寝付けない夜なんていままでなかった。
それは、子供だったせいもあるだろうし、ここまで疲れきったことがなかったからかもしれない。
初めて参加する部活の合宿は思ったよりハードだった。
チームメイト達の規則正しい寝息をBGMにして、ごろりと寝返りを打つ。
隣に見える那美もグッスリ眠っているらしく、いくら巴が何度も寝返りを打っていても気付かない。
さすが私学の構える合宿所だけあって空調設備もしっかりしており寝苦しいことはなく、
同室の皆は誰も彼も心地よい眠りを得ているらしい。
(なんで、私だけ眠れないのかなあ…)
いい加減寝返りを打つのにも飽きてきて、今度は天井のクロスをボンヤリ眺める。
もっとも無機質なテクスチャのそのクロスに面白みなどあるわけが無く、
眺めることすらすぐに飽きてしまった。
(いっそのこと、起きちゃおうか)
枕元に置いてある携帯電話を手に取ると、そこには02:05と表示されていた。
こんな時間ならばもう見回りもないだろうと、巴は起きあがった。
同室のものはみな熟睡している様子で目を覚ます気配はないし、
巴の布団が1年生初心者だと言うことで扉近くに配置されていたことも幸いした。
携帯電話片手に抜き足差し足で部屋を出た。
細心の注意を払って部屋を出たもののやはり深夜の合宿所は静まりかえっていて音が少し響いた。
昨日も今日も消灯直後に抜け出したりもしたが、その時には人が起きている気配や話す声動作などざわめきがあった。
しかしその時間帯とは違って確かに周囲は就寝している気配だ。
スリッパを履いて出たものの、スリッパの足音さえ目立つことに気付いて、
部屋の前にそっと脱ぎそのまま裸足のまま歩き出した。
(とはいえ、行くアテもなし…)
別に盗み食いしたいだとか、そんな理由もなく抜け出したのでしばし迷う。
いったい、どこに行って気を紛らわせようか?とキョロキョロと周囲を伺う。
ふと、非常口の緑の光が目に飛び込んできた。
重そうな扉をそうっと開くと外に面した非常階段だった。
扉の隙間から風がすっと空調のよく効いた建物の中に侵入してきた。
夏の夜の温い空気が肌に心地よく、そのまま扉の外に出る。
階段の踊り場まで出て周囲を見渡してみると新鮮な世界が広がっていた。
よく考えると、健康優良児の巴はこんな時間まで起きていたことがない。
大晦日だって「小学生だろ」と父に紅白が終わると同時に寝かしつけられていたのだ。
生まれて初めて深夜という世界を知った。
学校は青春台という地名に相応しく少し高台で、学校の合宿所からでも眺めは良い。
この街を広く眺めることが出来た。
(ふーん、案外電気のついているおうちって多いんだなあ…。
あ、車も結構走ってる…そりゃコンビニも開いてるんだし人も起きてるか)
漆黒の闇だと思っていた深夜にも動く人々がいることが面白く感じられた。
好奇心の目で周囲を見回していると、手の中の携帯電話が1秒ほど震えた。
突然のことに心臓が飛び出てしまいそうになる。
こんな時間に一体誰が…?とおそるおそる画面を開くと、愛読しているメルマガだった。
少しほっとしつつ、そう言えばいつも朝起きてすぐに読んでるなあと気付く。
つまり、いつも夜中にこのメルマガは送られてきているのだろう。
(おもしろいなあ…そうだ!)
メールの新規作成画面を開く。
宛先に、ここ数ヶ月で急激に親しくなっていった相手の名前が表示される。
きっと相手はこれを読んだらその内容のひどさに呆れてしまうだろうけど、
今の巴には面白いことのように思えたのだった。
宛先:観月はじめ
件名:おはようございます
---------
おはよう…なんて言っても、今メールを打っ
ているのは深夜だったりするのですが。
なんだか今夜は青学の合宿で疲れ切っている
せいか眠れないんですよね。
観月さんが起きてこの文章を読む頃には、私
はちゃんと眠れてスッキリしているんでしょ
うか?それとも寝不足で大変なことになって
いるんでしょうか?
あ~。眠れないままだったらどうしたらいい
ですか!?私、徹夜とかってしたことないん
ですよ!
明日の練習どうしよう!
もし、快眠法とかご存じでしたら今度教えて
もらってもイイですか?
tomoe
ダダッと凄い勢いで本文を打ち込みその勢いで送信ボタンを押した。
送信中のアニメーションを見ながら満足感を覚える。
携帯電話のディスプレイが周囲を明るく照らしていることすら面白い。
日中は気付かないが、暗がりの中では懐中電灯に匹敵する明るさなのだと知る。
まだ、中学生になって数ヶ月の巴には知らないことが沢山ある。
このテンションが寝不足から来るものだというのも、その一つだ。
なぜ、ふとこんなときに観月にメールを出そうと思ったのかも、
その自分自身の思考回路、気持ちすら彼女はまだ知らない。
気付いてはいない。
メール送信が完了して一仕事終えたような気持ちになって階段に座り込む。
今日は風が出ていて気持ちよい。
温度的には熱帯夜と呼べるのだろうが体感温度はそれを否定している。
(おうちにいたらクーラーもないし寝苦しかったろうなあ…)
むしろ暑い日には合宿所に泊まるに限るかも…なんて馬鹿なことを考えては一人笑う。
このまま皆で夏の間合宿をしていたら楽しいかもしれない。
勉強も教えてもらえてテニスの腕も当然上達するだろう。
さも良い考えに思えた。
(あ、でも、合宿してたらスクールには行けないよねえ)
今週、欠席せざるを得なかったスクールの練習を思い出す。
試合でもなければルドルフのスクール組と顔を合わすことが出来るのはこの時だけだ。
先ほどメールを送った相手の顔を思い出し、それは困るなあと真剣に考えた。
合宿は楽しいけれど観月に逢えないのは何となく楽しくないことだ。
いくら普段柳沢たちとともに叱られっぱなしだとしても、
やはりスクール組の練習には参加したいと思うのだ。
(え!!!)
おもわず大声を出しそうになり慌てて口を固く結ぶ。
携帯電話は再び震えだしていた。
震えが止まらないところと着信ランプの色を見るとどうやら電話着信のようだった。
こんな時間に一体誰が自分に電話など。メルマガ以上に謎である。
ちょっと恐いものを感じながらディスプレイに目をやると、
見慣れた、先ほども目にした名前が表示されていた。
『観月はじめ』
慌てて受話ボタンを壊れてしまいそうなくらい力任せに押して電話に応える。
自分に出来る限りの小さな声で「は、はい赤月ですが…」と声を出した。
「巴くん?キミまだ起きてるんですか」
こうして飛びつくように受話しているのだから当然と言えば当然だが、
巴は「そ、そうです」と律儀に応える。
「そう言う観月さんこそ…」と余計な一言を漏らしてしまうのが巴らしい。
「ボク?ボクのことはいいんです。
今日のルドルフの練習試合のデータを分析し終わってこれから寝るところでしたし、睡眠時間もちゃんと調整して体調に響かないように注意していますから」
「そうですかー」
さすが観月らしい物言いだなあとしみじみ思いながら話を聞く。
さぞかし体調管理はしっかりしているんだろうなと、想像が付く。
自信ありげな表情で「ボクの体調管理は完璧ですから」と言っているさまが容易に目に浮かぶ。
なにせ聖ルドルフ学院テニス部自慢のプレイングマネジャーが、そんなことを疎かにするはずもないだろう。
一方巴と言えばスポーツドクターを目指していると言いながらこの有り様だ。
自分を少し情けなく思った。
「でも、キミは違うでしょう?」
巴が当然体調のことまで計算しているわけはない。
ただ単に眠れないだけで、この不眠は明日の朝すぐにでも影響してしまうだろう。
それは巴自身よく分かったいるので「……はい」と小さな声で答えるしかなかった。
何故電話口でも怒られているような気分になるのか、まだ何も言われていないのに。
よく分からないが、ただ身を縮こませる。
観月とこんな時間に話せるのは嬉しいことに変わりなかったが、その内容がお説教というのはなんて味気ないことだろう。
この時になって自分の馬鹿さ加減が身に染みた。
「キミの不眠は…そうですね、合宿という慣れない環境のせいでしょうか。
案外キミは剛胆なようで周囲に気を使う人ですから、どうせ余計なことまで気を使っているのでしょう、それが原因ということも考えられますね」
自分では分からないけれど、観月がそう言うのであればそうかも知れないと巴は思う。
相手に見えるわけもないのに頷いてみせる。
「まあキミは単純なところもありますから、単に環境の変化に興奮しているだけ…とも考えられますけどね、んふっ」
「うっ…」自分自身もそうなのではないかと思ってしまい言葉に詰まる。
色んな分析をしてもこれが一番しっくりくる答えなのではないかと。
笑っているところをみると、きっと観月もそう思っているのだろう。
なので「━━━それが一番ありそうですね…」と口に出す。
「もっとも、いまキミがそんな分析をしたところで意味がありません。
物事を深く考えることは良いことですが、かえって不眠の原因になりますよ」
「はい」
「とりあえず、暖かいものを飲んでから━━━冷たいものはダメですよ、目が覚めます。
眠気が無くても、とにかく布団に入って目を閉じてください。
寝なくても布団で目を閉じるだけで多少は回復しますからね。
それから、羊なんて無理矢理数えないように。脳が活発になってしまいます。
布団はせめてお腹だけでも掛けてください、寝冷えします。
それと━━━」
つらつらと観月は寝る前の注意事項を披露し始める。
それは的確でもっともなことに巴も思えたが、その長さに些かうんざりし始める。
けれども観月の声は巴の耳にやわらかに響き心地良い。
ずっと聴いていたいとも、長いのでそろそろ終わらないかなとも思った。
(━━━あふぅ……)
大きなあくびをひとつ。
声が入らないようにと携帯電話を話していたつもりが気配は感じられたようだ。
「もう眠くなりましたか、巴くん?」
「えっ…あっ、はい!すみません!」
見られているわけもないのに、何故か背筋をシャキンと伸ばして謝罪する。
よく分からないけれども眠い気配を読みとられていたらしい。
さすが観月さんだなあ、と観月の鋭さに感心する。
それにしても、眠い。
普段熟睡している時間であるということもあるだろう。
そしてきっと観月の声でα派が出まくっているのだろう。
良い声は安らぐし、観月と電話で会話することは適度な緊張をもたらす。
「んふっ、いいんですよ、それで。ボクとの会話も少し役に立ちましたか?
落ち着いて眠くなったんだったら、速攻布団に入って寝てしまいなさい。
多分、つぎに気付くときは朝のはずですよ」
(あっ……!)
これも観月の手だったのだと巴はようやく気付いた。
「おやすみなさい、巴くん。
早く合宿が終わって一段と力を付けたキミに会えるのを楽しみにしていますよ」
━━━━━━プツッ
巴がお礼も言わないうちに電話は切れてしまっていた。
余計なことで時間をとらせないためにとの観月の配慮なのだろう。
言葉の、行為の端々に感じる配慮が巴の心を温かくした。
先日の都大会の一件では観月の腹黒さを知ってその行為について悩みもしたが、基本的に彼は自身の庇護下にある人間に対しては甘いところが多い。
どうやら自分もその中の一人なのだとわかり、なんとも憎むことが出来ない。
こうした瞬間にも彼に対する好感度はこの夏の気温のように急上昇中だ。
(あ、いけない!)
モタモタしないで、観月の助言を実行に移さねばならないことを思い出した。
慌てて、しかし周囲に気付かれぬようそうっと非常口のドアを開け建物内に入る。
廊下は外に出たときと同じように静まりかえっていた。
こんな時間になると起き出すものはそうそういないが、それでも巴は胸を撫で下ろし、
すり足選手権日本一になれるようなスピードのすり足で部屋にたどり着く。
そこでも猫も驚くような身のこなしで部屋に滑り込んだ。
室内は相変わらず寝息の大合唱で、巴がいないことに気付いたものはいないようだった。
(あー気付かれなくて良かったあ!)
部屋の入り口に置いてあった電気ポットからコップにお湯を注いで口に含む。
観月の暖かいものを飲んでから寝ろという助言を思い出したからだ。
なんとなくお腹の中から暖かいものを感じて安心した。
その安堵感は例えば母親になでさすられるとか父親に抱擁されるとか、そういったものと同等の様に感じられた。
そう、さらに例えれば観月から叱責させられながらアドヴァイスを受けているときとか。
親と同列にしてしまっては観月は怒るだろうか。
それともなんにも感じないだろうか。
それはそれで非常に興味深いテーマであると思い、クスリと笑う。
このままでは目がまた覚めてしまいそうで、急いで床についた。
自然と目は閉じていく。
先ほど無理して必死に目を閉じたりしていたのが嘘のようだった。
すーっと地球に沈み込んでいく感覚に襲われる。
ああ、このまま眠れそうだなと自覚した。
(私も、早く合宿が終わって会えると良いなって思いました)
観月が電話の最後に言った一言に対して心の中で返事をする。
次にあったら、お礼と、そして今の気持ちをちゃんと言葉にしようと心に決めた。
(━━━━━━おやすみなさい、みづきさん)
END
それは、子供だったせいもあるだろうし、ここまで疲れきったことがなかったからかもしれない。
初めて参加する部活の合宿は思ったよりハードだった。
チームメイト達の規則正しい寝息をBGMにして、ごろりと寝返りを打つ。
隣に見える那美もグッスリ眠っているらしく、いくら巴が何度も寝返りを打っていても気付かない。
さすが私学の構える合宿所だけあって空調設備もしっかりしており寝苦しいことはなく、
同室の皆は誰も彼も心地よい眠りを得ているらしい。
(なんで、私だけ眠れないのかなあ…)
いい加減寝返りを打つのにも飽きてきて、今度は天井のクロスをボンヤリ眺める。
もっとも無機質なテクスチャのそのクロスに面白みなどあるわけが無く、
眺めることすらすぐに飽きてしまった。
(いっそのこと、起きちゃおうか)
枕元に置いてある携帯電話を手に取ると、そこには02:05と表示されていた。
こんな時間ならばもう見回りもないだろうと、巴は起きあがった。
同室のものはみな熟睡している様子で目を覚ます気配はないし、
巴の布団が1年生初心者だと言うことで扉近くに配置されていたことも幸いした。
携帯電話片手に抜き足差し足で部屋を出た。
細心の注意を払って部屋を出たもののやはり深夜の合宿所は静まりかえっていて音が少し響いた。
昨日も今日も消灯直後に抜け出したりもしたが、その時には人が起きている気配や話す声動作などざわめきがあった。
しかしその時間帯とは違って確かに周囲は就寝している気配だ。
スリッパを履いて出たものの、スリッパの足音さえ目立つことに気付いて、
部屋の前にそっと脱ぎそのまま裸足のまま歩き出した。
(とはいえ、行くアテもなし…)
別に盗み食いしたいだとか、そんな理由もなく抜け出したのでしばし迷う。
いったい、どこに行って気を紛らわせようか?とキョロキョロと周囲を伺う。
ふと、非常口の緑の光が目に飛び込んできた。
重そうな扉をそうっと開くと外に面した非常階段だった。
扉の隙間から風がすっと空調のよく効いた建物の中に侵入してきた。
夏の夜の温い空気が肌に心地よく、そのまま扉の外に出る。
階段の踊り場まで出て周囲を見渡してみると新鮮な世界が広がっていた。
よく考えると、健康優良児の巴はこんな時間まで起きていたことがない。
大晦日だって「小学生だろ」と父に紅白が終わると同時に寝かしつけられていたのだ。
生まれて初めて深夜という世界を知った。
学校は青春台という地名に相応しく少し高台で、学校の合宿所からでも眺めは良い。
この街を広く眺めることが出来た。
(ふーん、案外電気のついているおうちって多いんだなあ…。
あ、車も結構走ってる…そりゃコンビニも開いてるんだし人も起きてるか)
漆黒の闇だと思っていた深夜にも動く人々がいることが面白く感じられた。
好奇心の目で周囲を見回していると、手の中の携帯電話が1秒ほど震えた。
突然のことに心臓が飛び出てしまいそうになる。
こんな時間に一体誰が…?とおそるおそる画面を開くと、愛読しているメルマガだった。
少しほっとしつつ、そう言えばいつも朝起きてすぐに読んでるなあと気付く。
つまり、いつも夜中にこのメルマガは送られてきているのだろう。
(おもしろいなあ…そうだ!)
メールの新規作成画面を開く。
宛先に、ここ数ヶ月で急激に親しくなっていった相手の名前が表示される。
きっと相手はこれを読んだらその内容のひどさに呆れてしまうだろうけど、
今の巴には面白いことのように思えたのだった。
宛先:観月はじめ
件名:おはようございます
---------
おはよう…なんて言っても、今メールを打っ
ているのは深夜だったりするのですが。
なんだか今夜は青学の合宿で疲れ切っている
せいか眠れないんですよね。
観月さんが起きてこの文章を読む頃には、私
はちゃんと眠れてスッキリしているんでしょ
うか?それとも寝不足で大変なことになって
いるんでしょうか?
あ~。眠れないままだったらどうしたらいい
ですか!?私、徹夜とかってしたことないん
ですよ!
明日の練習どうしよう!
もし、快眠法とかご存じでしたら今度教えて
もらってもイイですか?
tomoe
ダダッと凄い勢いで本文を打ち込みその勢いで送信ボタンを押した。
送信中のアニメーションを見ながら満足感を覚える。
携帯電話のディスプレイが周囲を明るく照らしていることすら面白い。
日中は気付かないが、暗がりの中では懐中電灯に匹敵する明るさなのだと知る。
まだ、中学生になって数ヶ月の巴には知らないことが沢山ある。
このテンションが寝不足から来るものだというのも、その一つだ。
なぜ、ふとこんなときに観月にメールを出そうと思ったのかも、
その自分自身の思考回路、気持ちすら彼女はまだ知らない。
気付いてはいない。
メール送信が完了して一仕事終えたような気持ちになって階段に座り込む。
今日は風が出ていて気持ちよい。
温度的には熱帯夜と呼べるのだろうが体感温度はそれを否定している。
(おうちにいたらクーラーもないし寝苦しかったろうなあ…)
むしろ暑い日には合宿所に泊まるに限るかも…なんて馬鹿なことを考えては一人笑う。
このまま皆で夏の間合宿をしていたら楽しいかもしれない。
勉強も教えてもらえてテニスの腕も当然上達するだろう。
さも良い考えに思えた。
(あ、でも、合宿してたらスクールには行けないよねえ)
今週、欠席せざるを得なかったスクールの練習を思い出す。
試合でもなければルドルフのスクール組と顔を合わすことが出来るのはこの時だけだ。
先ほどメールを送った相手の顔を思い出し、それは困るなあと真剣に考えた。
合宿は楽しいけれど観月に逢えないのは何となく楽しくないことだ。
いくら普段柳沢たちとともに叱られっぱなしだとしても、
やはりスクール組の練習には参加したいと思うのだ。
(え!!!)
おもわず大声を出しそうになり慌てて口を固く結ぶ。
携帯電話は再び震えだしていた。
震えが止まらないところと着信ランプの色を見るとどうやら電話着信のようだった。
こんな時間に一体誰が自分に電話など。メルマガ以上に謎である。
ちょっと恐いものを感じながらディスプレイに目をやると、
見慣れた、先ほども目にした名前が表示されていた。
『観月はじめ』
慌てて受話ボタンを壊れてしまいそうなくらい力任せに押して電話に応える。
自分に出来る限りの小さな声で「は、はい赤月ですが…」と声を出した。
「巴くん?キミまだ起きてるんですか」
こうして飛びつくように受話しているのだから当然と言えば当然だが、
巴は「そ、そうです」と律儀に応える。
「そう言う観月さんこそ…」と余計な一言を漏らしてしまうのが巴らしい。
「ボク?ボクのことはいいんです。
今日のルドルフの練習試合のデータを分析し終わってこれから寝るところでしたし、睡眠時間もちゃんと調整して体調に響かないように注意していますから」
「そうですかー」
さすが観月らしい物言いだなあとしみじみ思いながら話を聞く。
さぞかし体調管理はしっかりしているんだろうなと、想像が付く。
自信ありげな表情で「ボクの体調管理は完璧ですから」と言っているさまが容易に目に浮かぶ。
なにせ聖ルドルフ学院テニス部自慢のプレイングマネジャーが、そんなことを疎かにするはずもないだろう。
一方巴と言えばスポーツドクターを目指していると言いながらこの有り様だ。
自分を少し情けなく思った。
「でも、キミは違うでしょう?」
巴が当然体調のことまで計算しているわけはない。
ただ単に眠れないだけで、この不眠は明日の朝すぐにでも影響してしまうだろう。
それは巴自身よく分かったいるので「……はい」と小さな声で答えるしかなかった。
何故電話口でも怒られているような気分になるのか、まだ何も言われていないのに。
よく分からないが、ただ身を縮こませる。
観月とこんな時間に話せるのは嬉しいことに変わりなかったが、その内容がお説教というのはなんて味気ないことだろう。
この時になって自分の馬鹿さ加減が身に染みた。
「キミの不眠は…そうですね、合宿という慣れない環境のせいでしょうか。
案外キミは剛胆なようで周囲に気を使う人ですから、どうせ余計なことまで気を使っているのでしょう、それが原因ということも考えられますね」
自分では分からないけれど、観月がそう言うのであればそうかも知れないと巴は思う。
相手に見えるわけもないのに頷いてみせる。
「まあキミは単純なところもありますから、単に環境の変化に興奮しているだけ…とも考えられますけどね、んふっ」
「うっ…」自分自身もそうなのではないかと思ってしまい言葉に詰まる。
色んな分析をしてもこれが一番しっくりくる答えなのではないかと。
笑っているところをみると、きっと観月もそう思っているのだろう。
なので「━━━それが一番ありそうですね…」と口に出す。
「もっとも、いまキミがそんな分析をしたところで意味がありません。
物事を深く考えることは良いことですが、かえって不眠の原因になりますよ」
「はい」
「とりあえず、暖かいものを飲んでから━━━冷たいものはダメですよ、目が覚めます。
眠気が無くても、とにかく布団に入って目を閉じてください。
寝なくても布団で目を閉じるだけで多少は回復しますからね。
それから、羊なんて無理矢理数えないように。脳が活発になってしまいます。
布団はせめてお腹だけでも掛けてください、寝冷えします。
それと━━━」
つらつらと観月は寝る前の注意事項を披露し始める。
それは的確でもっともなことに巴も思えたが、その長さに些かうんざりし始める。
けれども観月の声は巴の耳にやわらかに響き心地良い。
ずっと聴いていたいとも、長いのでそろそろ終わらないかなとも思った。
(━━━あふぅ……)
大きなあくびをひとつ。
声が入らないようにと携帯電話を話していたつもりが気配は感じられたようだ。
「もう眠くなりましたか、巴くん?」
「えっ…あっ、はい!すみません!」
見られているわけもないのに、何故か背筋をシャキンと伸ばして謝罪する。
よく分からないけれども眠い気配を読みとられていたらしい。
さすが観月さんだなあ、と観月の鋭さに感心する。
それにしても、眠い。
普段熟睡している時間であるということもあるだろう。
そしてきっと観月の声でα派が出まくっているのだろう。
良い声は安らぐし、観月と電話で会話することは適度な緊張をもたらす。
「んふっ、いいんですよ、それで。ボクとの会話も少し役に立ちましたか?
落ち着いて眠くなったんだったら、速攻布団に入って寝てしまいなさい。
多分、つぎに気付くときは朝のはずですよ」
(あっ……!)
これも観月の手だったのだと巴はようやく気付いた。
「おやすみなさい、巴くん。
早く合宿が終わって一段と力を付けたキミに会えるのを楽しみにしていますよ」
━━━━━━プツッ
巴がお礼も言わないうちに電話は切れてしまっていた。
余計なことで時間をとらせないためにとの観月の配慮なのだろう。
言葉の、行為の端々に感じる配慮が巴の心を温かくした。
先日の都大会の一件では観月の腹黒さを知ってその行為について悩みもしたが、基本的に彼は自身の庇護下にある人間に対しては甘いところが多い。
どうやら自分もその中の一人なのだとわかり、なんとも憎むことが出来ない。
こうした瞬間にも彼に対する好感度はこの夏の気温のように急上昇中だ。
(あ、いけない!)
モタモタしないで、観月の助言を実行に移さねばならないことを思い出した。
慌てて、しかし周囲に気付かれぬようそうっと非常口のドアを開け建物内に入る。
廊下は外に出たときと同じように静まりかえっていた。
こんな時間になると起き出すものはそうそういないが、それでも巴は胸を撫で下ろし、
すり足選手権日本一になれるようなスピードのすり足で部屋にたどり着く。
そこでも猫も驚くような身のこなしで部屋に滑り込んだ。
室内は相変わらず寝息の大合唱で、巴がいないことに気付いたものはいないようだった。
(あー気付かれなくて良かったあ!)
部屋の入り口に置いてあった電気ポットからコップにお湯を注いで口に含む。
観月の暖かいものを飲んでから寝ろという助言を思い出したからだ。
なんとなくお腹の中から暖かいものを感じて安心した。
その安堵感は例えば母親になでさすられるとか父親に抱擁されるとか、そういったものと同等の様に感じられた。
そう、さらに例えれば観月から叱責させられながらアドヴァイスを受けているときとか。
親と同列にしてしまっては観月は怒るだろうか。
それともなんにも感じないだろうか。
それはそれで非常に興味深いテーマであると思い、クスリと笑う。
このままでは目がまた覚めてしまいそうで、急いで床についた。
自然と目は閉じていく。
先ほど無理して必死に目を閉じたりしていたのが嘘のようだった。
すーっと地球に沈み込んでいく感覚に襲われる。
ああ、このまま眠れそうだなと自覚した。
(私も、早く合宿が終わって会えると良いなって思いました)
観月が電話の最後に言った一言に対して心の中で返事をする。
次にあったら、お礼と、そして今の気持ちをちゃんと言葉にしようと心に決めた。
(━━━━━━おやすみなさい、みづきさん)
END
「観月、こんな店で何見てるだーね?」
いきなり背後からかけられた声に観月が過剰なまでに反応して振り返る。
そこにいたのは木更津と柳沢。
場所は雑貨屋。
まさか見つかるとは思わなかったのだがこういう時だけはいつも目敏い。
「何かご用ですか?」
慌てて平静を取り繕う。
いや、冷静に考えればなにも後ろめたいことはしていないのだから取り繕う必要もないのだが。
「別に観月に用はないけどね。
赤月に誕生日プレゼント?」
観月が見ていた小物に視線を送って木更津が言う。
いかにもそのとおりなのだが。
「……どうしてキミが巴くんの誕生日を知っているんですか?」
「観月だって知ってるんだろ?
僕が知っていたって不思議はないじゃないか」
愉しげに言う木更津の台詞に反論の術を持たず観月はまた口を閉じた。
確かにそうだが、観月が彼女の誕生日を知っているのは彼の持っているデータの一環であり、彼女から直接聞いたわけではない。
木更津は違うだろう。きっと彼女の口から直接その事実を聞いたのだろう。
それが、妙に癪に障る。
「わざわざ赤月にプレゼントとは、マメだーね」
揶揄するように言う柳沢を半分八つ当たり気味に睨みつける。
この様子では彼も前から知っていたようだ。
データの出所が違うだけで、知っていることは同じ。
なのに何故こんなに苛つくのかが自分でもわからない。
「ええ、そうですよ。
彼女はスクール組の大切な仲間ですからね」
「でも、他のスクール組に誕生日プレゼントなんて渡してるの、見た事がないけれど?」
「そうだーね。白々しいだーね」
二人に、冷笑を返す。
「当然でしょう?
彼女は青学の選手ですよ。
青学レギュラーのデータを漏らしてくれる、貴重な人材です。
大切にしておくに越した事はないでしょう」
そのあんまりといえばあんまりないい様に二人が黙ったのを見て、観月はさっさと踵を返す。
そうだ。
自分は彼女を利用する為に近づいた。
特別な感情なんて持っているはずがない。
持てるはずがない。
彼女が誰になにを告げていようが、自分には関係がない。
そう、心の中で反復しながら。
「……だってさ」
「あれ、本気で言ってるつもりだーね」
「そうみたいだね。
わかっていないのは本人達だけ。全く始末に終えないね」
残された木更津と柳沢が顔を見合わせて肩をすくめたとき、タイミングよく木更津の携帯が鳴った。
画面を開いた木更津が届いたメールの文面を読んで苦笑する。
「誰からだーね?」
覗き込もうとする柳沢の目の前で携帯を閉じると、木更津は若干意地の悪い笑みを口の端に浮かべた。
「噂の元から。
……さて、観月はいったいいつあのプレゼントを渡すつもりなんだろうね?」
いきなり背後からかけられた声に観月が過剰なまでに反応して振り返る。
そこにいたのは木更津と柳沢。
場所は雑貨屋。
まさか見つかるとは思わなかったのだがこういう時だけはいつも目敏い。
「何かご用ですか?」
慌てて平静を取り繕う。
いや、冷静に考えればなにも後ろめたいことはしていないのだから取り繕う必要もないのだが。
「別に観月に用はないけどね。
赤月に誕生日プレゼント?」
観月が見ていた小物に視線を送って木更津が言う。
いかにもそのとおりなのだが。
「……どうしてキミが巴くんの誕生日を知っているんですか?」
「観月だって知ってるんだろ?
僕が知っていたって不思議はないじゃないか」
愉しげに言う木更津の台詞に反論の術を持たず観月はまた口を閉じた。
確かにそうだが、観月が彼女の誕生日を知っているのは彼の持っているデータの一環であり、彼女から直接聞いたわけではない。
木更津は違うだろう。きっと彼女の口から直接その事実を聞いたのだろう。
それが、妙に癪に障る。
「わざわざ赤月にプレゼントとは、マメだーね」
揶揄するように言う柳沢を半分八つ当たり気味に睨みつける。
この様子では彼も前から知っていたようだ。
データの出所が違うだけで、知っていることは同じ。
なのに何故こんなに苛つくのかが自分でもわからない。
「ええ、そうですよ。
彼女はスクール組の大切な仲間ですからね」
「でも、他のスクール組に誕生日プレゼントなんて渡してるの、見た事がないけれど?」
「そうだーね。白々しいだーね」
二人に、冷笑を返す。
「当然でしょう?
彼女は青学の選手ですよ。
青学レギュラーのデータを漏らしてくれる、貴重な人材です。
大切にしておくに越した事はないでしょう」
そのあんまりといえばあんまりないい様に二人が黙ったのを見て、観月はさっさと踵を返す。
そうだ。
自分は彼女を利用する為に近づいた。
特別な感情なんて持っているはずがない。
持てるはずがない。
彼女が誰になにを告げていようが、自分には関係がない。
そう、心の中で反復しながら。
「……だってさ」
「あれ、本気で言ってるつもりだーね」
「そうみたいだね。
わかっていないのは本人達だけ。全く始末に終えないね」
残された木更津と柳沢が顔を見合わせて肩をすくめたとき、タイミングよく木更津の携帯が鳴った。
画面を開いた木更津が届いたメールの文面を読んで苦笑する。
「誰からだーね?」
覗き込もうとする柳沢の目の前で携帯を閉じると、木更津は若干意地の悪い笑みを口の端に浮かべた。
「噂の元から。
……さて、観月はいったいいつあのプレゼントを渡すつもりなんだろうね?」
「やっぱりさー、この水着無理アリ過ぎじゃない?
大体海でイケメンゲットー、なんて私たちまだ中一だよ。
こんな水着さあ、いくら試着はタダだって言っても…聞いてる、朋ちゃん?」
岐阜には海がない。
だから、東京に来てはじめて行く海が生まれて初めての海になる予定。
その話を聞いた朋ちゃんは「じゃあ、まずは形からね!」とデパートの水着売り場まで私を引っ張ってきた。
私も女子の端くれ、気乗りせずついてきたもののやっぱりデパートで身に着けるものを選ぶとなるとやっぱり楽しい。
色とりどりの水着は、私には大人すぎるものもあるけれど選び放題だ。
一緒にやってきた那美ちゃんや桜乃ちゃんと、わいわいとにぎやかに選んでいた。
そして、「せっかくだからアンタ色々試着してみなよ!着るだけならタダなんだし」と朋ちゃんセレクトの水着を押しつけられてずらりと並ぶ特設の試着室の中に押し込められた。
そして、今、こうやってぶつぶつ言いながら試着をしている。
もちろん着るのは楽しい。
毎日部活に明け暮れているせいで半袖焼けや靴下焼けが気になるところだけど、それでも身体は引き締まっていて自分でいうのもなんだけど無駄がない。
必要な部分も多少足りなくはあるけれど、それはこの先に期待してる。
そんなわけで、水着を着るには支障ないどころかなかなかイケてるんじゃないかな。
鏡の前でひとつポーズを作ってみる。
いま身に着けているスカイブルーの水着はいかにもビキニでございますと言わんばかりに、私の身体に張り付いていていささか気恥ずかしいものがある。
さすが朋ちゃんセレクトだけあって、良い色だとは思うけどちょっと大胆じゃないかなあ。
先ほどの私の問いかけに答えない朋ちゃんを疑問に思い、もう一度問いかける。
「ねえ、この水着やっぱりちょっとやりすぎだよねえ。
私いままでスクール水着しか着たことがないんだからね!」
試着室のカーテンをさっと開け、朋ちゃんに話しかけた。
つもりだった。
何故つもりかというと、目の前にいたのは朋ちゃんではなかったからだ。
一瞬目の前が真っ暗になったような気がした。
ここは水着売り場で━━━確かにスポーツ売り場の中の1コーナーだったけど、この人がいまここにいるなんて誰が考えただろう。
聖ルドルフの観月さんが立っていたら誰だって驚く。
いくら、私がこの人と最近親しくしているといっても、さすがに。
私が心臓の弱いお年寄りだったら間違いなく危険だったはず。
驚きとときめきで胸の鼓動は大忙しだ。
「観月さん!?なぜここに?」
隣の男性用水着コーナーにでも用があったにしろ、なにも私の試着室前にいることはない。
カップルで水着を見に来たとかいうんなら納得できるけれども、そんなんじゃないし。
そもそも一緒に来たわけじゃないんだし。
出会って3ヶ月ほどの現在は、まだ。
「奥のテニスコーナーにボクの好きなブランドの新製品が入ったんで見に来たんです。
そうしたらキミの友達に目敏く発見されてここに連れられてきたってワケです。
『急用が出来たから自分たちは帰るのでキミのカバンを預かってくれ』と言われて」
「どうしようもないじゃありませんか」と深くため息をつく観月さんは苦悩の表情だ。
まるでスクールでの練習の時に毎回同じ事を指摘しているような表情。
私に対して呆れているときに見せる表情だ。ヤバイ。
「そ、それはどうもありがとうございます…!
朋ちゃん達どうしたんだろ…あはは」
妙な気の利かせかたをする友人達に恨み半分感謝半分の念を送る。
自分の水着姿を見せたい相手の一人に目の前の人は確かに入っていたからそれは有り難い。
こんな気の利かせかたは勘弁して欲しかったけれど。
「いえ、それは良いのですが、その水着…」
案外あっさりとした表情で、私の姿を観月さんは眺めた。
普段と全く変わらない表情でなんてコトないものを見ているといった風情で。
ノーリアクション!ショック!
「その水着?」
それでも、観月さんの言おうとしている言葉にドキドキしてる。
『似合いますね』?『かわいいですね』?
なんでも良いから何か言って!
「露出度が高いですね、中一なんですから年相応なデザインの方がいいですよ。
第一キミは海に行っても水際で遊ぶ程度で満足できるわけがないでしょう。
そんな水着を着ていては身体がすぐに冷えてしまいますよ」
……こんな時にも説教とは、さすがお母さん属性……。
しかも全く的を射たご意見で反論もない。
がっくりと肩を落とす。そうだよねえ。
でもヤツは女子の身体に興味がないとでも言うのか!
私の身体はそんなにアレなの?
まあ、エロ視線で女子を見る観月はじめというのもちょっと…だけど。
ふーんだ、私にはまだこんな水着は早いってコトですねー。
あ、ちょっと凹んだ。
「でも」
でも?
「さすがキミのお友達が選んだだけ合ってキミによく似合う色ですね。
その色遣いのもうちょっとスポーティーな水着ならきみに合うと思いますよ」
「さ、参考にします!」
話題の中心が水着なだけで、スクールの時と全く変わらないやりとり。
アドヴァイスする観月さんと、それを聞く私。
さすがにこれ以上進展は望めないかなあ。ちぇ。
「さ、それじゃ」
そう言って観月さんは私に朋ちゃんから預かったカバンを手渡してくれた。
もう行っちゃうのかな?それはとっても残念かも。
ていうか、私はホントに朋ちゃん達に置き去りにされちゃったワケ?
あとでメールしてみなきゃ。
「ボクは奥のテニスコーナーで待っていますから、さっさと着替えていらっしゃい。
確か新製品の中にはキミにちょうど良さそうなものもあったはずですから、これを機会に見ておくのも良いでしょう」
「早くしてくださいね」と言いのこして背を向けようとした観月さんを「あのっ!」と呼び止める。
勢いで声が出てしまったので後が続かない。
本当に待っていてくれるのか訊きたかったけれども、何と言っていいかも分からないし。
声に出したらその約束は反故されてしまいそうで恐いし。
「んふっ、友達に置き去りにされてしまったでしょう?
お茶を一緒に飲んで駅まで送るぐらいのことだったらボクだって出来ますよ」
なんて余裕なんだろう、そんなジェントルな言葉を残してそのまま歩いていってしまった。
慌てて追いつくためにカーテンを閉めて水着を脱いだ。
試着室から出て近づいてきた店員に「ごめんなさい!」と水着を押しつけ小走りにテニスコーナーへと向かう。
水着姿にはなんとも思わないけど、それでも私のことは気にかけてくれてるってコトだよね。
まあ、なんだかんだいって嬉しい気持ちが勝つわけだ。
凹み5、嬉しい95くらいで。
スカイブルーのスポーティーな水着は明日にでももう一度探してみよう。
近づいたテニス用品が並ぶコーナーに見慣れた後ろ姿を見つけて胸が高鳴った。
その後のことと言ったら水着のことなんて、もうどうでもよくなるくらいだった。
結局のところ、あれ以来毎年ビキニは却下されつづけている。
「ボク以外の人間の前で必要以上の露出をすることはないでしょう?」って。
「だって、初めてキミのあんな姿を見たとき、この冷静なボクだってどれほど動揺したと思ってるんですか?常人だったらヤバイレベルですよ」って。
いまさらちょっと照れたような表情で言われたってさ。
そんなの、当時の私に言ってあげるべきだったと思うんだけど。
END
大体海でイケメンゲットー、なんて私たちまだ中一だよ。
こんな水着さあ、いくら試着はタダだって言っても…聞いてる、朋ちゃん?」
岐阜には海がない。
だから、東京に来てはじめて行く海が生まれて初めての海になる予定。
その話を聞いた朋ちゃんは「じゃあ、まずは形からね!」とデパートの水着売り場まで私を引っ張ってきた。
私も女子の端くれ、気乗りせずついてきたもののやっぱりデパートで身に着けるものを選ぶとなるとやっぱり楽しい。
色とりどりの水着は、私には大人すぎるものもあるけれど選び放題だ。
一緒にやってきた那美ちゃんや桜乃ちゃんと、わいわいとにぎやかに選んでいた。
そして、「せっかくだからアンタ色々試着してみなよ!着るだけならタダなんだし」と朋ちゃんセレクトの水着を押しつけられてずらりと並ぶ特設の試着室の中に押し込められた。
そして、今、こうやってぶつぶつ言いながら試着をしている。
もちろん着るのは楽しい。
毎日部活に明け暮れているせいで半袖焼けや靴下焼けが気になるところだけど、それでも身体は引き締まっていて自分でいうのもなんだけど無駄がない。
必要な部分も多少足りなくはあるけれど、それはこの先に期待してる。
そんなわけで、水着を着るには支障ないどころかなかなかイケてるんじゃないかな。
鏡の前でひとつポーズを作ってみる。
いま身に着けているスカイブルーの水着はいかにもビキニでございますと言わんばかりに、私の身体に張り付いていていささか気恥ずかしいものがある。
さすが朋ちゃんセレクトだけあって、良い色だとは思うけどちょっと大胆じゃないかなあ。
先ほどの私の問いかけに答えない朋ちゃんを疑問に思い、もう一度問いかける。
「ねえ、この水着やっぱりちょっとやりすぎだよねえ。
私いままでスクール水着しか着たことがないんだからね!」
試着室のカーテンをさっと開け、朋ちゃんに話しかけた。
つもりだった。
何故つもりかというと、目の前にいたのは朋ちゃんではなかったからだ。
一瞬目の前が真っ暗になったような気がした。
ここは水着売り場で━━━確かにスポーツ売り場の中の1コーナーだったけど、この人がいまここにいるなんて誰が考えただろう。
聖ルドルフの観月さんが立っていたら誰だって驚く。
いくら、私がこの人と最近親しくしているといっても、さすがに。
私が心臓の弱いお年寄りだったら間違いなく危険だったはず。
驚きとときめきで胸の鼓動は大忙しだ。
「観月さん!?なぜここに?」
隣の男性用水着コーナーにでも用があったにしろ、なにも私の試着室前にいることはない。
カップルで水着を見に来たとかいうんなら納得できるけれども、そんなんじゃないし。
そもそも一緒に来たわけじゃないんだし。
出会って3ヶ月ほどの現在は、まだ。
「奥のテニスコーナーにボクの好きなブランドの新製品が入ったんで見に来たんです。
そうしたらキミの友達に目敏く発見されてここに連れられてきたってワケです。
『急用が出来たから自分たちは帰るのでキミのカバンを預かってくれ』と言われて」
「どうしようもないじゃありませんか」と深くため息をつく観月さんは苦悩の表情だ。
まるでスクールでの練習の時に毎回同じ事を指摘しているような表情。
私に対して呆れているときに見せる表情だ。ヤバイ。
「そ、それはどうもありがとうございます…!
朋ちゃん達どうしたんだろ…あはは」
妙な気の利かせかたをする友人達に恨み半分感謝半分の念を送る。
自分の水着姿を見せたい相手の一人に目の前の人は確かに入っていたからそれは有り難い。
こんな気の利かせかたは勘弁して欲しかったけれど。
「いえ、それは良いのですが、その水着…」
案外あっさりとした表情で、私の姿を観月さんは眺めた。
普段と全く変わらない表情でなんてコトないものを見ているといった風情で。
ノーリアクション!ショック!
「その水着?」
それでも、観月さんの言おうとしている言葉にドキドキしてる。
『似合いますね』?『かわいいですね』?
なんでも良いから何か言って!
「露出度が高いですね、中一なんですから年相応なデザインの方がいいですよ。
第一キミは海に行っても水際で遊ぶ程度で満足できるわけがないでしょう。
そんな水着を着ていては身体がすぐに冷えてしまいますよ」
……こんな時にも説教とは、さすがお母さん属性……。
しかも全く的を射たご意見で反論もない。
がっくりと肩を落とす。そうだよねえ。
でもヤツは女子の身体に興味がないとでも言うのか!
私の身体はそんなにアレなの?
まあ、エロ視線で女子を見る観月はじめというのもちょっと…だけど。
ふーんだ、私にはまだこんな水着は早いってコトですねー。
あ、ちょっと凹んだ。
「でも」
でも?
「さすがキミのお友達が選んだだけ合ってキミによく似合う色ですね。
その色遣いのもうちょっとスポーティーな水着ならきみに合うと思いますよ」
「さ、参考にします!」
話題の中心が水着なだけで、スクールの時と全く変わらないやりとり。
アドヴァイスする観月さんと、それを聞く私。
さすがにこれ以上進展は望めないかなあ。ちぇ。
「さ、それじゃ」
そう言って観月さんは私に朋ちゃんから預かったカバンを手渡してくれた。
もう行っちゃうのかな?それはとっても残念かも。
ていうか、私はホントに朋ちゃん達に置き去りにされちゃったワケ?
あとでメールしてみなきゃ。
「ボクは奥のテニスコーナーで待っていますから、さっさと着替えていらっしゃい。
確か新製品の中にはキミにちょうど良さそうなものもあったはずですから、これを機会に見ておくのも良いでしょう」
「早くしてくださいね」と言いのこして背を向けようとした観月さんを「あのっ!」と呼び止める。
勢いで声が出てしまったので後が続かない。
本当に待っていてくれるのか訊きたかったけれども、何と言っていいかも分からないし。
声に出したらその約束は反故されてしまいそうで恐いし。
「んふっ、友達に置き去りにされてしまったでしょう?
お茶を一緒に飲んで駅まで送るぐらいのことだったらボクだって出来ますよ」
なんて余裕なんだろう、そんなジェントルな言葉を残してそのまま歩いていってしまった。
慌てて追いつくためにカーテンを閉めて水着を脱いだ。
試着室から出て近づいてきた店員に「ごめんなさい!」と水着を押しつけ小走りにテニスコーナーへと向かう。
水着姿にはなんとも思わないけど、それでも私のことは気にかけてくれてるってコトだよね。
まあ、なんだかんだいって嬉しい気持ちが勝つわけだ。
凹み5、嬉しい95くらいで。
スカイブルーのスポーティーな水着は明日にでももう一度探してみよう。
近づいたテニス用品が並ぶコーナーに見慣れた後ろ姿を見つけて胸が高鳴った。
その後のことと言ったら水着のことなんて、もうどうでもよくなるくらいだった。
結局のところ、あれ以来毎年ビキニは却下されつづけている。
「ボク以外の人間の前で必要以上の露出をすることはないでしょう?」って。
「だって、初めてキミのあんな姿を見たとき、この冷静なボクだってどれほど動揺したと思ってるんですか?常人だったらヤバイレベルですよ」って。
いまさらちょっと照れたような表情で言われたってさ。
そんなの、当時の私に言ってあげるべきだったと思うんだけど。
END
手に取った瞬間、いきなり景気よく鳴り出した携帯を危うく観月は取り落としそうになった。
心臓に悪い。
よりにもよって今日、こんなタイミングで電話をしてきたのは一体どこの誰だ。
下らない用件だったら容赦しない。
腹立たしい思いで携帯のディスプレイを見た観月はそこでまた携帯を落としそうになる。
普段の彼には到底ありえない様子で急いで通話ボタンを押すと、それまで急かすように鳴り響いていた着信音に替わって元気のいい声が耳に届く。
「おはようございます、観月さん!」
「おはようございます、巴くん。今日は…」
スクールの練習は休みですよ。
そう続けようとした観月だったが、巴の声の背後に微かに聞こえた声と物音が気になった。
もしやと思うと同時に部屋の扉がノックされる。
「改めて、おはようございます!」
携帯を片手に扉を開くと、やはり同じように携帯を手にした巴の姿。
真正面にいる彼女の口元と、観月の耳元から同時に同じ声が届く。
「巴くん! どうしてここに…!」
言いかけたところで自室のドアを開けている事に気付き慌てて後ろ手に扉を閉める。
「妙に素早くドアを閉めただーね?
何かマズイものでもあるだーね。エロ本とか」
「……なっ!!」
「くすくす、そうなの観月?」
巴の両横から柳沢と木更津が口を出す。
「そんな訳ないでしょう!
貴殿方と一緒にしないでください!」
寮の人間の許可がないと部外者は寮内に入ることは出来ない。
当たり前だが自分は彼女を呼び入れていない。
なので当然、自分以外の誰か……今一緒にいるところを見るとこの二人が巴をここに招き入れたのだろう。
それがなお一層観月には面白くない。
なので自然声にはいつもよりトゲが混じる。
「さあ。どうだか怪しいもんだーね」
「大丈夫ですよ観月さん、別に偏見とか持ちませんから」
「だ、か、ら、違うと言っているでしょう」
フォローのつもりなのか知らないが、ナナメ方向にズレた巴の発言に観月はどっと疲れを覚えながら反論する。
巴はともかく後の二人はこちらがムキになる程面白がるという事はわかっているのだが。
「で、一体ボクに何の用ですか?」
半眼で言う観月の顔にはありありと「不機嫌」と書いてある。
それに巴は気が付いているのかいないのか。
「観月さん、今日はお暇ですか?」
「は?
別に暇をもてあましているというわけじゃありませんよ。
…………まあ、何か時間に追われている用事があるわけではありませんが」
そう言うと、巴の顔がぱっと輝いた。
多分、彼女の耳には前半の『暇をもてあましているわけじゃない』という部分は入っていない。
「じゃあ、前の約束は今日有効ですか?」
「約束?」
「お茶をごちそうしてくれるって、前に観月さん約束してくれましたよね」
情けないことだが言われてやっとはっきりなんの話だか理解した。
観月の誕生日の時の話だ。
確かにあの時巴にいずれもらった茶器で彼女にお茶を淹れると約束した。
しかし何故今頃になって突然そんな話を持ち出すのか。
……しかも、今日。
「ダメですか?」
観月の表情に一瞬浮かんだ困惑を感じ取ったのか、巴の声のトーンが下がる。
彼女のこういう様子に、観月は弱い。
もとより断る理由はないのだが。
「かまいませんよ。
ただし、巴くんだけですが」
「ケチくさいだーね」
「……柳沢君、その口、縫い付けられたいんですか?」
若干の余裕を取り戻した観月が、静かに言うと、ピタリと柳沢が口を閉じる。
「くすくす、柳沢、引き際ってモノをそろそろ覚えないとね。
じゃあ赤月、僕らはこれで」
「あ、はい。
木更津さん、柳沢さん、ありがとうございました!」
にっこり笑って手を振る木更津に、ぺこりと巴が頭を下げる。
なにが『ありがとう』なのかよくわからないがなんとなく面白くなかったので早々に扉を閉める。
「あれ、部屋に入っちゃってよかったんですか?」
「ティーセットはここにありますからね」
「でも、さっきは――」
慌てて扉を閉めて、見られないようにしていたのに。
観月に薦められるままに座卓の前に腰を下ろした巴は散らかった部屋でも想像していたのだろうか、不思議そうに部屋に視線を一巡りさせる。
「それより巴くん」
「はい?」
引き出しからいくつか茶葉を出して検討しながら観月が口を開く。
「ボクにお茶を淹れてもらうのが本日の目的だったのですか?」
「はい」
「じゃあ、どうしてボクにまず連絡をいただけなかったんでしょうか。
訪ねてみたがボクは不在だった、そういう可能性は大いにあったでしょう」
ポットのお湯をカップに注いで暖める。
そういえばこの部屋には砂糖の類はない。
渋みの少ない茶葉を選んだつもりだが、大丈夫だろうか。
「そうですね。
でも、観月さんが驚くかな、って思って。
いなかったときは……運がなかったと潔く諦めようかと」
「確かに、驚きましたけどね……あともう一つ。
どうして今日なんですか?」
ポットにお湯を注ぎ、時計で蒸らす時間を確認する。
茶葉が開き、紅茶の香りが部屋中に広がっていく。
観月の質問の意図を測りかねた巴が、不思議そうな顔を見せる。
それが観月には歯がゆい。
「だからですね。今日は、巴くん……キミの誕生日でしょう?」
そういうと、観月は机の上に手を伸ばし、そこにおいてあった包み――シンプルな包装ではあるが明らかにプレゼントの包装だ――を驚きに目を見開いている巴の手に握らせた。
先ほどはこれを見られないために必死になって扉を閉めたものの、案外それは目に付くものではなかったらしい。
「お誕生日、おめでとうございます」
「え? あ、ありがとうございますっ! ……観月さん知ってたんですかぁ?」
いささか間の抜けた声を巴があげる。
本当に心底予想外だったらしい。
「知っていましたよ」
「はぁ~、観月さんにはなんでもお見通しなんですねぇ」
「まさか。ボクが知っていたのは今日がキミの誕生日だというその事実だけですよ」
だから、キミを呼び出そうとして携帯電話を手に取った瞬間にその当の本人からかかってきた電話にどれほど驚いたか。
あげく扉のすぐ向こうから。
計算違いも甚だしい。
キミに関してはボクの予測はまったく役に立たない。
予測どころか、こうしてキミを目の前にしてもまだ何もわからない。
「今日が、誕生日だからですよ」
「?」
「お茶の約束をもらったのが、観月さんの誕生日じゃないですか。
だから、できればそれは私の誕生日がいいなって、ずっと思ってたんです」
それが今年の自分自身への誕生日プレゼントなんです、と。
そう言って巴は少し照れながら笑った。
「…………」
「あ、すいません、勝手に決めちゃって」
「……………いえ、そんなことはいいんですが。
だったら尚更、事前に連絡をして欲しかったですね。
万一くだらない予定を入れてしまっていたとしたら後悔したでしょうから」
紅茶をカップに注いで巴に渡す。
カップを受け取った巴が嬉しそうに紅茶の赤に見惚れている。
少し猫舌なのか、慎重に冷ましながら紅茶を一口口に入れ、歓声を上げる。
これぐらいのことで喜んでもらえるのなら毎日だってキミだけの為に紅茶を淹れてあげるのに。
「観月さん、それじゃまるで私に紅茶を淹れてくれる事がすごく大事な用みたいじゃ無いですか」
「大事な用ですよ、とても。
特別な理由がなくたって、いつでも望んでくれてかまわないんですから。ただ――」
ただ。
今後ここに来るときには絶対に自分以外の誰かに頼んだりしないでくださいよ。
一旦言葉を途切れさせると、観月は一気にそう言って拗ねたような表情で視線を逸らした。
――― HAPPY BIRTHDAY!! ―――
心臓に悪い。
よりにもよって今日、こんなタイミングで電話をしてきたのは一体どこの誰だ。
下らない用件だったら容赦しない。
腹立たしい思いで携帯のディスプレイを見た観月はそこでまた携帯を落としそうになる。
普段の彼には到底ありえない様子で急いで通話ボタンを押すと、それまで急かすように鳴り響いていた着信音に替わって元気のいい声が耳に届く。
「おはようございます、観月さん!」
「おはようございます、巴くん。今日は…」
スクールの練習は休みですよ。
そう続けようとした観月だったが、巴の声の背後に微かに聞こえた声と物音が気になった。
もしやと思うと同時に部屋の扉がノックされる。
「改めて、おはようございます!」
携帯を片手に扉を開くと、やはり同じように携帯を手にした巴の姿。
真正面にいる彼女の口元と、観月の耳元から同時に同じ声が届く。
「巴くん! どうしてここに…!」
言いかけたところで自室のドアを開けている事に気付き慌てて後ろ手に扉を閉める。
「妙に素早くドアを閉めただーね?
何かマズイものでもあるだーね。エロ本とか」
「……なっ!!」
「くすくす、そうなの観月?」
巴の両横から柳沢と木更津が口を出す。
「そんな訳ないでしょう!
貴殿方と一緒にしないでください!」
寮の人間の許可がないと部外者は寮内に入ることは出来ない。
当たり前だが自分は彼女を呼び入れていない。
なので当然、自分以外の誰か……今一緒にいるところを見るとこの二人が巴をここに招き入れたのだろう。
それがなお一層観月には面白くない。
なので自然声にはいつもよりトゲが混じる。
「さあ。どうだか怪しいもんだーね」
「大丈夫ですよ観月さん、別に偏見とか持ちませんから」
「だ、か、ら、違うと言っているでしょう」
フォローのつもりなのか知らないが、ナナメ方向にズレた巴の発言に観月はどっと疲れを覚えながら反論する。
巴はともかく後の二人はこちらがムキになる程面白がるという事はわかっているのだが。
「で、一体ボクに何の用ですか?」
半眼で言う観月の顔にはありありと「不機嫌」と書いてある。
それに巴は気が付いているのかいないのか。
「観月さん、今日はお暇ですか?」
「は?
別に暇をもてあましているというわけじゃありませんよ。
…………まあ、何か時間に追われている用事があるわけではありませんが」
そう言うと、巴の顔がぱっと輝いた。
多分、彼女の耳には前半の『暇をもてあましているわけじゃない』という部分は入っていない。
「じゃあ、前の約束は今日有効ですか?」
「約束?」
「お茶をごちそうしてくれるって、前に観月さん約束してくれましたよね」
情けないことだが言われてやっとはっきりなんの話だか理解した。
観月の誕生日の時の話だ。
確かにあの時巴にいずれもらった茶器で彼女にお茶を淹れると約束した。
しかし何故今頃になって突然そんな話を持ち出すのか。
……しかも、今日。
「ダメですか?」
観月の表情に一瞬浮かんだ困惑を感じ取ったのか、巴の声のトーンが下がる。
彼女のこういう様子に、観月は弱い。
もとより断る理由はないのだが。
「かまいませんよ。
ただし、巴くんだけですが」
「ケチくさいだーね」
「……柳沢君、その口、縫い付けられたいんですか?」
若干の余裕を取り戻した観月が、静かに言うと、ピタリと柳沢が口を閉じる。
「くすくす、柳沢、引き際ってモノをそろそろ覚えないとね。
じゃあ赤月、僕らはこれで」
「あ、はい。
木更津さん、柳沢さん、ありがとうございました!」
にっこり笑って手を振る木更津に、ぺこりと巴が頭を下げる。
なにが『ありがとう』なのかよくわからないがなんとなく面白くなかったので早々に扉を閉める。
「あれ、部屋に入っちゃってよかったんですか?」
「ティーセットはここにありますからね」
「でも、さっきは――」
慌てて扉を閉めて、見られないようにしていたのに。
観月に薦められるままに座卓の前に腰を下ろした巴は散らかった部屋でも想像していたのだろうか、不思議そうに部屋に視線を一巡りさせる。
「それより巴くん」
「はい?」
引き出しからいくつか茶葉を出して検討しながら観月が口を開く。
「ボクにお茶を淹れてもらうのが本日の目的だったのですか?」
「はい」
「じゃあ、どうしてボクにまず連絡をいただけなかったんでしょうか。
訪ねてみたがボクは不在だった、そういう可能性は大いにあったでしょう」
ポットのお湯をカップに注いで暖める。
そういえばこの部屋には砂糖の類はない。
渋みの少ない茶葉を選んだつもりだが、大丈夫だろうか。
「そうですね。
でも、観月さんが驚くかな、って思って。
いなかったときは……運がなかったと潔く諦めようかと」
「確かに、驚きましたけどね……あともう一つ。
どうして今日なんですか?」
ポットにお湯を注ぎ、時計で蒸らす時間を確認する。
茶葉が開き、紅茶の香りが部屋中に広がっていく。
観月の質問の意図を測りかねた巴が、不思議そうな顔を見せる。
それが観月には歯がゆい。
「だからですね。今日は、巴くん……キミの誕生日でしょう?」
そういうと、観月は机の上に手を伸ばし、そこにおいてあった包み――シンプルな包装ではあるが明らかにプレゼントの包装だ――を驚きに目を見開いている巴の手に握らせた。
先ほどはこれを見られないために必死になって扉を閉めたものの、案外それは目に付くものではなかったらしい。
「お誕生日、おめでとうございます」
「え? あ、ありがとうございますっ! ……観月さん知ってたんですかぁ?」
いささか間の抜けた声を巴があげる。
本当に心底予想外だったらしい。
「知っていましたよ」
「はぁ~、観月さんにはなんでもお見通しなんですねぇ」
「まさか。ボクが知っていたのは今日がキミの誕生日だというその事実だけですよ」
だから、キミを呼び出そうとして携帯電話を手に取った瞬間にその当の本人からかかってきた電話にどれほど驚いたか。
あげく扉のすぐ向こうから。
計算違いも甚だしい。
キミに関してはボクの予測はまったく役に立たない。
予測どころか、こうしてキミを目の前にしてもまだ何もわからない。
「今日が、誕生日だからですよ」
「?」
「お茶の約束をもらったのが、観月さんの誕生日じゃないですか。
だから、できればそれは私の誕生日がいいなって、ずっと思ってたんです」
それが今年の自分自身への誕生日プレゼントなんです、と。
そう言って巴は少し照れながら笑った。
「…………」
「あ、すいません、勝手に決めちゃって」
「……………いえ、そんなことはいいんですが。
だったら尚更、事前に連絡をして欲しかったですね。
万一くだらない予定を入れてしまっていたとしたら後悔したでしょうから」
紅茶をカップに注いで巴に渡す。
カップを受け取った巴が嬉しそうに紅茶の赤に見惚れている。
少し猫舌なのか、慎重に冷ましながら紅茶を一口口に入れ、歓声を上げる。
これぐらいのことで喜んでもらえるのなら毎日だってキミだけの為に紅茶を淹れてあげるのに。
「観月さん、それじゃまるで私に紅茶を淹れてくれる事がすごく大事な用みたいじゃ無いですか」
「大事な用ですよ、とても。
特別な理由がなくたって、いつでも望んでくれてかまわないんですから。ただ――」
ただ。
今後ここに来るときには絶対に自分以外の誰かに頼んだりしないでくださいよ。
一旦言葉を途切れさせると、観月は一気にそう言って拗ねたような表情で視線を逸らした。
――― HAPPY BIRTHDAY!! ―――
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