「は、オシャレを教えてほしい? テニスじゃなくて?」
目の前の彼女――赤月巴が突飛な事を口走るのは、いまに限った事ではなかった。
いま彼女の、その突飛な言葉を受け止めた伊武深司にしたって、これが初めてではなかった。
だからと言って、それに慣れたかというとそういうこともなく、彼女の言葉には大抵驚かされっぱなしだった。
人に驚かされっぱなしというのは悔しいしなんだか格好悪いような気がして、普段驚きを表面に出す事はなかったが──そもそも、伊武が感情を表に出す事は滅多になく、いまの彼女の突飛な言葉に対しても、かろうじてしれっとクールな表情で聞く事が出来ていたのだが。
いま居る場所は、中学生の二人連れには珍しい閑静なカフェで、そもそも感情をあらわにするような場所ではないのだが、うっかり大声を出したりしなくて良かったと内心ホッとする。
周囲を見回しても、ほかの客や店員が二人を気にする様子はない。
その突飛な事を口走った彼女はキラキラと、期待を込めて伊武を見上げている。いかにも、伊武のOKを待っているかのように。
ああ、その表情に俺は弱いんだった。内心彼女に相当やられているらしい頭を抱えながら「……………これは参ったね」そう小さくつぶやき、さて、どうしようかと考えた。
「オシャレを教えるって、どういう事さ。そもそも君っていつもなんなの? いきなり変な事を口走ったりするし、その思考回路は全く読めるものじゃないよね。その度にこっちがさんざん振り回されるってわかってるワケ、わかってないよね、わかってたら順序立てて自分の考えを相手に伝えようとするよね」
「振り回されてるって……こっちの台詞ですっ」
聞こえないようにする努力はそもそもしていないので、ぼやきが巴に聞こえるのは当然とも言えるけれど、そんな答えが返ってくるとは思わなかったので、伊武はハッとした。
どんな表情をして巴はそれを言うのか気になったけれども、なんとなくその表情を正面からとらえるのが躊躇われて、視線を窓の外の風景に彷徨わせながら、ぼやいている時よりもハッキリとしない声でそれに応えた。
応えたと言って良いものかどうかも分からない一言だったが、巴には聞こえているだろう。
「別に振り回してなんかないけど?」
自分が、巴を、振り回す?
どうやら意外な展開になっているらしい。伊武はいささか混乱した。
自分は(ぼやく以外は)普通だと思っている。他人に迷惑をかけるようなこともしないし、彼女のような予想できない発想や動きで周囲を惑わせることもない。
テニスのプレイスタイルだって、相手を追い詰めるようなことはあっても超人的な技を持つわけでもない。
こんな自分が彼女を振り回すことなんてあるわけがないのだ。
それなのに一体何を言っているのだろう。
よく分からないからか、それとも違う要因か、試合中でもないのに脈が異常に速くなってきたのを感じた。
トクトクトクトクと心臓が刻むリズムが速くて大きい。
とりあえず落ち着くのが良策だと言わんばかりに、巴の意外な言葉で忘れかけていたコーヒーカップを口に運ぶ。
冷めかけたコーヒーは香気が煎れたての時より落ちていたが、それでも少し落ち着く効果はあったようで、ようやく巴の表情を窺うことが出来た。
先ほどと相変わらず、キラキラとした目のままこちらを見つめている。
本人に言うつもりはないけれど、こういう目で見られると困ってしまう――可愛いからだ。
「深司さん、分かってなかったんですか!」
さも面白げに巴はそう言い放った。
「…………なにが?」
「だからー、深司さんは出会ってからずーーっと私を振り回しているんですってば」
気恥ずかしげに頬を赤らめて巴は話を続けた。
「だって、あっちょっと格好良い人だなーって思ってたけど、年上だし他校の人だしライバルっぽいしどうにもならないかな~って、付き合う前はドキドキしつつもハラハラしてたし、私はテニスばっかりで日焼けもしてるしオシャレじゃなくて顔もスタイルも程々だから付き合ってからもずっと愛想尽かされないか気になってばっかりだし……………………………………………………………………………………………ようするにそれくらい私は深司さんのことが好きなんですよ」
最初は調子よく話していたはずが、言葉尻のみまるで伊武がぼやくかのようにボソボソと巴は言葉を濁した。
しかし、それが聞き取れない伊武ではなく、その言葉のあまりの唐突さに思わず口に含んだコーヒーを吹き出しそうになり、顔をとっさに伏せた。
そろそろ、感情のコントロールが限界のようだ。このまま彼女と話していると、うっかり感情が外にだだ漏れになってしまいそうで怖い。
吹き出すこと、感情を表に出すことをこらえられたのは、ここしばらく無いくらいの幸運だったかもしれないなと思いつつ、ペーパーナプキンで口を押さえた。
思わず下を向いてしまったのは、吹き出すのをこらえためではなく、どちらかと言えば赤面しているかもしれない自分に耐えられなかったからだが、なんとか試合中のように瞬時に冷静な自分を取り戻すことが出来た。
そしてすぐに巴に向き直る。彼女は先ほどに引き続き頬は赤らんだままで、自分とは違ってとても感情がわかりやすい。
それは自分とは全く逆だけれど、そこが良いのだとこれだけは素直に認められる。だれも自分と似た人間を近くに置いておきたく無いものだし、自分とは違う部分を持っている人間に惹かれるものだ。
「で、せめて深司さん好みのオシャレさんに近づけたらなーって言うのが、先ほどの話の趣旨だったんですが、お願いできますか?」
気づいたら、巴はどうやら先ほどの話に戻っているらしい。
先ほどの小さな愛の告白はどこに行ったのやら、巴は先ほどのことは何でもなかったかのような顔で伊武に頭を下げた。
「……………ホント巴には負けるよ」
そんな長いやりとりではなかったはずだが、伊武はものすごい疲労感に襲われた。
巴は自分の振り回し方を全く自覚していないらしい、ものすごく強い力で相手を大きく振り回していることに。
そしてその振り回された相手は、その振り回されっぷりにとても消耗するということに。
しかし、巴に振り回されるのならば心地よい疲労に感じてしまうのだから、自分もおおよそ単純な生き物である。
――フッ、自然と諦めにも近い笑みがこぼれた。
「でも、俺の誕生日に労働させる代償は大きいからね、覚えておいて……………あー、オシャレした巴に何をしてもらおうかな、自分からオシャレにして欲しいなんて言うのが悪いんだからね、いま以上に可愛くなった君を見て俺がなにをしたってもう責められる謂われはないんだから覚悟しておくんだね」
これまで巴を振り回してきたつもりは全くなかったが、巴が振り回されていると思っているのならそれも良いような気がしてきた。
どうせなら今日のこれからの時間は、いつも彼女が感じているらしい以上に振り回してやろう。
さて、これからどうしようかと頭の中で予定を練り始めた。巴に似合いそうなテイストのショッピングビルを脳内でピックアップする。妹たちの買い物に付き合うのがこういう時に役に立つとは……と思いながら。
とりあえずこの場にいても始まらない。さっそく席を立って巴を賑やかな祝日の街なかへと促すことにした。
今年はかなり楽しい誕生日になりそうだ。
END
目の前の彼女――赤月巴が突飛な事を口走るのは、いまに限った事ではなかった。
いま彼女の、その突飛な言葉を受け止めた伊武深司にしたって、これが初めてではなかった。
だからと言って、それに慣れたかというとそういうこともなく、彼女の言葉には大抵驚かされっぱなしだった。
人に驚かされっぱなしというのは悔しいしなんだか格好悪いような気がして、普段驚きを表面に出す事はなかったが──そもそも、伊武が感情を表に出す事は滅多になく、いまの彼女の突飛な言葉に対しても、かろうじてしれっとクールな表情で聞く事が出来ていたのだが。
いま居る場所は、中学生の二人連れには珍しい閑静なカフェで、そもそも感情をあらわにするような場所ではないのだが、うっかり大声を出したりしなくて良かったと内心ホッとする。
周囲を見回しても、ほかの客や店員が二人を気にする様子はない。
その突飛な事を口走った彼女はキラキラと、期待を込めて伊武を見上げている。いかにも、伊武のOKを待っているかのように。
ああ、その表情に俺は弱いんだった。内心彼女に相当やられているらしい頭を抱えながら「……………これは参ったね」そう小さくつぶやき、さて、どうしようかと考えた。
「オシャレを教えるって、どういう事さ。そもそも君っていつもなんなの? いきなり変な事を口走ったりするし、その思考回路は全く読めるものじゃないよね。その度にこっちがさんざん振り回されるってわかってるワケ、わかってないよね、わかってたら順序立てて自分の考えを相手に伝えようとするよね」
「振り回されてるって……こっちの台詞ですっ」
聞こえないようにする努力はそもそもしていないので、ぼやきが巴に聞こえるのは当然とも言えるけれど、そんな答えが返ってくるとは思わなかったので、伊武はハッとした。
どんな表情をして巴はそれを言うのか気になったけれども、なんとなくその表情を正面からとらえるのが躊躇われて、視線を窓の外の風景に彷徨わせながら、ぼやいている時よりもハッキリとしない声でそれに応えた。
応えたと言って良いものかどうかも分からない一言だったが、巴には聞こえているだろう。
「別に振り回してなんかないけど?」
自分が、巴を、振り回す?
どうやら意外な展開になっているらしい。伊武はいささか混乱した。
自分は(ぼやく以外は)普通だと思っている。他人に迷惑をかけるようなこともしないし、彼女のような予想できない発想や動きで周囲を惑わせることもない。
テニスのプレイスタイルだって、相手を追い詰めるようなことはあっても超人的な技を持つわけでもない。
こんな自分が彼女を振り回すことなんてあるわけがないのだ。
それなのに一体何を言っているのだろう。
よく分からないからか、それとも違う要因か、試合中でもないのに脈が異常に速くなってきたのを感じた。
トクトクトクトクと心臓が刻むリズムが速くて大きい。
とりあえず落ち着くのが良策だと言わんばかりに、巴の意外な言葉で忘れかけていたコーヒーカップを口に運ぶ。
冷めかけたコーヒーは香気が煎れたての時より落ちていたが、それでも少し落ち着く効果はあったようで、ようやく巴の表情を窺うことが出来た。
先ほどと相変わらず、キラキラとした目のままこちらを見つめている。
本人に言うつもりはないけれど、こういう目で見られると困ってしまう――可愛いからだ。
「深司さん、分かってなかったんですか!」
さも面白げに巴はそう言い放った。
「…………なにが?」
「だからー、深司さんは出会ってからずーーっと私を振り回しているんですってば」
気恥ずかしげに頬を赤らめて巴は話を続けた。
「だって、あっちょっと格好良い人だなーって思ってたけど、年上だし他校の人だしライバルっぽいしどうにもならないかな~って、付き合う前はドキドキしつつもハラハラしてたし、私はテニスばっかりで日焼けもしてるしオシャレじゃなくて顔もスタイルも程々だから付き合ってからもずっと愛想尽かされないか気になってばっかりだし……………………………………………………………………………………………ようするにそれくらい私は深司さんのことが好きなんですよ」
最初は調子よく話していたはずが、言葉尻のみまるで伊武がぼやくかのようにボソボソと巴は言葉を濁した。
しかし、それが聞き取れない伊武ではなく、その言葉のあまりの唐突さに思わず口に含んだコーヒーを吹き出しそうになり、顔をとっさに伏せた。
そろそろ、感情のコントロールが限界のようだ。このまま彼女と話していると、うっかり感情が外にだだ漏れになってしまいそうで怖い。
吹き出すこと、感情を表に出すことをこらえられたのは、ここしばらく無いくらいの幸運だったかもしれないなと思いつつ、ペーパーナプキンで口を押さえた。
思わず下を向いてしまったのは、吹き出すのをこらえためではなく、どちらかと言えば赤面しているかもしれない自分に耐えられなかったからだが、なんとか試合中のように瞬時に冷静な自分を取り戻すことが出来た。
そしてすぐに巴に向き直る。彼女は先ほどに引き続き頬は赤らんだままで、自分とは違ってとても感情がわかりやすい。
それは自分とは全く逆だけれど、そこが良いのだとこれだけは素直に認められる。だれも自分と似た人間を近くに置いておきたく無いものだし、自分とは違う部分を持っている人間に惹かれるものだ。
「で、せめて深司さん好みのオシャレさんに近づけたらなーって言うのが、先ほどの話の趣旨だったんですが、お願いできますか?」
気づいたら、巴はどうやら先ほどの話に戻っているらしい。
先ほどの小さな愛の告白はどこに行ったのやら、巴は先ほどのことは何でもなかったかのような顔で伊武に頭を下げた。
「……………ホント巴には負けるよ」
そんな長いやりとりではなかったはずだが、伊武はものすごい疲労感に襲われた。
巴は自分の振り回し方を全く自覚していないらしい、ものすごく強い力で相手を大きく振り回していることに。
そしてその振り回された相手は、その振り回されっぷりにとても消耗するということに。
しかし、巴に振り回されるのならば心地よい疲労に感じてしまうのだから、自分もおおよそ単純な生き物である。
――フッ、自然と諦めにも近い笑みがこぼれた。
「でも、俺の誕生日に労働させる代償は大きいからね、覚えておいて……………あー、オシャレした巴に何をしてもらおうかな、自分からオシャレにして欲しいなんて言うのが悪いんだからね、いま以上に可愛くなった君を見て俺がなにをしたってもう責められる謂われはないんだから覚悟しておくんだね」
これまで巴を振り回してきたつもりは全くなかったが、巴が振り回されていると思っているのならそれも良いような気がしてきた。
どうせなら今日のこれからの時間は、いつも彼女が感じているらしい以上に振り回してやろう。
さて、これからどうしようかと頭の中で予定を練り始めた。巴に似合いそうなテイストのショッピングビルを脳内でピックアップする。妹たちの買い物に付き合うのがこういう時に役に立つとは……と思いながら。
とりあえずこの場にいても始まらない。さっそく席を立って巴を賑やかな祝日の街なかへと促すことにした。
今年はかなり楽しい誕生日になりそうだ。
END
「で、これが俺への誕生日プレゼントって訳……? 思いっきり服ですーって感じなんだけど。━━━巴のクセに冒険したよね。俺って服装には結構ウルサイって言ってたと思うんだけどなあ……自分色に染まって欲しいって意味? ああ、そういえば異性に服を贈るって脱がせたいって意味があるんだっけ、でも巴がそんなことまで考えてるとはさすがに思えないよね……。それともへんな服を贈ろうって嫌がらせとか? まさか巴だって自分の彼氏にへんな服を着て歩いて欲しいとは思わないよね、マゾじゃあるまいし、っていうか結構サドっ気はあると思うけど」
「もう、とにかく中身が気になるなら開けて確認して下さいよ!
気に入らなければ返品して一緒にもう一度選べばいいですから!」
赤月巴は目の前の自分の彼氏、伊武深司が手にしている包み紙を強引に奪ってバリッと開封した。
祝日の夕方、活気にあふれている筈のファミリーレストランの中でも巴の声はよく通った。
近くを通ったコーヒーのお代わりポットを持ったウェイトレスがちらりと視線をよこし、何事もない事を確認すると、そのまま微笑ましいといった表情をさせつつ次の仕事へと向かっていった。
そのウェイトレスを横目に、付き合いが案外長くなりつつある巴にしか分からないくらい密かに憮然とした表情をさせて、伊武は相変わらずボソボソと話す。
「…………それって逆ギレだよね」
「いいんですっ、はい、どうぞ」
破られた包みから現れたのは、細かい地紋のある濃紺のトラックトップ。
もちろん先ほど巴が開封した袋に書かれたスポーツブランドのものだろう。
巴が知っているとは思えないが、凝ったデザインと作り手の長年のこだわりに定評のあるブランドで興味を持っていた。
折りたたまれたまま現物を渡された伊武だが、その生地の感触や色合いを見るだけで広げなくても良い物であることはすぐに分かった。
それは、先ほど彼女に対しては嫌なことを言ったりしたけれども、巴が伊武のために見立てたものだ。
自分に似合わないわけがないだろうと信じている。
少なくとも巴の目にはこの服を着た自分が素敵に映ることだろう。
あとは━━━
「ちゃんとサイズ、俺に合う訳?」
「……言われると思いました。
それについては大丈夫、だと思います。多分」
「多分? なんで?」
なかなかその質問に応えを返さずに顔を赤くして俯いた巴を、伊武は不思議そうに眺めた。
---
そこにはただ、スポーツ用靴下を買いに来ただけだった。
部活で履くといかにスポーツ用の生地の厚い靴下であってもすぐに傷んでしまうから、こまめに買い足さなくてはいけない。今日もそのつもりでやって来た。
当初はその筈だったのに、スポーツショップのど真ん中に派手に展開されたスポーツブランドのタウンユースコーナーを見て、正確にはそこに佇むマネキンの着用しているトラックトップを見て気が変わった。
というか、突然「やらなくてはいけなかったこと」を思い出したと言うべきか。
「あー…あのジャージ、深司さんに似合いそうだな」
そう我知らず口をついて出た言葉に、巴はハッと気付いた。
「誕生日……!」
まもなく誕生日を迎える、いま自分自身の中で間違えなく優先順位1位の人。
その人の顔が火花のようにパチッと目の前を弾けて消えた。
優先順位が1位の筈なのに、誕生日へのカウントダウンはもう10日を切っているというのに、そういえばまだプレゼントを用意していなかったことを、今更ながら思い出す。
すっかり忘れていたというわけではないが、あえて探し回ることもしていなかった。
手作りのケーキと、なにか使えそうな雑貨。
それを前日までに用意していれば、何とかなるだろうと楽観的に思っていた。
衣服のプレゼントなど、以ての外だと思っていたが。
でも、これなら。
そんな考えがチラリと脳内を横切った。
成功すればとても喜んでもらえるが、それは勝率の低い賭にも似ている。
巴が目の前のトラックトップをただの『ジャージ』と表現していることからも誰にでも分かることだが、衣服についてあまり詳しくはない。
本人も、多分伊武もファッション知識やセンスなどには端から期待していない。
二人とも巴のセンスについて悪いとは思っていないが、特にこだわりがあるわけでもないし、他人の事についても無頓着だ。
例え伊武が体操服を着用してデートに登場したところで、巴は全く何とも思わないだろう。
さすがに「今日の深司さんはおかしいな」と思うだろうが。
もちろんその例えは、案外自らの装いに気を配っている伊武自身によって成立することは天と地がひっくり返ったとしてもあり得ないことである。
そんな巴がプレゼントする衣服を、彼が喜ぶだろうか。
そこが問題だ。
「なにか、お探しでしょうか?」
マネキンの前で思案していた巴の前に、見かねたのか店員が声を掛けた。
スポーツショップ内のブースだからだろうか、アパレルショップの店員よりも親しみ安い印象のその店員は、このコーナーの担当らしく、タウンユースのスポーツウェアを綺麗に着こなしている。
トップスも巴の言うところの『ジャージ』ではあるけれどもただ爽やかなお洒落のイメージで、だらしないとか汗くさそうとか体育教師風とか、ジャージで受けるマイナスイメージはどこにも見あたらない。
巴も女子とはいえ運動部員の端くれ、手塚や不二といった自分の学校の特殊な先輩達を除外すると、普通の運動部系の男子達はなぜか私服すらスポーツ系で固めてしまう傾向があることを知っている。
ジャージの呪縛から逃れられないのか、ちょっとファッションにはこだわりがあると言っている伊武でさえその傾向があるように思える。
だったら、目の前の店員は、その彼の居るこのコーナーは正解例の一つだろうと巴にも分かる。
巴一人では自信のない分野ではあるが、彼に相談に乗って貰えればきっと正解が見つかるはず。
中学生女子として大人の男性に相談するのはとても高いハードルで、きちんと聞いてもらえるかどうかすら確信が持てずにドキドキしながらも、勇気を出して自分の希望を口に出してみた。
ファッションに自信がない自分が好きな人のために、贈り物をしたいこと。
それについてアドヴァイスがぜひ欲しいこと。
そして、それは店員にとっては仕事なのだから当然といえば当然のことであるけれども、叶えられた。
根気よく、普段伊武が着用している服の傾向や色について、好きなメーカー・ブランドについて聞き出し、巴が一番最初に目をつけたトラックトップが最適だと太鼓判を押してくれた。
けれども、サイズを確認する段になって初めて暗雲が漂った。
「そういえば、サイズ、知らないかも!」
これまで興味がなかったし、セーターを編むわけでもなく訊き出すタイミングなんてあったわけでもないので仕方のないことだ。
それでも、伊武についてこんな単純すぎることを知らない自分に巴はショックを受けた。
すこし青ざめた表情の巴を、プロの店員らしくフォローし、身長や体格からサイズを割り出してくれた。
そしてボトムや襟周りのサイズが細かいシャツを買うわけではないし、そのサイズで大丈夫だろうと言い添えて該当商品を巴に手渡した。
そして、ふと突然思いついたのか、「彼氏のジャージとか着たことってないですか?」そう口にした。
「はい……?」
その言葉の意味が分からず、巴は思わず小首をかしげる。
「ああ、寒いときとか雨のときとか、彼女に上着貸したりするのって、結構僕の……っていうか男のロマンだったりするんで」
大人の男性と思っていた店員から発せられた、案外大人げない発言に内心驚きながらも、巴はそういえば━━━と記憶を掘り起こしてみた。
もっとも掘り起こすと言うほどのことはなくあっさりと思い出した。
「あります」
「そうですか? じゃあこれをお客様が一度着てみますか。
本当にサイズ数値的には問題ないと思うんですけど、
着てみて肩幅とか袖丈とか明らかにおかしければ、多分気付きますよ」
それが、本当に気付くのかどうか巴には分からないし、何だか言いくるめられた気がしないでもないが、素直にその言葉に従うことにした。
店内の大きな姿見の前で、濃紺のトップスにおそるおそる袖を通してみた。
男性用のそれは当然ながら巴には大きく、肩にすこし普段自分着る服よりも重みが加わった。
袖が余ってだぶついている。
着丈も長くて腰をすっぽり隠している。
そういえば、初めて伊武のジャージを借りたときもそんな感じだったなあと思い出す。
特に大柄なわけでもないというのに、何故か自分の体よりも一回り大きかった。
これが男女差なのかと、産まれて初めて思い知ったのと共に、胸に小さなさざめきを覚えた。
広い肩、長い腕。何もかもが自分と違う。
「どうですか?」
大丈夫みたいですね?と店員が巴に確認の声を掛ける。
その声に我に返って、「あっ、はい」と慌ててトップスを脱いで店員に渡す。
「これ……下さい!」
値札に書かれた数字は、まだ中学生の巴には安くはなかったが、ものは確かだったしなによりも伊武にはとても似合うような気がしたので、一向に構わなかった。
放課後の食べ歩きの回数が減るだけだ。
---
「━━━で、これがその試着して買ってきたものだって訳? ……ふーん」
先ほどよりも冷ややかに自分の手の中にあるトップスを見下ろして、伊武は巴のプレゼント選びの過程についての感想を述べた。
その表情はどう見ても、彼女からプレゼントを貰って嬉しいといった表情ではなく、巴は内心「しまったー!」と冷や汗を掻いていた。
「彼女に自分の上着を着せるのは男のロマン、ね。店員もなかなかイイこと言うじゃん」
思わぬコメントに、巴はまじまじと伊武の顔を見た。
いかにも面白くないといった表情をしているのに、店員の意見には同調しているのが面白い。
やっぱり、男の人ってそういうシチュエーションが好きなんだ、伊武も多分に漏れないんだなあとある意味感心する。
たまに年頃の男子とかけ離れたことを言ったりするものだから、つい特別な目で見てしまうこともしばしばある彼が、年相応、ありきたりな面を見せるとホッとする。
だから彼の見せる表情で一番好きな面は、やはり橘や神尾といった不動峰のメンバーと一緒にいるときだったりする、いかにも年相応なテニス部男子に見えるから。
皮肉や嫌味に満ちたボヤキすらも、彼らの中では単なるじゃれ合いに見えるから。
「でも、さ」
伊武の言葉はどうやら続くらしい。
しかもボヤキが始まるんだろう気配がする。
そのくらい巴も既に察知のスキルを習得済みだ。
「やっぱり、さあ━━━面白くないよね、だぶついた上着を着る可愛い彼女の姿っての? まあ巴が可愛いかどうかはこの際問題じゃないんだけど、その姿を彼氏じゃない誰かに見せるっていうのは流石に無防備だし彼氏に対する配慮が足りないんじゃないのかな。そういう面でかなり鈍いっていうのはわかってるけどやっぱり俺としては面白くないんだけど。しかもそれをこの場面で嬉々としてしゃべるっていう神経がさあ━━━」
「で、どうして欲しいんですか」
これまでの付き合いで、ほうっておくと延々とボヤいていることは分かっている。
適度なところで遮ってあげるのも優しさだと、不動峰の面々を見て気付いた。
ゆえに巴は伊武のボヤキを質問を投げかけることによって断ち切った。
これを断ち切ることに関しては、不二先輩にも負けない━━━自信を持って巴は言える。
その巴の断ち切りに、イラつく表情を見せながらも伊武は素直に応えを口にした。
「だからさ、他の男に見せるものをなんで俺に見せないのかって事だよ。なんでこんな事を俺に言わせるかなあ。そんなことまでして買ってくれたんなら、いっそこんなショップバッグに入れずに、直接着てくればいいじゃん、いつもみたいに脳天気なアホ面で『プレゼントは私込みでーすv』なんてやればそりゃ俺だって満面の笑みで喜んで見せたってイイのに……」
巴はここがファミレスで周囲の目もあるということを忘れて、驚きの表情を見せた。
大きく目を見開き、あんぐりと口を開けて。
まさか、伊武がこんな子供じみたことを言うとは思わなかったのと、そもそもバカップルの象徴のような行動をするなんて発想すらなかったのだから、酷く驚いたとしても仕方のないことだ。
「……深司さんの満面の笑みは……ちょっと怖いです」
それだけを口にするのがやっとでも、これまた仕方のないことだと言えた。
「ふうん」
しかし、当然その返事は伊武には面白いものではない。
巴が素直に従って行動に移すとも思えないし、また、こんな所でやられても困るのだが、恥じらうとかちょっとでも可愛いリアクションが欲しいのが複雑なオトコゴコロとやらで。
この少女がいつになったら、もう少し男女の駆け引きに聡くなるのだろうかと深くため息をついた。
自分に対して嫉妬心を見せている彼氏が目の前にいたら、もう少し何かしら特別な反応をしても良いだろうに。
「ま、いいや━━━巴、出るよ」
伊武は返事を待たずに立ち上がり伝票を手に取った。
「え? 深司さん、どうしたんですか」
慌てて巴もそれを追う。
「巴が自分で動けないなら、俺が動かしてあげるよ、つまりもうちょっと落ち着いたところでそのジャージ着せて見せてよってこと」
「はぁ!?」
「誕生日プレゼントってのは、相手が喜ぶものを贈るのが筋でしょ。他の男に見せたものを俺が見られないなんて不公平じゃないの? 俺だって妬くことあるんだし━━━まあ覚悟決めなよ。鈍いところも可愛いと思うときもあるけど、大体は重い罪だよ」
ああ、ここまでこだわるなんて、女子に男物を着せるのはやっぱり男子のロマンなんだなあ。
そうすこし見当違いなことを考えながらも、巴は黙って伊武について行くことにした。
ロマンとやらは解せないけれども、伊武が喜ぶのであれば、それはやはり巴にとっても悪いことではない。
なんだかんだ言っても、好きな人が喜んでくれるのなら何だってしたいのだ。
それを人は女のロマンという━━━かもしれない。
END
「もう、とにかく中身が気になるなら開けて確認して下さいよ!
気に入らなければ返品して一緒にもう一度選べばいいですから!」
赤月巴は目の前の自分の彼氏、伊武深司が手にしている包み紙を強引に奪ってバリッと開封した。
祝日の夕方、活気にあふれている筈のファミリーレストランの中でも巴の声はよく通った。
近くを通ったコーヒーのお代わりポットを持ったウェイトレスがちらりと視線をよこし、何事もない事を確認すると、そのまま微笑ましいといった表情をさせつつ次の仕事へと向かっていった。
そのウェイトレスを横目に、付き合いが案外長くなりつつある巴にしか分からないくらい密かに憮然とした表情をさせて、伊武は相変わらずボソボソと話す。
「…………それって逆ギレだよね」
「いいんですっ、はい、どうぞ」
破られた包みから現れたのは、細かい地紋のある濃紺のトラックトップ。
もちろん先ほど巴が開封した袋に書かれたスポーツブランドのものだろう。
巴が知っているとは思えないが、凝ったデザインと作り手の長年のこだわりに定評のあるブランドで興味を持っていた。
折りたたまれたまま現物を渡された伊武だが、その生地の感触や色合いを見るだけで広げなくても良い物であることはすぐに分かった。
それは、先ほど彼女に対しては嫌なことを言ったりしたけれども、巴が伊武のために見立てたものだ。
自分に似合わないわけがないだろうと信じている。
少なくとも巴の目にはこの服を着た自分が素敵に映ることだろう。
あとは━━━
「ちゃんとサイズ、俺に合う訳?」
「……言われると思いました。
それについては大丈夫、だと思います。多分」
「多分? なんで?」
なかなかその質問に応えを返さずに顔を赤くして俯いた巴を、伊武は不思議そうに眺めた。
---
そこにはただ、スポーツ用靴下を買いに来ただけだった。
部活で履くといかにスポーツ用の生地の厚い靴下であってもすぐに傷んでしまうから、こまめに買い足さなくてはいけない。今日もそのつもりでやって来た。
当初はその筈だったのに、スポーツショップのど真ん中に派手に展開されたスポーツブランドのタウンユースコーナーを見て、正確にはそこに佇むマネキンの着用しているトラックトップを見て気が変わった。
というか、突然「やらなくてはいけなかったこと」を思い出したと言うべきか。
「あー…あのジャージ、深司さんに似合いそうだな」
そう我知らず口をついて出た言葉に、巴はハッと気付いた。
「誕生日……!」
まもなく誕生日を迎える、いま自分自身の中で間違えなく優先順位1位の人。
その人の顔が火花のようにパチッと目の前を弾けて消えた。
優先順位が1位の筈なのに、誕生日へのカウントダウンはもう10日を切っているというのに、そういえばまだプレゼントを用意していなかったことを、今更ながら思い出す。
すっかり忘れていたというわけではないが、あえて探し回ることもしていなかった。
手作りのケーキと、なにか使えそうな雑貨。
それを前日までに用意していれば、何とかなるだろうと楽観的に思っていた。
衣服のプレゼントなど、以ての外だと思っていたが。
でも、これなら。
そんな考えがチラリと脳内を横切った。
成功すればとても喜んでもらえるが、それは勝率の低い賭にも似ている。
巴が目の前のトラックトップをただの『ジャージ』と表現していることからも誰にでも分かることだが、衣服についてあまり詳しくはない。
本人も、多分伊武もファッション知識やセンスなどには端から期待していない。
二人とも巴のセンスについて悪いとは思っていないが、特にこだわりがあるわけでもないし、他人の事についても無頓着だ。
例え伊武が体操服を着用してデートに登場したところで、巴は全く何とも思わないだろう。
さすがに「今日の深司さんはおかしいな」と思うだろうが。
もちろんその例えは、案外自らの装いに気を配っている伊武自身によって成立することは天と地がひっくり返ったとしてもあり得ないことである。
そんな巴がプレゼントする衣服を、彼が喜ぶだろうか。
そこが問題だ。
「なにか、お探しでしょうか?」
マネキンの前で思案していた巴の前に、見かねたのか店員が声を掛けた。
スポーツショップ内のブースだからだろうか、アパレルショップの店員よりも親しみ安い印象のその店員は、このコーナーの担当らしく、タウンユースのスポーツウェアを綺麗に着こなしている。
トップスも巴の言うところの『ジャージ』ではあるけれどもただ爽やかなお洒落のイメージで、だらしないとか汗くさそうとか体育教師風とか、ジャージで受けるマイナスイメージはどこにも見あたらない。
巴も女子とはいえ運動部員の端くれ、手塚や不二といった自分の学校の特殊な先輩達を除外すると、普通の運動部系の男子達はなぜか私服すらスポーツ系で固めてしまう傾向があることを知っている。
ジャージの呪縛から逃れられないのか、ちょっとファッションにはこだわりがあると言っている伊武でさえその傾向があるように思える。
だったら、目の前の店員は、その彼の居るこのコーナーは正解例の一つだろうと巴にも分かる。
巴一人では自信のない分野ではあるが、彼に相談に乗って貰えればきっと正解が見つかるはず。
中学生女子として大人の男性に相談するのはとても高いハードルで、きちんと聞いてもらえるかどうかすら確信が持てずにドキドキしながらも、勇気を出して自分の希望を口に出してみた。
ファッションに自信がない自分が好きな人のために、贈り物をしたいこと。
それについてアドヴァイスがぜひ欲しいこと。
そして、それは店員にとっては仕事なのだから当然といえば当然のことであるけれども、叶えられた。
根気よく、普段伊武が着用している服の傾向や色について、好きなメーカー・ブランドについて聞き出し、巴が一番最初に目をつけたトラックトップが最適だと太鼓判を押してくれた。
けれども、サイズを確認する段になって初めて暗雲が漂った。
「そういえば、サイズ、知らないかも!」
これまで興味がなかったし、セーターを編むわけでもなく訊き出すタイミングなんてあったわけでもないので仕方のないことだ。
それでも、伊武についてこんな単純すぎることを知らない自分に巴はショックを受けた。
すこし青ざめた表情の巴を、プロの店員らしくフォローし、身長や体格からサイズを割り出してくれた。
そしてボトムや襟周りのサイズが細かいシャツを買うわけではないし、そのサイズで大丈夫だろうと言い添えて該当商品を巴に手渡した。
そして、ふと突然思いついたのか、「彼氏のジャージとか着たことってないですか?」そう口にした。
「はい……?」
その言葉の意味が分からず、巴は思わず小首をかしげる。
「ああ、寒いときとか雨のときとか、彼女に上着貸したりするのって、結構僕の……っていうか男のロマンだったりするんで」
大人の男性と思っていた店員から発せられた、案外大人げない発言に内心驚きながらも、巴はそういえば━━━と記憶を掘り起こしてみた。
もっとも掘り起こすと言うほどのことはなくあっさりと思い出した。
「あります」
「そうですか? じゃあこれをお客様が一度着てみますか。
本当にサイズ数値的には問題ないと思うんですけど、
着てみて肩幅とか袖丈とか明らかにおかしければ、多分気付きますよ」
それが、本当に気付くのかどうか巴には分からないし、何だか言いくるめられた気がしないでもないが、素直にその言葉に従うことにした。
店内の大きな姿見の前で、濃紺のトップスにおそるおそる袖を通してみた。
男性用のそれは当然ながら巴には大きく、肩にすこし普段自分着る服よりも重みが加わった。
袖が余ってだぶついている。
着丈も長くて腰をすっぽり隠している。
そういえば、初めて伊武のジャージを借りたときもそんな感じだったなあと思い出す。
特に大柄なわけでもないというのに、何故か自分の体よりも一回り大きかった。
これが男女差なのかと、産まれて初めて思い知ったのと共に、胸に小さなさざめきを覚えた。
広い肩、長い腕。何もかもが自分と違う。
「どうですか?」
大丈夫みたいですね?と店員が巴に確認の声を掛ける。
その声に我に返って、「あっ、はい」と慌ててトップスを脱いで店員に渡す。
「これ……下さい!」
値札に書かれた数字は、まだ中学生の巴には安くはなかったが、ものは確かだったしなによりも伊武にはとても似合うような気がしたので、一向に構わなかった。
放課後の食べ歩きの回数が減るだけだ。
---
「━━━で、これがその試着して買ってきたものだって訳? ……ふーん」
先ほどよりも冷ややかに自分の手の中にあるトップスを見下ろして、伊武は巴のプレゼント選びの過程についての感想を述べた。
その表情はどう見ても、彼女からプレゼントを貰って嬉しいといった表情ではなく、巴は内心「しまったー!」と冷や汗を掻いていた。
「彼女に自分の上着を着せるのは男のロマン、ね。店員もなかなかイイこと言うじゃん」
思わぬコメントに、巴はまじまじと伊武の顔を見た。
いかにも面白くないといった表情をしているのに、店員の意見には同調しているのが面白い。
やっぱり、男の人ってそういうシチュエーションが好きなんだ、伊武も多分に漏れないんだなあとある意味感心する。
たまに年頃の男子とかけ離れたことを言ったりするものだから、つい特別な目で見てしまうこともしばしばある彼が、年相応、ありきたりな面を見せるとホッとする。
だから彼の見せる表情で一番好きな面は、やはり橘や神尾といった不動峰のメンバーと一緒にいるときだったりする、いかにも年相応なテニス部男子に見えるから。
皮肉や嫌味に満ちたボヤキすらも、彼らの中では単なるじゃれ合いに見えるから。
「でも、さ」
伊武の言葉はどうやら続くらしい。
しかもボヤキが始まるんだろう気配がする。
そのくらい巴も既に察知のスキルを習得済みだ。
「やっぱり、さあ━━━面白くないよね、だぶついた上着を着る可愛い彼女の姿っての? まあ巴が可愛いかどうかはこの際問題じゃないんだけど、その姿を彼氏じゃない誰かに見せるっていうのは流石に無防備だし彼氏に対する配慮が足りないんじゃないのかな。そういう面でかなり鈍いっていうのはわかってるけどやっぱり俺としては面白くないんだけど。しかもそれをこの場面で嬉々としてしゃべるっていう神経がさあ━━━」
「で、どうして欲しいんですか」
これまでの付き合いで、ほうっておくと延々とボヤいていることは分かっている。
適度なところで遮ってあげるのも優しさだと、不動峰の面々を見て気付いた。
ゆえに巴は伊武のボヤキを質問を投げかけることによって断ち切った。
これを断ち切ることに関しては、不二先輩にも負けない━━━自信を持って巴は言える。
その巴の断ち切りに、イラつく表情を見せながらも伊武は素直に応えを口にした。
「だからさ、他の男に見せるものをなんで俺に見せないのかって事だよ。なんでこんな事を俺に言わせるかなあ。そんなことまでして買ってくれたんなら、いっそこんなショップバッグに入れずに、直接着てくればいいじゃん、いつもみたいに脳天気なアホ面で『プレゼントは私込みでーすv』なんてやればそりゃ俺だって満面の笑みで喜んで見せたってイイのに……」
巴はここがファミレスで周囲の目もあるということを忘れて、驚きの表情を見せた。
大きく目を見開き、あんぐりと口を開けて。
まさか、伊武がこんな子供じみたことを言うとは思わなかったのと、そもそもバカップルの象徴のような行動をするなんて発想すらなかったのだから、酷く驚いたとしても仕方のないことだ。
「……深司さんの満面の笑みは……ちょっと怖いです」
それだけを口にするのがやっとでも、これまた仕方のないことだと言えた。
「ふうん」
しかし、当然その返事は伊武には面白いものではない。
巴が素直に従って行動に移すとも思えないし、また、こんな所でやられても困るのだが、恥じらうとかちょっとでも可愛いリアクションが欲しいのが複雑なオトコゴコロとやらで。
この少女がいつになったら、もう少し男女の駆け引きに聡くなるのだろうかと深くため息をついた。
自分に対して嫉妬心を見せている彼氏が目の前にいたら、もう少し何かしら特別な反応をしても良いだろうに。
「ま、いいや━━━巴、出るよ」
伊武は返事を待たずに立ち上がり伝票を手に取った。
「え? 深司さん、どうしたんですか」
慌てて巴もそれを追う。
「巴が自分で動けないなら、俺が動かしてあげるよ、つまりもうちょっと落ち着いたところでそのジャージ着せて見せてよってこと」
「はぁ!?」
「誕生日プレゼントってのは、相手が喜ぶものを贈るのが筋でしょ。他の男に見せたものを俺が見られないなんて不公平じゃないの? 俺だって妬くことあるんだし━━━まあ覚悟決めなよ。鈍いところも可愛いと思うときもあるけど、大体は重い罪だよ」
ああ、ここまでこだわるなんて、女子に男物を着せるのはやっぱり男子のロマンなんだなあ。
そうすこし見当違いなことを考えながらも、巴は黙って伊武について行くことにした。
ロマンとやらは解せないけれども、伊武が喜ぶのであれば、それはやはり巴にとっても悪いことではない。
なんだかんだ言っても、好きな人が喜んでくれるのなら何だってしたいのだ。
それを人は女のロマンという━━━かもしれない。
END
青学は大好きなんだけど、それでもたまに何で青学に入っちゃったんだろうとも思う。
河川敷に来てしまうと、特に。
あの人達━━━不動峰が練習している場所。
あそこへ行けば、私はいつもより心が躍る。一緒に練習すればとても楽しい。
特に彼に、伊武に会うとどうしてだろうかいつも心が浮き立つ。
朋ちゃんはそれが恋だと言うけれど、そうかも知れないし違うかも知れない。
自分自身よく分かっていない。
だって、ライバル校の生徒だし、リョーマを窮地に陥らせたし。
無愛想で、なんだかいつもぼやいてばっかりだし。
いろいろと言い訳を頭の中で繰り返す。
好きなら好きでもいいけれども相手の立場を考えると何となく後ろめたい。
でも、不動峰が棄権負けしたあの試合。
偶然にもコートから背を向けて去っていく彼らを見てしまった。
目を惹き付けられてしまった。
いっそう目を惹いたのが伊武深司で。
普段表情を隠した彼から滲み出る悔しさの表情が印象的だった。
あの無愛想さはクールの表れかと思っていたけれども、
その表情ときたら情熱を前面に押し出していた。
熱い血を普段見えない表情の裏に隠している事を知ってしまったら
何だか背筋がゾクゾクして、どうしても今以上に彼の事を知りたくなってしまった。
それから河川敷通いが増えてしまったのは言うまでもない。
「最近伊武君って練習時間前から河川敷のコートで練習してるみたいよ」
明るくていかにも元気なお姉さん然とした橘杏が電話による雑談の中でさらりと重要な事を教えてくれたのは1週間前の土曜日の事だった。
杏はまだ巴の気持ちには気付いていないようだったが、
折に触れては不動峰メンバーの情報を教えてくれる。
大変な問題児達に手を焼いている保母さん達が問題児の情報を共有するみたいなものなのだろう。
巴はそんな経験は全くないけれども、それに近い気がする。
それはともかくとして、翌日日曜日には早速早めに河川敷を訪れてみた。
しかし、伊武どころかいつもの時間になっても誰も来る事がなく酷く落胆してしまった。
『今日はキミが紹介してくれた不動峰と合同練習ですよ』と聖ルドルフの観月がメールをよこしたのは1時間ぐらい待ちぼうけた頃だっただろうか。
「さあ、今日こそリベンジだ!」
そう拳を挙げて再び訪れた日曜日の朝、また河川敷のコートにやって来ていた。
気付くと今日は誕生日だった。
せっかくの誕生日だというのに、今日は何の予定もない。
越前家は出掛けてしまって誰もいない。
寂しい事だけれども、逆に考えると何の制約もなく1日を使えるという事だ。
朝早めに家を出ても誰も咎めないということだ。
伊武と一緒にいる時間が普段よりも長くできるかも知れない。
誕生日を伊武(と不動峰メンバー)と過ごせるのって結構嬉しいかも知れない。
うきうきとコートに入った。
入って気がついたのだけれど、そう言えば伊武が来る時間を自分は知らない。
杏にでも訊いてみれば良かったのだろうが、それで自分の想いが知れるのも気恥ずかしい。
しばらく身の置き所がなくキョロキョロと周囲を見渡してみると、そこにはバケツが置いてあった。
「よ~し、待っている間に小石拾いでもしてようかな」
普段このコートにお世話になっている身だ、これぐらいはしてもいいだろう。
黙々と最初の目的もきれいに忘れながら作業に没頭する。
「なんで、そこにいるわけ?」
突如自分の周囲に影が出来た、
慌てて見上げるとそこには待ちかねていた人物が。
彼は何故か微妙な顔をして「…………もしかして小人さん?」などと言っている。
見上げた先の空の青さと伊武とのコントラストがなかなか好みかもと思いつつ。
巴はなんとなく今日は良い誕生日になりそうな予感を覚えた。
この先の自分たちに期待しながら。
END
河川敷に来てしまうと、特に。
あの人達━━━不動峰が練習している場所。
あそこへ行けば、私はいつもより心が躍る。一緒に練習すればとても楽しい。
特に彼に、伊武に会うとどうしてだろうかいつも心が浮き立つ。
朋ちゃんはそれが恋だと言うけれど、そうかも知れないし違うかも知れない。
自分自身よく分かっていない。
だって、ライバル校の生徒だし、リョーマを窮地に陥らせたし。
無愛想で、なんだかいつもぼやいてばっかりだし。
いろいろと言い訳を頭の中で繰り返す。
好きなら好きでもいいけれども相手の立場を考えると何となく後ろめたい。
でも、不動峰が棄権負けしたあの試合。
偶然にもコートから背を向けて去っていく彼らを見てしまった。
目を惹き付けられてしまった。
いっそう目を惹いたのが伊武深司で。
普段表情を隠した彼から滲み出る悔しさの表情が印象的だった。
あの無愛想さはクールの表れかと思っていたけれども、
その表情ときたら情熱を前面に押し出していた。
熱い血を普段見えない表情の裏に隠している事を知ってしまったら
何だか背筋がゾクゾクして、どうしても今以上に彼の事を知りたくなってしまった。
それから河川敷通いが増えてしまったのは言うまでもない。
「最近伊武君って練習時間前から河川敷のコートで練習してるみたいよ」
明るくていかにも元気なお姉さん然とした橘杏が電話による雑談の中でさらりと重要な事を教えてくれたのは1週間前の土曜日の事だった。
杏はまだ巴の気持ちには気付いていないようだったが、
折に触れては不動峰メンバーの情報を教えてくれる。
大変な問題児達に手を焼いている保母さん達が問題児の情報を共有するみたいなものなのだろう。
巴はそんな経験は全くないけれども、それに近い気がする。
それはともかくとして、翌日日曜日には早速早めに河川敷を訪れてみた。
しかし、伊武どころかいつもの時間になっても誰も来る事がなく酷く落胆してしまった。
『今日はキミが紹介してくれた不動峰と合同練習ですよ』と聖ルドルフの観月がメールをよこしたのは1時間ぐらい待ちぼうけた頃だっただろうか。
「さあ、今日こそリベンジだ!」
そう拳を挙げて再び訪れた日曜日の朝、また河川敷のコートにやって来ていた。
気付くと今日は誕生日だった。
せっかくの誕生日だというのに、今日は何の予定もない。
越前家は出掛けてしまって誰もいない。
寂しい事だけれども、逆に考えると何の制約もなく1日を使えるという事だ。
朝早めに家を出ても誰も咎めないということだ。
伊武と一緒にいる時間が普段よりも長くできるかも知れない。
誕生日を伊武(と不動峰メンバー)と過ごせるのって結構嬉しいかも知れない。
うきうきとコートに入った。
入って気がついたのだけれど、そう言えば伊武が来る時間を自分は知らない。
杏にでも訊いてみれば良かったのだろうが、それで自分の想いが知れるのも気恥ずかしい。
しばらく身の置き所がなくキョロキョロと周囲を見渡してみると、そこにはバケツが置いてあった。
「よ~し、待っている間に小石拾いでもしてようかな」
普段このコートにお世話になっている身だ、これぐらいはしてもいいだろう。
黙々と最初の目的もきれいに忘れながら作業に没頭する。
「なんで、そこにいるわけ?」
突如自分の周囲に影が出来た、
慌てて見上げるとそこには待ちかねていた人物が。
彼は何故か微妙な顔をして「…………もしかして小人さん?」などと言っている。
見上げた先の空の青さと伊武とのコントラストがなかなか好みかもと思いつつ。
巴はなんとなく今日は良い誕生日になりそうな予感を覚えた。
この先の自分たちに期待しながら。
END
『おやすみなさい』
たったそれだけの言葉が1日の最後の言葉として相応しいなんて
恋をするまで知らなかった。
言わないことが罪になるなんて。
君に、逢うまでは。
*Telephone Call
耳元でジリリリと古典的な目覚まし時計ががなりたてる。
赤月巴は中学生になってから朝練に間に合うように、
下宿先の人々に━━━特に越前リョーマに起こされないためにも
様々な目覚まし時計を、画期的な効果を求めて使用していたが
結局最強だったのは古式ゆかしきベル式の時計だった。
慌てて飛び起き、その目覚ましをギネスにも載る勢いで素早く停止させる。
「ふー……もう朝なんだ……え?…あ、さ?」
昨晩、床についた記憶がない。
正確には入浴を済ませてから「仮眠、仮眠~」と言って床に転がった記憶はあるのだが。
なにも朝まで仮眠しなくても。
と、言うかそれはもはや仮眠ではなく、ただの就寝だ。
時計は11月3日、午前5時を差している。
「あちゃー!今日、文化祭の日じゃん、朝練休みだし」
11月3日、文化の日。
ふとカレンダーに目をやると、3の数字はきっちり赤で印刷されている。
そして3のまわりには大きな花丸が。
その花丸の下には『深司さんBD』という自分の字。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああ」
祝日の早暁、まだ眠り深い越前一家は巴の奇声にて目を覚ますことになった。
--
眠気覚めやらぬ越前リョーマに一つ蹴りを入れられ、
他の家人に何事もないことを告げて謝り倒したあと巴は部屋の真ん中で正座していた。
目の前には携帯電話。着信履歴のランプがチカチカと光ったままだ。
それが伊武からの電話であることは間違いがないだろう。
巴と伊武は付き合い始めてから続けていた習慣がある。
おやすみなさいコールだ。
毎日交互に電話して、昨夜は巴の番だった。
大体、巴がマシンガントーク連射して、伊武が適当にあしらうものだったが、
最後には『おやすみなさい』で同時に切る。
毎日、合宿中でもテスト中でも続いていた習慣。
「……昨日、熟睡だったもんなあ……」
背中には11月だというのに汗が流れる。
これが冷や汗というものなのだろう。
どうしよう。
当然、ごまかしちゃマズイよね。
電話する?
今?
いやまだ寝てるだろう。
ああああ…きっと怒られる。
電話しなきゃ!
一刻も早く謝らないと。
あーでもまだこんな時間だし。
あああああ。
そんなとりとめのない焦りの感情がぐるぐると駆けめぐる。
7時。
意を決して電話をすることにした。
震える手でボタンを押す。
嫌われていたらどうしよう。それを考えると巴は恐かった。
RRR……
「………………………………………………なに?」
自らかけた筈なのに伊武が応答したことに巴は飛び上がりそうになった。
出るとは思っていたけれど、いざ出られるとどうして良いか分からない。
とっさの一言が、口から飛び出す。
「深司さん!お、お誕生日おめでとうございますっ!」
「……」
「……」
そこから会話が続かない。
これはもう怒っているに違いないと
もう一度なけなしの勇気を振り絞って声をかけてみる。
「あ…の…?深司さん、聞いてます?」
やや冷たい調子━━━とはいえいつものことだったりするのだが、
硬質な口調で伊武はようやく返答する。
「聞いてるよ、って言うか、他に言うことあるんじゃないの?」
その一言が鋭い矢となり胸に突き刺さる。
当然だ。昨晩電話しなかったことを謝ってはいない。
謝らなければいけないのはもちろん分かっているが、
何となく言い出しづらかったのだ。
「ごめんなさい!あの、昨日電話しなくって…実は…」
実は、ただ単純に寝こけてました。
朝まで熟睡でした。
恥ずかしくてとても言いづらい。
「あのさあ…、君と電話なんかしなくても俺は別に構わないわけ」
「ええっ」
ちょっと衝撃を受ける。
この後の話の流れは別れ話だろうか?そう考えると受話器の向こうでぼやく声が聞こえてきた。
「…………ひどいもんだよね、でもやっぱり1日の締めくくりだし君の声なんか聞きたいと思うし、14歳の最後の夜に彼女から電話がかかってこないなんて訳がないと思ってたのになかなか電話がかかってこないし、待ちきれなくてこっちからかけてみても全然出てくれないし。あーあーまいっちゃうよなー。可哀想な俺。多分彼女はこれっぽっちも俺のことは考えてくれちゃいなくて、すいません、うっかり先に寝ちゃいましたーなんて言うに決まってるんだよ。多分愛情なんか薄れてるに違いなくて惰性で付き合ってくれてるんだ。そうだ、そうに違いない。うわー俺ってかわいそ……」
「だいすきですってば!」
伊武のボヤキを遮るように巴は携帯電話の向こう側に怒鳴りつける。
そして、その言葉はうっかりと駆け引きのない本音。
巴は男性を上手くいさめる言葉などまだ知らないのだから仕方がない。
しかし、大声で大好きだと告げてしまったことに言った後に気付いて
急に恥ずかしくなってしまう。
「じゃあ、それでいいや」
ぼやくのを止めてぽつりと伊武はそう答えた。
「は?なにがいいんですか?」
「あと3回言ってくれたら、昨晩のことはチャラにしてあげるよ」
「何を…言え…と?」
とっくに乾いていたはずの冷や汗がまた流れ落ちる。
もちろん、何を言えと言っているのかは分かっている。
しかしとても恥ずかしい。
何度も言えるわけがない。
「……あーやっぱり俺ってかわいそ……」
「あー、言いますよ!言いますってば、ごめんなさいっ!」
半ばヤケになって巴は答える。
「深司さん、を文頭に入れてね」
さりげなく注文を増やしている。
伊武はそのさりげなく事を進める能力に長けていた。
「……コホン」
一つ息を整える。
こういう展開になってしまったのは自業自得であることは自分でもわかっている。
腹をくくるしかない。
「しんじさんだいすき!しんじさんだいすき!しんじさんだいすき!」
思わず力みすぎてはぁはぁ言っているものの巴ご自慢の肺活量で一息で言い切る。
「随分棒読みみたいだけど……まあ、いいよ、今回は」
多少照れくさいのか普段より感情を表に出した口調でそれに答える。
「……今回は?」
文末に引っかかりを覚えて聞き返す。
「次回から、電話を怠るごとに言ってもらうから……1回ずつ増やして」
「えっ!?」
あまりにも恥ずかしすぎるペナルティだ。
さすがに、頑張って電話しようという気にもなる。
「ま、ちゃんと欠かさず電話していれば問題ない話だから
……と、言っても1ヶ月に1回ぐらいはミスしてくれていいけどね、俺としては」
「さすがに照れくさいんですけど……」
自分の気持ちを正直に話す。
たとえ、好きという気持ちが本音でも口にするのは少々照れる。
誰かを好きになると言うスキルが低すぎて、
愛の言葉を話すのも聞くのも照れくさくて身の置き所が無くてやりきれない。
きっと、伊武からそう言う言葉を聞く日が来るとしても
その時の自分は照れくさくて気を失いそうになるのだろうと思った。
「…………じゃ、俺もたまにミスしてみるからそれであいこって事にしてよ」
伊武のミスに対するペナルティー、それは巴と同様のものと言うことで。
「……」
巴の口はまるでバカみたいに開いたままだ。
伊武の言葉の意味を正確に考え当てると、先ほどまで冷や汗が出ていた身体は
急激な体温上昇によって本当の汗が滲み出してきた。
「……もう学校行く時間だから切るよ。
今度の日曜日に俺の誕生日祝ってくれるんだったよね、
それは楽しみにしてるから、ペナルティー以上のイイ物もらえるんだろうし」
ペナルティー=しんじさんだいすき!、だとするとそれ以上のものとは何だろう。
ものすごい、プレッシャーだ。
今日は目を覚ましてからと言うもの、
自分の顔色が信号のようにチカチカとすぐに変わっている自覚がある。
赤から青へ、青から赤へ。
気が遠くなりそうになりながら「はい…そうですね」となんとか返事をする。
「じゃあ、また、今夜」
伊武の声を最後に電話は切れた。
週末に対する大きな不安を抱きながら、巴は通話を終了させた。
時計を見て、慌てて登校の準備をする。
まさか、その時には、伊武の番である今夜の電話がかかってこないとは考えてもみなかった。
そして早速伊武からのペナルティーの言葉を聞かされる事になるとは。
END
たったそれだけの言葉が1日の最後の言葉として相応しいなんて
恋をするまで知らなかった。
言わないことが罪になるなんて。
君に、逢うまでは。
*Telephone Call
耳元でジリリリと古典的な目覚まし時計ががなりたてる。
赤月巴は中学生になってから朝練に間に合うように、
下宿先の人々に━━━特に越前リョーマに起こされないためにも
様々な目覚まし時計を、画期的な効果を求めて使用していたが
結局最強だったのは古式ゆかしきベル式の時計だった。
慌てて飛び起き、その目覚ましをギネスにも載る勢いで素早く停止させる。
「ふー……もう朝なんだ……え?…あ、さ?」
昨晩、床についた記憶がない。
正確には入浴を済ませてから「仮眠、仮眠~」と言って床に転がった記憶はあるのだが。
なにも朝まで仮眠しなくても。
と、言うかそれはもはや仮眠ではなく、ただの就寝だ。
時計は11月3日、午前5時を差している。
「あちゃー!今日、文化祭の日じゃん、朝練休みだし」
11月3日、文化の日。
ふとカレンダーに目をやると、3の数字はきっちり赤で印刷されている。
そして3のまわりには大きな花丸が。
その花丸の下には『深司さんBD』という自分の字。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああ」
祝日の早暁、まだ眠り深い越前一家は巴の奇声にて目を覚ますことになった。
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眠気覚めやらぬ越前リョーマに一つ蹴りを入れられ、
他の家人に何事もないことを告げて謝り倒したあと巴は部屋の真ん中で正座していた。
目の前には携帯電話。着信履歴のランプがチカチカと光ったままだ。
それが伊武からの電話であることは間違いがないだろう。
巴と伊武は付き合い始めてから続けていた習慣がある。
おやすみなさいコールだ。
毎日交互に電話して、昨夜は巴の番だった。
大体、巴がマシンガントーク連射して、伊武が適当にあしらうものだったが、
最後には『おやすみなさい』で同時に切る。
毎日、合宿中でもテスト中でも続いていた習慣。
「……昨日、熟睡だったもんなあ……」
背中には11月だというのに汗が流れる。
これが冷や汗というものなのだろう。
どうしよう。
当然、ごまかしちゃマズイよね。
電話する?
今?
いやまだ寝てるだろう。
ああああ…きっと怒られる。
電話しなきゃ!
一刻も早く謝らないと。
あーでもまだこんな時間だし。
あああああ。
そんなとりとめのない焦りの感情がぐるぐると駆けめぐる。
7時。
意を決して電話をすることにした。
震える手でボタンを押す。
嫌われていたらどうしよう。それを考えると巴は恐かった。
RRR……
「………………………………………………なに?」
自らかけた筈なのに伊武が応答したことに巴は飛び上がりそうになった。
出るとは思っていたけれど、いざ出られるとどうして良いか分からない。
とっさの一言が、口から飛び出す。
「深司さん!お、お誕生日おめでとうございますっ!」
「……」
「……」
そこから会話が続かない。
これはもう怒っているに違いないと
もう一度なけなしの勇気を振り絞って声をかけてみる。
「あ…の…?深司さん、聞いてます?」
やや冷たい調子━━━とはいえいつものことだったりするのだが、
硬質な口調で伊武はようやく返答する。
「聞いてるよ、って言うか、他に言うことあるんじゃないの?」
その一言が鋭い矢となり胸に突き刺さる。
当然だ。昨晩電話しなかったことを謝ってはいない。
謝らなければいけないのはもちろん分かっているが、
何となく言い出しづらかったのだ。
「ごめんなさい!あの、昨日電話しなくって…実は…」
実は、ただ単純に寝こけてました。
朝まで熟睡でした。
恥ずかしくてとても言いづらい。
「あのさあ…、君と電話なんかしなくても俺は別に構わないわけ」
「ええっ」
ちょっと衝撃を受ける。
この後の話の流れは別れ話だろうか?そう考えると受話器の向こうでぼやく声が聞こえてきた。
「…………ひどいもんだよね、でもやっぱり1日の締めくくりだし君の声なんか聞きたいと思うし、14歳の最後の夜に彼女から電話がかかってこないなんて訳がないと思ってたのになかなか電話がかかってこないし、待ちきれなくてこっちからかけてみても全然出てくれないし。あーあーまいっちゃうよなー。可哀想な俺。多分彼女はこれっぽっちも俺のことは考えてくれちゃいなくて、すいません、うっかり先に寝ちゃいましたーなんて言うに決まってるんだよ。多分愛情なんか薄れてるに違いなくて惰性で付き合ってくれてるんだ。そうだ、そうに違いない。うわー俺ってかわいそ……」
「だいすきですってば!」
伊武のボヤキを遮るように巴は携帯電話の向こう側に怒鳴りつける。
そして、その言葉はうっかりと駆け引きのない本音。
巴は男性を上手くいさめる言葉などまだ知らないのだから仕方がない。
しかし、大声で大好きだと告げてしまったことに言った後に気付いて
急に恥ずかしくなってしまう。
「じゃあ、それでいいや」
ぼやくのを止めてぽつりと伊武はそう答えた。
「は?なにがいいんですか?」
「あと3回言ってくれたら、昨晩のことはチャラにしてあげるよ」
「何を…言え…と?」
とっくに乾いていたはずの冷や汗がまた流れ落ちる。
もちろん、何を言えと言っているのかは分かっている。
しかしとても恥ずかしい。
何度も言えるわけがない。
「……あーやっぱり俺ってかわいそ……」
「あー、言いますよ!言いますってば、ごめんなさいっ!」
半ばヤケになって巴は答える。
「深司さん、を文頭に入れてね」
さりげなく注文を増やしている。
伊武はそのさりげなく事を進める能力に長けていた。
「……コホン」
一つ息を整える。
こういう展開になってしまったのは自業自得であることは自分でもわかっている。
腹をくくるしかない。
「しんじさんだいすき!しんじさんだいすき!しんじさんだいすき!」
思わず力みすぎてはぁはぁ言っているものの巴ご自慢の肺活量で一息で言い切る。
「随分棒読みみたいだけど……まあ、いいよ、今回は」
多少照れくさいのか普段より感情を表に出した口調でそれに答える。
「……今回は?」
文末に引っかかりを覚えて聞き返す。
「次回から、電話を怠るごとに言ってもらうから……1回ずつ増やして」
「えっ!?」
あまりにも恥ずかしすぎるペナルティだ。
さすがに、頑張って電話しようという気にもなる。
「ま、ちゃんと欠かさず電話していれば問題ない話だから
……と、言っても1ヶ月に1回ぐらいはミスしてくれていいけどね、俺としては」
「さすがに照れくさいんですけど……」
自分の気持ちを正直に話す。
たとえ、好きという気持ちが本音でも口にするのは少々照れる。
誰かを好きになると言うスキルが低すぎて、
愛の言葉を話すのも聞くのも照れくさくて身の置き所が無くてやりきれない。
きっと、伊武からそう言う言葉を聞く日が来るとしても
その時の自分は照れくさくて気を失いそうになるのだろうと思った。
「…………じゃ、俺もたまにミスしてみるからそれであいこって事にしてよ」
伊武のミスに対するペナルティー、それは巴と同様のものと言うことで。
「……」
巴の口はまるでバカみたいに開いたままだ。
伊武の言葉の意味を正確に考え当てると、先ほどまで冷や汗が出ていた身体は
急激な体温上昇によって本当の汗が滲み出してきた。
「……もう学校行く時間だから切るよ。
今度の日曜日に俺の誕生日祝ってくれるんだったよね、
それは楽しみにしてるから、ペナルティー以上のイイ物もらえるんだろうし」
ペナルティー=しんじさんだいすき!、だとするとそれ以上のものとは何だろう。
ものすごい、プレッシャーだ。
今日は目を覚ましてからと言うもの、
自分の顔色が信号のようにチカチカとすぐに変わっている自覚がある。
赤から青へ、青から赤へ。
気が遠くなりそうになりながら「はい…そうですね」となんとか返事をする。
「じゃあ、また、今夜」
伊武の声を最後に電話は切れた。
週末に対する大きな不安を抱きながら、巴は通話を終了させた。
時計を見て、慌てて登校の準備をする。
まさか、その時には、伊武の番である今夜の電話がかかってこないとは考えてもみなかった。
そして早速伊武からのペナルティーの言葉を聞かされる事になるとは。
END
*Throbbing Word
「全く、君ってそういう所が素晴らしいよね」
目の前でニコニコしている巴を見て、脱力しながら伊武深司はボヤキに入る。
……まったく……自分のこととなると全く鈍感で……ある意味幸せなことだよね。
…幸せ、幸せ、あーあ、ホントむかつくって言うか、そのオメデタさはいったい何な訳?
「そうですか?ありがとうございます…一応褒めてるんですよね…?」
…は?褒めてないよ、全然。
…「ありがとう」って意味わかんないから。それ、喜ぶところじゃないし。
…あーあー…なんでそんな笑顔してるんだよ。
…ぶっちゃけ「おかしいんじゃない?」って言ってるんだよ。
…なんていうの?君のこと貶してるんだけど?
…だいたいさあ、俺からの電話で開口一番、「今日は河川敷のコートですか?」って
…俺、そんなに毎日毎日練習のことしか考えていない訳でも無いし。神尾じゃあるまいし。
…ああ、神尾は杏ちゃんのこととリズムのことも考えてたっけ。まあいいや。
…それとも何?俺は練習のことについてしか君に電話しちゃダメってこと?
…分かったよ、これからは練習のことについてしか君に電話しないよ。
…君にとっては俺なんてただの練習相手だもんね。
…学校も違うし、練習相手として以外の価値なんて俺にはないもんね。
…君の今の態度でよーーーくわかったよ。あーあ、なんて俺ってば可哀想なんだろ。
「…深司さん…?」
…どうせ、同じ青学連中とつるんでる方が楽しいんだよね。ムカつくなあ。
…今日呼び出しに応じたのだって「面倒だけど行ってやるか」くらいの気持ちなんでしょ。
…何のために呼び出したか、なんて全く分かってなかったクセに。
「まあ、それはそうなんですけど…」
…もっとも、今も分かってないみたいだけどね、それもどうかなあ?
…普通さ、誰だって理由ぐらい考えるだろうし、簡単に思いつくと思うんだけどね。
…君のそう言う部分さ、いっつもどうかと思うんだけどね、俺は。
………練習相手の俺になんか言われたくもないだろうけど。
……………………そういう所が嫌いで、……………………そういう所が好きなんだけどさ。
「あのー…全部、さっきからちゃんと聞こえてるんですけど」
巴は困ったような微笑みで、伊武に話しかける。
しっかりと「好き」という単語は記憶に刻みつける。
今朝珍しく伊武から電話がかかってきた。
いつもは連絡するときは自分からかメールでのやりとりで、
彼からの電話というのは滅多にない。
なので、自分のケータイから伊武専用の着信音-CAN SEE THE LIGHT-が流れ出したときは、
嬉しいと言うよりも先に驚きと戸惑いが出てしまった。
伊武が、この自分に電話をするまでの用事とは一体何事だろうか?
くだらない雑談などで電話をかけてくるようなタイプでもなし。
いまいちピンと来るものがなかったが、とりあえず電話に出てみた。
出るときに思いついたのは、練習についてなのではないかという予想だけ。
実際、伊武が言うには全くハズレであったみたいだが。
「それで、なんの御用ですか?デートならデートだとか…
私、少々鈍いようですからはっきりと言ってもらわないと分からないですよ?
深司さん、受験生だし緊急な用なんでしょうか?」
結局答えが出ないので、直截的に訊いてみる。
ボヤキだすと止まらない伊武から答えを引き出すには、まわりくどいことを言ってもムダだ。
出会ってからの付き合いが1年以上続いて、ようやく覚えた事。
「受験て…一応一般試験も受けるけど特待生枠が決まってるから余裕なんだけどね…。
そんなことはともかく、緊急な用と言えばそうなんじゃないかな?」
緊急な用事。
それはいったい何なんだろう。巴は頭を抱える。
「ほら、何か忘れてるんじゃない?
先に行っておくけど、俺が忘れてる訳じゃないから。そこまでボケてないし」
うんうんと唸っている隣で冷静に伊武はそう告げた。
どうやらヒントを与えるつもりもないようで、面白そうに巴の表情を眺めている。
眺めるのに少々飽きてきたかな…と、伊武が思い始めた頃、巴は俯いていた顔を上げた。
「ああああああーーーーっ!」
急に悲鳴にも似た大声を上げる。
二人がいた所が待ち合わせ場所の駅前広場だったため周囲から注目される。
周囲の目とかそういったことはあまり気にしない伊武ではあったが、
さすがにこれでは少し恥ずかしい。
…これじゃあ、まるで俺が巴に何かしたみたいじゃないか。忘れてる巴が悪いのに。
…っていうかさ、こういう声は本当に何かしてから出してよ。
そう伊武がボヤこうとするより先に巴が声を出す。
「そういえば、普段洋食派のおばさんがお赤飯なんて炊いてるからおかしいなとは…」
「で、分かったの?」
呆れたように伊武が問いかける。
ここまで自分のことについて疎いというか鈍いと犯罪に近い。
ついでに、伊武の巴に対する気持ちにも鈍いのだからどうしようもない。
世間的には付き合っていることになっているし、
たまに本人同士にもそういった展開がチラとあったりするのだが、
二人の仲はいっこうに派手な急展開を迎えない。
「私の誕生日だから、深司さん呼び出してくれたんですね?」
ついうっかり長ボヤキをしそうになる自分を押さえつつ、伊武は頷く。
「あたり。……巴にしては早く答えを出した方なのかな?」
そういって腕時計を確認する。
「まあ、間に合いそうで良かった」
…時間に間に合わなければ、このままここで引き返すこともちょっと考えたけどね。
…もっとも賢いから、その時間も計算して待ち合わせ時間を決めたんだけどね。
…あーあー、俺ってホント巴に関してはマメだよね。
…嫌になっちゃうよね。
ボヤキながらさりげなく巴の手を取って街中を歩き出す。
「で、私はどこに連れて行かれてるんでしょうか?」
本当は伊武に連れられていくのならどこでも良いのだけれども、
とりあえず何か話さなくてはボヤキはノンストップなので、訊いてみた。
伊武は左手に繋がっている彼女の表情を一瞬伺い、そして答える。
「映画。そのあと公園前のカフェ」
「え?」
意外な答えに巴は目を丸くする。
普段二人で出歩くときは、中学生なので何となくブラブラしていることが多いからだ。
そして、伊武が巴を引っ張っていくこと自体が滅多にないのだから。
なにか観たい映画でもあったのだろうか?誕生日にかこつけて。
巴はなんでだろうと首をかしげつつ、
伊武の手が意外に温かいことと、実は自分に歩調を合わせてくれていることに
感激を覚えながらてくてくと伊武に引っ張られながら歩いていった。
「あー!面白かったですねえ、深司さん!」
巴は映画館を出て、開口一番満足げに声を上げる。
結構大きな声だが、いつものことなので伊武は気にも留めない。
巴の突拍子の無さに関してはいつの頃からかボヤくのを止めていた。
確かに、巴は大きな声で言いたいくらい満足を覚えていた。
以前から見たくて仕方ない映画だったからだ。
ただ、伊武の好みとは外れた映画だと言うことは知っていたので
たしか彼には言ってもいないはずだったのだが。
それだけに余計に嬉しくて満足だった。
思わず伊武の腕にぎゅっとしがみついてしまうほどに。
…いてっ…全く巴は馬鹿力なんだから…もうちょっと加減して欲しいよ。
……胸が激しく当たってること気づいてるのかなあ。
…まあ、しがみつかれること自体はいつでも構わないんだけどさ
ボヤキなんだか何なんだか分からない言葉を伊武は発する。
その発言で、顔を赤らめながらパッと身を離した巴に、
「ほら、俺にくっついていたいんなら歩けるように腕組んでよ」
と、腕を差し出しつつ伊武は提案する。
そして、しがみつかれた体勢から腕を組み直して二人は映画館をあとにした。
時間は丁度、お茶をするには良い時間帯で、
程なくして目的のカフェに到着すると店は混雑していた。
「あちゃー、このカフェ、人気ですね。ちょっと待つことになりそうですね」
このカフェは雑誌にも載るような人気店で、巴も一度来てみたかったのだ。
先日も雑誌のカフェ特集を杏と眺めていた所だ。
当然ながら雑誌の写真通りの外観でオープンになっているテラスからは
正面の公園を良く見晴らすことが出来た。良い雰囲気だ。
しかし、店の前にはなかなかの行列。
どうするべきか?やっぱり諦めるしかないかな、深司さん待つの嫌いそうだし。
そう巴が思いめぐらせていると、
「…予約している伊武ですが…」
隣で自分を腕を組んだままの男が店員にそう告げている。
「え?深司さん?予約なんてしていたんですか?」
驚いて巴は問いただす。
「行くの決めてたんだから当たり前でしょ?
映画終わってからここまでなら時間の見当もつくしね…それとも、何?…」
伊武のボヤキが始まりそうな所で、良いタイミングで店員が案内にやってきた。
二人が通されたのは、公園を見渡せるオープンテラス部分。
店内でも一番人気のある席だろう事は容易に想像がつく。
現に並んでいる人々の中には寒いにもかかわらずあえてその席を指定している人もいる。
店員二人にブランケットを渡して去っていくと
巴はとたんに落ち着きを無くしてあたりをキョロキョロし始める。
「…なにキョロキョロしてるの?一緒にいる俺が恥ずかしくなると思わない?」
「え?そ、そうですね。すいません。私こういう雰囲気のお店って初めてで」
「ふうん」
「あの、嬉しいです!この店、一度来てみたくて…よく知ってましたね」
「まあね」
二人が実のない会話を交わしているとしばらくして店員がやってきた。
「お客様、お待たせしました。ご注文の品でございます」
そしてテーブルに広げられたのは、普段食べるのとは明らかに違った
まるで芸術品のような装飾を施した洗練された小さめのワンホールケーキと
巴は紅茶、伊武はコーヒーとそれぞれの飲み物だった。
「うわっ!キレイですねえ!」
ケーキの装飾よりもキラキラと目を輝かせて巴は感嘆の声をあげる。
それを見て店員はニコと微笑みながら、
「これは私どもからのささやかなバースデープレゼントでございます、どうぞ」
そういって、巴にシンプルなリボンで飾られた包みを渡す。
「あっ、あけて良いですか?」
こういった店からの演出など受けたのは初めてで巴はドキドキしながら尋ねる。
「どうぞ、そちらはもうお客様のものですから」
そういって店員は一つ礼をして席から遠ざかっていった。
「で、巴?お茶、さめちゃうから開けるのはあとでにしなよ」
「は…はい!そうします!いただきますっ」
伊武に促され、慌てて飲食モードに巴は切り替える。
「……大人ならシャンパンの一つでも開けて祝うんだろうけど、とりあえず我慢してよ」
そういって伊武は手にコーヒーカップをもつ。いわゆる乾杯の体勢だ。
巴もそれを察して慌ててティーカップを手に取る。
カチン
軽くかち合わせて二人で乾杯をする。
普段慣れないことをしていることはお互い自覚しているので、
したあとで二人とも吹き出してしまう。
もっとも表情に乏しい伊武は巴でないと判別できないレベルではあったが。
「さあ、ケーキ、切り分けて。もちろんそれ一人で食べる訳じゃないよね?
別に巴の大食らいは今に始まった事じゃないけど、俺にも少しぐらい分けてよ」
「ああっ!ヒドい、もちろんこんな美味しそうなケーキ一人で食べる訳ないじゃないですか。
深司さんも食べられるようにキチンと半分こしますってば」
巴は慌てて几帳面にもキッチリ2等分に切り分け、それぞれの取り分け皿に盛る。
そして、二人は堰を切ったようにケーキを食べ始めた。
流石に人気店のケーキだけあって、文句なしの味だった。
口の中には甘すぎずスッキリとした味が広がる。
このケーキ、なんて言う名前のケーキだろう?
そう巴が思ったとき、ふとあることに気づいてしまった。
いや、ようやく気づいたと言うべきか。
普通はケーキの名前も分からないまま注文はしない。
「ところで、私たち、何の注文もしていなかったような気がするんですけど?」
店からのプレゼントや、素敵なケーキで全く気にも留めていなかった。
もちろん、それは伊武が事前に予約していたからに他ならない訳だが
そのことについては直接、伊武からの答えが聞きたかった。
自分のために、なにかしら言葉が欲しかった。
付き合っていくうちに彼の色んな表情を見つけることになったが、
それでもやはり普段は表情に乏しい彼だ。
だから積極的にそんな彼の色んな面を見てみたい。
その中には当然、自分を想う、自分を語る表情というものも含まれている。
少しドキドキしながら答えを待つ。
一体彼はどういう表情でどういう答えを返してくれるのか。
「もちろん、君のためだよ、ハニー」なんて甘い台詞は期待できないのだろうけど
むしろそんなことを言われては天変地異が起きる前触れじゃないかと心配になりそうだけれど。
それでも。
やっぱり。
「嫌だな、それって、口に出さなきゃ分からないワケ?」
巴は図星を指されたかのように、ビクと震える。
分かる。
分かるけれども…。
「分かりますけど、それを言葉にして欲しいと思うこともあります」
何も「好き」とか「愛してる」とか言って欲しいと言っている訳ではないのだから
これくらい言ってくれてもいいんじゃないかと巴は思う。
「まあ…今日は巴の誕生日だからね。言ってあげるよ。
全ては大事な巴のために、今日のために俺が準備したんだ……これで満足?」
まるで降参といった表情で伊武はそう語る。
その言葉を引き出して、巴はじんわりと暖かい気持ちになる。
彼が、自分のために何かしてくれる、その心根が嬉しい。
態度や言動とは裏腹に彼が自分には優しい人だとは知っているけれど、
それでもはっきりとその気持ちを表されるのはやはり嬉しいものだ。
美味しいものを食べていることで、既にとろけ気味だった巴の顔は、
さらに幸せそうにとろけた笑顔を見せる。
その笑顔は、伊武が今日一番見たかった顔で、
それだけでも今日映画やカフェに色々手を尽くした甲斐があったなと彼は思う。
…ズルイよなあ。その笑顔だけで何でも許されると思ってるんだから。
…最強のアイテムだよね…やっぱり俺も許しちゃうんだからさ…あーあ。
思わず照れ隠しともとれるボヤキにもならないボヤキを漏らしてしまう。
本当に笑顔だけで何でもしてしまいそうな自分が怖い。
本来そういうキャラではないはずなのに、彼女のためなら色々してしまう自分が怖い。
もっとも、悔しいとも思わない訳だけれど。
いつの魔に自分はこんなキャラになってしまったのだろう。
ため息をつきながら、今日に至るまでのネタばらしを話し始める。
こんな他愛のない話でも巴は嬉しそうに耳を傾けることは知っているから。
「杏ちゃんがさ、別にこっちは尋ねてもいないって言うのに色々言うからさ…。
巴が行きたい映画だの、カフェだの、好きなケーキの味だの…。
あんまり煩いもんだから、どうせなら全部やって黙らせようかとね。
まったくさ、あの兄妹はそろいに揃ってお節介だよね」
まあ、お節介というところは確かにそうかな、と巴はうなずく。
けれどもそのお節介のおかげで、いま巴は幸せなので
心の中で杏に向かって手を合わせて感謝する。
実は伊武と居るだけで充分幸せだったりするのだが、
それでもやはり、彼とこんな所に来られたりすることはさらに幸せなことだから。
「来年も、頑張って杏さんにレクチャー、受けて下さいね?」
調子に乗ってそう言ってみる。
「君が、また自分の誕生日をすっかり忘れてなければ…ね。
今度、電話に出た君が忘れてたら容赦なく切るからね」
その言葉に、今までは自分の誕生日なんてスケジュール帳にも書いたことがない巴だったが
来年からはキチンと書いておこうと心に誓った。
「ま、なんにせよ、お誕生日おめでとう、巴」
END
「全く、君ってそういう所が素晴らしいよね」
目の前でニコニコしている巴を見て、脱力しながら伊武深司はボヤキに入る。
……まったく……自分のこととなると全く鈍感で……ある意味幸せなことだよね。
…幸せ、幸せ、あーあ、ホントむかつくって言うか、そのオメデタさはいったい何な訳?
「そうですか?ありがとうございます…一応褒めてるんですよね…?」
…は?褒めてないよ、全然。
…「ありがとう」って意味わかんないから。それ、喜ぶところじゃないし。
…あーあー…なんでそんな笑顔してるんだよ。
…ぶっちゃけ「おかしいんじゃない?」って言ってるんだよ。
…なんていうの?君のこと貶してるんだけど?
…だいたいさあ、俺からの電話で開口一番、「今日は河川敷のコートですか?」って
…俺、そんなに毎日毎日練習のことしか考えていない訳でも無いし。神尾じゃあるまいし。
…ああ、神尾は杏ちゃんのこととリズムのことも考えてたっけ。まあいいや。
…それとも何?俺は練習のことについてしか君に電話しちゃダメってこと?
…分かったよ、これからは練習のことについてしか君に電話しないよ。
…君にとっては俺なんてただの練習相手だもんね。
…学校も違うし、練習相手として以外の価値なんて俺にはないもんね。
…君の今の態度でよーーーくわかったよ。あーあ、なんて俺ってば可哀想なんだろ。
「…深司さん…?」
…どうせ、同じ青学連中とつるんでる方が楽しいんだよね。ムカつくなあ。
…今日呼び出しに応じたのだって「面倒だけど行ってやるか」くらいの気持ちなんでしょ。
…何のために呼び出したか、なんて全く分かってなかったクセに。
「まあ、それはそうなんですけど…」
…もっとも、今も分かってないみたいだけどね、それもどうかなあ?
…普通さ、誰だって理由ぐらい考えるだろうし、簡単に思いつくと思うんだけどね。
…君のそう言う部分さ、いっつもどうかと思うんだけどね、俺は。
………練習相手の俺になんか言われたくもないだろうけど。
……………………そういう所が嫌いで、……………………そういう所が好きなんだけどさ。
「あのー…全部、さっきからちゃんと聞こえてるんですけど」
巴は困ったような微笑みで、伊武に話しかける。
しっかりと「好き」という単語は記憶に刻みつける。
今朝珍しく伊武から電話がかかってきた。
いつもは連絡するときは自分からかメールでのやりとりで、
彼からの電話というのは滅多にない。
なので、自分のケータイから伊武専用の着信音-CAN SEE THE LIGHT-が流れ出したときは、
嬉しいと言うよりも先に驚きと戸惑いが出てしまった。
伊武が、この自分に電話をするまでの用事とは一体何事だろうか?
くだらない雑談などで電話をかけてくるようなタイプでもなし。
いまいちピンと来るものがなかったが、とりあえず電話に出てみた。
出るときに思いついたのは、練習についてなのではないかという予想だけ。
実際、伊武が言うには全くハズレであったみたいだが。
「それで、なんの御用ですか?デートならデートだとか…
私、少々鈍いようですからはっきりと言ってもらわないと分からないですよ?
深司さん、受験生だし緊急な用なんでしょうか?」
結局答えが出ないので、直截的に訊いてみる。
ボヤキだすと止まらない伊武から答えを引き出すには、まわりくどいことを言ってもムダだ。
出会ってからの付き合いが1年以上続いて、ようやく覚えた事。
「受験て…一応一般試験も受けるけど特待生枠が決まってるから余裕なんだけどね…。
そんなことはともかく、緊急な用と言えばそうなんじゃないかな?」
緊急な用事。
それはいったい何なんだろう。巴は頭を抱える。
「ほら、何か忘れてるんじゃない?
先に行っておくけど、俺が忘れてる訳じゃないから。そこまでボケてないし」
うんうんと唸っている隣で冷静に伊武はそう告げた。
どうやらヒントを与えるつもりもないようで、面白そうに巴の表情を眺めている。
眺めるのに少々飽きてきたかな…と、伊武が思い始めた頃、巴は俯いていた顔を上げた。
「ああああああーーーーっ!」
急に悲鳴にも似た大声を上げる。
二人がいた所が待ち合わせ場所の駅前広場だったため周囲から注目される。
周囲の目とかそういったことはあまり気にしない伊武ではあったが、
さすがにこれでは少し恥ずかしい。
…これじゃあ、まるで俺が巴に何かしたみたいじゃないか。忘れてる巴が悪いのに。
…っていうかさ、こういう声は本当に何かしてから出してよ。
そう伊武がボヤこうとするより先に巴が声を出す。
「そういえば、普段洋食派のおばさんがお赤飯なんて炊いてるからおかしいなとは…」
「で、分かったの?」
呆れたように伊武が問いかける。
ここまで自分のことについて疎いというか鈍いと犯罪に近い。
ついでに、伊武の巴に対する気持ちにも鈍いのだからどうしようもない。
世間的には付き合っていることになっているし、
たまに本人同士にもそういった展開がチラとあったりするのだが、
二人の仲はいっこうに派手な急展開を迎えない。
「私の誕生日だから、深司さん呼び出してくれたんですね?」
ついうっかり長ボヤキをしそうになる自分を押さえつつ、伊武は頷く。
「あたり。……巴にしては早く答えを出した方なのかな?」
そういって腕時計を確認する。
「まあ、間に合いそうで良かった」
…時間に間に合わなければ、このままここで引き返すこともちょっと考えたけどね。
…もっとも賢いから、その時間も計算して待ち合わせ時間を決めたんだけどね。
…あーあー、俺ってホント巴に関してはマメだよね。
…嫌になっちゃうよね。
ボヤキながらさりげなく巴の手を取って街中を歩き出す。
「で、私はどこに連れて行かれてるんでしょうか?」
本当は伊武に連れられていくのならどこでも良いのだけれども、
とりあえず何か話さなくてはボヤキはノンストップなので、訊いてみた。
伊武は左手に繋がっている彼女の表情を一瞬伺い、そして答える。
「映画。そのあと公園前のカフェ」
「え?」
意外な答えに巴は目を丸くする。
普段二人で出歩くときは、中学生なので何となくブラブラしていることが多いからだ。
そして、伊武が巴を引っ張っていくこと自体が滅多にないのだから。
なにか観たい映画でもあったのだろうか?誕生日にかこつけて。
巴はなんでだろうと首をかしげつつ、
伊武の手が意外に温かいことと、実は自分に歩調を合わせてくれていることに
感激を覚えながらてくてくと伊武に引っ張られながら歩いていった。
「あー!面白かったですねえ、深司さん!」
巴は映画館を出て、開口一番満足げに声を上げる。
結構大きな声だが、いつものことなので伊武は気にも留めない。
巴の突拍子の無さに関してはいつの頃からかボヤくのを止めていた。
確かに、巴は大きな声で言いたいくらい満足を覚えていた。
以前から見たくて仕方ない映画だったからだ。
ただ、伊武の好みとは外れた映画だと言うことは知っていたので
たしか彼には言ってもいないはずだったのだが。
それだけに余計に嬉しくて満足だった。
思わず伊武の腕にぎゅっとしがみついてしまうほどに。
…いてっ…全く巴は馬鹿力なんだから…もうちょっと加減して欲しいよ。
……胸が激しく当たってること気づいてるのかなあ。
…まあ、しがみつかれること自体はいつでも構わないんだけどさ
ボヤキなんだか何なんだか分からない言葉を伊武は発する。
その発言で、顔を赤らめながらパッと身を離した巴に、
「ほら、俺にくっついていたいんなら歩けるように腕組んでよ」
と、腕を差し出しつつ伊武は提案する。
そして、しがみつかれた体勢から腕を組み直して二人は映画館をあとにした。
時間は丁度、お茶をするには良い時間帯で、
程なくして目的のカフェに到着すると店は混雑していた。
「あちゃー、このカフェ、人気ですね。ちょっと待つことになりそうですね」
このカフェは雑誌にも載るような人気店で、巴も一度来てみたかったのだ。
先日も雑誌のカフェ特集を杏と眺めていた所だ。
当然ながら雑誌の写真通りの外観でオープンになっているテラスからは
正面の公園を良く見晴らすことが出来た。良い雰囲気だ。
しかし、店の前にはなかなかの行列。
どうするべきか?やっぱり諦めるしかないかな、深司さん待つの嫌いそうだし。
そう巴が思いめぐらせていると、
「…予約している伊武ですが…」
隣で自分を腕を組んだままの男が店員にそう告げている。
「え?深司さん?予約なんてしていたんですか?」
驚いて巴は問いただす。
「行くの決めてたんだから当たり前でしょ?
映画終わってからここまでなら時間の見当もつくしね…それとも、何?…」
伊武のボヤキが始まりそうな所で、良いタイミングで店員が案内にやってきた。
二人が通されたのは、公園を見渡せるオープンテラス部分。
店内でも一番人気のある席だろう事は容易に想像がつく。
現に並んでいる人々の中には寒いにもかかわらずあえてその席を指定している人もいる。
店員二人にブランケットを渡して去っていくと
巴はとたんに落ち着きを無くしてあたりをキョロキョロし始める。
「…なにキョロキョロしてるの?一緒にいる俺が恥ずかしくなると思わない?」
「え?そ、そうですね。すいません。私こういう雰囲気のお店って初めてで」
「ふうん」
「あの、嬉しいです!この店、一度来てみたくて…よく知ってましたね」
「まあね」
二人が実のない会話を交わしているとしばらくして店員がやってきた。
「お客様、お待たせしました。ご注文の品でございます」
そしてテーブルに広げられたのは、普段食べるのとは明らかに違った
まるで芸術品のような装飾を施した洗練された小さめのワンホールケーキと
巴は紅茶、伊武はコーヒーとそれぞれの飲み物だった。
「うわっ!キレイですねえ!」
ケーキの装飾よりもキラキラと目を輝かせて巴は感嘆の声をあげる。
それを見て店員はニコと微笑みながら、
「これは私どもからのささやかなバースデープレゼントでございます、どうぞ」
そういって、巴にシンプルなリボンで飾られた包みを渡す。
「あっ、あけて良いですか?」
こういった店からの演出など受けたのは初めてで巴はドキドキしながら尋ねる。
「どうぞ、そちらはもうお客様のものですから」
そういって店員は一つ礼をして席から遠ざかっていった。
「で、巴?お茶、さめちゃうから開けるのはあとでにしなよ」
「は…はい!そうします!いただきますっ」
伊武に促され、慌てて飲食モードに巴は切り替える。
「……大人ならシャンパンの一つでも開けて祝うんだろうけど、とりあえず我慢してよ」
そういって伊武は手にコーヒーカップをもつ。いわゆる乾杯の体勢だ。
巴もそれを察して慌ててティーカップを手に取る。
カチン
軽くかち合わせて二人で乾杯をする。
普段慣れないことをしていることはお互い自覚しているので、
したあとで二人とも吹き出してしまう。
もっとも表情に乏しい伊武は巴でないと判別できないレベルではあったが。
「さあ、ケーキ、切り分けて。もちろんそれ一人で食べる訳じゃないよね?
別に巴の大食らいは今に始まった事じゃないけど、俺にも少しぐらい分けてよ」
「ああっ!ヒドい、もちろんこんな美味しそうなケーキ一人で食べる訳ないじゃないですか。
深司さんも食べられるようにキチンと半分こしますってば」
巴は慌てて几帳面にもキッチリ2等分に切り分け、それぞれの取り分け皿に盛る。
そして、二人は堰を切ったようにケーキを食べ始めた。
流石に人気店のケーキだけあって、文句なしの味だった。
口の中には甘すぎずスッキリとした味が広がる。
このケーキ、なんて言う名前のケーキだろう?
そう巴が思ったとき、ふとあることに気づいてしまった。
いや、ようやく気づいたと言うべきか。
普通はケーキの名前も分からないまま注文はしない。
「ところで、私たち、何の注文もしていなかったような気がするんですけど?」
店からのプレゼントや、素敵なケーキで全く気にも留めていなかった。
もちろん、それは伊武が事前に予約していたからに他ならない訳だが
そのことについては直接、伊武からの答えが聞きたかった。
自分のために、なにかしら言葉が欲しかった。
付き合っていくうちに彼の色んな表情を見つけることになったが、
それでもやはり普段は表情に乏しい彼だ。
だから積極的にそんな彼の色んな面を見てみたい。
その中には当然、自分を想う、自分を語る表情というものも含まれている。
少しドキドキしながら答えを待つ。
一体彼はどういう表情でどういう答えを返してくれるのか。
「もちろん、君のためだよ、ハニー」なんて甘い台詞は期待できないのだろうけど
むしろそんなことを言われては天変地異が起きる前触れじゃないかと心配になりそうだけれど。
それでも。
やっぱり。
「嫌だな、それって、口に出さなきゃ分からないワケ?」
巴は図星を指されたかのように、ビクと震える。
分かる。
分かるけれども…。
「分かりますけど、それを言葉にして欲しいと思うこともあります」
何も「好き」とか「愛してる」とか言って欲しいと言っている訳ではないのだから
これくらい言ってくれてもいいんじゃないかと巴は思う。
「まあ…今日は巴の誕生日だからね。言ってあげるよ。
全ては大事な巴のために、今日のために俺が準備したんだ……これで満足?」
まるで降参といった表情で伊武はそう語る。
その言葉を引き出して、巴はじんわりと暖かい気持ちになる。
彼が、自分のために何かしてくれる、その心根が嬉しい。
態度や言動とは裏腹に彼が自分には優しい人だとは知っているけれど、
それでもはっきりとその気持ちを表されるのはやはり嬉しいものだ。
美味しいものを食べていることで、既にとろけ気味だった巴の顔は、
さらに幸せそうにとろけた笑顔を見せる。
その笑顔は、伊武が今日一番見たかった顔で、
それだけでも今日映画やカフェに色々手を尽くした甲斐があったなと彼は思う。
…ズルイよなあ。その笑顔だけで何でも許されると思ってるんだから。
…最強のアイテムだよね…やっぱり俺も許しちゃうんだからさ…あーあ。
思わず照れ隠しともとれるボヤキにもならないボヤキを漏らしてしまう。
本当に笑顔だけで何でもしてしまいそうな自分が怖い。
本来そういうキャラではないはずなのに、彼女のためなら色々してしまう自分が怖い。
もっとも、悔しいとも思わない訳だけれど。
いつの魔に自分はこんなキャラになってしまったのだろう。
ため息をつきながら、今日に至るまでのネタばらしを話し始める。
こんな他愛のない話でも巴は嬉しそうに耳を傾けることは知っているから。
「杏ちゃんがさ、別にこっちは尋ねてもいないって言うのに色々言うからさ…。
巴が行きたい映画だの、カフェだの、好きなケーキの味だの…。
あんまり煩いもんだから、どうせなら全部やって黙らせようかとね。
まったくさ、あの兄妹はそろいに揃ってお節介だよね」
まあ、お節介というところは確かにそうかな、と巴はうなずく。
けれどもそのお節介のおかげで、いま巴は幸せなので
心の中で杏に向かって手を合わせて感謝する。
実は伊武と居るだけで充分幸せだったりするのだが、
それでもやはり、彼とこんな所に来られたりすることはさらに幸せなことだから。
「来年も、頑張って杏さんにレクチャー、受けて下さいね?」
調子に乗ってそう言ってみる。
「君が、また自分の誕生日をすっかり忘れてなければ…ね。
今度、電話に出た君が忘れてたら容赦なく切るからね」
その言葉に、今までは自分の誕生日なんてスケジュール帳にも書いたことがない巴だったが
来年からはキチンと書いておこうと心に誓った。
「ま、なんにせよ、お誕生日おめでとう、巴」
END
プロフィール
HN:
ななせなな
性別:
非公開
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