広い空間にただ水が流れる音だけが響く。
先ほどまで終わることなど無いかのように思えた雷雨は
乾の作った怪談のオチとともに遠くへ消え去った。
「まったく、英二はー。ペンキ被ったんだからさー。
すぐに洗うくらいしようよー」
「だあってさー。遅刻するーと思ったら、それどころじゃないって!
乾に汁飲まされたらどうすんだよー!」
今日は朝練の途中から雨が降り出した。
それに従って放課後もレギュラー陣だけのミーティングが行われた。
ただ、実際のところはミーティングどころではない騒ぎが発生し
(テニスラケットにまつわるホラーな話、だ)
顧問の竜崎スミレの説教とともに終了した。
英二はそのミーティングに向かう途中、
不幸にも塗装業者の落としたペンキが見事にヒット、
それに従い全身が白、特に頭髪などは老人さながらである。
幸い、そのペンキは水性だったようで
友人である不二周助が洗い残しの無いように
白髪の友人を洗っているところである。
「しっかし、不二がシャンプー持ってて良かった。
さすがに俺でもガッコには持ってきてないもん」
整髪料ならば常に持ち歩いている英二がそう言う。
「ん、部活の後シャワー浴びるときがあるからねー。
それより、あんまりしゃべってると口にシャンプーが入るよ」
あわてて、英二は口を閉じる。
周助は喋っていて楽しい相手である。
自らぺらぺら話すことは無いが、
話しを振ると思いのよらないほど話題が豊富なことに気付く。
頭がいいと言うことももちろんだが、好奇心が旺盛だからだ。
だからいつまでも彼と話していたいという気持ちは常にある。
しかし、シャンプーが口に入ってしまうと言うのはよろしくないので
残念に思いながら必要以外口を閉じることにする。
放課後、特に雷雨の後だ、生徒のほとんどが帰宅し
学校特有のただ広い水道場は、
まるでこの世から切り離されたかのように静まり返っている。
部活がある為、当然放課後の校舎にいることは少ないけれど、
それでも今日は特別人が少なく、静かなのではないかと感じる。
いま、校舎に残っているのは、教師はともかくとして
生徒は相当酔狂なものだけだろう。
普段はつきあいの良いテニス部の連中も
今日に限っては英二と周助を残し、先に帰ってしまった。
皆が帰ってしまった後、
俺がこんな不幸な目にあったって言うのに
冷たいヤツらだよなー、と周助にこぼしたら、
シャンプーを貸してあげた上に、残って英二を洗ってあげている僕って
なんて暖かいヤツなんだろうね、と
なんだか含みのある笑顔で返されてしまった。
皆が帰ってしまい、冷たいなと思いながら
しかし、周助と二人の時間が心地よいと感じる自分がいる。
普段、二人が二人とも周囲に人が集まるタイプの人間なだけに
同じクラスでありながら、同じ部活でありながら、
二人だけの時間というのはあまりない。
それだけにこの時間は貴重である。
そんな時間を、しかも自分の髪を洗ってもらうために存在する時間を
持つことが出来たなんてなんてラッキーなんだろうと英二は思う。
周助が今集中していることが自分の髪を洗うことだなんて。
周助の指は強くも弱くもなく英二の頭皮を丹念になで上げていく。
「これでお金が取れるんじゃない?」なんて言うと
あっさりと途中で止めてしまいそうなので、言わないでおく。
黙っていると、ただ周助の指使いと、流れる水の音、
そしてシャンプーの涼しやかなミントの香りだけを感じる。
そう言えば、周助はいつも身の回りはシーブリーズだ。
涼しげなミントの香り。
この鼻腔をくすぐる香りはきっとシャンプーの香りだけでなく
周助自身の香りも入り交じっているのだろう。
そして今日はきっと自分も周助と同じ香りなのだと思うと、
心が躍る気がする。まるで彼に包まれている感じだ。
「まったく。ペンキが完全に乾いてるから洗うのに苦労するよ。
僕の指が荒れたらどう責任とってくれるのさ」
くすくす笑いながら、少しも迷惑ではなさそうに責任を問う。
「そんな責任ならいつだって好きなだけとっちゃうけどね~。
なんなら次は、俺がシャンプーしよっか?」
そう言うと、周助はしばし絶句し、
「……おしまいっ」
そういって直ぐさま蛇口を閉じる。
英二は頭をびしょびしょにさせたまま振り返ると、
ポーカーフェイスの彼にしては珍しく
顔を赤らめ動揺した表情をして立っていた。
英二はニヤリと笑い、蛇口を全開にして周助の頭を捕らえる。
そして勢いよく流れ落ちる水に彼の頭を押し込む。
「…っ!っち、ちょっと!!英二!!!」
「もう、おっそいよーん」
そして周助よりも少し厚めの指で英二は彼の頭を洗い出す。
当然、自分の髪は洗ったままで一滴もぬぐっていない。
水滴は流れ落ちるままだ。
ぽたぽたと周助の背中にシミを作る。
「ちょっと!英二!髪!ぬぐってよ!冷たい!」
「これがおわったらねー」
二人がタオルの持ち合わせがないことに気づくのは、
洗い終わった後、しばらく経ってからのことだった。
END
先ほどまで終わることなど無いかのように思えた雷雨は
乾の作った怪談のオチとともに遠くへ消え去った。
「まったく、英二はー。ペンキ被ったんだからさー。
すぐに洗うくらいしようよー」
「だあってさー。遅刻するーと思ったら、それどころじゃないって!
乾に汁飲まされたらどうすんだよー!」
今日は朝練の途中から雨が降り出した。
それに従って放課後もレギュラー陣だけのミーティングが行われた。
ただ、実際のところはミーティングどころではない騒ぎが発生し
(テニスラケットにまつわるホラーな話、だ)
顧問の竜崎スミレの説教とともに終了した。
英二はそのミーティングに向かう途中、
不幸にも塗装業者の落としたペンキが見事にヒット、
それに従い全身が白、特に頭髪などは老人さながらである。
幸い、そのペンキは水性だったようで
友人である不二周助が洗い残しの無いように
白髪の友人を洗っているところである。
「しっかし、不二がシャンプー持ってて良かった。
さすがに俺でもガッコには持ってきてないもん」
整髪料ならば常に持ち歩いている英二がそう言う。
「ん、部活の後シャワー浴びるときがあるからねー。
それより、あんまりしゃべってると口にシャンプーが入るよ」
あわてて、英二は口を閉じる。
周助は喋っていて楽しい相手である。
自らぺらぺら話すことは無いが、
話しを振ると思いのよらないほど話題が豊富なことに気付く。
頭がいいと言うことももちろんだが、好奇心が旺盛だからだ。
だからいつまでも彼と話していたいという気持ちは常にある。
しかし、シャンプーが口に入ってしまうと言うのはよろしくないので
残念に思いながら必要以外口を閉じることにする。
放課後、特に雷雨の後だ、生徒のほとんどが帰宅し
学校特有のただ広い水道場は、
まるでこの世から切り離されたかのように静まり返っている。
部活がある為、当然放課後の校舎にいることは少ないけれど、
それでも今日は特別人が少なく、静かなのではないかと感じる。
いま、校舎に残っているのは、教師はともかくとして
生徒は相当酔狂なものだけだろう。
普段はつきあいの良いテニス部の連中も
今日に限っては英二と周助を残し、先に帰ってしまった。
皆が帰ってしまった後、
俺がこんな不幸な目にあったって言うのに
冷たいヤツらだよなー、と周助にこぼしたら、
シャンプーを貸してあげた上に、残って英二を洗ってあげている僕って
なんて暖かいヤツなんだろうね、と
なんだか含みのある笑顔で返されてしまった。
皆が帰ってしまい、冷たいなと思いながら
しかし、周助と二人の時間が心地よいと感じる自分がいる。
普段、二人が二人とも周囲に人が集まるタイプの人間なだけに
同じクラスでありながら、同じ部活でありながら、
二人だけの時間というのはあまりない。
それだけにこの時間は貴重である。
そんな時間を、しかも自分の髪を洗ってもらうために存在する時間を
持つことが出来たなんてなんてラッキーなんだろうと英二は思う。
周助が今集中していることが自分の髪を洗うことだなんて。
周助の指は強くも弱くもなく英二の頭皮を丹念になで上げていく。
「これでお金が取れるんじゃない?」なんて言うと
あっさりと途中で止めてしまいそうなので、言わないでおく。
黙っていると、ただ周助の指使いと、流れる水の音、
そしてシャンプーの涼しやかなミントの香りだけを感じる。
そう言えば、周助はいつも身の回りはシーブリーズだ。
涼しげなミントの香り。
この鼻腔をくすぐる香りはきっとシャンプーの香りだけでなく
周助自身の香りも入り交じっているのだろう。
そして今日はきっと自分も周助と同じ香りなのだと思うと、
心が躍る気がする。まるで彼に包まれている感じだ。
「まったく。ペンキが完全に乾いてるから洗うのに苦労するよ。
僕の指が荒れたらどう責任とってくれるのさ」
くすくす笑いながら、少しも迷惑ではなさそうに責任を問う。
「そんな責任ならいつだって好きなだけとっちゃうけどね~。
なんなら次は、俺がシャンプーしよっか?」
そう言うと、周助はしばし絶句し、
「……おしまいっ」
そういって直ぐさま蛇口を閉じる。
英二は頭をびしょびしょにさせたまま振り返ると、
ポーカーフェイスの彼にしては珍しく
顔を赤らめ動揺した表情をして立っていた。
英二はニヤリと笑い、蛇口を全開にして周助の頭を捕らえる。
そして勢いよく流れ落ちる水に彼の頭を押し込む。
「…っ!っち、ちょっと!!英二!!!」
「もう、おっそいよーん」
そして周助よりも少し厚めの指で英二は彼の頭を洗い出す。
当然、自分の髪は洗ったままで一滴もぬぐっていない。
水滴は流れ落ちるままだ。
ぽたぽたと周助の背中にシミを作る。
「ちょっと!英二!髪!ぬぐってよ!冷たい!」
「これがおわったらねー」
二人がタオルの持ち合わせがないことに気づくのは、
洗い終わった後、しばらく経ってからのことだった。
END
今日の天気は秋には珍しく夕方から雷雨のようで。
そのせいなのか頭痛で目が覚めた。
天気が荒れる前に頭痛が起こるのはよくあることだし
いつも学校に行くといつの間にか痛みを忘れているので
気にせずそのまま学校に行くことにした。
由美子姉さんは「周助、休んだら?」と言ってくれたが
これまでほぼ皆勤だった僕には抵抗があった。
逢いたい人がいる、と言うのもあったけれど。
夏の大会が終わり、引退して気づいたことがいくつかある。
これまでは毎日部活部活で見えなかったことだけど。
そのひとつが朝の時間の使い方は難しいと言うことである。
これまでは朝練が終わって急いで着替えて
始業の鐘にぎりぎり間に合うという生活を送っていたので
登校してから始業までの時間の使い方がイマイチ分からない。
もちろんテスト前後などは朝練が無かったのだけれど
そのときは当然テスト勉強で費やしていたのだ
当然時間をもてあますことなど無く。
しかしテスト期間でもなく、3年生といえども
エスカレーター制のこの学校では過剰な勉強は必要でないし
周助などは今更朝の時間を勉強に費やさなくとも
全く問題ない成績である。
何もせずに惚けているのも難だし、
かといってハイテンションに会話している級友の輪に入っていくのも
ためらわれたので、結局読書をして過ごしている。
周助が登校してくるのはだいたい始業20分ほど前で
その時間では読書もイマイチ集中できないまま終わってしまうので
読書以外に時間をつぶせる方法を思索することもしばしば。
英二がもう少しはやく登校すれば問題解決なのにと思うが
彼は結局朝練があった時と同様の時間に登校するし
それを改める気もないらしいので問題解決の役には立たない。
特に今朝はこのもてあます時間がつらい。
登校しても頭痛は治らず、読書する気も起きない。
いつも登校すれば治ると思っていたものは、
結局部活に夢中になれていたからこそなのだろうか。
そう考えると、今更ながら失ってしまったものの大きさを感じる。
もちろん、高校生になれば再び部活中心の生活になるのだろうが
それまでに半年ほどの時間がある現在、遠い将来のことに感じてしまう。
ああ、今日はやっぱり休んでしまえば良かったかな…。
少し後悔しながら、机に身体を伏せる。
始業まであと10分。少しぐらいは休めるだろう。
「おっはよ、不二~。どしたん?具合悪い?」
大きな目を心配そうにさせて、菊丸英二は友人をのぞき込む。
「おはよ、英二。ちょっと頭痛がね」
体を起こして友人を見やるとやたら落ち着いた風情で
いつも通り始業ぎりぎりに来たとは思えない。
時計を見るとそれもその筈でまだ5分前だ。
「今日、夕方から雷雨らしいけど、英二が早く登校したからかな」
「な、なんだよ、それー!不二ひでぇ」
自分の、かなりつっこみどころ満載な言葉に
素直に反応して英二は頬をふくらませた。
…かと思えば、またすぐに表情を翻した。心配そうな表情に。
「で?頭痛、大丈夫?やっぱり相当具合悪そうな顔してるけど?」
「ん~。学校に来たら治ると思ってたんだけどね」
本当に思ってたんだけど。
やっぱり本当らしい。
こうして話している間にも少しずつ痛みが楽になってきている。
それとも、英二とこうして話しているからだろうか。
以前から思っていたことだが、自分が何かに躓いたときに支えになるのは
いつも英二だ。直接的にも間接的にもフォローがうまい。
英二自身は大石からいつもフォローされているように見えるので
傍目から見てそうは見えないかもしれないが。
いや、周助にとっては英二の存在自体に救われることもしばしばある。
太陽のようなものなのだろうか。
「ちょっと、待ってて、不二」
そう言い残すと英二は教室から走り出ていった。
始業まであと2分。
せっかく、今日は少し余裕を持って登校できたのに
自分のせいで慌ただしくさせてしまったなと
すこし申し訳なく思いつつ英二を待つ。
英二は始業のベルと同時に教室に戻ってきた。
今日は職員会議がある日なので担任は少し遅れているようだ。
「らっきー。まだ担任きてないじゃん」
よかった、よかったと笑いながら、
英二は周助の机の上に白い錠剤と飲みかけのスポーツドリンクを置いた。
スポーツドリンクを見て英二が大石の所から持ってきたんだと悟る。
彼はここしばらくそのドリンクにハマってそればっかり飲んでいたので。
周助自身も大石から激しく勧められ、それ以降、
コンビニに行けば何となく気になって見てしまうドリンクだ。
「これ、大石から?」
「そー。あったり~。奪ってきた!」
英二は奪ってきたとは言っているが、
実際の所は笑顔で薬もドリンクも渡してくれたのだろう。
青学テニス部の母と呼ばれた大石ならば。
もしかしたらお気に入りのドリンクは本当に奪ってきたのかもしれないが。
その光景が目に浮かぶようで思わず笑みがこぼれる。
「笑ってないで、早く飲めよー。担任来ちゃうじゃん」との英二の声に
あわてて薬を手に取る。
製品名を見ると「成分の半分がやさしさで出来ている」というので有名な
鎮痛剤であった。また薬のチョイスが大石らしく、笑えてくる。
と、言うよりツボにハマったと言うべきか。
笑いが込み上げてきて薬を嚥下するのに苦労した。
ドリンクに噎せなかったのはかなり上出来と言っていいだろう。
「サンキュ。助かったよ」
そう言ったところで、担任が入ってきて、SHRが始まった。
担任教師が出席を取り簡単な連絡事項を伝え、
1時間目の担当教師がすぐさま入れ替わり授業を開始した。
当然の事ながら薬はすぐには効かないので
頭痛はまだ鈍く残っているけれど
気分は始業前とはがらりと変わり、すっきりしていた。
鏡を見ていないので自分自身は分からないが顔色も戻っていることだろう。
朝は頭痛は朝練に夢中になるから治るんだと思っていたが
もしかしたら、それは英二がいたからこそ、なのかもしれない。
彼の存在はいつも自分を元気づけてくれるのだから。
大石のくれた薬の成分の半分はやさしさらしいけど、
もしかしたら成分のすべてが英二だったら
自分にとってものすごく効く薬になるかもしれない。
不意に机の上に隣から手紙が飛んできたので開いてみると、
“もう痛くない?だいじょーぶ? 英”
と書かれていた。
心配してくれている相手に否定する言葉を返すのもどうかと思うし、
だからといって感謝の言葉をつづるのも今更照れくさいので
“やっぱり夕方雷雨だったら英二のせいに違いない(笑)”
そう返しておいた。
休み時間になるころには本当に頭痛は治まっているだろうし、
そのときにはキチンと本人に感謝の念を伝えよう。
そして二人で購買に行ってスポーツドリンクを買って大石に届けに行こう。
それから朝の時間の使い方を相談するのも良いかもしれない。
なにしろ英二はよく効く薬だから。
END
そのせいなのか頭痛で目が覚めた。
天気が荒れる前に頭痛が起こるのはよくあることだし
いつも学校に行くといつの間にか痛みを忘れているので
気にせずそのまま学校に行くことにした。
由美子姉さんは「周助、休んだら?」と言ってくれたが
これまでほぼ皆勤だった僕には抵抗があった。
逢いたい人がいる、と言うのもあったけれど。
夏の大会が終わり、引退して気づいたことがいくつかある。
これまでは毎日部活部活で見えなかったことだけど。
そのひとつが朝の時間の使い方は難しいと言うことである。
これまでは朝練が終わって急いで着替えて
始業の鐘にぎりぎり間に合うという生活を送っていたので
登校してから始業までの時間の使い方がイマイチ分からない。
もちろんテスト前後などは朝練が無かったのだけれど
そのときは当然テスト勉強で費やしていたのだ
当然時間をもてあますことなど無く。
しかしテスト期間でもなく、3年生といえども
エスカレーター制のこの学校では過剰な勉強は必要でないし
周助などは今更朝の時間を勉強に費やさなくとも
全く問題ない成績である。
何もせずに惚けているのも難だし、
かといってハイテンションに会話している級友の輪に入っていくのも
ためらわれたので、結局読書をして過ごしている。
周助が登校してくるのはだいたい始業20分ほど前で
その時間では読書もイマイチ集中できないまま終わってしまうので
読書以外に時間をつぶせる方法を思索することもしばしば。
英二がもう少しはやく登校すれば問題解決なのにと思うが
彼は結局朝練があった時と同様の時間に登校するし
それを改める気もないらしいので問題解決の役には立たない。
特に今朝はこのもてあます時間がつらい。
登校しても頭痛は治らず、読書する気も起きない。
いつも登校すれば治ると思っていたものは、
結局部活に夢中になれていたからこそなのだろうか。
そう考えると、今更ながら失ってしまったものの大きさを感じる。
もちろん、高校生になれば再び部活中心の生活になるのだろうが
それまでに半年ほどの時間がある現在、遠い将来のことに感じてしまう。
ああ、今日はやっぱり休んでしまえば良かったかな…。
少し後悔しながら、机に身体を伏せる。
始業まであと10分。少しぐらいは休めるだろう。
「おっはよ、不二~。どしたん?具合悪い?」
大きな目を心配そうにさせて、菊丸英二は友人をのぞき込む。
「おはよ、英二。ちょっと頭痛がね」
体を起こして友人を見やるとやたら落ち着いた風情で
いつも通り始業ぎりぎりに来たとは思えない。
時計を見るとそれもその筈でまだ5分前だ。
「今日、夕方から雷雨らしいけど、英二が早く登校したからかな」
「な、なんだよ、それー!不二ひでぇ」
自分の、かなりつっこみどころ満載な言葉に
素直に反応して英二は頬をふくらませた。
…かと思えば、またすぐに表情を翻した。心配そうな表情に。
「で?頭痛、大丈夫?やっぱり相当具合悪そうな顔してるけど?」
「ん~。学校に来たら治ると思ってたんだけどね」
本当に思ってたんだけど。
やっぱり本当らしい。
こうして話している間にも少しずつ痛みが楽になってきている。
それとも、英二とこうして話しているからだろうか。
以前から思っていたことだが、自分が何かに躓いたときに支えになるのは
いつも英二だ。直接的にも間接的にもフォローがうまい。
英二自身は大石からいつもフォローされているように見えるので
傍目から見てそうは見えないかもしれないが。
いや、周助にとっては英二の存在自体に救われることもしばしばある。
太陽のようなものなのだろうか。
「ちょっと、待ってて、不二」
そう言い残すと英二は教室から走り出ていった。
始業まであと2分。
せっかく、今日は少し余裕を持って登校できたのに
自分のせいで慌ただしくさせてしまったなと
すこし申し訳なく思いつつ英二を待つ。
英二は始業のベルと同時に教室に戻ってきた。
今日は職員会議がある日なので担任は少し遅れているようだ。
「らっきー。まだ担任きてないじゃん」
よかった、よかったと笑いながら、
英二は周助の机の上に白い錠剤と飲みかけのスポーツドリンクを置いた。
スポーツドリンクを見て英二が大石の所から持ってきたんだと悟る。
彼はここしばらくそのドリンクにハマってそればっかり飲んでいたので。
周助自身も大石から激しく勧められ、それ以降、
コンビニに行けば何となく気になって見てしまうドリンクだ。
「これ、大石から?」
「そー。あったり~。奪ってきた!」
英二は奪ってきたとは言っているが、
実際の所は笑顔で薬もドリンクも渡してくれたのだろう。
青学テニス部の母と呼ばれた大石ならば。
もしかしたらお気に入りのドリンクは本当に奪ってきたのかもしれないが。
その光景が目に浮かぶようで思わず笑みがこぼれる。
「笑ってないで、早く飲めよー。担任来ちゃうじゃん」との英二の声に
あわてて薬を手に取る。
製品名を見ると「成分の半分がやさしさで出来ている」というので有名な
鎮痛剤であった。また薬のチョイスが大石らしく、笑えてくる。
と、言うよりツボにハマったと言うべきか。
笑いが込み上げてきて薬を嚥下するのに苦労した。
ドリンクに噎せなかったのはかなり上出来と言っていいだろう。
「サンキュ。助かったよ」
そう言ったところで、担任が入ってきて、SHRが始まった。
担任教師が出席を取り簡単な連絡事項を伝え、
1時間目の担当教師がすぐさま入れ替わり授業を開始した。
当然の事ながら薬はすぐには効かないので
頭痛はまだ鈍く残っているけれど
気分は始業前とはがらりと変わり、すっきりしていた。
鏡を見ていないので自分自身は分からないが顔色も戻っていることだろう。
朝は頭痛は朝練に夢中になるから治るんだと思っていたが
もしかしたら、それは英二がいたからこそ、なのかもしれない。
彼の存在はいつも自分を元気づけてくれるのだから。
大石のくれた薬の成分の半分はやさしさらしいけど、
もしかしたら成分のすべてが英二だったら
自分にとってものすごく効く薬になるかもしれない。
不意に机の上に隣から手紙が飛んできたので開いてみると、
“もう痛くない?だいじょーぶ? 英”
と書かれていた。
心配してくれている相手に否定する言葉を返すのもどうかと思うし、
だからといって感謝の言葉をつづるのも今更照れくさいので
“やっぱり夕方雷雨だったら英二のせいに違いない(笑)”
そう返しておいた。
休み時間になるころには本当に頭痛は治まっているだろうし、
そのときにはキチンと本人に感謝の念を伝えよう。
そして二人で購買に行ってスポーツドリンクを買って大石に届けに行こう。
それから朝の時間の使い方を相談するのも良いかもしれない。
なにしろ英二はよく効く薬だから。
END
「なんか、悔しいよなぁ」
青に融ける_1
雲一つない快晴の日。
この夏初めての真夏日。
そんな中行われていた練習は、
いくら体力のある男子中学生と言えども
音を上げるには充分すぎるほどきつく、
それは、青学テニス部の面々にとっても変わりはなかった。
目に見えて体力を消耗させて行く部員をそのままに
練習を続けさせておくほど厳しくも、愚かでもない
部長代理・大石は、
いまは独逸の空の下にいる部長ならば、
少々体力のない部員たちに眉をしかめながら
休憩を言い渡すのだろうか、と思いを馳せつつ
つかの間の休憩を部員たちに告げた。
「で?なにが悔しいって?英二」
大勢いる部員のほとんどが「暑い」と言う表情を浮かべている中、
テニスコート付近の木陰に寝転び、空を観ながら
頬はいささか紅潮しているものの凉しやかに笑みを浮かべている少年が
隣で寝転ぶ、不快さを隠そうともしない表情の菊丸英二に問いかける。
「だーって、悔しいんだったら!不二もそう思わない?」
逆に問い返された少年、不二周助は、
「だから、なにが?」
少々不機嫌そうにさらに問い返す。
「だーかーら!ダブルスのことだよ!お・れ・た・ち・の」
「ああ…。そのことか」
「ああ…。そのことか…って。悔しくないの?不二は?」
「…人ってさあ、結局言葉でしか分かりあえないんだからさ、
自分の気持ちを伝えるのに手を抜いちゃ駄目だよ。
ちゃんとした言葉で僕に伝えてよ」
「…ホントは分かってるくせに聞くんだからなあ。不二は……ったく。
だからさ、俺たちって、……と、トモダチ…だよな?」
改めて「友達」であることを確認することに照れを感じたのか
少し緊張ぎみに頬を赤らめて、英二は周助に問う。
「ん?まあ、一般的にはそう言うカテゴリに入るんじゃない?」
「カテゴリって。…ん~。まあいいや。で、仲良しだよな?」
「そうだねえ。世間的に言えば、そうかな」
「不二ぃ~。お前もねえ…。人が何かを伝えようとしてる時には
真剣に受け止める努力しようよ…」
「僕はいつでも英二に対しては真剣だけど?」
大概においていつもそうであるのだが、
周助はクスリ、と全ての感情を覆い隠すような笑みを浮かべつつ
「友達」であるはずの彼の態度に脱力を感じ、ぐったりした英二の姿をながめる。
この友は面白い。興味深い。飽きない。いや、そんな言葉だけでは言い表せない。
いつまでもつきあって行けたら幸せだと思う。
それを決して、口には出さないだけで。本当にそう思う。
それは何も英二だけでなく、気の善いチームメイトたちにも言えることなのだが。
けれども、英二だけは特別だ。
英二がいれば、ほかの人間が自分から離れようとしたとき、
もちろんそれは苦痛なことには変わりないが、耐えられる気がする。
その逆は━━━考えたくもないが耐えられないだろう。
「…真剣…。ま、いいや。だからさ、俺たちのダブルスってけっこーイケるんじゃない?
なんて思ってたわけよ。なんてったって気が合うしさ」
「そうだね、僕も今日まではそう思ってたかも」
「それが、実際やってみたら、てんでバラバラ。ダブルスになってないワケじゃん。
それがさー、悔しいワケよ。あー。マジ悔しい!」
英二は寝ころびながら、手足をじたばたさせて悔しがる。
休憩中なんだから、そんな無駄な体力使わなければいいのに…。
周助はそんなことを考えながらも口には出さない。
そんなことをしたら英二はいっそう体力を使うような行動に出かねない。
「もちろん大石とだって最初からうまくいってたワケじゃないけど…。
でもなー。お互いのプレイスタイルなんかも知り尽くしてるわけだし
それなりに形にはなるんじゃないかと思ってたんだけどなー」
「そうだね。ちょっと期待はずれだよね。思惑はずれって言うかさ。
実際やってみなきゃ分からない事ってあるんだよね、ホントに。
ただ…さ、こうなるんじゃないかって思ったことも僕はあったよ」
でも、英二といいプレイが出来たらと思い、信じたく無くて、
その考えには今日まで目を背けていたけれど。
「え?マジで?」
まさか、周助がうまくいかないだろうと考えることがあったとは思いもよらず、
驚いた表情を浮かべつつ、隣にいる周助の方に身体を向ける。
周助は相変わらず蒼空を見ながら笑顔の仮面を被っている。
しかし、英二は仮面の下の少し複雑そうな顔を見て取ると、
もう一度空へと向き直る。
彼の、人には滅多に気とらせない感情にも気づくことが出来るようになったのは
いつ頃からだったろうか…英二はそんなことを考え、
だからこそやっぱり悔しいと感じる。
ペアとしては理想的過ぎ、ゴールデン・ペアと称される英二と大石。
日々ペアとしての練習を続け、試合を重ね、
いつの間にか口に出さずともお互いを理解できる位の関係となった。
もちろん試合前のミーティングはしっかりしたものであったが
気配でお互いがどう動くか手に取るように分かったし、
たまに分からないことがあっても、それは信頼というものでフォローできた。
「お互い理解し合っている」「信頼」という点だけ見れば
大石にだけでなく、周助にもそれは当てはまるわけで…。
また、先だっての桃城とのダブルスで得た経験、周助の実力も加えれば
ダブルスには何の問題ないように思えた。
もちろん急増ペアだからコンビネーションには多少難が出るだろうことくらい
英二にも想像が出来たのだが。
それを補って余るくらいのものが自分と周助のペアにはあると思っていた。
周助の他人には見せない感情を理解できる自分、
もちろん逆に自分の感情も理解しているだろう周助。
お互いの実力を十分に把握し、信頼しあっている自分たち。
加えて天才的なプレイヤーである周助の実力。
熟練し、また桃城との試合で成長したダブルスプレイヤーである自分。
何処に問題があるというのだろうか。
初めてペアを組んだにしても、不協和音がここまで甚だしいのは
もう不思議であるとしか言いようがない。
もちろん、お互い強豪テニス部のレギュラーだ。
形だけのダブルスならばこなすことが出来た。
コンビネーションプレイだって問題あるようには見えず
周囲には急造ペアにしては上出来な部類に見えるだろう。
そのあたりは当初目論んでいたように
「お互い理解し合っている」「信頼」の上に成り立ってることだ。
そういった点ではペアは成功ともいえるかもしれない。
けれども二人が目指したかったのはそんな見た目のみのダブルスではなかった。
お互いがお互いを生かしあえ、さらに上に上れる所を目指したかった。
それはゴールデン・ペアさながらに。
そしてそれはあくまで理想でしかなかった。ただの絵空事だった。
---
青に融ける_2
「英二はもしかして気づいてないのかな?理由」
「不二は気づいてるわけ?」
「うん、過分にね。英二は悔しいって言ってたけど、
理由に気づいてるだけに…僕の方がむしろ悔しがってるかもね」
「ええ~?そうなん?」
「そう。考えてみればさ、だめな原因、僕の方が多いと思うんだよねー。
気づかずにいたかったんだけどさ」
ふふふ、とまさに少年と青年の狭間の象徴のような
少し高めの声で朗らかに、歌うように笑い声を次の言葉を紡ぐ。
「やっぱりさ、大石って偉大だよなーって思うよ。さすが部長代理というか」
「大石?」
「僕はどこから見てもそうだけど、英二は本来はシングルス向きだよね。
自分のプレイに集中しすぎる所があるし、マイペースでつかみ所がない」
「んー。そんなに自覚はなかったけど…いや、乾に言われた事あったかも」
「それでもキッチリダブルスのプレイヤーとしてやっていけるのは
大石の包容力って言うか、ゲームメイクによるところが多いと思うんだ。
それは英二も桃城とのダブルスで気づいたと思うんだけど」
「そだね。桃と上手く試合が運べたのも結局大石がいたのが大きかったね。
あの日の俺と桃は、成分大石50%!ってカンジだったもんなー」
「うん、けれども僕には大石という成分を取り入れる事は出来ないんだ。
もちろん、ダブルス、英二に関する助言は受けられるけれども…。
自分で言うのは難だけど、包容力って単語は自分にないし、
だれかと力を合わせて戦うというのには向いてない気がする。
いままで僕と組んでくれたタカさんには申し訳ないと思うけど…ね」
いままでと違い、少々シニカルに周助は笑う。
隣でくすくす笑う声に、
仮面がちょっと外れかけてるかな、不二らしくもない。
などと英二はぼんやり考える。
仮面に隠れる下でシニカルな笑いをするのはいい、
だけれども、誰にでも分かる形で感情が表れるのは面白くない。
周助の感情を悟ることが出来るのは自分だけでいいから。
しかし同時に、自分の前だけで仮面を外すのならば
これほど嬉しいことはないかも、と少し破綻気味な考えもよぎる。
「あー。そーか。俺は大石あってこそダブルスプレイヤーとして生きるし、
だから大石的要素ゼロの不二とはあわないんだ。
たしかに不二はこれまでもダブルスってイマイチだもんねえ。
フツーは多少実力あれば、何とかなることも多いのに」
「イマイチって…ストレートに言わなくても…。
でも、その通りなんだよね、実際。
それなりに合わすことは出来るし、フォローも出来ると思う。
でも、それだけなんだよね。ペアとして強くはなれないんだ」
常に強くありたいのに、と周助の口調に悔しさが滲み出ている。
どこから彼の仮面を外すスイッチがオンになったのだろうか。
この会話、ほかの誰にも聞かれてないといいけれど。
彼を理解できる友は自分だけで十分だ。
さすがに独占欲が強いかなと英二は思った。
思ったのと同時に、隣にいる友は
「こんなヘコんでるところ、英二以外に見せられたものじゃないね」
と呟き、英二を驚かせた。
もちろん彼の独占欲が多分に満たされたのは言うまでもない。
暑い。
見上げる空は何処までも青く、青学のユニフォームにも似た夏の色だ。
このまま寝ころんで空を見ていると青に溶け込みそうだ。
自己を意識できるのは流れる汗と背に敷かれた芝の感触と
気まぐれに紅潮した頬を撫でていく微風。
そして隣に並んで寝ころんでいる友の存在だけで、
そのどれもが自分には心地よいもので。
このまま二人で空に溶け込むならそれでもいいかもしれないと。
口には出さなかったけれど、
お互いそう思っていた。
「ねえ?不二?」
「うん?」
「理想的なペアとしては…おチビに言わせるなら“まだまだだね”だけど、
俺は俺で、不二は不二で、それ以外の何者でもなくて、
ゴールデン・ペアはゴールデン・ペアで、俺たちじゃない。
自分で言うのもナンだけどさ、俺と大石はもちろん理想的なペアだよ。
でも、不二に大石を求めたいワケじゃない」
「ふふ。ゴールデン・ペアの片割れにそういわれるのは悪い気はしないね」
「茶化すなよ。
…で、俺と大石にしか出来ないプレイがあるように
俺たちにしか出来ないテニスがあるんじゃない?
っていうか、俺は不二と、二人だけしか出来ないテニスがしたいよ」
「あれ?さっきまで悔しがってたのに?理想的なペアじゃないって…」
もう一度周助の方に身体を向けると、彼は笑顔を見せ英二の方を向いていた。
仮面のではなくて、くつろいだ笑顔で。
きっとこの先、この笑顔を見るには何度も苦労するんだろうなと
英二はぼんやり思った。でも、自分だけに見せる顔ならそれも悪くない。
周助は周助で、彼の笑顔に驚いたのか
ただでさえカメラのレンズのように大きい英二の瞳が
さらに大きく開かれている事に気づき、
やっぱり彼といると飽きなくて、幸せってカンジでいいなと思っていた。
いまの台詞、何となくプロポーズっぽいよね、と言おうと思ったが
やっぱりやめた。反応なら容易に想像がつくから。
どうせなら想像しがたい反応が欲しいしね。
「まぁ、悔しいのもちょっとはあるけどねー」
「そうだね、僕もやっぱり悔しさは残ると思うけど…。
でもやっぱり、二人らしいテニスって言うのも魅力あるね。
英二の言うとおり、二人だけしか出来ないテニス、してみたいかも。
で、今ちらっと考えたんだけどさ、…こういうのって僕たちらしくない?」
ずりずりと、寝た姿勢のままお互い身体を寄せ合う。
近くには他の部員達がいないことは既に承知していたが
それでも耳元で声を潜めて二人は話し合い始めた。
秘密の作戦会議と言ったところだ。
二人を遠目から見ていた部員たちは
「こんなに暑いのによくくっつけるなー」とか、
「あの二人、なんかあやしーな、あやしーよ」などと口々に言っていたが
二人の耳までは届かなかった。
周囲から見た二人の印象はまさに夏の空に溶け込む風情で
誰かが「あの二人、ドリーム…ってカンジっすね」とつぶやいた。
それ以降、二人がドリーム・ペアと呼ばれるようになったことは
当人たち━━━英二と周助には当然知るよしもなかった。
初めて二人は公式戦で同じコートに立った。
相手は千葉の強豪六角中。
それに加えて相手方の一人は、佐伯は周助の幼なじみだった。
生半可なプレイでは勝てない。
さすがに苦戦は免れないと覚悟していた。
英二は周助に昨日言われたことを思い返していた。
「お互いがお互いであるために。二人のために。
コンビネーションプレイは捨てよう?
僕は僕らしくプレイするし、英二は英二らしくプレイすると良い。
同じコートだけど、ネットを挟んでる時のように競い合おうよ」
大石とペアを組んでからはお互いはお互いのためにプレイしてきた。
それを真っ向から否定するような、
と言うより、ダブルス自体を否定するようなプレイには抵抗がある。
けれども。一緒にプレイするのが周助ならばそれも良いように思える。
「まったく…不二とは仲間で良かったよ」
「え?それは嬉しいけど…なんで?」
こんな作戦考えるヤツが相手だったら恐ろしくてやってられない。
一番そばにいたいと思える人間と一緒に戦える。
どちらも口に出すのは馬鹿馬鹿しく思えたので答えるのはやめた。
「…まあ、僕も仲間で良かったと思ってるけどね」
周助の顔はいつも通り表向きの顔━━━仮面の笑顔だったけれど、
その下に英二が見たものは、彼にだけ向けられる笑顔だったので
二人だけのダブルに対する不安も忘れることにした。
彼の笑顔を消さない方法は、このダブルスの勝利だから。
不安な表情から一転してすがすがしく、
また、戦闘モードにくるくると移り変わる英二を見て、
今日はなんとしても負けられない。
負ける気はもともと無いけど…周助はそう思った。
よく変わる表情を見るのは飽きないけれど
曇った表情だけは見たくない。
英二がいるから、がんばれる。
空は昨日と一転して大きな雲が少し早めに流れている。
陽の光は古い電灯のようにちかちかとコート上を照らしている。
昨日の様に青い空に溶け込むことは出来ないけれど
今日は二人でコートに溶け込む。
英二と周助と、二人だけしか出来ないテニスをプレイするために。
END
青に融ける_1
雲一つない快晴の日。
この夏初めての真夏日。
そんな中行われていた練習は、
いくら体力のある男子中学生と言えども
音を上げるには充分すぎるほどきつく、
それは、青学テニス部の面々にとっても変わりはなかった。
目に見えて体力を消耗させて行く部員をそのままに
練習を続けさせておくほど厳しくも、愚かでもない
部長代理・大石は、
いまは独逸の空の下にいる部長ならば、
少々体力のない部員たちに眉をしかめながら
休憩を言い渡すのだろうか、と思いを馳せつつ
つかの間の休憩を部員たちに告げた。
「で?なにが悔しいって?英二」
大勢いる部員のほとんどが「暑い」と言う表情を浮かべている中、
テニスコート付近の木陰に寝転び、空を観ながら
頬はいささか紅潮しているものの凉しやかに笑みを浮かべている少年が
隣で寝転ぶ、不快さを隠そうともしない表情の菊丸英二に問いかける。
「だーって、悔しいんだったら!不二もそう思わない?」
逆に問い返された少年、不二周助は、
「だから、なにが?」
少々不機嫌そうにさらに問い返す。
「だーかーら!ダブルスのことだよ!お・れ・た・ち・の」
「ああ…。そのことか」
「ああ…。そのことか…って。悔しくないの?不二は?」
「…人ってさあ、結局言葉でしか分かりあえないんだからさ、
自分の気持ちを伝えるのに手を抜いちゃ駄目だよ。
ちゃんとした言葉で僕に伝えてよ」
「…ホントは分かってるくせに聞くんだからなあ。不二は……ったく。
だからさ、俺たちって、……と、トモダチ…だよな?」
改めて「友達」であることを確認することに照れを感じたのか
少し緊張ぎみに頬を赤らめて、英二は周助に問う。
「ん?まあ、一般的にはそう言うカテゴリに入るんじゃない?」
「カテゴリって。…ん~。まあいいや。で、仲良しだよな?」
「そうだねえ。世間的に言えば、そうかな」
「不二ぃ~。お前もねえ…。人が何かを伝えようとしてる時には
真剣に受け止める努力しようよ…」
「僕はいつでも英二に対しては真剣だけど?」
大概においていつもそうであるのだが、
周助はクスリ、と全ての感情を覆い隠すような笑みを浮かべつつ
「友達」であるはずの彼の態度に脱力を感じ、ぐったりした英二の姿をながめる。
この友は面白い。興味深い。飽きない。いや、そんな言葉だけでは言い表せない。
いつまでもつきあって行けたら幸せだと思う。
それを決して、口には出さないだけで。本当にそう思う。
それは何も英二だけでなく、気の善いチームメイトたちにも言えることなのだが。
けれども、英二だけは特別だ。
英二がいれば、ほかの人間が自分から離れようとしたとき、
もちろんそれは苦痛なことには変わりないが、耐えられる気がする。
その逆は━━━考えたくもないが耐えられないだろう。
「…真剣…。ま、いいや。だからさ、俺たちのダブルスってけっこーイケるんじゃない?
なんて思ってたわけよ。なんてったって気が合うしさ」
「そうだね、僕も今日まではそう思ってたかも」
「それが、実際やってみたら、てんでバラバラ。ダブルスになってないワケじゃん。
それがさー、悔しいワケよ。あー。マジ悔しい!」
英二は寝ころびながら、手足をじたばたさせて悔しがる。
休憩中なんだから、そんな無駄な体力使わなければいいのに…。
周助はそんなことを考えながらも口には出さない。
そんなことをしたら英二はいっそう体力を使うような行動に出かねない。
「もちろん大石とだって最初からうまくいってたワケじゃないけど…。
でもなー。お互いのプレイスタイルなんかも知り尽くしてるわけだし
それなりに形にはなるんじゃないかと思ってたんだけどなー」
「そうだね。ちょっと期待はずれだよね。思惑はずれって言うかさ。
実際やってみなきゃ分からない事ってあるんだよね、ホントに。
ただ…さ、こうなるんじゃないかって思ったことも僕はあったよ」
でも、英二といいプレイが出来たらと思い、信じたく無くて、
その考えには今日まで目を背けていたけれど。
「え?マジで?」
まさか、周助がうまくいかないだろうと考えることがあったとは思いもよらず、
驚いた表情を浮かべつつ、隣にいる周助の方に身体を向ける。
周助は相変わらず蒼空を見ながら笑顔の仮面を被っている。
しかし、英二は仮面の下の少し複雑そうな顔を見て取ると、
もう一度空へと向き直る。
彼の、人には滅多に気とらせない感情にも気づくことが出来るようになったのは
いつ頃からだったろうか…英二はそんなことを考え、
だからこそやっぱり悔しいと感じる。
ペアとしては理想的過ぎ、ゴールデン・ペアと称される英二と大石。
日々ペアとしての練習を続け、試合を重ね、
いつの間にか口に出さずともお互いを理解できる位の関係となった。
もちろん試合前のミーティングはしっかりしたものであったが
気配でお互いがどう動くか手に取るように分かったし、
たまに分からないことがあっても、それは信頼というものでフォローできた。
「お互い理解し合っている」「信頼」という点だけ見れば
大石にだけでなく、周助にもそれは当てはまるわけで…。
また、先だっての桃城とのダブルスで得た経験、周助の実力も加えれば
ダブルスには何の問題ないように思えた。
もちろん急増ペアだからコンビネーションには多少難が出るだろうことくらい
英二にも想像が出来たのだが。
それを補って余るくらいのものが自分と周助のペアにはあると思っていた。
周助の他人には見せない感情を理解できる自分、
もちろん逆に自分の感情も理解しているだろう周助。
お互いの実力を十分に把握し、信頼しあっている自分たち。
加えて天才的なプレイヤーである周助の実力。
熟練し、また桃城との試合で成長したダブルスプレイヤーである自分。
何処に問題があるというのだろうか。
初めてペアを組んだにしても、不協和音がここまで甚だしいのは
もう不思議であるとしか言いようがない。
もちろん、お互い強豪テニス部のレギュラーだ。
形だけのダブルスならばこなすことが出来た。
コンビネーションプレイだって問題あるようには見えず
周囲には急造ペアにしては上出来な部類に見えるだろう。
そのあたりは当初目論んでいたように
「お互い理解し合っている」「信頼」の上に成り立ってることだ。
そういった点ではペアは成功ともいえるかもしれない。
けれども二人が目指したかったのはそんな見た目のみのダブルスではなかった。
お互いがお互いを生かしあえ、さらに上に上れる所を目指したかった。
それはゴールデン・ペアさながらに。
そしてそれはあくまで理想でしかなかった。ただの絵空事だった。
---
青に融ける_2
「英二はもしかして気づいてないのかな?理由」
「不二は気づいてるわけ?」
「うん、過分にね。英二は悔しいって言ってたけど、
理由に気づいてるだけに…僕の方がむしろ悔しがってるかもね」
「ええ~?そうなん?」
「そう。考えてみればさ、だめな原因、僕の方が多いと思うんだよねー。
気づかずにいたかったんだけどさ」
ふふふ、とまさに少年と青年の狭間の象徴のような
少し高めの声で朗らかに、歌うように笑い声を次の言葉を紡ぐ。
「やっぱりさ、大石って偉大だよなーって思うよ。さすが部長代理というか」
「大石?」
「僕はどこから見てもそうだけど、英二は本来はシングルス向きだよね。
自分のプレイに集中しすぎる所があるし、マイペースでつかみ所がない」
「んー。そんなに自覚はなかったけど…いや、乾に言われた事あったかも」
「それでもキッチリダブルスのプレイヤーとしてやっていけるのは
大石の包容力って言うか、ゲームメイクによるところが多いと思うんだ。
それは英二も桃城とのダブルスで気づいたと思うんだけど」
「そだね。桃と上手く試合が運べたのも結局大石がいたのが大きかったね。
あの日の俺と桃は、成分大石50%!ってカンジだったもんなー」
「うん、けれども僕には大石という成分を取り入れる事は出来ないんだ。
もちろん、ダブルス、英二に関する助言は受けられるけれども…。
自分で言うのは難だけど、包容力って単語は自分にないし、
だれかと力を合わせて戦うというのには向いてない気がする。
いままで僕と組んでくれたタカさんには申し訳ないと思うけど…ね」
いままでと違い、少々シニカルに周助は笑う。
隣でくすくす笑う声に、
仮面がちょっと外れかけてるかな、不二らしくもない。
などと英二はぼんやり考える。
仮面に隠れる下でシニカルな笑いをするのはいい、
だけれども、誰にでも分かる形で感情が表れるのは面白くない。
周助の感情を悟ることが出来るのは自分だけでいいから。
しかし同時に、自分の前だけで仮面を外すのならば
これほど嬉しいことはないかも、と少し破綻気味な考えもよぎる。
「あー。そーか。俺は大石あってこそダブルスプレイヤーとして生きるし、
だから大石的要素ゼロの不二とはあわないんだ。
たしかに不二はこれまでもダブルスってイマイチだもんねえ。
フツーは多少実力あれば、何とかなることも多いのに」
「イマイチって…ストレートに言わなくても…。
でも、その通りなんだよね、実際。
それなりに合わすことは出来るし、フォローも出来ると思う。
でも、それだけなんだよね。ペアとして強くはなれないんだ」
常に強くありたいのに、と周助の口調に悔しさが滲み出ている。
どこから彼の仮面を外すスイッチがオンになったのだろうか。
この会話、ほかの誰にも聞かれてないといいけれど。
彼を理解できる友は自分だけで十分だ。
さすがに独占欲が強いかなと英二は思った。
思ったのと同時に、隣にいる友は
「こんなヘコんでるところ、英二以外に見せられたものじゃないね」
と呟き、英二を驚かせた。
もちろん彼の独占欲が多分に満たされたのは言うまでもない。
暑い。
見上げる空は何処までも青く、青学のユニフォームにも似た夏の色だ。
このまま寝ころんで空を見ていると青に溶け込みそうだ。
自己を意識できるのは流れる汗と背に敷かれた芝の感触と
気まぐれに紅潮した頬を撫でていく微風。
そして隣に並んで寝ころんでいる友の存在だけで、
そのどれもが自分には心地よいもので。
このまま二人で空に溶け込むならそれでもいいかもしれないと。
口には出さなかったけれど、
お互いそう思っていた。
「ねえ?不二?」
「うん?」
「理想的なペアとしては…おチビに言わせるなら“まだまだだね”だけど、
俺は俺で、不二は不二で、それ以外の何者でもなくて、
ゴールデン・ペアはゴールデン・ペアで、俺たちじゃない。
自分で言うのもナンだけどさ、俺と大石はもちろん理想的なペアだよ。
でも、不二に大石を求めたいワケじゃない」
「ふふ。ゴールデン・ペアの片割れにそういわれるのは悪い気はしないね」
「茶化すなよ。
…で、俺と大石にしか出来ないプレイがあるように
俺たちにしか出来ないテニスがあるんじゃない?
っていうか、俺は不二と、二人だけしか出来ないテニスがしたいよ」
「あれ?さっきまで悔しがってたのに?理想的なペアじゃないって…」
もう一度周助の方に身体を向けると、彼は笑顔を見せ英二の方を向いていた。
仮面のではなくて、くつろいだ笑顔で。
きっとこの先、この笑顔を見るには何度も苦労するんだろうなと
英二はぼんやり思った。でも、自分だけに見せる顔ならそれも悪くない。
周助は周助で、彼の笑顔に驚いたのか
ただでさえカメラのレンズのように大きい英二の瞳が
さらに大きく開かれている事に気づき、
やっぱり彼といると飽きなくて、幸せってカンジでいいなと思っていた。
いまの台詞、何となくプロポーズっぽいよね、と言おうと思ったが
やっぱりやめた。反応なら容易に想像がつくから。
どうせなら想像しがたい反応が欲しいしね。
「まぁ、悔しいのもちょっとはあるけどねー」
「そうだね、僕もやっぱり悔しさは残ると思うけど…。
でもやっぱり、二人らしいテニスって言うのも魅力あるね。
英二の言うとおり、二人だけしか出来ないテニス、してみたいかも。
で、今ちらっと考えたんだけどさ、…こういうのって僕たちらしくない?」
ずりずりと、寝た姿勢のままお互い身体を寄せ合う。
近くには他の部員達がいないことは既に承知していたが
それでも耳元で声を潜めて二人は話し合い始めた。
秘密の作戦会議と言ったところだ。
二人を遠目から見ていた部員たちは
「こんなに暑いのによくくっつけるなー」とか、
「あの二人、なんかあやしーな、あやしーよ」などと口々に言っていたが
二人の耳までは届かなかった。
周囲から見た二人の印象はまさに夏の空に溶け込む風情で
誰かが「あの二人、ドリーム…ってカンジっすね」とつぶやいた。
それ以降、二人がドリーム・ペアと呼ばれるようになったことは
当人たち━━━英二と周助には当然知るよしもなかった。
初めて二人は公式戦で同じコートに立った。
相手は千葉の強豪六角中。
それに加えて相手方の一人は、佐伯は周助の幼なじみだった。
生半可なプレイでは勝てない。
さすがに苦戦は免れないと覚悟していた。
英二は周助に昨日言われたことを思い返していた。
「お互いがお互いであるために。二人のために。
コンビネーションプレイは捨てよう?
僕は僕らしくプレイするし、英二は英二らしくプレイすると良い。
同じコートだけど、ネットを挟んでる時のように競い合おうよ」
大石とペアを組んでからはお互いはお互いのためにプレイしてきた。
それを真っ向から否定するような、
と言うより、ダブルス自体を否定するようなプレイには抵抗がある。
けれども。一緒にプレイするのが周助ならばそれも良いように思える。
「まったく…不二とは仲間で良かったよ」
「え?それは嬉しいけど…なんで?」
こんな作戦考えるヤツが相手だったら恐ろしくてやってられない。
一番そばにいたいと思える人間と一緒に戦える。
どちらも口に出すのは馬鹿馬鹿しく思えたので答えるのはやめた。
「…まあ、僕も仲間で良かったと思ってるけどね」
周助の顔はいつも通り表向きの顔━━━仮面の笑顔だったけれど、
その下に英二が見たものは、彼にだけ向けられる笑顔だったので
二人だけのダブルに対する不安も忘れることにした。
彼の笑顔を消さない方法は、このダブルスの勝利だから。
不安な表情から一転してすがすがしく、
また、戦闘モードにくるくると移り変わる英二を見て、
今日はなんとしても負けられない。
負ける気はもともと無いけど…周助はそう思った。
よく変わる表情を見るのは飽きないけれど
曇った表情だけは見たくない。
英二がいるから、がんばれる。
空は昨日と一転して大きな雲が少し早めに流れている。
陽の光は古い電灯のようにちかちかとコート上を照らしている。
昨日の様に青い空に溶け込むことは出来ないけれど
今日は二人でコートに溶け込む。
英二と周助と、二人だけしか出来ないテニスをプレイするために。
END
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