイプでもないし……。
「んふっ、わかりませんか?」
面白そうに問いかける。
「はい、見当もつきませんけど」
袋を凝視しながら巴は考えるが、
なにぶん袋も半透明ゴミ袋なので中身が茫洋としている。
観月は巴が中身をみたいということを察して、袋を開けてやる。
中には冬なのに未だ青々とした枝葉がつまっていた。
流石に直接見れば、山育ちの巴にはなんの植物だか理解できた。
もっとも、何故、それを観月が持っているかまではよく分からなかったが。
「ああ、ヤドリギでしたか!……でもなんで観月さんが?」
とりあえず、訊いてみなければ分からないことなので訊いてみる。
「まあ、キミはこういうコトには疎そうですけどね…。
もうすぐクリスマスですから、と言うことでピンとはきませんか?」
当然、ピンと来ない。
もともと父親と二人で過ごしてきた巴は年中行事には疎い。
それが日本のものでなければなおさらだ。
「全然」
「……でしょうね。良いでしょう教えてあげますよ。
ルドルフではクリスマスパーティーが行われるのはご存じですよね?
その飾り付けに、このヤドリギを使うんですよ。
不本意ながらボクが今年ヤドリギを持ってくる係なんです」
「へえ、よく知らないんですが、本格的なクリスマスなんですね」
観月は天真爛漫に感心する巴を見て、
やはりヤドリギが必要な意味については知らないということを確認する。
そして、あるイイコトを思いつく。
自分にとってはかなりイイ思いつきだった。
「そうですね…ヤドリギのこと、お教えしましょうか?」
「あっ、はい。是非」
そう巴が答えると、観月はヤドリギの枝を一つ上に掲げて彼女を引き寄せた。
「み、観月さん…っ?んっ」
二人が離れるのには随分時間がかかったように思われた。
巴の気分的にも、実質的にも。
キスをするのは嫌ではないけれど、話の途中に何をするんだとは思ったので
軽く観月をにらみつけるように見る。
「ヤドリギの下ではね、キスして良いことになっているんですよ。
特に女性は断ってはいけないんです。そういう習慣が向こうにはあるんですよ。
ルドルフの学生達の中にもその習慣にあやかりたい人たちが沢山いると言うことです。
んふっ…勉強になったでしょう?」
余裕の表情をして観月はそう答えた。
もちろん、肝心なこと━━━クリスマスが条件の一つだということは省いているが。
彼女に触れるには良い口実になった。
いま、ここでこんな状況で逢えたことはやっぱり運が良かったようだ。
そんな余裕そうな満足そうな表情の観月を見て、
巴は少し悔しさにも似た感情を覚える。
ヤドリギにかこつけなければキスひとつ出来ないような間柄でもあるまいし。
だから、こう言ってみた。
「じゃあ、ヤドリギの下にうっかり立っちゃったら誰とでもキスして良いんですね」
「え?」
「観月さん以外とでも」
とたんに観月は血相を変える。
そんなに慌てるくらいならこんな小道具使ってキスなんてしなければいいものを
そう思って巴はおかしみを覚えた。
巴の表情を見て、からかわれていると悟った観月はさらに意趣返しを試みた。
「そうですね、ボクはそんなことがあったら嫌ですけどね。
そうだ、パーティーの間中、キミの唇を塞いでおけばそんな展開にはなりませんよね。
良いでしょう、ではボクが直々にそうしてあげますよ。
なに、可愛い彼女を守ることぐらいボクにはなんて事ありませんよ」
つらつらと棒読み気味であるものの、観月はそう告げた。
今度は逆に巴の顔色が変わる番だった。
しかし、彼女が何かを言う前に、
「もうそろそろ、橘くんの妹さんが待っている時間じゃありませんか?」
と、さらに慌てさせる。そして冷静に考えさせる余地を与えない。
「そ、そうですね!それじゃ!」
と、巴は動揺したまま必死にストリートテニスコートへと駆けていく。
観月は「返答無しは肯定ととらえて良いんですよね」と
試合中に見せるような腹に一物ありそうな笑みで彼女を見送った。
END
*ロミオとジュリエット
その部屋には、PCのキーボードを叩く音と紙が擦れる音、
加湿器の蒸気が勢いよく噴き出す音だけが響いていた。
赤月巴は、師走に入り毎年苦手とする作業━━━年賀状の作成に入っていた。
今年は聖ルドルフ学院に転入して最初の年で
年賀状を送る相手の取捨選択に悩まされていた。
その彼女の正面にはノートPCに向かいキーボードに指を滑らせている観月はじめの姿。
ノートPCが観月の部屋のローテーブルに向かい合って座る二人を遮り
お互いの表情を窺えなくしている。
観月は冬休みに実家へ帰る寮生達のために
年末年始用の自主練習のメニューを組み立てている。
全員共通ではなく、それぞれの個性、体力に合った練習メニューで
そのあたり観月の性格の細やかさを如実に表している。
PCから一時も顔を上げない観月に寂しさを覚えつつも、
巴も自分がやらなければならないことに没頭しょうと努めていた。
とりあえずルドルフの生徒への年賀状の用意は終わった。
あとはそれ以外の人間、例えば青学の元クラスメート達や部活仲間達。
彼らへの年賀状を送るか否かを決めるだけだ。
しかし、それが一番悩む作業であった。
自分は結果的には彼らに背を向けたのだ。
「頑張って!」と快く送り出してくれる仲間達もいたけれども
やはり微妙な表情の者もいたし、
はっきりと「裏切り者」という言葉を叩きつけた者もいた。
果たして、彼らに送って良いものかどうか戸惑う。
青学の生徒であった去年はなんの躊躇いもなく送ることが出来たのだが。
自分からの年賀状は喜んで受け取って貰えるのだろうか。
悩んでも結論などなかなか出るものでなく、
無意識のうちにアドレス帳を開いたり閉じたり、
宛名を書きかけては手を止めをしきりに繰り返していた。
「……後悔していますか?」
真剣に作業に没頭していたはずの観月がぽつりと呟くように尋ねた。
その声はやや緊張を伴った固い声であった。
「後悔?」
「ボクの所━━━ルドルフに転校したことですよ」
巴には思いがけない問いだった。
たしかに巴は観月に誘われるままにルドルフにやってきた。
その彼に後悔しているのかと聞かれるとは思わなかった。
観月が、その事について少しでも気にしているとは思わなかった。
後悔などするくらいなら、初めから観月の手など取らなかった。
その事を彼も分かっていてくれていると思っていた。
なにから、話せばキチンとした答えになるだろうか。
上手く言葉が出なくて巴はもどかしく思った。
「キミは多分、あのときボクの手を取らなくてもよかった。
青学でもキミは良いプレイヤーへと伸びていったことでしょう。
かなり高い確率で、元プロとよきライバルのいる家ならば
キミは今よりも高みに上れたかもしれない。
だから、キミには後悔する権利もあります。
なにより、キミはまだ幼かった、それなのにボクは判断を迫った」
それに、多分、あのときにボクの手を取らなくても、
ボクは相変わらずキミのことが好きなままだった。
自分のそばにいてくれる幸せは何にも代え難いけれども
彼女も同じ考えだとは限らない。
現に今、青学のことを考えて珍しく長く悩んでいた。
ルドルフに来たくなど無かったとは言わせないけれども、
それでもやはりいくらかの悔いはあるのだろう。
彼女の様子をそう見てとる。
「確かに、後悔しなかったと言えば嘘になるかもしれません」
巴はあくまで正直に答える。
観月に誤魔化しても仕方がない。
もしあの時━━━そう考えたことは何度もある。
ルドルフの生活は楽しくて充実したものではあるけれども、
それでも、ふとしたときにその考えがついて出てしまう。
しかしその考えは、例え青学に残ったとしても考えていただろう。
あの時、観月の手を取っていれば?
もしあのまま青学にいたとしても、観月のことは好きでいたかもしれない。
けれども、今のような関係が築けたとはとても思えない。
それならば後悔しても今の生活を選び取れたことは正解なのだ。
不意に、あることを思い出す。
「でもね、観月さんと居ることを後悔したことはないです」
観月は押し黙って彼女の言葉を聞く。
なにか、真面目な演説を拝聴するかのように。
「私は文化芸術に疎くって…友達の朋ちゃんに聞いた話ですけどね」
ふと朋香の顔を思い浮かべる。
その顔はルドルフへと気持ちよく送り出してくれた、その時の笑顔だ。
そういえば、「アンタ達ロミジュリみたいだったね」と、この話はその時にしてくれたものだった。
「ロミオとジュリエットって16歳と14歳だったんだそうですよ。
今の私たちと変わらない年齢なんです。
でも、ちゃんと愛し合って自分たちの人生をつかみ取ろうとしていました。
…結果は悲劇に終わってしまったかもしれませんけれど」
PCに遮られて見えない観月を、それでも真剣な表情で見据えて巴は話す。
「だから私がいま、自分の判断で観月さんの手を取るのだって
幼い未熟な人間の判断の見誤りだとは思えません。
何歳であろうとも、好きな相手の所に飛び込むのに判断を間違う訳ないじゃないですか」
「それは詭弁というものですよ。彼らは話の中の登場人物なんですから」
命をかけて全てを捨てて相手の懐に飛び込む。
それは確かに素敵なことかもしれないが、同時に滑稽でもある。
現実世界では全てを捨てきることなど出来ないのだから。
逆にそれが出来てしまうのは幼さゆえだともいえるだろう。
だからこそ、大人になっていく巴に後悔していないか確認したかった。
あのとき、手を取らなかったら?
これからもっと頻繁に考えてしまうかもしれないテーマだ。
「それこそ詭弁というものですよ、観月さん。
現実に全てを投げうって、私は今ここに居るんです。
きっとこれからももう一つあったはずの道について考えちゃいます。
だけど、それは観月さんの隣にいるのが嫌だからじゃないです。
もう一つの道はバラ色の道だったに違いないとは誰でも考えちゃうことですよ」
そう言って巴は観月の隣に身体を移動させ、
相変わらずPCに向けたままの身体に横からもたれかかる。
「それに、もう一つの道も観月さんが好きって言う前提ですからね。
青学とルドルフに別れたまま好きでいるか、
それとも一緒にいて好きでいるかだったら、そりゃ一緒の方がイイじゃないですか?」
そろそろ、ちゃんと観月の顔を見たいなと巴は観月の端正な顔をのぞき込む。
彼は意外にも頬は少し上気しつつも、いたたまれない表情に見えた。
「ほらほら、そんな顔しないでください!
観月さんの綺麗な顔が沈んでるなんて、私許せないですから!笑っててください」
そう言って観月の脇腹をくすぐり出す。
観月もそれにはたまらず吹き出してしまう。
「んふっ……全くキミにはかないませんね。前向きで…強い。
キミならはまかり間違っても悲劇で終わったりなんかしませんよ。
大丈夫、ボクが保証しますよ━━━それより」
「それより?」
気づくと巴の視界が転じていた。
いつの間にか目に見えるのは天井と自分を見下ろしている観月の顔だ。
「ロミオとジュリエットのように熱烈に愛し合ってみましょうか?
ボクは、鳥の声なんかで君を帰したりはしませんからね、心しておきなさい。
せっかく…PCに集中してキミのことを意識しないようにしていたのに」
END
その部屋には、PCのキーボードを叩く音と紙が擦れる音、
加湿器の蒸気が勢いよく噴き出す音だけが響いていた。
赤月巴は、師走に入り毎年苦手とする作業━━━年賀状の作成に入っていた。
今年は聖ルドルフ学院に転入して最初の年で
年賀状を送る相手の取捨選択に悩まされていた。
その彼女の正面にはノートPCに向かいキーボードに指を滑らせている観月はじめの姿。
ノートPCが観月の部屋のローテーブルに向かい合って座る二人を遮り
お互いの表情を窺えなくしている。
観月は冬休みに実家へ帰る寮生達のために
年末年始用の自主練習のメニューを組み立てている。
全員共通ではなく、それぞれの個性、体力に合った練習メニューで
そのあたり観月の性格の細やかさを如実に表している。
PCから一時も顔を上げない観月に寂しさを覚えつつも、
巴も自分がやらなければならないことに没頭しょうと努めていた。
とりあえずルドルフの生徒への年賀状の用意は終わった。
あとはそれ以外の人間、例えば青学の元クラスメート達や部活仲間達。
彼らへの年賀状を送るか否かを決めるだけだ。
しかし、それが一番悩む作業であった。
自分は結果的には彼らに背を向けたのだ。
「頑張って!」と快く送り出してくれる仲間達もいたけれども
やはり微妙な表情の者もいたし、
はっきりと「裏切り者」という言葉を叩きつけた者もいた。
果たして、彼らに送って良いものかどうか戸惑う。
青学の生徒であった去年はなんの躊躇いもなく送ることが出来たのだが。
自分からの年賀状は喜んで受け取って貰えるのだろうか。
悩んでも結論などなかなか出るものでなく、
無意識のうちにアドレス帳を開いたり閉じたり、
宛名を書きかけては手を止めをしきりに繰り返していた。
「……後悔していますか?」
真剣に作業に没頭していたはずの観月がぽつりと呟くように尋ねた。
その声はやや緊張を伴った固い声であった。
「後悔?」
「ボクの所━━━ルドルフに転校したことですよ」
巴には思いがけない問いだった。
たしかに巴は観月に誘われるままにルドルフにやってきた。
その彼に後悔しているのかと聞かれるとは思わなかった。
観月が、その事について少しでも気にしているとは思わなかった。
後悔などするくらいなら、初めから観月の手など取らなかった。
その事を彼も分かっていてくれていると思っていた。
なにから、話せばキチンとした答えになるだろうか。
上手く言葉が出なくて巴はもどかしく思った。
「キミは多分、あのときボクの手を取らなくてもよかった。
青学でもキミは良いプレイヤーへと伸びていったことでしょう。
かなり高い確率で、元プロとよきライバルのいる家ならば
キミは今よりも高みに上れたかもしれない。
だから、キミには後悔する権利もあります。
なにより、キミはまだ幼かった、それなのにボクは判断を迫った」
それに、多分、あのときにボクの手を取らなくても、
ボクは相変わらずキミのことが好きなままだった。
自分のそばにいてくれる幸せは何にも代え難いけれども
彼女も同じ考えだとは限らない。
現に今、青学のことを考えて珍しく長く悩んでいた。
ルドルフに来たくなど無かったとは言わせないけれども、
それでもやはりいくらかの悔いはあるのだろう。
彼女の様子をそう見てとる。
「確かに、後悔しなかったと言えば嘘になるかもしれません」
巴はあくまで正直に答える。
観月に誤魔化しても仕方がない。
もしあの時━━━そう考えたことは何度もある。
ルドルフの生活は楽しくて充実したものではあるけれども、
それでも、ふとしたときにその考えがついて出てしまう。
しかしその考えは、例え青学に残ったとしても考えていただろう。
あの時、観月の手を取っていれば?
もしあのまま青学にいたとしても、観月のことは好きでいたかもしれない。
けれども、今のような関係が築けたとはとても思えない。
それならば後悔しても今の生活を選び取れたことは正解なのだ。
不意に、あることを思い出す。
「でもね、観月さんと居ることを後悔したことはないです」
観月は押し黙って彼女の言葉を聞く。
なにか、真面目な演説を拝聴するかのように。
「私は文化芸術に疎くって…友達の朋ちゃんに聞いた話ですけどね」
ふと朋香の顔を思い浮かべる。
その顔はルドルフへと気持ちよく送り出してくれた、その時の笑顔だ。
そういえば、「アンタ達ロミジュリみたいだったね」と、この話はその時にしてくれたものだった。
「ロミオとジュリエットって16歳と14歳だったんだそうですよ。
今の私たちと変わらない年齢なんです。
でも、ちゃんと愛し合って自分たちの人生をつかみ取ろうとしていました。
…結果は悲劇に終わってしまったかもしれませんけれど」
PCに遮られて見えない観月を、それでも真剣な表情で見据えて巴は話す。
「だから私がいま、自分の判断で観月さんの手を取るのだって
幼い未熟な人間の判断の見誤りだとは思えません。
何歳であろうとも、好きな相手の所に飛び込むのに判断を間違う訳ないじゃないですか」
「それは詭弁というものですよ。彼らは話の中の登場人物なんですから」
命をかけて全てを捨てて相手の懐に飛び込む。
それは確かに素敵なことかもしれないが、同時に滑稽でもある。
現実世界では全てを捨てきることなど出来ないのだから。
逆にそれが出来てしまうのは幼さゆえだともいえるだろう。
だからこそ、大人になっていく巴に後悔していないか確認したかった。
あのとき、手を取らなかったら?
これからもっと頻繁に考えてしまうかもしれないテーマだ。
「それこそ詭弁というものですよ、観月さん。
現実に全てを投げうって、私は今ここに居るんです。
きっとこれからももう一つあったはずの道について考えちゃいます。
だけど、それは観月さんの隣にいるのが嫌だからじゃないです。
もう一つの道はバラ色の道だったに違いないとは誰でも考えちゃうことですよ」
そう言って巴は観月の隣に身体を移動させ、
相変わらずPCに向けたままの身体に横からもたれかかる。
「それに、もう一つの道も観月さんが好きって言う前提ですからね。
青学とルドルフに別れたまま好きでいるか、
それとも一緒にいて好きでいるかだったら、そりゃ一緒の方がイイじゃないですか?」
そろそろ、ちゃんと観月の顔を見たいなと巴は観月の端正な顔をのぞき込む。
彼は意外にも頬は少し上気しつつも、いたたまれない表情に見えた。
「ほらほら、そんな顔しないでください!
観月さんの綺麗な顔が沈んでるなんて、私許せないですから!笑っててください」
そう言って観月の脇腹をくすぐり出す。
観月もそれにはたまらず吹き出してしまう。
「んふっ……全くキミにはかないませんね。前向きで…強い。
キミならはまかり間違っても悲劇で終わったりなんかしませんよ。
大丈夫、ボクが保証しますよ━━━それより」
「それより?」
気づくと巴の視界が転じていた。
いつの間にか目に見えるのは天井と自分を見下ろしている観月の顔だ。
「ロミオとジュリエットのように熱烈に愛し合ってみましょうか?
ボクは、鳥の声なんかで君を帰したりはしませんからね、心しておきなさい。
せっかく…PCに集中してキミのことを意識しないようにしていたのに」
END
10月。
聖ルドルフ学院中等部は9月末からの修学旅行を終えて
帰国した3年生を再び迎え、
また、もうすぐ訪れる創立記念日の休みを控えて
生徒達はにぎやかに少し浮き足だって過ごしていた。
今年転入してきた赤月巴もその例外ではなく、
どことなしにうきうきと日々を過ごしていた。
もっとも部活、スクール共にテニスの精進は厳しくも楽しいものだったし、
テニス部員達やクラスメイト達ともすでにうち解けている。
同じクラスで寮生の早川は面倒くさそうにしながらも
結局は率先して巴に世話を焼いてくれる。
なによりも大好きな彼氏━━━観月はじめがいる。
中等部と高等部ではいつも一緒という訳にはいかないが、
性格のマメな彼のことだから時間を見つけては逢い、
メールを送りあう日々だった。
そんな日々の中に過ごす巴に沈んだ時の方が少ないのだったが。
*記念日
「おい、赤月」
移動教室の途中、早川楓と3年の教室前を通ると後ろから声をかけられた。
聞き慣れたその声に振り向くと、そこに立っていたのは不二裕太だった。
「あれれ?不二先輩じゃないですか、どうしたんですか?」
「校内で私たちに声をかけるなんて珍しいですね」
早川の言葉通り、滅多にないことだったので二人ともビックリしている。
裕太も照れくさそうに、頭を掻きつつ二人に紙袋を差し出した。
「これ」
小さめの紙袋。
二人にはなにかを貰う理由など思い当たらなかったので小首をかしげてしまう。
「なんですか?これは」
「…土産だよ、修学旅行の」
そういえば裕太は先日まで修学旅行でヨーロッパへ行っていた。
二人はその事に思い当たり、すかさず礼を述べる。
「あっ、ありがとうございます!」
裕太には姉がいるせいか、案外そういう面では気の利いたことをする。
きっと今回も不二由美子の行き届いた教育がなせるワザだろう。
もっとも女子ウケするお土産が選べるかどうかは別の問題であるが。
「開けて良いですか?」
一応気を使って訊ねる早川を尻目に、巴は既にべりべりと開けていた。
出てきたのは木靴がモチーフらしいペンダント。
「わあ、可愛い!」
「あっ…私と巴、色違いなんですね」
巴が黄色で早川が赤。
裕太がいうにはあえて意識したことではないそうだが、
今年はオランダを中心に回ったのでこういう土産になったとか。
裕太から詳しく土産話でも…と思ったところで予鈴が聞こえた。
「ほら、話ならまたしてやるから早く行けよ」
---
机の上に裕太の土産をおき、眺めながら巴は授業を受ける。
本来見つかれば没収になりかねないが
つまらない授業に目の保養は必要だと自分は納得している。
そういえば去年は観月さんにデンマークのお土産を貰ったっけ。
まだ二人が付き合い出す前。
まだ二人が敵同士の学校で腹のさぐり合いで時間を費やしている時。
でも、お土産は本当に嬉しかったので未だに机の上に飾っている。
何となく照れくさいので観月には秘密にしているが、
きっとそれを観月が知ってしまったら彼もまた照れてしまうだろう。
まだ二人が付き合い出す前、まだお互いがお互いのためを考えていないとき。
でも、その時にはもう好きだった。
そういえば、あのときいつかデンマークに連れて行ってくれるっていってたっけ。
今考えてみるとアレってまさしく新婚旅行の話題だよねえ。
中学生の自分からすればまだまだ先の遠い未来のことのように感じる。
実際はあと2年ほどすれば観月共々結婚できる年齢の達するのだが
それでもやはり遠い未来だ。
来年のことすら分からないと言うのに2年後まで想像することなど出来ない。
1年前にはまさか観月と付き合うことになろうとは巴自身思っていなかった。
自分の中では「好き」と「付き合う」とがイコールで結ぶことが出来るほど
恋愛方面に於いて成熟していなかったこともあるのだが。
人生何が起こるか分からない。
そういえば、好きな人にものを貰うって初めての経験だったなあ。
それに気づくと無性に嬉しさがこみ上げてきた。
そういう経験の相手が観月でよかったとも思った。
例えお土産でも、自分のことを考えて買ってきてくれたものだ。
胸が熱くなってくる。
---
聖ルドルフ学院の創立記念日は、それを祝うかのように快晴だった。
創立記念日で学校は休みで、その日ばかりは部活もスクールもお休みだ。
寮にいる面々も部活から解放されて朝から居ないものが多かった。
巴も同じく朝から寮を出て、待ち合わせの場所へと急ぐ。
高等部も中等部と同じく学校は休校で、すなわち観月も休みだった。
休日同志の彼氏彼女、当然逢わない訳がない。
「すみませんっ!おまたせしました」
待ち合わせ時間にはまだ早かったが、当然のように観月は待っていた。
付き合う前は必ず早いということはなかったはずだが
いつしか「彼女を一人で待たせるなんてとんでもない」と彼は思うようになっていた
。周囲からお母さんみたいと言われてしまうほどに心配性な彼は
巴が一人で待つことで引き起こされるトラブルについて幾つもシミュレートしていた。
「いいえ、まだ時間よりは早いですからね、問題ないですよ」
観月の姿を認めたとたん顔を真っ赤にして駆け寄ってくる巴の姿に
満足を覚えながらにこやかに答える観月。
自分に向かって駆け寄ってくる事一つすら愛おしく思える。
そんなことからも周囲から密かに「巴馬鹿」と呼ばれていることは知っているが
それは否定しないし、否定したくない。
正面切って言われれば笑顔で「僻みですか?」と答えよう。
自分の彼女を可愛いと思わない方が人間的にどうかしているのだ。
まったく、出会って1年以上、付き合ってから半年以上も立つというのに
まだ彼女を見るとドキドキして居るんですから、
ボクもおかしなものですよね…それも悪くありませんが。
高鳴る鼓動の心地よさに思わず目を細めつつ巴の隣に並び、歩き始める。
今日は久し振りの完全オフ。
門限という時間制限はあるものの、その制限はスクール帰りや
下校途中に待ち合わせて…などという普段よりは大分長い。
普段は目的地に真っ直ぐ直行するところであるが、
珍しくそのあたりをぶらぶら歩こうと言うことになっていた。
以前は無駄に時間を費やすことやアテの無い行動が嫌いであった観月だが、
巴と居るときに限ってはそんな時間も悪くないと思うようになっていた。
とにかく、彼女の隣にいることに既に意味があるのだ。
---
そうして二人でぶらぶらとウィンドウショッピングなど楽しみつつ
とりとめのない話などをしつつ午前中を楽しく過ごした。
健康的な巴がお腹が空いたと告げたので、
目についたレストラン数件の中から適当に選んで入ることにした。
観月は普段どんなときもリサーチする派なので
適当な飲食店に入るということも少ない。
なので、「巴くん、どこに入りましょうか?」と訊かれたとき、
少なからず巴は驚いたのだが、
それは自分がもたらした変化のだということに気付き、少し嬉しくなる。
気づくと、どんどんお互いのことを思い合う場面が増えていっている。
服を選ぶときも「自分がどう見えるか」でなく「相手が気に入ってくれるか」
話すときも「自分のこと」ではなく「相手のこと」
食べるものにしても「自分の好きなもの」ではなく「相手の好きなもの」を。
決して自分の考えを殺すのではない。
ただ、まず先に考えてしまうだけだ。
気づくと観月がどう考えるか、何を選ぶかを自然と分かるようになっている。
きっとそのことは観月も同じだろう。
いまも自分の入りたい店ではなく、巴に選択を委ねている。
そして相手をもっと理解して、そしてもっともっと好きになっていく。
これ以上好きになってしまったらどうすれば良いんだろう。
ただでさえ、頭の中は観月さんで一杯なのになあ。
この先の自分が怖くなって巴はこっそりため息を漏らす。
そんな巴の選んだレストランは、店頭のメニューにいろんな紅茶の名前が並ぶお店で
結局、観月を喜ばせる店だ。
「いい品揃えですね」と好奇心に顔を輝かせる観月に心をときめかす。
「━━━何にもチェックせず入ったお店でしたけど、良いですね」
ランチコースの最後の紅茶とデザートが出てきたところで嬉しそうに観月は言う。
コースの紅茶なのにちゃんとしたリーフの紅茶で満足そうだ。
「そうですね!今度また来ましょうね、観月さん」
デザートのケーキを一生懸命頬張りながら巴は答える。
観月が紅茶に満足なら、巴はデザートに満足していた。
デザートが運ばれてくると嬉しそうに目を輝かせた巴に
観月は自分のガトーショコラを半分、巴のティラミスの皿に取り分けた。
巴の目はさらに幸せの色に輝いた。
いいのかと観月に訊ねたところ、
「そんなキミの表情の方がボクにとってはデザートですから」
と、恥ずかしげも無く言われてしまった。
「あ、そうそう!」
一瞬つまってしまった雰囲気を打開しようと巴は口を開いた。
「私、観月さんに渡したいものがあって持ってきていたんですよ」
「渡したいもの?……なんでしょうか?」
観月にはなんの心あたりもなく、首をかしげる。
そんな彼に小さな袋を手渡す。
「これ…たいしたものじゃないんですけど、プレゼントなんです」
「プレゼントですか、今キミになにか貰う理由はないのですが?」
誕生日でもクリスマスでも巴が旅行に行っていたということもない。
別になにか特別なことがなけれな贈り物をしてはいけないという法はないが、
やはり疑問は残るところである。
もっとも、巴の考えなど正確につかめたことはほとんど無いのだが。
観月は巴に許可を求めて開封する。
中から出てきたのはシルバーチェーンの携帯ストラップ。
ムダのないシンプルなデザインだ。
「見ての通りですよ。ストラップです。━━━実は私とお揃いです」
そう言って、自らの携帯を取りだしてみせる。
確かにそこには彼の手にあるものと同じものが付けられていた。
「と、言うことはお揃いのものを付けるためにボクにくれたんですか?」
ペアのものが欲しいのなら二人で一緒に選んで買っても良かったのに、
実はそう思う心も観月には少しあった。
きっと、二人で選ぶ時間も楽しいものに違いなかったから。
しかしストラップは実に自分好みで、
これを選んでいるときの巴を思うとたまらない。
きっと自分のことが頭を占めているのだと思うと思わず抱きしめてしまいたくなる。
もっとも、このレストラン店内ではそんなこと出来るはずもないのだが。
「本当は今日じゃないけど去年初めてプレゼントを貰った記念日ですから!」
突拍子もないことを急に巴は口走る。
「初めて…プレゼントを…?ボクが?」
観月は不覚にも全く覚えがなかった。
こんな中途半端な時期、まだ付き合ってもいない女性にプレゼントなど贈るだろうか。
まさか、自分が?
そんな思考が脳内を駆けめぐる。
確かにもう去年の今頃の時点では彼女が気になっていた。
自覚はある。
だからといって、いやだからこそ覚えのないプレゼントなどしないはずだ。
巴はそうやって頭を悩ましている観月を、ほほえましく眺めている。
うすうす気づいていたが、彼にとって土産など何のカウントにも入らないだろう。
きっとちゃんとした人への贈り物ともなると、気合いを入れるタイプだから。
ゆえに彼が覚えていなくても気にならない。
むしろ、今、この動揺が出まくりの状態が嬉しい。
他人にこんな表情を見せる人ではないと言うこともあるし、
悩むと言うことはこの人が自分に対して誠実だと言うことだからだ。
こういうときの観月さんって可愛いよねえ。
本人にはとても聞かせられないことを巴は思う。
「じゃあ、答えはあとでお話ししますから、とりあえずお店出ちゃいましょう?」
かなり考え込んでいるらしい様子の観月に声をかける。
このままでは日が暮れるまで悩んでしまいそうだ。
---
また再び町中をうろつく。
相変わらずファッションビルを冷やかしたり、
街角でアイスクリームを食べたりしながら天気の良い昼下がりを過ごす。
先ほどの巴の発言を観月はまだ気にはしていたが
巴があとで話すといった手前、みずからその話題に触れるのは控えた。
細かいことにねちねち拘るのはみっともなく美しくないからだ。
巴も観月の真意には気づいていたが
焦らしてみるのも面白いと言わんばかりになにも話さなかった。
普段、賢く冷静な観月にジリジリさせられている方なのでお返しだ。
「あーっ!今日は楽しかったですねえ!」
「そうですね、普段こんなにのんびり買い物なんて出来ませんからね」
陽も傾きかけ、すっかり歩き疲れてしまった二人は
公園のベンチに座り休憩をとる。
無目的な買い物に出ることすら久しぶりだった巴は
ここぞと言わんばかりに色々買い物をしてしまったため
ごそごそと観月の右隣で荷物整理をはじめた。
「ところで、巴くん」
「はい?」
観月の言葉を聞きながらも荷物整理に熱中し返事も熱がこもらない。
「ボクは先ほどの件、考えたんですけどね」
「あっ、まだ考えてましたか」
悩んでるものに対して、やや無神経とも受け取れる返事をする巴に、
観月は多少の忍耐を試される。
無神経な彼女に対して心の広い彼氏を演じる、という忍耐を。
もっとも巴の前でこれまで心の狭い彼氏など演じたこともないのだが。
「さっきの答えですけどね、観月さんずっと気になってました?」
「そりゃあ、そうでしょう。“プレゼント”なんてしましたっけ?
━━━もし、それが本当なのだとしたら忘れてしまっていて申し訳ないですが」
巴の発言に耐えながらも、そこのところは本当にすまなく思っていたので
その心情は素直に声へと滲み出る。
巴もそれを聞いてちょっと意地悪してしまったことを反省する。
「こっちこそ、意味深なことを言ってごめんなさい。
デンマークのお土産のことなんです。プレゼントとは言えないですよね。
あのとき、本当に嬉しかったものですから━━━つい」
「そうでしたか…!」
観月はしばし絶句する。
不覚にも巴があれをプレゼントにカウントしているとは思わなかった。
去年の10月上旬、たしかに物をあげた。それは覚えている。
彼女が嬉しそうな表情だったのも覚えている。
その時にたしか、今考えると相当赤面ものだが
勢いに乗ってついついプロポーズめいた発言をしてしまったのも覚えている。
その時の、記念日か。
思い出せばついつい笑みもこぼれる。
女子という生き物が記念日というものを作るのが好きだということは
知識として知ってはいたが、ここで実際に遭遇できるとは思わなかった。
「━━━っはははは、じゃあ、本当は必要なかったですかね?」
堪えきれなくなって、観月は吹き出してしまった。
そして、独り言めいたことを口にする。
巴は荷物整理の手を止めて不思議そうに観月を見ている。
「んふっ、いや、やっぱり必要ですね」
「はい?」
何が必要だったり必要じゃなかったりしたのだろうか。
巴にはさっぱり分からず困惑する。
観月は自分のすぐ横にある巴の手を取り、彼女を見つめる。
そして柔らかな声で言葉を紡ぐ。
「キミは…細かいことまで良く覚えてくれているんですね。
とても、嬉しいですよ。でも、去年のことは忘れてください。
ボク自身もカウントしてなかったですものし、
ただのお土産が記念日になってしまうなんてプライドが許しませんから」
「でも!嬉しかったことは本当で━━━」
忘れてくれとの発言に、ムキになって巴は言い返そうとするも
それを鋭い観月の声が遮る。
「ですから━━━ですから、これが必要なんです」
観月の右手に握られていた巴の左手は軽く持ち上げられて
さらに観月の左手が添えられる。
そしてごく自然に彼女の薬指になにかが滑り降りる。
それは巴自身ならば絶対選ばないような、いや選べないような
凝った華奢なデザインの指輪だった。
「初めてのプレゼントの記念日というのならば、これをもって記念日としてください」
突然のことであまりの驚きに巴は声が出ない。
いつ彼はこれを用意したというのだろうか、
トイレにいったり買い物に夢中になっているときに買ったりしたんだろうか。
いずれにしても嬉しいことには変わりないのだが。
「ボクとしては身に覚えのない、いや、ただのお土産が
キミの記念日になってしまうなんて不本意で耐えられませんからね。
どうせキミの思い出となるのならばこっちの方がふさわしいでしょう?」
「観月さん…」
「これからボクが何度もキミに贈るであろう、
キミが一生その指に嵌め続けるだろうものの最初の一つを贈られた記念日の方が」
一旦言葉を切り巴の、その彼からの贈り物が嵌った指に優しく口づける。
そしてまた再び巴への言葉を続ける。
「最終的に“ここ”に嵌るのはダイヤですから━━━覚悟してくださいね」
END
聖ルドルフ学院中等部は9月末からの修学旅行を終えて
帰国した3年生を再び迎え、
また、もうすぐ訪れる創立記念日の休みを控えて
生徒達はにぎやかに少し浮き足だって過ごしていた。
今年転入してきた赤月巴もその例外ではなく、
どことなしにうきうきと日々を過ごしていた。
もっとも部活、スクール共にテニスの精進は厳しくも楽しいものだったし、
テニス部員達やクラスメイト達ともすでにうち解けている。
同じクラスで寮生の早川は面倒くさそうにしながらも
結局は率先して巴に世話を焼いてくれる。
なによりも大好きな彼氏━━━観月はじめがいる。
中等部と高等部ではいつも一緒という訳にはいかないが、
性格のマメな彼のことだから時間を見つけては逢い、
メールを送りあう日々だった。
そんな日々の中に過ごす巴に沈んだ時の方が少ないのだったが。
*記念日
「おい、赤月」
移動教室の途中、早川楓と3年の教室前を通ると後ろから声をかけられた。
聞き慣れたその声に振り向くと、そこに立っていたのは不二裕太だった。
「あれれ?不二先輩じゃないですか、どうしたんですか?」
「校内で私たちに声をかけるなんて珍しいですね」
早川の言葉通り、滅多にないことだったので二人ともビックリしている。
裕太も照れくさそうに、頭を掻きつつ二人に紙袋を差し出した。
「これ」
小さめの紙袋。
二人にはなにかを貰う理由など思い当たらなかったので小首をかしげてしまう。
「なんですか?これは」
「…土産だよ、修学旅行の」
そういえば裕太は先日まで修学旅行でヨーロッパへ行っていた。
二人はその事に思い当たり、すかさず礼を述べる。
「あっ、ありがとうございます!」
裕太には姉がいるせいか、案外そういう面では気の利いたことをする。
きっと今回も不二由美子の行き届いた教育がなせるワザだろう。
もっとも女子ウケするお土産が選べるかどうかは別の問題であるが。
「開けて良いですか?」
一応気を使って訊ねる早川を尻目に、巴は既にべりべりと開けていた。
出てきたのは木靴がモチーフらしいペンダント。
「わあ、可愛い!」
「あっ…私と巴、色違いなんですね」
巴が黄色で早川が赤。
裕太がいうにはあえて意識したことではないそうだが、
今年はオランダを中心に回ったのでこういう土産になったとか。
裕太から詳しく土産話でも…と思ったところで予鈴が聞こえた。
「ほら、話ならまたしてやるから早く行けよ」
---
机の上に裕太の土産をおき、眺めながら巴は授業を受ける。
本来見つかれば没収になりかねないが
つまらない授業に目の保養は必要だと自分は納得している。
そういえば去年は観月さんにデンマークのお土産を貰ったっけ。
まだ二人が付き合い出す前。
まだ二人が敵同士の学校で腹のさぐり合いで時間を費やしている時。
でも、お土産は本当に嬉しかったので未だに机の上に飾っている。
何となく照れくさいので観月には秘密にしているが、
きっとそれを観月が知ってしまったら彼もまた照れてしまうだろう。
まだ二人が付き合い出す前、まだお互いがお互いのためを考えていないとき。
でも、その時にはもう好きだった。
そういえば、あのときいつかデンマークに連れて行ってくれるっていってたっけ。
今考えてみるとアレってまさしく新婚旅行の話題だよねえ。
中学生の自分からすればまだまだ先の遠い未来のことのように感じる。
実際はあと2年ほどすれば観月共々結婚できる年齢の達するのだが
それでもやはり遠い未来だ。
来年のことすら分からないと言うのに2年後まで想像することなど出来ない。
1年前にはまさか観月と付き合うことになろうとは巴自身思っていなかった。
自分の中では「好き」と「付き合う」とがイコールで結ぶことが出来るほど
恋愛方面に於いて成熟していなかったこともあるのだが。
人生何が起こるか分からない。
そういえば、好きな人にものを貰うって初めての経験だったなあ。
それに気づくと無性に嬉しさがこみ上げてきた。
そういう経験の相手が観月でよかったとも思った。
例えお土産でも、自分のことを考えて買ってきてくれたものだ。
胸が熱くなってくる。
---
聖ルドルフ学院の創立記念日は、それを祝うかのように快晴だった。
創立記念日で学校は休みで、その日ばかりは部活もスクールもお休みだ。
寮にいる面々も部活から解放されて朝から居ないものが多かった。
巴も同じく朝から寮を出て、待ち合わせの場所へと急ぐ。
高等部も中等部と同じく学校は休校で、すなわち観月も休みだった。
休日同志の彼氏彼女、当然逢わない訳がない。
「すみませんっ!おまたせしました」
待ち合わせ時間にはまだ早かったが、当然のように観月は待っていた。
付き合う前は必ず早いということはなかったはずだが
いつしか「彼女を一人で待たせるなんてとんでもない」と彼は思うようになっていた
。周囲からお母さんみたいと言われてしまうほどに心配性な彼は
巴が一人で待つことで引き起こされるトラブルについて幾つもシミュレートしていた。
「いいえ、まだ時間よりは早いですからね、問題ないですよ」
観月の姿を認めたとたん顔を真っ赤にして駆け寄ってくる巴の姿に
満足を覚えながらにこやかに答える観月。
自分に向かって駆け寄ってくる事一つすら愛おしく思える。
そんなことからも周囲から密かに「巴馬鹿」と呼ばれていることは知っているが
それは否定しないし、否定したくない。
正面切って言われれば笑顔で「僻みですか?」と答えよう。
自分の彼女を可愛いと思わない方が人間的にどうかしているのだ。
まったく、出会って1年以上、付き合ってから半年以上も立つというのに
まだ彼女を見るとドキドキして居るんですから、
ボクもおかしなものですよね…それも悪くありませんが。
高鳴る鼓動の心地よさに思わず目を細めつつ巴の隣に並び、歩き始める。
今日は久し振りの完全オフ。
門限という時間制限はあるものの、その制限はスクール帰りや
下校途中に待ち合わせて…などという普段よりは大分長い。
普段は目的地に真っ直ぐ直行するところであるが、
珍しくそのあたりをぶらぶら歩こうと言うことになっていた。
以前は無駄に時間を費やすことやアテの無い行動が嫌いであった観月だが、
巴と居るときに限ってはそんな時間も悪くないと思うようになっていた。
とにかく、彼女の隣にいることに既に意味があるのだ。
---
そうして二人でぶらぶらとウィンドウショッピングなど楽しみつつ
とりとめのない話などをしつつ午前中を楽しく過ごした。
健康的な巴がお腹が空いたと告げたので、
目についたレストラン数件の中から適当に選んで入ることにした。
観月は普段どんなときもリサーチする派なので
適当な飲食店に入るということも少ない。
なので、「巴くん、どこに入りましょうか?」と訊かれたとき、
少なからず巴は驚いたのだが、
それは自分がもたらした変化のだということに気付き、少し嬉しくなる。
気づくと、どんどんお互いのことを思い合う場面が増えていっている。
服を選ぶときも「自分がどう見えるか」でなく「相手が気に入ってくれるか」
話すときも「自分のこと」ではなく「相手のこと」
食べるものにしても「自分の好きなもの」ではなく「相手の好きなもの」を。
決して自分の考えを殺すのではない。
ただ、まず先に考えてしまうだけだ。
気づくと観月がどう考えるか、何を選ぶかを自然と分かるようになっている。
きっとそのことは観月も同じだろう。
いまも自分の入りたい店ではなく、巴に選択を委ねている。
そして相手をもっと理解して、そしてもっともっと好きになっていく。
これ以上好きになってしまったらどうすれば良いんだろう。
ただでさえ、頭の中は観月さんで一杯なのになあ。
この先の自分が怖くなって巴はこっそりため息を漏らす。
そんな巴の選んだレストランは、店頭のメニューにいろんな紅茶の名前が並ぶお店で
結局、観月を喜ばせる店だ。
「いい品揃えですね」と好奇心に顔を輝かせる観月に心をときめかす。
「━━━何にもチェックせず入ったお店でしたけど、良いですね」
ランチコースの最後の紅茶とデザートが出てきたところで嬉しそうに観月は言う。
コースの紅茶なのにちゃんとしたリーフの紅茶で満足そうだ。
「そうですね!今度また来ましょうね、観月さん」
デザートのケーキを一生懸命頬張りながら巴は答える。
観月が紅茶に満足なら、巴はデザートに満足していた。
デザートが運ばれてくると嬉しそうに目を輝かせた巴に
観月は自分のガトーショコラを半分、巴のティラミスの皿に取り分けた。
巴の目はさらに幸せの色に輝いた。
いいのかと観月に訊ねたところ、
「そんなキミの表情の方がボクにとってはデザートですから」
と、恥ずかしげも無く言われてしまった。
「あ、そうそう!」
一瞬つまってしまった雰囲気を打開しようと巴は口を開いた。
「私、観月さんに渡したいものがあって持ってきていたんですよ」
「渡したいもの?……なんでしょうか?」
観月にはなんの心あたりもなく、首をかしげる。
そんな彼に小さな袋を手渡す。
「これ…たいしたものじゃないんですけど、プレゼントなんです」
「プレゼントですか、今キミになにか貰う理由はないのですが?」
誕生日でもクリスマスでも巴が旅行に行っていたということもない。
別になにか特別なことがなけれな贈り物をしてはいけないという法はないが、
やはり疑問は残るところである。
もっとも、巴の考えなど正確につかめたことはほとんど無いのだが。
観月は巴に許可を求めて開封する。
中から出てきたのはシルバーチェーンの携帯ストラップ。
ムダのないシンプルなデザインだ。
「見ての通りですよ。ストラップです。━━━実は私とお揃いです」
そう言って、自らの携帯を取りだしてみせる。
確かにそこには彼の手にあるものと同じものが付けられていた。
「と、言うことはお揃いのものを付けるためにボクにくれたんですか?」
ペアのものが欲しいのなら二人で一緒に選んで買っても良かったのに、
実はそう思う心も観月には少しあった。
きっと、二人で選ぶ時間も楽しいものに違いなかったから。
しかしストラップは実に自分好みで、
これを選んでいるときの巴を思うとたまらない。
きっと自分のことが頭を占めているのだと思うと思わず抱きしめてしまいたくなる。
もっとも、このレストラン店内ではそんなこと出来るはずもないのだが。
「本当は今日じゃないけど去年初めてプレゼントを貰った記念日ですから!」
突拍子もないことを急に巴は口走る。
「初めて…プレゼントを…?ボクが?」
観月は不覚にも全く覚えがなかった。
こんな中途半端な時期、まだ付き合ってもいない女性にプレゼントなど贈るだろうか。
まさか、自分が?
そんな思考が脳内を駆けめぐる。
確かにもう去年の今頃の時点では彼女が気になっていた。
自覚はある。
だからといって、いやだからこそ覚えのないプレゼントなどしないはずだ。
巴はそうやって頭を悩ましている観月を、ほほえましく眺めている。
うすうす気づいていたが、彼にとって土産など何のカウントにも入らないだろう。
きっとちゃんとした人への贈り物ともなると、気合いを入れるタイプだから。
ゆえに彼が覚えていなくても気にならない。
むしろ、今、この動揺が出まくりの状態が嬉しい。
他人にこんな表情を見せる人ではないと言うこともあるし、
悩むと言うことはこの人が自分に対して誠実だと言うことだからだ。
こういうときの観月さんって可愛いよねえ。
本人にはとても聞かせられないことを巴は思う。
「じゃあ、答えはあとでお話ししますから、とりあえずお店出ちゃいましょう?」
かなり考え込んでいるらしい様子の観月に声をかける。
このままでは日が暮れるまで悩んでしまいそうだ。
---
また再び町中をうろつく。
相変わらずファッションビルを冷やかしたり、
街角でアイスクリームを食べたりしながら天気の良い昼下がりを過ごす。
先ほどの巴の発言を観月はまだ気にはしていたが
巴があとで話すといった手前、みずからその話題に触れるのは控えた。
細かいことにねちねち拘るのはみっともなく美しくないからだ。
巴も観月の真意には気づいていたが
焦らしてみるのも面白いと言わんばかりになにも話さなかった。
普段、賢く冷静な観月にジリジリさせられている方なのでお返しだ。
「あーっ!今日は楽しかったですねえ!」
「そうですね、普段こんなにのんびり買い物なんて出来ませんからね」
陽も傾きかけ、すっかり歩き疲れてしまった二人は
公園のベンチに座り休憩をとる。
無目的な買い物に出ることすら久しぶりだった巴は
ここぞと言わんばかりに色々買い物をしてしまったため
ごそごそと観月の右隣で荷物整理をはじめた。
「ところで、巴くん」
「はい?」
観月の言葉を聞きながらも荷物整理に熱中し返事も熱がこもらない。
「ボクは先ほどの件、考えたんですけどね」
「あっ、まだ考えてましたか」
悩んでるものに対して、やや無神経とも受け取れる返事をする巴に、
観月は多少の忍耐を試される。
無神経な彼女に対して心の広い彼氏を演じる、という忍耐を。
もっとも巴の前でこれまで心の狭い彼氏など演じたこともないのだが。
「さっきの答えですけどね、観月さんずっと気になってました?」
「そりゃあ、そうでしょう。“プレゼント”なんてしましたっけ?
━━━もし、それが本当なのだとしたら忘れてしまっていて申し訳ないですが」
巴の発言に耐えながらも、そこのところは本当にすまなく思っていたので
その心情は素直に声へと滲み出る。
巴もそれを聞いてちょっと意地悪してしまったことを反省する。
「こっちこそ、意味深なことを言ってごめんなさい。
デンマークのお土産のことなんです。プレゼントとは言えないですよね。
あのとき、本当に嬉しかったものですから━━━つい」
「そうでしたか…!」
観月はしばし絶句する。
不覚にも巴があれをプレゼントにカウントしているとは思わなかった。
去年の10月上旬、たしかに物をあげた。それは覚えている。
彼女が嬉しそうな表情だったのも覚えている。
その時にたしか、今考えると相当赤面ものだが
勢いに乗ってついついプロポーズめいた発言をしてしまったのも覚えている。
その時の、記念日か。
思い出せばついつい笑みもこぼれる。
女子という生き物が記念日というものを作るのが好きだということは
知識として知ってはいたが、ここで実際に遭遇できるとは思わなかった。
「━━━っはははは、じゃあ、本当は必要なかったですかね?」
堪えきれなくなって、観月は吹き出してしまった。
そして、独り言めいたことを口にする。
巴は荷物整理の手を止めて不思議そうに観月を見ている。
「んふっ、いや、やっぱり必要ですね」
「はい?」
何が必要だったり必要じゃなかったりしたのだろうか。
巴にはさっぱり分からず困惑する。
観月は自分のすぐ横にある巴の手を取り、彼女を見つめる。
そして柔らかな声で言葉を紡ぐ。
「キミは…細かいことまで良く覚えてくれているんですね。
とても、嬉しいですよ。でも、去年のことは忘れてください。
ボク自身もカウントしてなかったですものし、
ただのお土産が記念日になってしまうなんてプライドが許しませんから」
「でも!嬉しかったことは本当で━━━」
忘れてくれとの発言に、ムキになって巴は言い返そうとするも
それを鋭い観月の声が遮る。
「ですから━━━ですから、これが必要なんです」
観月の右手に握られていた巴の左手は軽く持ち上げられて
さらに観月の左手が添えられる。
そしてごく自然に彼女の薬指になにかが滑り降りる。
それは巴自身ならば絶対選ばないような、いや選べないような
凝った華奢なデザインの指輪だった。
「初めてのプレゼントの記念日というのならば、これをもって記念日としてください」
突然のことであまりの驚きに巴は声が出ない。
いつ彼はこれを用意したというのだろうか、
トイレにいったり買い物に夢中になっているときに買ったりしたんだろうか。
いずれにしても嬉しいことには変わりないのだが。
「ボクとしては身に覚えのない、いや、ただのお土産が
キミの記念日になってしまうなんて不本意で耐えられませんからね。
どうせキミの思い出となるのならばこっちの方がふさわしいでしょう?」
「観月さん…」
「これからボクが何度もキミに贈るであろう、
キミが一生その指に嵌め続けるだろうものの最初の一つを贈られた記念日の方が」
一旦言葉を切り巴の、その彼からの贈り物が嵌った指に優しく口づける。
そしてまた再び巴への言葉を続ける。
「最終的に“ここ”に嵌るのはダイヤですから━━━覚悟してくださいね」
END
『ケガ』
これ以上転んだりぶつかったりして怪我をするのは止めてください。
キミの綺麗な身体に傷が付いてしまうのは惜しいですからね。
え?キミの身体が綺麗だから好きなのか…って?
冗談。そんな馬鹿なこと思うはずはないでしょうが。
キミがどんなだってボクはキミのことが………。
………恥ずかしいこと言わせないでください………。
じゃあ、キミはボクが傷だらけだったら嫌だって言うんですか?
お互い様でしょう?
ほら、馬鹿なことを言ってないで
さっさと包帯を巻かせてくださいよ。
キミの足に手を触れるのがどれだけ心臓に悪いと思ってるんですか?
ボクが老人なら心臓発作で死んでしまうでしょうね。
ただでさえ、キミに出会ってから不整脈気味なんですから。
何言ってるんですか。ボクだって男ですよ。
好きな女子の足なんか見て正気で居られると思うんですか。
もう、キミはほんっとに…これ以降怪我禁止です。
ボクに足を触れられたいなら…そうですね。
他の方法を使って━━━な、なに言ってるんですか。
ほら、治療は終わりましたよ!
さっさと立って、練習練習。
この話のつづきは、あとで、二人っきりの時にお願いしますよ。
END
これ以上転んだりぶつかったりして怪我をするのは止めてください。
キミの綺麗な身体に傷が付いてしまうのは惜しいですからね。
え?キミの身体が綺麗だから好きなのか…って?
冗談。そんな馬鹿なこと思うはずはないでしょうが。
キミがどんなだってボクはキミのことが………。
………恥ずかしいこと言わせないでください………。
じゃあ、キミはボクが傷だらけだったら嫌だって言うんですか?
お互い様でしょう?
ほら、馬鹿なことを言ってないで
さっさと包帯を巻かせてくださいよ。
キミの足に手を触れるのがどれだけ心臓に悪いと思ってるんですか?
ボクが老人なら心臓発作で死んでしまうでしょうね。
ただでさえ、キミに出会ってから不整脈気味なんですから。
何言ってるんですか。ボクだって男ですよ。
好きな女子の足なんか見て正気で居られると思うんですか。
もう、キミはほんっとに…これ以降怪我禁止です。
ボクに足を触れられたいなら…そうですね。
他の方法を使って━━━な、なに言ってるんですか。
ほら、治療は終わりましたよ!
さっさと立って、練習練習。
この話のつづきは、あとで、二人っきりの時にお願いしますよ。
END
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