11時。
大きなラケットバッグを背負って、赤月巴が駅前の待ち合わせ場所にたどり着くと、彼女を待っているらしい人物━━━観月はじめは電話をしていた。
「……はい……じゃあ、15時からの予約だったんですね……わかりました。その時間で結構です、それじゃあよろしくお願いします。失礼します」
通話が終わり、巴の気配に気付いた観月は彼女に向き合う。
「観月さん?」
「失礼しました、巴くん。キッチリ時間通りですね。━━━なのに申し訳ないんですが…」
非常に申し訳ないといった表情で観月は言い淀む。巴はちょっとした不安そうな表情でその話の続きを視線で促す。
「テニスコートの件なのですが、予約は13時からと申し込んでいたのですが、こちらの確認ミスで15時からになっていたんですよ。この待ち合わせ時間だと…随分空いてしまいますね、すみません」
昼食を一緒に食べることを考えてこの時間に待ち合わせを決めたのだが、15時まではかなり時間が空いてしまう。
「本当にすみませんね。貴重な時間を取らせてしまって」と観月は再度謝った。そんな殊勝な態度の観月を見ることはあまりないせいか、巴もそんなに悪い気はしないらしく、にっこり笑って謝意に応えた。
「いえ、いいんですよ、それより…この空いた時間、どうしましょうか?」
「そうですね…最初から昼食を途中でとるつもりでしたし、とりあえず予定通りにまず動きますか」
観月はそう答えて巴を促し、二人で駅の構内へと向かっていった。
「私のことよりも、観月さんは大丈夫ですか?高校受験とか、Jr選抜合宿のこととかで色々忙しいのにテニスの練習に付き合ってもらっちゃったりして」
「ボクは大丈夫ですよ、普段から自分のことはキチンと管理していますし、大体今日テニスに誘ったのはボクですよ?余裕がなければ誘いませんよ。それに最近テニスの森で打ってませんからね、ひさしぶりにあのコートで練習がしたかったんですよ。いいコートですから」
今日は二人は、よくテニスの大会の会場として使われる場所へ行く予定をしていた。
いつも通っているテニススクールのコートもいいコートだが、たまには場所を変えてやるのも良い気分転換になる。
巴は久し振りに訪れるテニスの森のコートを懐かしみ楽しみにしていた。
それに、あの場所に行くには東京での観光スポットを通過する交通機関を利用する。車窓からそれを観月と眺めるというのも楽しみだった。
さすがに練習として誘ってくれた観月本人にいうことは出来なかったが。
昼食は大幅に時間もあることだしと、観月の提案で人気の臨海スポットに途中下車することにした。
観月の苦手な騒がしい空間であることは、その場所へ向かう車内からも察することが出来たが、彼は今日に限っては目をつぶることにした。
なにより、「このスポット初めて来ました!」と目を輝かせている少女が隣にいるというのに、それをあえて無視できる人間がいたらお目にかかってみたい。むしろ観月は殴りに行きたいと思った。そんな奴がいるならば。
ここで言うべき言葉はただ一つ「じゃあ、ここで降りて時間を潰しましょうか?」それだけだ。
観月は、それに従う。
巴の狂喜乱舞ぶりは何も観月のデータを披露するまでもなく予測できることだった。
こんな自分を一年前の自分は想像出来ただろうか?出来るわけがない。
この観月はじめが騒がしい店内で栄養価の低いファストフードで腹を満たし、衛生面で不安のある移動屋台で糖分を過剰摂取し、自分では見えないけれど多分全開の笑顔で進んで観覧車に乗っている。
外には相変わらず濁った色をしている東京湾と淀んだ空気にかすむ街の風景が広がっている。
風の吹く澄んだ晴天の日には富士山も眺められるそうだが、今現在は確認できそうにない。確認できるのは目の前に座った少女の喜色満面な顔つきだけだ。
「ああっ、観月さん観月さん!あそこにも観覧車がありますよ!」
「あの場所だと…江戸川区の公園の観覧車でしょうか」
「変わった船が!」
「水上バスですね…確か有名な漫画家がデザインしたそうですよ」
1年前の自分ならばくだらないと切り捨てるような会話に今の自分は乗り気だ。自分自身信じられず、驚きで一杯だ。
彼女といるとどうして自分はこうなってしまうのだろう。脳内でハチマキを付けたチームメイトが「観月は赤月にメロメロだね」とせせら嗤う。アヒルみたいなチームメイトも「お熱いダーネ」と彼をからかう。
けれども、実際にそう言われても今の自分は気にならない。だって本当にそうなのだから。
でなければ、何故自分が必死に彼女を誘い出して観覧車にまで乗ったりするだろうか。
頭の中に描かれたチームメイトを閉め出しながら、徹底的に巴との会話を楽しもうと観月は決心する。狭い密室で気になる女子と楽しむことに専念しない男はいない。それが例え観月はじめであったとしても、だ。
向かいに座る彼女は何か見つけるごとに「観月さん!」と問いかける。
楽しそうに興味深そうに弾む声。これまでこんな甘い声で自分の名前を呼ばれたことがあっただろうか?陶然としながらその声に応える。
これまで、自分の名前に関して好き嫌いを感じたことは無かったが━━━長男だからはじめというネーミングセンスに関してはその単純さを不快に思うことがあったが、彼女の声が呼んでくれるならとても素晴らしい名前のように感じる。
ただ名前を呼ばれているだけなのに全身を愛撫されている気持ちになるのは何故だろう。
もっとも、彼の中ではとっくに出ている答えだった。こんな気持ちにさせてくれるのは彼女以外に存在しないのだから明白だ。
この観覧車が地上に到着しなければいいのにと思ってしまう理由もそれに準じている。もっとも地上に着かない観覧車など無いのだけれど。
観覧車を降りて観月は腕時計に目をやった。信じたくはないけれど、自分の腕に嵌めた電波時計は正確だ。時間を間違えようがないことを非常に残念に感じた。
「さて、そろそろ時間ですね。なかなかここも楽しいですけれど、コートの予約時間が迫っていますから移動しましょうか?」
「はぁい」
いかにも残念そうに巴も答える。正直言えば観月自身も残念だった。まだ14時で、デートならまだまだこれからの時間だ。
最初から素直にテニスをしようなんて誘わずにデートしようと誘えば良かったと思う。駅に向かうわずかな距離も名残惜しい。
「少しの時間でしたけど、なんだかデートみたいでしたね!このスポット、カップルも多いですし私たちもそう見えちゃいましたかねえ?」
駅の階段を上りきったところで、えへへ、と照れくさそうに巴はそう感想を述べた。そんな表情も可愛いですね、と言ったらば彼女はどう反応するだろうか、ふとそう思った。それを想像するだけで、こちらの方が照れくさくなり急に心拍数も上がったような気がするから人間とはふしぎなものである。自分の心拍数を随時データ化したらどういう結果が出るだろうか。
「ボクは最初からデートのつもりだったと言えば?」
暴れ出す感情を必死に押さえて、券売機で二人分の切符を購入しながら余裕を装って観月はそう問い返した。
「え?」
「いくらボクがデータマンでもキミの気持ちまでは測れませんからね。キミをデートに誘って断られるのが恐かった…と言えば?」
切符を手渡しながら観月は巴に本音を伝える。触れた彼女の指がぴくりと反応したことに満足を覚えた。彼女をデータで測りきれないのなら、偽りをぶつけてみても仕方のないことだと思った。
これまでの様子から巴が観月に対して親愛の情を抱いているのは分かっている。
それが恋愛感情から来るものなのかどうかは分からないが、勝算が全くないというわけではない。
「……っていうんでしたら」
「巴くん?」
巴はうつむき加減でぼそっとなにかを呟いていたと思えば、急に観月に近づいて半ばヤケのような口調で言い放った。
「……デートだっていうんでしたら、中途半端じゃなくちゃんとそれらしくして下さいっ」
「っ!」
巴の唇が観月の頬に触れた。
キスというよりもぶつかったという方が近いかも知れないそれは、しかしながらそれでも観月のただでさえ高かった心拍数を更に跳ね上げさせるには充分の威力だった。死なないだけで僥倖であるとしか言いようがないくらいに。
「こっ、こういうのもデートの行程に含まれると思うんですけどっ」
巴は顔を真っ赤にしながらそう言い、照れ隠しなのかそのまま一人先に改札を抜けていった。
あまりの展開にしばし呆然としていた観月は、すぐに気を取り直し彼女を追う。ホームへ向かう階段で追いついてきた彼に背を向けたまま、巴はかのじょには珍しく観月に聞こえるか聞こえないか微妙な程度の声量で言葉をこぼした。
「……次は、ちゃんと観月さんからして下さい」
観月はノックアウト寸前になりながらも負けじと答える。頬のほてりと顔のにやけが止めるのに苦労するが、彼女が前を向いているのが幸いであった。
「ま、ボクならキミと違って頬にぶつかるようなことはしませんけどね。キミのもっと柔らかいところを狙います。ボクにきちんとさせたいなら覚悟を決めて下さいよ。待ちませんから」
んふっといつもながらの少し意地の悪い笑みをみせながら観月は巴の前に出る。そして1段高いところから手を差し出す。
「階段は危ないですからね。ボクがエスコートして差し上げますよ?」
「ええっそんなこと…大丈夫ですっ!いつもの観月さんなら放っておくじゃ……」
あわてて拒否しようとする巴の言葉を奪う形で観月は答える。
「これは、デート、なんでしょう? じゃあそれらしくするのは当然じゃないですか」
キミが言ったんですよ?そういって強引に手を引くことにした。
もっとも巴には拒絶する理由もなく、そしてその強引な態度と言葉に一瞬二の句を告げなくなってしまった。
「……テニスコートからはデートに含まれませんからね……」
巴は、悔し紛れに顔を真っ赤にさせながらそう足掻くのが精一杯だった。
まだまだ巴より上の立場でいたい。シナリオ通りの展開が最近上手くいかないことに内心焦りを覚えつつも、観月はこころからにっこり笑って「上等ですよ、かかっていらっしゃい」そう答えながら心拍数を安定させて優位を目指す。
END
大きなラケットバッグを背負って、赤月巴が駅前の待ち合わせ場所にたどり着くと、彼女を待っているらしい人物━━━観月はじめは電話をしていた。
「……はい……じゃあ、15時からの予約だったんですね……わかりました。その時間で結構です、それじゃあよろしくお願いします。失礼します」
通話が終わり、巴の気配に気付いた観月は彼女に向き合う。
「観月さん?」
「失礼しました、巴くん。キッチリ時間通りですね。━━━なのに申し訳ないんですが…」
非常に申し訳ないといった表情で観月は言い淀む。巴はちょっとした不安そうな表情でその話の続きを視線で促す。
「テニスコートの件なのですが、予約は13時からと申し込んでいたのですが、こちらの確認ミスで15時からになっていたんですよ。この待ち合わせ時間だと…随分空いてしまいますね、すみません」
昼食を一緒に食べることを考えてこの時間に待ち合わせを決めたのだが、15時まではかなり時間が空いてしまう。
「本当にすみませんね。貴重な時間を取らせてしまって」と観月は再度謝った。そんな殊勝な態度の観月を見ることはあまりないせいか、巴もそんなに悪い気はしないらしく、にっこり笑って謝意に応えた。
「いえ、いいんですよ、それより…この空いた時間、どうしましょうか?」
「そうですね…最初から昼食を途中でとるつもりでしたし、とりあえず予定通りにまず動きますか」
観月はそう答えて巴を促し、二人で駅の構内へと向かっていった。
「私のことよりも、観月さんは大丈夫ですか?高校受験とか、Jr選抜合宿のこととかで色々忙しいのにテニスの練習に付き合ってもらっちゃったりして」
「ボクは大丈夫ですよ、普段から自分のことはキチンと管理していますし、大体今日テニスに誘ったのはボクですよ?余裕がなければ誘いませんよ。それに最近テニスの森で打ってませんからね、ひさしぶりにあのコートで練習がしたかったんですよ。いいコートですから」
今日は二人は、よくテニスの大会の会場として使われる場所へ行く予定をしていた。
いつも通っているテニススクールのコートもいいコートだが、たまには場所を変えてやるのも良い気分転換になる。
巴は久し振りに訪れるテニスの森のコートを懐かしみ楽しみにしていた。
それに、あの場所に行くには東京での観光スポットを通過する交通機関を利用する。車窓からそれを観月と眺めるというのも楽しみだった。
さすがに練習として誘ってくれた観月本人にいうことは出来なかったが。
昼食は大幅に時間もあることだしと、観月の提案で人気の臨海スポットに途中下車することにした。
観月の苦手な騒がしい空間であることは、その場所へ向かう車内からも察することが出来たが、彼は今日に限っては目をつぶることにした。
なにより、「このスポット初めて来ました!」と目を輝かせている少女が隣にいるというのに、それをあえて無視できる人間がいたらお目にかかってみたい。むしろ観月は殴りに行きたいと思った。そんな奴がいるならば。
ここで言うべき言葉はただ一つ「じゃあ、ここで降りて時間を潰しましょうか?」それだけだ。
観月は、それに従う。
巴の狂喜乱舞ぶりは何も観月のデータを披露するまでもなく予測できることだった。
こんな自分を一年前の自分は想像出来ただろうか?出来るわけがない。
この観月はじめが騒がしい店内で栄養価の低いファストフードで腹を満たし、衛生面で不安のある移動屋台で糖分を過剰摂取し、自分では見えないけれど多分全開の笑顔で進んで観覧車に乗っている。
外には相変わらず濁った色をしている東京湾と淀んだ空気にかすむ街の風景が広がっている。
風の吹く澄んだ晴天の日には富士山も眺められるそうだが、今現在は確認できそうにない。確認できるのは目の前に座った少女の喜色満面な顔つきだけだ。
「ああっ、観月さん観月さん!あそこにも観覧車がありますよ!」
「あの場所だと…江戸川区の公園の観覧車でしょうか」
「変わった船が!」
「水上バスですね…確か有名な漫画家がデザインしたそうですよ」
1年前の自分ならばくだらないと切り捨てるような会話に今の自分は乗り気だ。自分自身信じられず、驚きで一杯だ。
彼女といるとどうして自分はこうなってしまうのだろう。脳内でハチマキを付けたチームメイトが「観月は赤月にメロメロだね」とせせら嗤う。アヒルみたいなチームメイトも「お熱いダーネ」と彼をからかう。
けれども、実際にそう言われても今の自分は気にならない。だって本当にそうなのだから。
でなければ、何故自分が必死に彼女を誘い出して観覧車にまで乗ったりするだろうか。
頭の中に描かれたチームメイトを閉め出しながら、徹底的に巴との会話を楽しもうと観月は決心する。狭い密室で気になる女子と楽しむことに専念しない男はいない。それが例え観月はじめであったとしても、だ。
向かいに座る彼女は何か見つけるごとに「観月さん!」と問いかける。
楽しそうに興味深そうに弾む声。これまでこんな甘い声で自分の名前を呼ばれたことがあっただろうか?陶然としながらその声に応える。
これまで、自分の名前に関して好き嫌いを感じたことは無かったが━━━長男だからはじめというネーミングセンスに関してはその単純さを不快に思うことがあったが、彼女の声が呼んでくれるならとても素晴らしい名前のように感じる。
ただ名前を呼ばれているだけなのに全身を愛撫されている気持ちになるのは何故だろう。
もっとも、彼の中ではとっくに出ている答えだった。こんな気持ちにさせてくれるのは彼女以外に存在しないのだから明白だ。
この観覧車が地上に到着しなければいいのにと思ってしまう理由もそれに準じている。もっとも地上に着かない観覧車など無いのだけれど。
観覧車を降りて観月は腕時計に目をやった。信じたくはないけれど、自分の腕に嵌めた電波時計は正確だ。時間を間違えようがないことを非常に残念に感じた。
「さて、そろそろ時間ですね。なかなかここも楽しいですけれど、コートの予約時間が迫っていますから移動しましょうか?」
「はぁい」
いかにも残念そうに巴も答える。正直言えば観月自身も残念だった。まだ14時で、デートならまだまだこれからの時間だ。
最初から素直にテニスをしようなんて誘わずにデートしようと誘えば良かったと思う。駅に向かうわずかな距離も名残惜しい。
「少しの時間でしたけど、なんだかデートみたいでしたね!このスポット、カップルも多いですし私たちもそう見えちゃいましたかねえ?」
駅の階段を上りきったところで、えへへ、と照れくさそうに巴はそう感想を述べた。そんな表情も可愛いですね、と言ったらば彼女はどう反応するだろうか、ふとそう思った。それを想像するだけで、こちらの方が照れくさくなり急に心拍数も上がったような気がするから人間とはふしぎなものである。自分の心拍数を随時データ化したらどういう結果が出るだろうか。
「ボクは最初からデートのつもりだったと言えば?」
暴れ出す感情を必死に押さえて、券売機で二人分の切符を購入しながら余裕を装って観月はそう問い返した。
「え?」
「いくらボクがデータマンでもキミの気持ちまでは測れませんからね。キミをデートに誘って断られるのが恐かった…と言えば?」
切符を手渡しながら観月は巴に本音を伝える。触れた彼女の指がぴくりと反応したことに満足を覚えた。彼女をデータで測りきれないのなら、偽りをぶつけてみても仕方のないことだと思った。
これまでの様子から巴が観月に対して親愛の情を抱いているのは分かっている。
それが恋愛感情から来るものなのかどうかは分からないが、勝算が全くないというわけではない。
「……っていうんでしたら」
「巴くん?」
巴はうつむき加減でぼそっとなにかを呟いていたと思えば、急に観月に近づいて半ばヤケのような口調で言い放った。
「……デートだっていうんでしたら、中途半端じゃなくちゃんとそれらしくして下さいっ」
「っ!」
巴の唇が観月の頬に触れた。
キスというよりもぶつかったという方が近いかも知れないそれは、しかしながらそれでも観月のただでさえ高かった心拍数を更に跳ね上げさせるには充分の威力だった。死なないだけで僥倖であるとしか言いようがないくらいに。
「こっ、こういうのもデートの行程に含まれると思うんですけどっ」
巴は顔を真っ赤にしながらそう言い、照れ隠しなのかそのまま一人先に改札を抜けていった。
あまりの展開にしばし呆然としていた観月は、すぐに気を取り直し彼女を追う。ホームへ向かう階段で追いついてきた彼に背を向けたまま、巴はかのじょには珍しく観月に聞こえるか聞こえないか微妙な程度の声量で言葉をこぼした。
「……次は、ちゃんと観月さんからして下さい」
観月はノックアウト寸前になりながらも負けじと答える。頬のほてりと顔のにやけが止めるのに苦労するが、彼女が前を向いているのが幸いであった。
「ま、ボクならキミと違って頬にぶつかるようなことはしませんけどね。キミのもっと柔らかいところを狙います。ボクにきちんとさせたいなら覚悟を決めて下さいよ。待ちませんから」
んふっといつもながらの少し意地の悪い笑みをみせながら観月は巴の前に出る。そして1段高いところから手を差し出す。
「階段は危ないですからね。ボクがエスコートして差し上げますよ?」
「ええっそんなこと…大丈夫ですっ!いつもの観月さんなら放っておくじゃ……」
あわてて拒否しようとする巴の言葉を奪う形で観月は答える。
「これは、デート、なんでしょう? じゃあそれらしくするのは当然じゃないですか」
キミが言ったんですよ?そういって強引に手を引くことにした。
もっとも巴には拒絶する理由もなく、そしてその強引な態度と言葉に一瞬二の句を告げなくなってしまった。
「……テニスコートからはデートに含まれませんからね……」
巴は、悔し紛れに顔を真っ赤にさせながらそう足掻くのが精一杯だった。
まだまだ巴より上の立場でいたい。シナリオ通りの展開が最近上手くいかないことに内心焦りを覚えつつも、観月はこころからにっこり笑って「上等ですよ、かかっていらっしゃい」そう答えながら心拍数を安定させて優位を目指す。
END
クリスマス、正月……ときて、また街にきらびやかな季節がやって来た。
街中は赤やピンクやチョコレートブラウンに彩られ、その色目は見るからに温かな感じで、このイベントでやって来る心が温かくなる何かに期待しているようだ。
チョコレートを扱う店を前にしての人々は、宝探しにやって来た子どものように目を輝かせてショーケースをのぞき込み、いつもよりも華やかな意匠の紙袋を抱えて去っていく。
買う目的でない人々も興味津々といった表情をして店舗を横目に通りすぎていく。
赤月巴もその一人だった。
今日はテニススクールでの練習日であり、練習上がりの疲れ切った身体に大きなラケットバッグを抱えた身では店には近寄りがたい。
ちらちらと横目で店のにぎわいを気にしながら、足を進めようとした。
「いいんですか、ボクはキミが見ていきたいというのならばお付き合いしますよ」
そんな巴の様子をしっかりと見ていたのだろう、苦笑交じりに隣を歩く観月はじめは彼女にそう勧めた。
付き合い出してから初めてのバレンタインデーというわけでもないので、2人には特に気負いというものは無い。
巴も無理にサプライズプレゼントなんていうことをする気は無かった。観月はデータマンだけあって洞察力に優れているので、隠し事などするだけ無駄なのだと巴は知っていた。
それに、チョコレートに関しては初めての時に選択の失敗というちょっとしたミスを犯しているので、以降のバレンタインデーは観月の好みをキッチリと教わった上で贈ることしていた。
好きなチョコレートの味を訊かれた観月は「キミから貰えるものなら何でも嬉しいし、幸せなんですけどね」といいつつも、まんざらじゃない表情で好みの味を口にしている。
もっとも、贈られる予定のチョコレートが既製品か手作りのものか──そこまではお互い言及しなかったのだが。
「え、いいんです。興味はありますけど、私には高くて手が出ないお店ですし……」
言いよどみながら、巴はそう答えた。
たしかに、誰が見ても高級な店構えであり、中学生がたとえバレンタインデーだからといって簡単に買える店では無いようだ。
観月も、好みのチョコレートを語る前に「値段とか店のラベルとかには興味ありませんから」そう前置いていた。
高級品も好きではあるけれども、それを彼女に求めようとは思わない。
巴に語ることはこの先も無いようにしようと固く決めているが、それこそ食べようと思えば毎年自分の席に積まれる義理チョコでいくらでも補給することが出来る。
彼女に求めるのは、彼女の気持ちであり、チョコレート自体では無い。
しかし、観月は巴の手をつかんで店に足を向けた。
「え、観月さん?」
「入ってみましょうか、興味があるのならば買わなくても見るだけで価値があるでしょう」
「それは、そうなんですけど……っ」
観月は我関せずとばかりに重そうな扉を開いて、さっさと中に入ってしまう。
巴は手をつかまれていることもあり、しかたなくそれに続いて店内に納まった。
さすがに場違いだと巴はすこし落ち着かない風情で店内を見回した。しかしそれでも落ち着けば、「すっごく高級……っていうかオトナな雰囲気ですよねー」と持ち前の図太さを見せはじめた。
それを横から眺めて観月は楽しそうに語りかけた。
「チョコレートマニアが言うには、この時期の東京には世界中の有名無名問わず素晴らしいチョコが集うそうです。こんな場所は世界を探しても他に無い。せっかく東京にいるんです、ボク達もそれに触れないのは勿体ないとは思いませんか?」
「そうですね、岐阜の山中に住んでた頃にはこんなお店に近寄ることすら思いませんでした」
「んふ、そうでしょう? もし、キミが値段を気にせずにこのショーケースから選ぶとしたら何を選びますか」
ショーケースに並べられた宝石のようなチョコレートを指さして、観月は巴に問いかけた。
「そう……ですねえ」味すら想像できないようなチョコレートもあって、巴は目をチカチカさせながら一生懸命考えた。
1つから買えるとはいってもどれも気軽に購入できる値段では無いし、ショーケースを挟んで立っている店員だってまさか彼女らが買っていくようには見えていないだろうとの考えに至ると、かえって気楽に考えられるような気がした。
その時ひとつのチョコレートに目が留まった。ショーケースの正面に鎮座する白いチョコレート。それは他のチョコレートよりも少し大きなハートの形をしていた。
ほかに並ぶチョコレートより倍以上の値段はするけれど、目を留めたのは値段では無く、白いチョコレートの上にはもう一つピンクのハートチョコレートが乗っているのが可愛らしく気に入った。
「これなんて良いですね、かわいいです」指さしてそう答える。
観月も「そうですね、とても可愛らしいし……中がラズベリーガナッシュというのも心魅かれますね」そう同意しつつも、その後普通に冷やかしの客として表へと出た。
その後、勢いに乗った2人は日が暮れるまで数店舗、チョコレート巡りを楽しんだ。
2月14日。
放課後、巴の寮の近くのカフェで2人は会う事にした。
平日だと案外放課後に会える時間というのは短い。部活やそれ以外の学内活動などに時間を取られてしまうと、どうしても普通に動いていても寮の門限までの自由時間が僅かになってしまうのだ。
だから2人が会う時にはいつも巴の寮の近くとなっていた。観月は高校生ゆえ巴よりも門限が延ばされていることと、寮長や寮母の信頼を得ている事もあって多少自由の利く身であった。
それでも、この日、2人に残された時間といえばドリンクの一杯を飲むのがせいぜいで、巴がカフェモカを観月がアールグレイを注文するとすぐに本題に入らねばならなかった。
「はい、観月さんに本命チョコレートですよ」巴は観月の持っていた大きな紙袋の中身を、──今年も他の女子からのチョコレートを大量にもらったのでは無いかと、若干気にしつつも自分の持ってきていた包みを手渡す。
観月が本命であろうと義理であろうとチョコレートを沢山もらっていたとしても、本当に彼が欲しがっているのは自分のチョコレートである事は巴にはわかっているし、その辺は信用しているので、自信を持って渡す事が出来た。
「ありがとうございます、嬉しいですよ」そう言って受け取る観月の表情は、巴でさえも滅多に見る事が出来ないような蕩けた表情で女子としての自尊心を多いにくすぐった。
受け渡しがすんだところで、注文のドリンクが運ばれてきて、いったん会話が途切れた。
2人とも一口二口と飲んだところで、会話を再開させた。
「で、今年もチョコレートらしき包みと、それ以外のものもあるみたいですけど、いま開封しても良いでしょうか? ──チョコレートは、ここは飲食店ですし自室でワクワクしながら開ける事にしますけど」
観月は許可を求める風であったが、手は既に開封へと動いていた。巴もそれを止めるつもりは毛頭なかったので「どうぞ」と促した。
包装紙は丁寧に一つの欠損も無く、観月の性格さながらに神経質なまでに綺麗に開かれ、中からバレンタインのプレゼントが現れた。
「ああ、これは……コードヴァンを使った小銭入れですか」
「前にこういうのが欲しいって言ってた気がしたんですけど、違いました?」
確かに、クリスマス前のギフトコーナーか何処かでついでのように会話した事があった。なんとなくその時思った事を口にしてみただけの事だったが、まさか巴が覚えていたとは思わず観月は破顔した。
「違いませんよ、キミの記憶力も捨てたものではありませんね」
「それは観月さんの事でしたらなんでも……って、何を言わせるんですか」
巴は恥ずかしげに頬を染めて肩をすくめた。
「その言葉自体も相当嬉しいですけどね、もちろんこのプレゼントは大歓迎です。欲しかったものを見事に具現化してますよ」
うっとりと指でコードヴァンのつややかな手触りを確認したのち、また包みに納めた。
「……これは、ボクも負けてはいられないな……」小さい呟きは巴の耳までは届かず、近づく巴の門限に2人は焦りながら残りのドリンクを口にした。
店を出ると、まだまだ春は遠い事を実感させるような、切りつけられるような冷たい風に2人はあてられた。凍える事を避けるように2人は手を繋ぎ寄り添って帰路についた。
巴の住む中等部の女子寮の前までやって来ると、観月はパッと彼女の手を放し、反対の手で持っていた大きな紙袋を開いた。
中身をとり出した彼の手に握られていたのは、パンジーの花束だった。
「これを、キミに」そう言って巴の手に握らせた。
「パンジーはバレンタインの花と海外では言われているんですよ。いまでは有名な話ですけど──海外では男性から贈り物をしてもいい日ですし、色鮮やかで健気なカンジがするパンジーは、キミのイメージにぴったりですからね」
「観月さんならもっと洗練された花を選びそうなだけに、ビックリです」
巴は正直に思った事を話した。それには観月も苦笑で答えた。「でも──」巴は続けて思った事を口にした。
「でも、私の事を思い描いて選んでくれたんだなって伝わってきて、高級なバラや百合を贈られるよりもよっぽど嬉しいです!」
上気した笑顔でそう喜びの言葉を述べる巴にもう一つ小さな紙袋を手渡した。「これも、キミへ」
それは、先日冷やかしに行った店のロゴが金色で書かれた、いかにも高級そうな紙袋だった。
「あ……これって、もしかしてチョコレート……ですか?」
この袋は説明がなくても、開かなくても、巴にはわかった。あの店で、巴が気に入ったと指さしたチョコレートが入っているに違いない事を。包装を解かなくても、白いチョコレートの上にもう一つピンクのハートチョコレートが乗っている、あの可愛らしいチョコレートが目に見えるようだ。
「あの時、私が気に入ったというチョコレートですよね。きっと」
「んふっ、ご名答です」満足げに観月はそう答えた。
「一度、世間の女性が──キミがどういう気持ちでチョコレートをバレンタインの為に購入するのか知りたくなりましてね。ついつい購入してしまいました」
「この時期にこのチョコレートを買うのは……さすがの観月さんでも恥ずかしくなかったですか?」
ちょっとした疑問を訊いてみる。確かに観月から贈られるものは嬉しい。しかし、女性であふれる店に一人で赴き、いかにもバレンタイン専用であるようなチョコレートを購入する事は、いかに観月といえどもハードルは高かったに違いない。
「まあ……全くと言えば嘘になりますけどね。でも、案外楽しいものでしたよ。キミがどんな顔をして受け取ってくれるかなとか、美味しいかなとか考えながら買うのはね。キミ達女性はこんな楽しみを毎年体験してたんですね」
「ふふっ、そうなんです」
お互い笑顔で見つめあったあと、「──ああ、もう寮に入らなければいけませんね」と観月は残念そうに呟いた。
「あ、もう……そうですね。行かなきゃ怒られちゃう──じゃあ、観月さん。今日はありがとうございました」
巴は慌てて、寮へ入ろうと体勢を整えた。
くるりと観月に背を向けたところで、彼から声がかかった。
「3月14日、ホワイトデーは学期末ですし、もう少し時間が作れると思いますよ。キミからのホワイトデーも……期待していていいんですよね。楽しみです、もちろんキミも三倍返し、ですよね」
「は、はいっ」そう返事だけして巴は寮の中へと滑り込んだ。ちょうど扉を閉めた瞬間、門限のセキュリティーが掛かり鍵が自動的にカチっと降りた。
カチっという音と同時に「もちろん、キミ自身で返してくれてもボクは構わないですけどね」そういう声が聞こえた気がして、あわてて振り向いた。
私だってちっとも構わない──そう返事をしようかとも思ったけれども、電子ロックの掛かった目の前の扉は開かない。
返事のかわりにパンジーの花束に一つ口づけを落として巴は自室へと向かった。
別に答えなんて急がなくったって構わないだろう。
バレンタインデーだろうが、ホワイトデーだろうが、巴の結論はいつだってひとつに決まっていたのだから。
いままでも、これからも。
END
街中は赤やピンクやチョコレートブラウンに彩られ、その色目は見るからに温かな感じで、このイベントでやって来る心が温かくなる何かに期待しているようだ。
チョコレートを扱う店を前にしての人々は、宝探しにやって来た子どものように目を輝かせてショーケースをのぞき込み、いつもよりも華やかな意匠の紙袋を抱えて去っていく。
買う目的でない人々も興味津々といった表情をして店舗を横目に通りすぎていく。
赤月巴もその一人だった。
今日はテニススクールでの練習日であり、練習上がりの疲れ切った身体に大きなラケットバッグを抱えた身では店には近寄りがたい。
ちらちらと横目で店のにぎわいを気にしながら、足を進めようとした。
「いいんですか、ボクはキミが見ていきたいというのならばお付き合いしますよ」
そんな巴の様子をしっかりと見ていたのだろう、苦笑交じりに隣を歩く観月はじめは彼女にそう勧めた。
付き合い出してから初めてのバレンタインデーというわけでもないので、2人には特に気負いというものは無い。
巴も無理にサプライズプレゼントなんていうことをする気は無かった。観月はデータマンだけあって洞察力に優れているので、隠し事などするだけ無駄なのだと巴は知っていた。
それに、チョコレートに関しては初めての時に選択の失敗というちょっとしたミスを犯しているので、以降のバレンタインデーは観月の好みをキッチリと教わった上で贈ることしていた。
好きなチョコレートの味を訊かれた観月は「キミから貰えるものなら何でも嬉しいし、幸せなんですけどね」といいつつも、まんざらじゃない表情で好みの味を口にしている。
もっとも、贈られる予定のチョコレートが既製品か手作りのものか──そこまではお互い言及しなかったのだが。
「え、いいんです。興味はありますけど、私には高くて手が出ないお店ですし……」
言いよどみながら、巴はそう答えた。
たしかに、誰が見ても高級な店構えであり、中学生がたとえバレンタインデーだからといって簡単に買える店では無いようだ。
観月も、好みのチョコレートを語る前に「値段とか店のラベルとかには興味ありませんから」そう前置いていた。
高級品も好きではあるけれども、それを彼女に求めようとは思わない。
巴に語ることはこの先も無いようにしようと固く決めているが、それこそ食べようと思えば毎年自分の席に積まれる義理チョコでいくらでも補給することが出来る。
彼女に求めるのは、彼女の気持ちであり、チョコレート自体では無い。
しかし、観月は巴の手をつかんで店に足を向けた。
「え、観月さん?」
「入ってみましょうか、興味があるのならば買わなくても見るだけで価値があるでしょう」
「それは、そうなんですけど……っ」
観月は我関せずとばかりに重そうな扉を開いて、さっさと中に入ってしまう。
巴は手をつかまれていることもあり、しかたなくそれに続いて店内に納まった。
さすがに場違いだと巴はすこし落ち着かない風情で店内を見回した。しかしそれでも落ち着けば、「すっごく高級……っていうかオトナな雰囲気ですよねー」と持ち前の図太さを見せはじめた。
それを横から眺めて観月は楽しそうに語りかけた。
「チョコレートマニアが言うには、この時期の東京には世界中の有名無名問わず素晴らしいチョコが集うそうです。こんな場所は世界を探しても他に無い。せっかく東京にいるんです、ボク達もそれに触れないのは勿体ないとは思いませんか?」
「そうですね、岐阜の山中に住んでた頃にはこんなお店に近寄ることすら思いませんでした」
「んふ、そうでしょう? もし、キミが値段を気にせずにこのショーケースから選ぶとしたら何を選びますか」
ショーケースに並べられた宝石のようなチョコレートを指さして、観月は巴に問いかけた。
「そう……ですねえ」味すら想像できないようなチョコレートもあって、巴は目をチカチカさせながら一生懸命考えた。
1つから買えるとはいってもどれも気軽に購入できる値段では無いし、ショーケースを挟んで立っている店員だってまさか彼女らが買っていくようには見えていないだろうとの考えに至ると、かえって気楽に考えられるような気がした。
その時ひとつのチョコレートに目が留まった。ショーケースの正面に鎮座する白いチョコレート。それは他のチョコレートよりも少し大きなハートの形をしていた。
ほかに並ぶチョコレートより倍以上の値段はするけれど、目を留めたのは値段では無く、白いチョコレートの上にはもう一つピンクのハートチョコレートが乗っているのが可愛らしく気に入った。
「これなんて良いですね、かわいいです」指さしてそう答える。
観月も「そうですね、とても可愛らしいし……中がラズベリーガナッシュというのも心魅かれますね」そう同意しつつも、その後普通に冷やかしの客として表へと出た。
その後、勢いに乗った2人は日が暮れるまで数店舗、チョコレート巡りを楽しんだ。
2月14日。
放課後、巴の寮の近くのカフェで2人は会う事にした。
平日だと案外放課後に会える時間というのは短い。部活やそれ以外の学内活動などに時間を取られてしまうと、どうしても普通に動いていても寮の門限までの自由時間が僅かになってしまうのだ。
だから2人が会う時にはいつも巴の寮の近くとなっていた。観月は高校生ゆえ巴よりも門限が延ばされていることと、寮長や寮母の信頼を得ている事もあって多少自由の利く身であった。
それでも、この日、2人に残された時間といえばドリンクの一杯を飲むのがせいぜいで、巴がカフェモカを観月がアールグレイを注文するとすぐに本題に入らねばならなかった。
「はい、観月さんに本命チョコレートですよ」巴は観月の持っていた大きな紙袋の中身を、──今年も他の女子からのチョコレートを大量にもらったのでは無いかと、若干気にしつつも自分の持ってきていた包みを手渡す。
観月が本命であろうと義理であろうとチョコレートを沢山もらっていたとしても、本当に彼が欲しがっているのは自分のチョコレートである事は巴にはわかっているし、その辺は信用しているので、自信を持って渡す事が出来た。
「ありがとうございます、嬉しいですよ」そう言って受け取る観月の表情は、巴でさえも滅多に見る事が出来ないような蕩けた表情で女子としての自尊心を多いにくすぐった。
受け渡しがすんだところで、注文のドリンクが運ばれてきて、いったん会話が途切れた。
2人とも一口二口と飲んだところで、会話を再開させた。
「で、今年もチョコレートらしき包みと、それ以外のものもあるみたいですけど、いま開封しても良いでしょうか? ──チョコレートは、ここは飲食店ですし自室でワクワクしながら開ける事にしますけど」
観月は許可を求める風であったが、手は既に開封へと動いていた。巴もそれを止めるつもりは毛頭なかったので「どうぞ」と促した。
包装紙は丁寧に一つの欠損も無く、観月の性格さながらに神経質なまでに綺麗に開かれ、中からバレンタインのプレゼントが現れた。
「ああ、これは……コードヴァンを使った小銭入れですか」
「前にこういうのが欲しいって言ってた気がしたんですけど、違いました?」
確かに、クリスマス前のギフトコーナーか何処かでついでのように会話した事があった。なんとなくその時思った事を口にしてみただけの事だったが、まさか巴が覚えていたとは思わず観月は破顔した。
「違いませんよ、キミの記憶力も捨てたものではありませんね」
「それは観月さんの事でしたらなんでも……って、何を言わせるんですか」
巴は恥ずかしげに頬を染めて肩をすくめた。
「その言葉自体も相当嬉しいですけどね、もちろんこのプレゼントは大歓迎です。欲しかったものを見事に具現化してますよ」
うっとりと指でコードヴァンのつややかな手触りを確認したのち、また包みに納めた。
「……これは、ボクも負けてはいられないな……」小さい呟きは巴の耳までは届かず、近づく巴の門限に2人は焦りながら残りのドリンクを口にした。
店を出ると、まだまだ春は遠い事を実感させるような、切りつけられるような冷たい風に2人はあてられた。凍える事を避けるように2人は手を繋ぎ寄り添って帰路についた。
巴の住む中等部の女子寮の前までやって来ると、観月はパッと彼女の手を放し、反対の手で持っていた大きな紙袋を開いた。
中身をとり出した彼の手に握られていたのは、パンジーの花束だった。
「これを、キミに」そう言って巴の手に握らせた。
「パンジーはバレンタインの花と海外では言われているんですよ。いまでは有名な話ですけど──海外では男性から贈り物をしてもいい日ですし、色鮮やかで健気なカンジがするパンジーは、キミのイメージにぴったりですからね」
「観月さんならもっと洗練された花を選びそうなだけに、ビックリです」
巴は正直に思った事を話した。それには観月も苦笑で答えた。「でも──」巴は続けて思った事を口にした。
「でも、私の事を思い描いて選んでくれたんだなって伝わってきて、高級なバラや百合を贈られるよりもよっぽど嬉しいです!」
上気した笑顔でそう喜びの言葉を述べる巴にもう一つ小さな紙袋を手渡した。「これも、キミへ」
それは、先日冷やかしに行った店のロゴが金色で書かれた、いかにも高級そうな紙袋だった。
「あ……これって、もしかしてチョコレート……ですか?」
この袋は説明がなくても、開かなくても、巴にはわかった。あの店で、巴が気に入ったと指さしたチョコレートが入っているに違いない事を。包装を解かなくても、白いチョコレートの上にもう一つピンクのハートチョコレートが乗っている、あの可愛らしいチョコレートが目に見えるようだ。
「あの時、私が気に入ったというチョコレートですよね。きっと」
「んふっ、ご名答です」満足げに観月はそう答えた。
「一度、世間の女性が──キミがどういう気持ちでチョコレートをバレンタインの為に購入するのか知りたくなりましてね。ついつい購入してしまいました」
「この時期にこのチョコレートを買うのは……さすがの観月さんでも恥ずかしくなかったですか?」
ちょっとした疑問を訊いてみる。確かに観月から贈られるものは嬉しい。しかし、女性であふれる店に一人で赴き、いかにもバレンタイン専用であるようなチョコレートを購入する事は、いかに観月といえどもハードルは高かったに違いない。
「まあ……全くと言えば嘘になりますけどね。でも、案外楽しいものでしたよ。キミがどんな顔をして受け取ってくれるかなとか、美味しいかなとか考えながら買うのはね。キミ達女性はこんな楽しみを毎年体験してたんですね」
「ふふっ、そうなんです」
お互い笑顔で見つめあったあと、「──ああ、もう寮に入らなければいけませんね」と観月は残念そうに呟いた。
「あ、もう……そうですね。行かなきゃ怒られちゃう──じゃあ、観月さん。今日はありがとうございました」
巴は慌てて、寮へ入ろうと体勢を整えた。
くるりと観月に背を向けたところで、彼から声がかかった。
「3月14日、ホワイトデーは学期末ですし、もう少し時間が作れると思いますよ。キミからのホワイトデーも……期待していていいんですよね。楽しみです、もちろんキミも三倍返し、ですよね」
「は、はいっ」そう返事だけして巴は寮の中へと滑り込んだ。ちょうど扉を閉めた瞬間、門限のセキュリティーが掛かり鍵が自動的にカチっと降りた。
カチっという音と同時に「もちろん、キミ自身で返してくれてもボクは構わないですけどね」そういう声が聞こえた気がして、あわてて振り向いた。
私だってちっとも構わない──そう返事をしようかとも思ったけれども、電子ロックの掛かった目の前の扉は開かない。
返事のかわりにパンジーの花束に一つ口づけを落として巴は自室へと向かった。
別に答えなんて急がなくったって構わないだろう。
バレンタインデーだろうが、ホワイトデーだろうが、巴の結論はいつだってひとつに決まっていたのだから。
いままでも、これからも。
END
『好きなもの・趣味』が明確な人間に贈り物をするならば、自分も同じ『好きなもの・趣味』を持たない限りはむしろそのジャンルは避けた方がいいと思う。
彼らは自分の好みを既に把握しており、種類・知識に精通している。
「あの人はあれが好きらしいから……」素人考えの中途半端な贈り物を『気持ち』以外の部分で全面的に喜べるかどうかと問われると微妙なところだろう。
もちろん、人によっては「好きだから何でも嬉しい」という考えの人もいるだろうけれども、観月はじめは違うのだ。
だから今日、15歳の誕生日にいろんな人たちから──知っている人間からも知らない人間(きっと自分にあこがれを抱いている女子だろう)からも、贈られてくる紅茶・紅茶グッズにウンザリしていた。
茶葉はまだいい。自分の好み以外は寮の食堂にでも置いてしまえばいい。
しかし、小物類は困る。
捨ててもいいが捨ててしまったことがバレるのも厄介だ。だから外面の良い自分はつい処分を躊躇ってしまう。
それゆえ困るのだ。
困るのに。
正面に立つ少女、赤月巴はニコニコと邪気の無い笑みを浮かべながら観月に明らかにティーポット大の箱を差し出している。
別に開封しなくても、形といい大きさといい、ティールームもある人気雑貨店の包装紙といい、きっとそうだと分かってしまう。
ティーポットなんて気に入ったモノが一つあれば充分だというのに、まさか彼女は自分がポットの一つも持っていないとでも思っているのだろうか。なんて気が利かないのだろう。
それなのに、自分の両手は何故彼女へ伸ばしているのだろう、戸惑いながらもその箱を手にしているのは一体。
包みを開けると案の定ティーポットだった。
さすが人気店のものだけあって、万人受けしそうな小奇麗なデザインだったが、生憎自分の好みとは少し違うようだ。
まあ、田舎から出てきた中学一年生の女子が選ぶのであればこんなものだろうか。
自分で選ぶならもう少し華やかな、部屋にあっては目を楽しませるようなものが良い。
けれども、口は彼女に礼を告げていた。
目の前の巴は先ほどよりもいっそう笑顔を輝かせていた。
ただ、自分がプレゼントを受け取っただけだというのに。
不意に己の感情が沸き立つのを感じる。
そして、彼女の口から「お誕生日おめでとうございます」そう凡庸でありきたりな言葉が出ただけだというのに。
何故こんなに暖かな気分になってしまったのだろう。
これまで、他の誰にも感じたことが無かったこの気持ちは何なんだろうと戸惑いを覚え、また、一度取り出したポットを大事そうに箱に戻している自分の手が信じられなかった。
観月はじめは決して「貰えるものならもしくは好きなものなら、何でも嬉しい」そんな風に思うことはないのに。
今日も沢山押し付けられた紅茶グッズにウンザリしていたというのに。
それなのに。
どうして。
明らかに自分には必要のないプレゼントを、彼女からは嬉々として受け取っているんだろうか。
ライバル校、それも自分の手駒にする予定の少女に対してのいまの自分の行動は、明らかに間違っていると分かっているのに。
どうして。
そして、この気持ちは。
一体、なんなのだろうか。
どう定義づければいいのだろうか。
この行動を、この気持ちを──人は、それを何と呼ぶのだろうか。
自分の中の何かが、いまは知る必要がないと叫んでいる。きっとそうなのだろうと思う。
都大会、関東大会、全国大会へとすすんでいくためには知る必要がないことだ。少なくともこの現状では。
しかしそれでも、いつか。
なぜか自分は、人は、それを何と呼ぶのか自分も知る日が来るのだと、予感ではなく確信している。
それもまた、遠い日ではなく。
END
彼らは自分の好みを既に把握しており、種類・知識に精通している。
「あの人はあれが好きらしいから……」素人考えの中途半端な贈り物を『気持ち』以外の部分で全面的に喜べるかどうかと問われると微妙なところだろう。
もちろん、人によっては「好きだから何でも嬉しい」という考えの人もいるだろうけれども、観月はじめは違うのだ。
だから今日、15歳の誕生日にいろんな人たちから──知っている人間からも知らない人間(きっと自分にあこがれを抱いている女子だろう)からも、贈られてくる紅茶・紅茶グッズにウンザリしていた。
茶葉はまだいい。自分の好み以外は寮の食堂にでも置いてしまえばいい。
しかし、小物類は困る。
捨ててもいいが捨ててしまったことがバレるのも厄介だ。だから外面の良い自分はつい処分を躊躇ってしまう。
それゆえ困るのだ。
困るのに。
正面に立つ少女、赤月巴はニコニコと邪気の無い笑みを浮かべながら観月に明らかにティーポット大の箱を差し出している。
別に開封しなくても、形といい大きさといい、ティールームもある人気雑貨店の包装紙といい、きっとそうだと分かってしまう。
ティーポットなんて気に入ったモノが一つあれば充分だというのに、まさか彼女は自分がポットの一つも持っていないとでも思っているのだろうか。なんて気が利かないのだろう。
それなのに、自分の両手は何故彼女へ伸ばしているのだろう、戸惑いながらもその箱を手にしているのは一体。
包みを開けると案の定ティーポットだった。
さすが人気店のものだけあって、万人受けしそうな小奇麗なデザインだったが、生憎自分の好みとは少し違うようだ。
まあ、田舎から出てきた中学一年生の女子が選ぶのであればこんなものだろうか。
自分で選ぶならもう少し華やかな、部屋にあっては目を楽しませるようなものが良い。
けれども、口は彼女に礼を告げていた。
目の前の巴は先ほどよりもいっそう笑顔を輝かせていた。
ただ、自分がプレゼントを受け取っただけだというのに。
不意に己の感情が沸き立つのを感じる。
そして、彼女の口から「お誕生日おめでとうございます」そう凡庸でありきたりな言葉が出ただけだというのに。
何故こんなに暖かな気分になってしまったのだろう。
これまで、他の誰にも感じたことが無かったこの気持ちは何なんだろうと戸惑いを覚え、また、一度取り出したポットを大事そうに箱に戻している自分の手が信じられなかった。
観月はじめは決して「貰えるものならもしくは好きなものなら、何でも嬉しい」そんな風に思うことはないのに。
今日も沢山押し付けられた紅茶グッズにウンザリしていたというのに。
それなのに。
どうして。
明らかに自分には必要のないプレゼントを、彼女からは嬉々として受け取っているんだろうか。
ライバル校、それも自分の手駒にする予定の少女に対してのいまの自分の行動は、明らかに間違っていると分かっているのに。
どうして。
そして、この気持ちは。
一体、なんなのだろうか。
どう定義づければいいのだろうか。
この行動を、この気持ちを──人は、それを何と呼ぶのだろうか。
自分の中の何かが、いまは知る必要がないと叫んでいる。きっとそうなのだろうと思う。
都大会、関東大会、全国大会へとすすんでいくためには知る必要がないことだ。少なくともこの現状では。
しかしそれでも、いつか。
なぜか自分は、人は、それを何と呼ぶのか自分も知る日が来るのだと、予感ではなく確信している。
それもまた、遠い日ではなく。
END
びゅうっと吹いた強い風に、新しく下ろしたばかりの真黄色のテニスボールは流され、打った人間の意図とは違ったほうへと飛んでいく。
そのボールを待ち受けていた赤月巴は慌ててそれを追う。
この距離ならば、私の足ならば、間に合うはずと、がむしゃらにボールにすがりついた。
それによって、巴の体勢は大きく乱され、無茶なフォームで打ち返すことになってしまった。
もっとも無茶なフォームのせいで、せっかく届いた球も大ホームラン。アウトもいいところだ。
バランスを大きく崩して、そのままコートに巴はごろりと転がった。
幸い、酷く身体の何処かを打ち付けることはなく、巴はそのまま仰向けに暮れ行く赤い空を眺めて、ぼんやり今日の練習がゴムのハードコートで良かったなあと思った。
これがあまりいい土ではないクレーコートだと、せっかくのお気に入りのジャージが台無しになるところだ。
「──巴くん!」こちらに向かってくる足音と共にラリーの相手だった観月の声が飛び込んできた。
巴がなかなか起き上がらないことに対して、慌てて飛んできたのだろう。
心配させてしまったかも知れないと、巴も慌てて起き上がった。
「あ、観月さん、すみません! 大丈夫ですっ」
そう言うも、観月は相変わらず心配げな顔でこちらに歩いてくる。
巴はラリーを中断させて悪いなという気持ちで、大丈夫大丈夫と言い募るも結局観月は巴の前までやって来た。
「大丈夫って簡単に言いますけどねえ、キミは……」苦虫をかみつぶしたような顔で、巴に話しかける。
あ、これは説教フラグ……そう巴は身構えた。転んだことに対してか、ボールに追いつくのがギリギリだったことか──なんのテーマにしろ、ここから長い説教が始まりそうだと肩をすくめた。
「たかがラリーで、そんな無茶な事しないでください。キミがめちゃくちゃなフォームで何処か痛めたりしたらどうするんですか、選手生命が絶たれるかも知れないんですよ」
え、と声にならない声で巴は呟いた。
まさか、いま観月がこんなことを言うとは思わなかったのだ。
かつての観月なら、部員をただの駒として扱っていた観月だったらば、こんなことは言わない。
故障を、選手生命を気にするだなんて。
もっとも、周囲の者の故障も厭わない観月はじめはとっくに居なくなっているのは、それこそ自分が知っている。
彼が悔い改めた現場にいたのだから。
それ以降は、誰に対しても選手としてのこれからについて気を配っているのも知っている。
けれどもこんな場面でいつも出るのは、その場のプレイに対する注意だ。
テニスだけでなく運動をしていれば怪我だってする。
そのことについて何かを言うなんて、これまではナンセンス以外の何ものでもなかっただろう。
「それに大体、転がってから暫く起き上がらないことに対してボクが何も思わないとでも? ──心外ですね」
上半身だけ起こしてコートに座っている状態の巴の手を取って、観月は立ち上がらせた。
その時に握りしめた両手を、巴が立ち上がっても放さない。
華奢に見える観月の案外ごつごつした男の人らしい大きな手に思わず巴はドキドキしてしまう。
ふと、観月は変わったな、巴はそう思った。
昨年4月に出逢った時の観月と、いまの観月。
人は変わるという。
まだ13年しか生きていない巴にはこれまで実感がなかったが、その言葉はきっと今の観月に当てはまるのだろう。
きっと、自分が言葉にしてしまったらとても嫌そうにするだろうけれども、以前にも増して彼は素敵な人になったと思う。
この人の元で、テニスを始めいろんなことを学べたら、一緒に経験できたらどんなに良いだろう。
そうならないだろうかと、強く思った。
このひとと、いっしょにいたい。
「失礼──」長く手を握っているのに気付いたのか、それとも巴の高まった鼓動に気付いたのか、観月も白い肌を赤らめて、さっと手を払ってしまった。
手に残る彼の体温が余韻を残し、残念感を大きく煽る。
ずっと、このまま彼の手に繋がれていたかった。
「さ、キミが大丈夫というのなら続けましょうか。明日からはジュニア選抜の合同合宿ですから、気合い入れていきましょう」
「はいっ」
「それから──、それから合宿が終わったらキミに伝えたいことがあるんです。その時には、聞いてもらえませんか?」
いまじゃいけないのかな。
巴はそう思ったけれども、あえて口をつぐむことにした。
観月が後でと言うのならば、それには意味があるのだろうと、いまの彼を素直に信じることが出来るからだ。
自分に対して、いつのまにか変わっていた観月がもはや偽りを口にすることはないと、巴はもう知っているからだ。
END
そのボールを待ち受けていた赤月巴は慌ててそれを追う。
この距離ならば、私の足ならば、間に合うはずと、がむしゃらにボールにすがりついた。
それによって、巴の体勢は大きく乱され、無茶なフォームで打ち返すことになってしまった。
もっとも無茶なフォームのせいで、せっかく届いた球も大ホームラン。アウトもいいところだ。
バランスを大きく崩して、そのままコートに巴はごろりと転がった。
幸い、酷く身体の何処かを打ち付けることはなく、巴はそのまま仰向けに暮れ行く赤い空を眺めて、ぼんやり今日の練習がゴムのハードコートで良かったなあと思った。
これがあまりいい土ではないクレーコートだと、せっかくのお気に入りのジャージが台無しになるところだ。
「──巴くん!」こちらに向かってくる足音と共にラリーの相手だった観月の声が飛び込んできた。
巴がなかなか起き上がらないことに対して、慌てて飛んできたのだろう。
心配させてしまったかも知れないと、巴も慌てて起き上がった。
「あ、観月さん、すみません! 大丈夫ですっ」
そう言うも、観月は相変わらず心配げな顔でこちらに歩いてくる。
巴はラリーを中断させて悪いなという気持ちで、大丈夫大丈夫と言い募るも結局観月は巴の前までやって来た。
「大丈夫って簡単に言いますけどねえ、キミは……」苦虫をかみつぶしたような顔で、巴に話しかける。
あ、これは説教フラグ……そう巴は身構えた。転んだことに対してか、ボールに追いつくのがギリギリだったことか──なんのテーマにしろ、ここから長い説教が始まりそうだと肩をすくめた。
「たかがラリーで、そんな無茶な事しないでください。キミがめちゃくちゃなフォームで何処か痛めたりしたらどうするんですか、選手生命が絶たれるかも知れないんですよ」
え、と声にならない声で巴は呟いた。
まさか、いま観月がこんなことを言うとは思わなかったのだ。
かつての観月なら、部員をただの駒として扱っていた観月だったらば、こんなことは言わない。
故障を、選手生命を気にするだなんて。
もっとも、周囲の者の故障も厭わない観月はじめはとっくに居なくなっているのは、それこそ自分が知っている。
彼が悔い改めた現場にいたのだから。
それ以降は、誰に対しても選手としてのこれからについて気を配っているのも知っている。
けれどもこんな場面でいつも出るのは、その場のプレイに対する注意だ。
テニスだけでなく運動をしていれば怪我だってする。
そのことについて何かを言うなんて、これまではナンセンス以外の何ものでもなかっただろう。
「それに大体、転がってから暫く起き上がらないことに対してボクが何も思わないとでも? ──心外ですね」
上半身だけ起こしてコートに座っている状態の巴の手を取って、観月は立ち上がらせた。
その時に握りしめた両手を、巴が立ち上がっても放さない。
華奢に見える観月の案外ごつごつした男の人らしい大きな手に思わず巴はドキドキしてしまう。
ふと、観月は変わったな、巴はそう思った。
昨年4月に出逢った時の観月と、いまの観月。
人は変わるという。
まだ13年しか生きていない巴にはこれまで実感がなかったが、その言葉はきっと今の観月に当てはまるのだろう。
きっと、自分が言葉にしてしまったらとても嫌そうにするだろうけれども、以前にも増して彼は素敵な人になったと思う。
この人の元で、テニスを始めいろんなことを学べたら、一緒に経験できたらどんなに良いだろう。
そうならないだろうかと、強く思った。
このひとと、いっしょにいたい。
「失礼──」長く手を握っているのに気付いたのか、それとも巴の高まった鼓動に気付いたのか、観月も白い肌を赤らめて、さっと手を払ってしまった。
手に残る彼の体温が余韻を残し、残念感を大きく煽る。
ずっと、このまま彼の手に繋がれていたかった。
「さ、キミが大丈夫というのなら続けましょうか。明日からはジュニア選抜の合同合宿ですから、気合い入れていきましょう」
「はいっ」
「それから──、それから合宿が終わったらキミに伝えたいことがあるんです。その時には、聞いてもらえませんか?」
いまじゃいけないのかな。
巴はそう思ったけれども、あえて口をつぐむことにした。
観月が後でと言うのならば、それには意味があるのだろうと、いまの彼を素直に信じることが出来るからだ。
自分に対して、いつのまにか変わっていた観月がもはや偽りを口にすることはないと、巴はもう知っているからだ。
END
「しまった……」
大晦日、赤月巴は帰省の人々で混雑する新幹線に乗り込んで、手荷物を広げて中をのぞき込んだと同時にみるみる顔が蒼くなった。
『ある』と思い込んでいた携帯電話が見つからないのだ。
「そういえば、昨日早川さんの部屋でおしゃべりしてた時に……」
巴が暮らす聖ルドルフ学院中等部女子寮には、厳しい寮母と厳格な消灯時間が存在した。
それゆえ、昨夜消灯時間ぎりぎりになって早川の部屋を慌てて飛び出した巴が、彼女の部屋に携帯電話を置いてきてしまったのだろう。
寮からこの新幹線車内に至るまでの道程で、携帯電話を落としたとは思えないし、思い返してみれば今朝携帯電話を触った記憶もないので、きっと早川の部屋にあるような気がするのだ。
しかし、それを確かめるすべは無かった。
電話であれば新幹線車内にもあるけれど、肝心の早川の携帯電話番号が分からない。
携帯電話のメモリに頼り切った生活に陥っていた巴は、それどころか普段暮らしている寮代表の電話番号すら覚えていなかった。
いっそのこと寮に戻ろうかと思っても新幹線は既に動き出している。
携帯電話のために途中下車というのもおかしなものだ。
「あ、自分の携帯にかけてみれば良かったんだ!」
巴はそのことをやっと思いつき、慌てて席を立ちデッキの公衆電話へと向かう。
幸い自分の携帯番号くらいは覚えていた。
「…………」
しかし、残念ながらしばらくコールしたあと留守番電話に切り替わってしまった。
どうやら、早川は部屋に居ないか気づかなかったらしい。
巴は、参ったなあと一瞬思ったものの、すぐに気分を切り替えて自分の席へと戻っていった。
携帯電話がないことくらいはどうと言うこともない。
実家に戻るまではすべて鉄路で、各駅に設置されているはずの公衆電話には困らない。
せいぜい新幹線を降りたときに父親に「駅に着いたよ」と連絡を入れる必要があるくらいだ。
そうすれば、実家から最寄りの駅に着けば、電話を受けた父親が駅前で車とともに待機しているはずで、もう他に電話の必要はない。
学校の友達なんかが『あけおめメール』なんて送ってくれるかもしれないけれど、これに関してはあとで謝り倒してしまえばいい。
良いことではないけれど、巴は携帯電話を忘れても不思議に思われないようなキャラクター認識をされているから、「ごめんねー忘れちゃったんだ」といえば皆気にしないだろう。
どうしても緊急な用事が発生すれば、学校や部活や寮などには家電の番号も伝えてあったはずなので、きっと問題はないはずで。
だから、「ま、いっか」と席に戻るなりいそいそとお弁当を広げて、久しぶりの帰省の道中を楽しむことにした。
先ほど顔を蒼くしていたことなど、けろっと忘れてしまった。
そのあと、脳内にあるのは年越し蕎麦と大晦日の特番は何を見るかくらいのものだった
---
帰宅して久しぶりの我が家は不思議な感じがした。
客ではないのにどこか客じみた立場におかれている気がして、巴はどこか落ち着かずそわそわした。
真新しいカーテンに、見慣れぬ椅子に増えている観葉植物――巴が知らない間に自宅内に配置されたそれらのせいだろうか。
中学入学ぶりに帰宅し、すっかり娘らしく成長した巴に戸惑っているらしい家族のせいだろうか。
それとも中学生になってからぐんぐん伸びた自分の身長によって変化した視点の高さのせいだろうか、巴はしばし考え込んだ。
こういう時、観月はじめならばどう分析するんだろうか、知り合ってから3度目の冬を迎える想い人の姿が一瞬脳内をよぎった。
しかし、ひとしきり家族に土産話を聞かせたあとは、近所を散歩してみたり久しぶりの自分の部屋を掃除したりして、それなりに落ち着きを取り戻していった。
RRRRRR――……
必要以上に綺麗になった部屋で、しばらくまったり落ち着いていると電話のベルが家中に響き渡っているのに気づいた。
家族が受話したのかそのベルはすぐに消えたが、そのあとも年末になんの用事があるのか何度も電話が鳴っていた。
巴も今日は電話が多いなとは思ったけれど、久しぶりの帰宅では普段の自宅の様子は分からない。
案外こんなものなのかな、そう思ってあまり気にしないことにして、そのまま電話については忘れてしまっていた。
---
夜も更け紅白も中盤になってきた頃、家族は近所の人たちと忘年会のあと初詣に行ってくると出て行ってしまった。
娘が久しぶりに帰ってきたというのに家族は出かけてしまい、ぽつんと一人残されてしまった巴は玄関で見送ったあと
部屋に戻ろうとした。
そんなとき、再び電話が鳴り出した。
そのタイミングの良さにドキドキしつつ、巴は受話器を手に取った。
「もしもし……?」
「――ようやく、キミが出ましたか」受話器から巴には耳馴染みのいい、一番好きな男性の声が聞こえてきた。
すこし高くどこか癖のあるしゃべり方、それは観月の声に間違いない。
「み、観月さん!? どうしたんですか、これ、私の家の電話ですよ?」
まさか、自宅にかかってくるとは思っても見なかった電話に巴は動揺を隠せない。
実家の家電という、普段あり得ないシチュエーションにドキドキと動悸も激しくなってきたようだ。
「どうもこうも……、キミ、早川の部屋に携帯電話を忘れてきたでしょう。だったらキミの声を聴こうと思ったらこうするしかないじゃないですか、そんなことくらい予想してくれないと」
さも当然といった口調で観月は答えた。
「キミの携帯電話に掛けたら、早川が出て事情を説明してくれましたよ。それでテニス部の緊急連絡先の載った名簿を見てこちらに掛けてみたんですけど……正直、困ってしまいましたよ、シナリオ外の出来事があるなんて……」
心底疲れた口調で観月が語るのが珍しく、巴は少し驚きながら「シナリオ外って?」と話を促す。
「やっぱり気づいてませんでしたか、今日は何度もキミ宛に電話したんですけどね、声を出すたびにキミのお父上に電話を切られてしまいまして……経験したことはありませんが、携帯電話のない時代の男女交際の困難さを思わずにはいられませんでしたよ」
「え、お父さんってば!」
そういえば、今日何度も鳴り響いていた電話のベルは……まさか観月からだったのだろうか、巴はいまになって気にせずにいたことを後悔した。
受話器を取っていたらもう少し早く観月と話せたというのに。
それにしても、父がそんなことをしていたとは驚きだ。観月とのことはほのめかしたことはあるけれど、キッチリと話し合ったことはないし、交際に反対しているとか(南次郎はともかく)異性を近づけたくないとかそんなことを言われたこともなかったのに。
そっくりそのまま観月に伝えると、苦笑混じりに返事が返ってきた。
「んふ……ボクもこれまた経験がありませんけど、男親というものはそうなんでしょうね。我が家でも姉がいますからなんとなくわかりますよ」
「そうですかー」
「そうですよ、まあ男としては簡単に親公認と言うよりも、少しは苦労してみたい気もしますしね。お父上のオーケーが出るまで頑張りましょうか」
なんとなく楽しげにそう話す観月に、巴は目を丸くする。
何よりも段取りを気にし、物事をスムーズに進めたいと思っている彼が、自分と付き合うことをそんな風に考えるとは思わなかった。
「え、じゃあ、ずっとオーケーが出なかったらどうするんですか」
「んー、相手を折れされて手に入れるっていうことに醍醐味があるわけだし、そのことに関しては失敗しない自信があるんですけどね」
「失敗しない自信ですか」そう言われると巴も少々気恥ずかしくなる。
「でも駄目だったら、キミを攫うまででしょう? 苦労の仕方が変わるだけですよ、安心なさい。実際、ボクはキミを青学から攫った実績がありますからね。――ところで、いまお父上はどうしているんですか?」
「父だったら、今出かけてて多分しばらく帰ってこないので大丈夫です」
「そうですか……帰ってこない、ですか」
受話器の向こうで観月は少し口ごもったあと、笑いを含んだ声でこう言った。
「これが、キミが電話の向こうでなければ――その攫う絶好のチャンスだったでしょうにね。電話越しではキミに愛をささやけてもそれ以上のことは、出来ませんからね。残念です」
それは残念かも、巴もそう思いクスリと笑い、「でも、まだ愛はささやいて貰ってませんよ?」そう返す。
「そうでしたね、『愛してますよ、巴くん』。これではお父上のボクの電話を取り次ぎたくないはずですよね、娘に付く虫はやっかいですから」
「ふふふっ、ですね」
「それにしても――キミはいつ東京に戻ってくるんですか? つまり、ボクは何日このハードルに立ち向かわなければいけないのか知りたいんですけどね」
うんざりした口調ではなく、おもしろがった感じでそう訊いてくるのは巴にとって意外だったが、案外悪くない。
実際、毎日電話をしたければ巴から掛けるという手もあるのだが、そして観月もそれは当然分かっているはずだが、そうしようとはしない態度が巴には嬉しい。
「観月さんは相手を折れされて手に入れるっていうことに醍醐味を感じるわけですよね? じゃあ、あと2日――たった2日です、頑張ってくださいね。待ってますから」
「言いますね……まあ、期待してなさい、キミの声を聴けるんだったらハードルも越えられるよう努力してみますよ」
END
大晦日、赤月巴は帰省の人々で混雑する新幹線に乗り込んで、手荷物を広げて中をのぞき込んだと同時にみるみる顔が蒼くなった。
『ある』と思い込んでいた携帯電話が見つからないのだ。
「そういえば、昨日早川さんの部屋でおしゃべりしてた時に……」
巴が暮らす聖ルドルフ学院中等部女子寮には、厳しい寮母と厳格な消灯時間が存在した。
それゆえ、昨夜消灯時間ぎりぎりになって早川の部屋を慌てて飛び出した巴が、彼女の部屋に携帯電話を置いてきてしまったのだろう。
寮からこの新幹線車内に至るまでの道程で、携帯電話を落としたとは思えないし、思い返してみれば今朝携帯電話を触った記憶もないので、きっと早川の部屋にあるような気がするのだ。
しかし、それを確かめるすべは無かった。
電話であれば新幹線車内にもあるけれど、肝心の早川の携帯電話番号が分からない。
携帯電話のメモリに頼り切った生活に陥っていた巴は、それどころか普段暮らしている寮代表の電話番号すら覚えていなかった。
いっそのこと寮に戻ろうかと思っても新幹線は既に動き出している。
携帯電話のために途中下車というのもおかしなものだ。
「あ、自分の携帯にかけてみれば良かったんだ!」
巴はそのことをやっと思いつき、慌てて席を立ちデッキの公衆電話へと向かう。
幸い自分の携帯番号くらいは覚えていた。
「…………」
しかし、残念ながらしばらくコールしたあと留守番電話に切り替わってしまった。
どうやら、早川は部屋に居ないか気づかなかったらしい。
巴は、参ったなあと一瞬思ったものの、すぐに気分を切り替えて自分の席へと戻っていった。
携帯電話がないことくらいはどうと言うこともない。
実家に戻るまではすべて鉄路で、各駅に設置されているはずの公衆電話には困らない。
せいぜい新幹線を降りたときに父親に「駅に着いたよ」と連絡を入れる必要があるくらいだ。
そうすれば、実家から最寄りの駅に着けば、電話を受けた父親が駅前で車とともに待機しているはずで、もう他に電話の必要はない。
学校の友達なんかが『あけおめメール』なんて送ってくれるかもしれないけれど、これに関してはあとで謝り倒してしまえばいい。
良いことではないけれど、巴は携帯電話を忘れても不思議に思われないようなキャラクター認識をされているから、「ごめんねー忘れちゃったんだ」といえば皆気にしないだろう。
どうしても緊急な用事が発生すれば、学校や部活や寮などには家電の番号も伝えてあったはずなので、きっと問題はないはずで。
だから、「ま、いっか」と席に戻るなりいそいそとお弁当を広げて、久しぶりの帰省の道中を楽しむことにした。
先ほど顔を蒼くしていたことなど、けろっと忘れてしまった。
そのあと、脳内にあるのは年越し蕎麦と大晦日の特番は何を見るかくらいのものだった
---
帰宅して久しぶりの我が家は不思議な感じがした。
客ではないのにどこか客じみた立場におかれている気がして、巴はどこか落ち着かずそわそわした。
真新しいカーテンに、見慣れぬ椅子に増えている観葉植物――巴が知らない間に自宅内に配置されたそれらのせいだろうか。
中学入学ぶりに帰宅し、すっかり娘らしく成長した巴に戸惑っているらしい家族のせいだろうか。
それとも中学生になってからぐんぐん伸びた自分の身長によって変化した視点の高さのせいだろうか、巴はしばし考え込んだ。
こういう時、観月はじめならばどう分析するんだろうか、知り合ってから3度目の冬を迎える想い人の姿が一瞬脳内をよぎった。
しかし、ひとしきり家族に土産話を聞かせたあとは、近所を散歩してみたり久しぶりの自分の部屋を掃除したりして、それなりに落ち着きを取り戻していった。
RRRRRR――……
必要以上に綺麗になった部屋で、しばらくまったり落ち着いていると電話のベルが家中に響き渡っているのに気づいた。
家族が受話したのかそのベルはすぐに消えたが、そのあとも年末になんの用事があるのか何度も電話が鳴っていた。
巴も今日は電話が多いなとは思ったけれど、久しぶりの帰宅では普段の自宅の様子は分からない。
案外こんなものなのかな、そう思ってあまり気にしないことにして、そのまま電話については忘れてしまっていた。
---
夜も更け紅白も中盤になってきた頃、家族は近所の人たちと忘年会のあと初詣に行ってくると出て行ってしまった。
娘が久しぶりに帰ってきたというのに家族は出かけてしまい、ぽつんと一人残されてしまった巴は玄関で見送ったあと
部屋に戻ろうとした。
そんなとき、再び電話が鳴り出した。
そのタイミングの良さにドキドキしつつ、巴は受話器を手に取った。
「もしもし……?」
「――ようやく、キミが出ましたか」受話器から巴には耳馴染みのいい、一番好きな男性の声が聞こえてきた。
すこし高くどこか癖のあるしゃべり方、それは観月の声に間違いない。
「み、観月さん!? どうしたんですか、これ、私の家の電話ですよ?」
まさか、自宅にかかってくるとは思っても見なかった電話に巴は動揺を隠せない。
実家の家電という、普段あり得ないシチュエーションにドキドキと動悸も激しくなってきたようだ。
「どうもこうも……、キミ、早川の部屋に携帯電話を忘れてきたでしょう。だったらキミの声を聴こうと思ったらこうするしかないじゃないですか、そんなことくらい予想してくれないと」
さも当然といった口調で観月は答えた。
「キミの携帯電話に掛けたら、早川が出て事情を説明してくれましたよ。それでテニス部の緊急連絡先の載った名簿を見てこちらに掛けてみたんですけど……正直、困ってしまいましたよ、シナリオ外の出来事があるなんて……」
心底疲れた口調で観月が語るのが珍しく、巴は少し驚きながら「シナリオ外って?」と話を促す。
「やっぱり気づいてませんでしたか、今日は何度もキミ宛に電話したんですけどね、声を出すたびにキミのお父上に電話を切られてしまいまして……経験したことはありませんが、携帯電話のない時代の男女交際の困難さを思わずにはいられませんでしたよ」
「え、お父さんってば!」
そういえば、今日何度も鳴り響いていた電話のベルは……まさか観月からだったのだろうか、巴はいまになって気にせずにいたことを後悔した。
受話器を取っていたらもう少し早く観月と話せたというのに。
それにしても、父がそんなことをしていたとは驚きだ。観月とのことはほのめかしたことはあるけれど、キッチリと話し合ったことはないし、交際に反対しているとか(南次郎はともかく)異性を近づけたくないとかそんなことを言われたこともなかったのに。
そっくりそのまま観月に伝えると、苦笑混じりに返事が返ってきた。
「んふ……ボクもこれまた経験がありませんけど、男親というものはそうなんでしょうね。我が家でも姉がいますからなんとなくわかりますよ」
「そうですかー」
「そうですよ、まあ男としては簡単に親公認と言うよりも、少しは苦労してみたい気もしますしね。お父上のオーケーが出るまで頑張りましょうか」
なんとなく楽しげにそう話す観月に、巴は目を丸くする。
何よりも段取りを気にし、物事をスムーズに進めたいと思っている彼が、自分と付き合うことをそんな風に考えるとは思わなかった。
「え、じゃあ、ずっとオーケーが出なかったらどうするんですか」
「んー、相手を折れされて手に入れるっていうことに醍醐味があるわけだし、そのことに関しては失敗しない自信があるんですけどね」
「失敗しない自信ですか」そう言われると巴も少々気恥ずかしくなる。
「でも駄目だったら、キミを攫うまででしょう? 苦労の仕方が変わるだけですよ、安心なさい。実際、ボクはキミを青学から攫った実績がありますからね。――ところで、いまお父上はどうしているんですか?」
「父だったら、今出かけてて多分しばらく帰ってこないので大丈夫です」
「そうですか……帰ってこない、ですか」
受話器の向こうで観月は少し口ごもったあと、笑いを含んだ声でこう言った。
「これが、キミが電話の向こうでなければ――その攫う絶好のチャンスだったでしょうにね。電話越しではキミに愛をささやけてもそれ以上のことは、出来ませんからね。残念です」
それは残念かも、巴もそう思いクスリと笑い、「でも、まだ愛はささやいて貰ってませんよ?」そう返す。
「そうでしたね、『愛してますよ、巴くん』。これではお父上のボクの電話を取り次ぎたくないはずですよね、娘に付く虫はやっかいですから」
「ふふふっ、ですね」
「それにしても――キミはいつ東京に戻ってくるんですか? つまり、ボクは何日このハードルに立ち向かわなければいけないのか知りたいんですけどね」
うんざりした口調ではなく、おもしろがった感じでそう訊いてくるのは巴にとって意外だったが、案外悪くない。
実際、毎日電話をしたければ巴から掛けるという手もあるのだが、そして観月もそれは当然分かっているはずだが、そうしようとはしない態度が巴には嬉しい。
「観月さんは相手を折れされて手に入れるっていうことに醍醐味を感じるわけですよね? じゃあ、あと2日――たった2日です、頑張ってくださいね。待ってますから」
「言いますね……まあ、期待してなさい、キミの声を聴けるんだったらハードルも越えられるよう努力してみますよ」
END
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