巴にとっては生まれてから当然のようにあるものなのだが、周囲の大人にとってはそうでないものがある。
学校の先生や部活顧問、下宿先の越前家夫妻などは携帯電話やパソコンがそうだと言う。
いまやあるのが普通みたいだけど、そうじゃないんだな、便利ってありがたいなと巴は実感している。
特にネットを介せば日本だろうが世界だろうがどこでも連絡が取れるし、音声通話ソフトを使えば通話どころかテレビ電話ですら無料で出来ちゃったりするのだから本当に良い世の中になったものだと、生まれてから十数年の若者が生意気にもしみじみと思う。
プロテニスプレイヤーとして駆け出した巴の想い人手塚国光はあいにく日本に留まっていない。
本人にもよくわからないのだがと言わしめるほど世界中を遠征していて、なかなか捕まらないのだ。
けれど、手塚がネットにつなげる環境のところにいればなんとか連絡が出来るし、こうして電話代など気にすることもなく会話も出来る。
手塚から「いま良いだろうか」と携帯電話にメールがくれば、それが通話の合図で、マイクのついた無線のヘッドフォンを着けながら巴はそそくさとパソコンを立ち上げる。
「──で、いま赤月は何をしていた?」
「はい、この間の全仏オープンの録画を見直してました。さすがに技を盗むのは難しいですけど参考になるかな~って」
「そうか向上心のあるところはお前の良いところだな。で? 見ていてどう思った」
お互いの気持ちは通じ合っていると思うのだが、話すと相変わらずの先輩後輩で部活から脱しきれていないような感じがして、巴はそのことを少し気にしていた。
もっともくだけた話題をする手塚もあまり想像できないままなので、仕方ないとは思うのだが。
なので、そのままテニスの技術向上について延々を話し合うことになってしまった。
手塚は巴の都合の良さそうな時間、例えば休日だったり、部活が早く終わる日の夜だったり、そんなときにしか連絡してこない。
元部長ゆえの生真面目さか生来の性格ゆえか、自分も試合や練習で疲れているはずなのに、時差のために昼夜逆転していてもそれは必ず守る。
巴のことを気遣ってくれているのがよくわかる。
だからこの時間はとても貴重で、テニスの話以外にもすることがあるような気がして焦りを覚えたりもするのだが、相変わらずそれ以外の話をどうすれば切り出せるのかわからないままなので結局小一時間テニス論だけで通話終了したりすることもある。
きっと今日もそうなるのだろうと、半ばあきらめながら、それでも熱心に手塚と会話をする。
「あっ」
つけっぱなしだったTVにはカラフルな色彩のウェアを着たトッププロ選手が映っている。
日本でたとえ学校のユニフォームだとしてもそんな色を身につける選手はあまりいないので思わず声を上げてしまった。
「どうした?」
通話では巴の驚きがどこから来ているのかはわからない。手塚はどうしたのかと尋ねてみた。
「いえ、何かあったわけじゃないんですけど、いまテレビに映ってる選手のウェアがすごい色だったのでちょっと驚いちゃって」
「ああウェアか、たしかに有名選手になればなるほど大手メーカーとのタイアップがあったりして人目を引くようなウェアを身に着ける傾向にあるな」
納得したように、手塚はそう返した。
「ということは……先輩もこのままいくと、ピンクとか黄色のウェアを身につけるってことですか! えええ!」
それは、想像できない。というか何となくしたくない。
でも着る可能性があるのだということを知らされて心底驚きの声を上げてしまう。
厳しさが先に立って巴はあまり意識したことがなかったが、手塚は確かにルックスもスタイルも完璧で問題がない。だから、着てみれば案外似合うかもしれない、しかしそれにしてもキャラじゃない。
どうやって阻止すれば良いのだろうと真剣に考え始める。
「何を考えてパニックに陥っているのか安易に想像はつくが……落ち着け。いますぐ着なければならないという話ではないし、そもそも色は選手に自由に選ばせてもらえるだろう」
自分に自信がある手塚だから、そんな話は来ないとは言わない。むしろトップ選手に混じってメーカーから提供があることは前提で話している。巴もそれに気づいて少し安心する。
プロに混じって苦労はあるだろうけど、それでも上を見続けている、自分なんか…と卑下しない手塚の心に、まだまだこの人は強くなるということを確信して安心した。
「よかった~、手塚先輩の青学ジャージ姿と制服姿とかとにかくシンプルな姿しか想像できなかったので、ちょっと怖くなっちゃいました」
強烈な色のユニフォームの手塚が怖い。そんな直接的な言葉はさすがに巴も遠慮した。
「……そうか、でもいまお前が見ている選手の舞台に俺が立てるようになる頃には覚悟してもらわないとな」
「えっ、やっぱりああいう色のウェアを着るってことですか?」
「そうではなく、俺があの選手の年齢に、そしてランキングになる頃には──流石に俺もお前の横で普段とは違う格好をしたくなっているだろうからな」
「?」
手塚には見えないが、巴はさも意味が分からないという表情で首を傾げていた。
普段と違う格好とはどういうことだろう。
「ほら、あの、白いタキシードと言うかタキシードじゃなくて着物でも良いんだが、その時にはお前が隣にいると良いと言うか……………………いや、いまの言葉は忘れてくれ。俺は一体いま何を言いたかったんだろうな……………………通話切るぞ、身体に気をつけてな」
珍しく手塚は一方的に言いたいことを言って通話を終えてしまった。
流石に最後の言葉に巴は手塚が何を伝えたかったのかはわかる。
TVの中で試合をしている選手は23歳。
23歳のころの未来の手塚と自分。
10年近く先の未来だけれど、その言葉を信じて待っていても良いのだろうか。
電話でテニスの話しかしない間柄でも? いま初めてそのテニス以外の話をしたわけだけれど。
ヘッドフォンから聞こえた手塚の低く響く声は甘く、その意味も相まって破壊力抜群で、巴はゆでダコと言われても否定できないくらい真っ赤になった。
手塚国光という人はなんて一本筋の通った人なんだろう。まだ10代なのに、付き合いたいと決めた女性との未来を早くも考えてくれている。
この先プロとしての彼、日本で自分の道を歩く巴が、果たして何年後もこのままで、お互いを想うままでいられる保証はないというのに。
いや、保証がないからこそ、未来を描いてしまうものなのだろうか。
「耳元でそんなこと言われたら……従うしかないじゃない……」なんとか気持ちを落ち着かせようと、深呼吸をしながら思わずこぼす。
ふと、白でありながらも、白いタキシードを着た手塚はきっと誰よりも派手に映ることだろうなと思ってしまい、それを想像してしまったら更に気持ちは落ち着かなくなってしまった。
いまの言葉、実際に逢って聞いたものではなくてよかったと巴は目の前のパソコンに感謝した。逢えばもちろん嬉しいけれども、そんな状況に耐えられそうになかったし、きっとそれは手塚も同じ思いだろうと簡単に想像できたから。
それにきっと、彼は巴が目の前にいないからこそあんなことが言えたのだろうこともまた想像できたから。
耳元に残る声を反芻しながら、改めて良い世の中になったものだと巴はしみじみ感じていた。
END
待っててくれとは言われなかった。
けれども、待つなとも言われなかった。
それが不安の種でもあり希望の光でもある。
東京での生活は二年目となり、二度目の全国大会もとっくに終わって、彼が隣に居ない冬が再びやってきた。
きっと彼と出会ってから数えてみると会う時間よりも会わない時間の方が多いはずだ。
東京で出来た知り合いの中で誰よりも顔を会わせていない。
メールなら毎日やりとりしている、と言いたいところだけれども筆無精な彼からの返事はせいぜい週に数回。
しかも、どれも簡潔な返事で健全な中学生女子としては物足りない。
それも内容はテニスのことばかり。
生来の性格と相まってプロとして海外生活に踏み出したばかりの彼に余裕などあるはずもないが、それを仕方ないと達観できるほど赤月巴は大人ではない。
14歳の女子の世界は狭く、ドイツだのプロだのと言われてもピンと来ない。
けれども16歳の彼はその場所に今現在立っている。
自分の世界観を超えた遠い場所に。
---
越前家は既に夕食を終え、居間のテレビは世界の天気予報を映していた。
巴は食後の作業━━━編み物の手を止めて、テレビに集中する。
それは手塚国光がドイツへと旅立っていった日から続いている習慣だ。
巴がドイツの天気を知ったところで何が出来る訳でもない。
雨が降ったからといって傘を用意することも、暑いからといって水を用意することも。
ドイツの天気はここ1~2週間ほど冷え込みが続いているようだ。
ヨーロッパの石畳は冷え込むと聞いたが、風邪などひいていないだろうか。
自己管理の徹底している彼に限ってそんなことはあり得ないとは誰よりも分かっているつもりだが、それでも心配だ。
その気持ちを先日メールに託したものの、彼からの返事は『自分のことよりもお前こそ気を付けた方がいいだろう』との事だった。
都会に出て行った息子を心配する母親の気持ちとは、それよりも岐阜から東京に送り出してくれた父・京四郎の気持ちとはこんなカンジなのだろうか。
今年の春に一時帰国した彼と気持ちが通じ合ったと思っていたのだが、通じ合う前よりも片想い感が強いのは何故なんだろう。
世界の天気予報が世界の金融情報へと変わった瞬間に隣に座る越前の手がリモコンに伸びる。
切り替えられたのは年末特番特有のお笑い芸人達が大集合したニギヤカな番組だ。
目の前では薄ら寒い笑いが繰り広げられている。
「お前さあ、そんなに陰鬱とした目でテレビ見てるくらいだったら、会ってくれば?」
公園にでも散歩に行けばと言うような気軽さでリョーマは巴にそう言った。
帰国子女でプロを視野に入れている彼にとっての世界は広い。
巴が考えたこともなかったドイツ行きをさも簡単そうに語る。
「もう、簡単に言わないでよ。
ドイツに行くなんてリョーマくんが思うほど簡単な事じゃないよ」
巴の現実としては、当然簡単なことではない。
中学生女子が好きな男を追っかけてドイツくんだりまで行けるはずがない。
「ま、それもそうだね、お前自身がそう思ってるんなら仕方ないよね」
「どういうことよ?リョーマくん?」
その思わせぶりな言葉にはなにか裏があるのでは。
野生のカンといわれることがしばしばだが、こういう時のカンを外さないのが巴のセールスポイントのひとつだ。
手に持っていた編み棒をメキメキといわせながら、リョーマを問いつめる。
編み棒に繋がった筒状の、それ単体では何かわかりにくい作品がぶらんと揺れる。
「言わないと、リョーマくんのプライベート有ること無いこと朋ちゃんに言ってやる!」
「なっ……いっいいよ、すればいいじゃん」
目の前の動揺した表情を見れば答えは一目瞭然なのに、強がる言葉を述べる。
「かっわいくないなあ、リョーマくんは。呪ってやる」
憮然とした表情で心底憎々しげに巴は声を出した。
その迫力に押されたのか、リョーマは思いがけないことを巴に告げた。
「可愛くなくて結構。お前みたいに手塚先輩に好かれたいとかそんなこと全く思ってないし。
ていうか、あの人が帰国してる事、お前知らなかったワケ?」
その思いも寄らぬ言葉に巴の頭は真っ白になった。
毎日とりとめのないメールを送っているが、手塚の返事に帰国という文字はなかった。
というよりも、よく考えてみれば先週から返事がない。
それに、誰からも教えてもらえなかった。
リョーマでさえ知っているというのに。
それなら、自分の立場は何なのだろうか。
たとえ単なる後輩だったとしても、もうちょっとせめて連絡くらいあってもいいのではないだろうか。
まなじりに熱いものがじわりと湧いてくる。
「ちょっ……ちょっと! 俺はたまたま大石先輩に聞いただけだからね。
直接手塚部長に聞いた訳じゃないし、俺を恨むなよ!」
巴の涙に動揺して、慌ててリョーマは言い訳を口走る。
リョーマにしたって、こんな情報くらい巴は知っていると思っていた。
だからあえて話題にすることでもないと思っていたのだ。
確かに二人が会ったとか、そういう話をサッパリ聞かないことについては不審に思っていたけれども、そこまで気にする義理はないと傍観を決め込んでいた。
さて、何と言って巴を慰めるべきなのか。
リョーマが思案していると突如巴は立ち上がって、編み物を握ったまま部屋を飛び出した。
「おい、赤月!」
「ちょっと出掛けてくるから!」
コートも着ず、室内着にしているトレーニングジャージのまま巴は外に飛び出していった。
もちろん、トレーニングジャージならそのまま外に出てもおかしい格好ではないが、年の瀬にその格好では些か薄着過ぎる。普通の人なら風邪をひいてしまうかもしれない。
「まあ……あいつなら風邪はひかないか」
普段の走り込みを思えば。
どうせ夜道を全速力で走るのだろう。想い人の自宅まで。
それなら寒さなど感じないし、じきに全身汗だくになるだろう。
---
リョーマの予想通り、全身に汗をかきながら『手塚』と表札に書かれた門扉の前に到着した。
門の奥に佇む立派な家屋には煌々と明かりがついており、誰かが在宅中であることは容易に分かった。
勢いに任せて走ってきたので、携帯電話を自宅に置いてきてしまった巴は手塚をどう呼び出そうかと悩む。
インターフォンを鳴らすことは、少し高いハードルだ。
軽く三分ほど門前をうろついて考えたがそれ以外に方法がある訳もなく、思い切って人差し指を伸ばす。
ボタンが指に触れようとしたその時、期せずして門の奥の玄関が開かれた。
そして奥から出てきたその人物と目があった。
「母が可愛い不審者がうろついていると言っていたが……お前のことだったのか、赤月」
それは、実家の父よりも強く会いたいと思っていた相手だった。
巴が手塚の姿を確認して晴れ晴れとした表情になった一方、少し呆れた表情で巴を不審者呼ばわりする手塚からは、僅かながらの感情の揺れも確認できない。
そのことに巴は気付き少々ガッカリする。
いつもと全く変わらない表情で門を出て、巴の前に手塚は立った。
自分はこんなにも会いたくて、会えてとても嬉しいのに。
帰国を自分に教えなかったのは会いたくないからだったのだ思うに至る。
せっかくの再会に冷静なのはそのせいなのだろう。
想いが通じ合っていると思っていたのは自分の勘違いだったのだ。
その勘違いを春から半年以上ひたすら引きずって浮かれていた自分はなんて愚かなのだろうと思う。
肩をあからさまに落とし、「すみません、手塚先輩」と目の前に立つ当の人物に謝罪する。
町内20周を言い渡されるかもしれない、いやその前に迷惑だと嫌悪感を表されるかもしれない。
けれども、そんな決定的な言葉など巴は聞きたくなかったので、頭を下げつつ一気に言葉を吐いた。
「私、いままで手塚先輩が帰国していたことを知らなくて、さっき知ってどうしても会いたくなってここまで走ってきたんですけど……こんな夜にアポもなくて、ごめんなさい。そ、そりゃあ、手塚先輩も迷惑ですよね。帰国を知らせていない相手が勝手に押し掛けてきて家の前をうろうろして本当に不審者だし、お母様だって不安になるし、それ以前に毎日のようにメールなんかしちゃうストーカーだし、多分先輩にしてみればただの後輩なんだろうし、あーーーーもーーーー、何言ってるんだか自分でも分からないので、帰ります!今のことは忘れて下さい!もう私のことも忘れて下さって構わないですから━━━」
久しぶりに見た手塚に名残惜しさを感じながらもくるりと後ろを向き、巴はそのまま帰宅の体勢に入る。
これ以上彼に迷惑をかけてはいけないのだと、そればかりを思う。
「もう、私も手塚先輩は『ただの先輩』なんだって思うことにしますから…………っ」
完全に話を終えないままに駆け出す体勢をとった瞬間に、「待て」と左手をガシッと掴まれた。
その勢いで身体はくるりと回り、やっとの思いで背を向けた手塚と再び顔を合わせることになってしまった。
「『ただの先輩』なのだと思うのなら町内20周行ってもらうぞ」
ここは笑うところなのだろうか、手塚が巴に向かっていった言葉の真意を測りかねてぽかんとしてしまう。
すぐに左手から離れた手塚の感触を惜しみながら。
「自分勝手に一方的に喋って帰ってしまうなんて卑怯も良いところだ。誰が迷惑だなどと言った? 母も不審者とは確かに言ったが『可愛い不審者』だと言ったろう、お前のことを知っていてあえて言ったに決まっている。毎日送られてくるメールだってお前からなら嬉しいに決まっているし活力にもなる。それに『忘れろ』とはどういう事だ、ふざけるな。ストーカー? 上等だ」
手塚も巴に対抗するかのように、それとも巴に逃げられることを恐れるかのように自分の気持ちを一気に吐露する。
まるで突如嵐に見舞われたような気分になって巴は手塚を見る。
言葉のなかにほのめかされたものにも気付かずに。
「こんなによく喋る先輩を初めて見ました」
もうちょっと気の利いた言葉が言えればいいのだが、ようやく巴の口から出てきた言葉は単なるしかも的はずれな感想だった。
「俺だって必死なんだ饒舌にもなる」
特になにか表情を変えることもなく手塚は巴の言葉に誠実に返答した。
そのあたりが手塚らしい手塚だった。
「必死……? だって、私、手塚先輩の気持ちが分かりません。
帰国のことだって他の人から聞かされる位だしどうでもいいんだとばかり。
それにクリスマスカードだって送ったのに何のリアクションもないし」
無愛想だし、甘い言葉だって言われたことはないし、メールの返事も簡潔だ。
それなのにこの人は今になってなにが必死だと言うんだろう。
ついつい手塚を責めるような口調になる。
これまでの状況から言って、春にちょっと甘い雰囲気になった方が不思議なくらいだ。
奇跡的すぎる。
巴の口調に珍しく気まずそうに表情を崩して手塚は口を開いた。
「それはだな……帰国のことについては24日に成田に到着したが、お前にはテニス部のクリスマス会があるだろう?
帰国を知らせると迎えに来るかもしれないし、そうするとお前の負担になると思って事前に言えなかった。
それに……携帯電話をドイツに置いてきてしまったことに帰国後気付いてメールも送れず、そのまま無精してしまった。すまない」
珍しく言い訳がましくも本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
いつも正しく誠実に生きる彼にはこのように頭を下げる場面などほとんどないので、巴は初めて見る彼の姿に驚きを隠せずうろたえる。
「そ、そんな……頭を下げるほどの事じゃあ……」
「いや、頭を下げるだけで済む事じゃないだろう?
無精をしただけでなく、実際のところ俺はお前に会うのが恐くて避けていたのだからな」
「え?」
ドキッと胸が大きく跳ねる。
そうかもしれないとは思っていたが、実際避けていたと彼自身の口から告白されるのはキツイ。
思わずギュッと目を閉じて身を竦めた。
こうすることで僅かでもダメージが減少できるかのように。
「半年以上お前に会わなかった時間が俺を臆病にさせるんだ。
毎日メールは来るけれども、ただの先輩の俺に向けてのメールだったら?
実際に会ったお前がすでに俺ではなく他の奴を見ていたら?
さすがにそんな事を正気で受け入れることは出来ないだろうからな」
再びドキッと胸が大きく跳ねる。先ほどとは違う意味で。
あの手塚国光が自分に向かって何を言っているのだろう。
臆病?彼にそんなところがあるとは思えない。
それも巴自身に関してのことで。
あまりの告白に先ほど身を竦めたまま固まって動けない。
その氷のようなガチガチの巴を解凍するかのように手塚は上から覆い被さった。
絶賛成長中の手塚は春に別れたときよりもまた少し背が伸びていて、本当の意味で覆い被さるような格好だ。
こうなることで巴の身体は一層固まる。
もう声も出ないし、何が起こっているのか理解することも敵わない。
「こんな俺だが……、それでもお前は俺の元に走ってきてくれたんだな。
俺でさえも不安だったんだから、お前にとってはもっと不安だったろう。
迷惑だとかそんなことはお前の見当違いで、俺自身に問題と責任がある。
悪かったな、赤月。ありがとう」
手塚の言葉が染みこんでくる。
まるで全身にお湯をかけられたかのように熱く、身も心も解けていくように感じた。
やっとのことで、手塚の腕の中しきりに頷いた。
そして手塚の顔を見上げて笑った。
「先輩、やっぱり今日は饒舌ですね。
こんなに先輩の長い話を聞くのは初めてかもしれません」
こんなときにかける言葉としては不適当かもしれないが、やはり感想としてはこれしか出てこなかった。
巴は手塚が悪いと思ったことなどこれっぽっちもなかったし、だから本当は謝罪など欲しくはなかった。
ただ、手塚が懺悔することを突っぱねる気もなかった。
それで彼の気が晴れるというのならばいくらでもすればいいと思う。
自分の気持ちはいつだってひとつで固まっているのだから。
これもまた珍しく手塚は屈託のない笑顔で巴の言葉に応えた。
「まあ、ドイツでは滅多に日本語を話すことはないからな。
それにお前に話しかけるとなるとテンションが高くなっても仕方がない。
好きな相手を目の前にしてそういうことになるのは……世間では普通のことなのだろう?」
解凍する熱が高温すぎたのか、巴は全身が燃え上がるように感じた。
冷静に考えれば今の体勢自体が相当燃料ではあるけれども、手塚が直接自分の気持ちを口にする以上の燃料があるだろうか。
なにしろ、普段のメールは一行メールの男が語る言葉なのだ。
その貴重な言葉のひとつひとつを大事に巴は記憶に刻みつける。
ふと、自分の右手に握りしめていた物を思い出す。
越前家を飛び出すときにそのまま握りしめていた編み物だ。
そっと手塚から身を離して、右手を掲げる。
「先輩、これ、なんだと思いますか?」
「なんだ? これは━━━編み物だな」
急に巴に話題を変えられたことに少々戸惑いながら生真面目に答える。
「はい、そうですよ。ドイツは寒いから……完成したら先輩に送ろうと思ってたんです。帰国のことを知っていたら、なにがなんでも頑張って完成させたのに!」
「それは……すまなかった」
「本当にそうですよ、待つ身にもなって下さいよ。
あっ、待っててくれなんて言わなかった~なんて言葉はナシですよ」
手塚が言いそうなセリフを巴は先に封じた。
しかし、手塚はその言葉を否定した。
「そんなこと今となっては言わないし言えないな。
嫌になっても、悪いがお前には待っててもらうぞ。
待てなくなったお前のことを考えるのは精神的な負担でプレイにも影響しかねないからな」
「はい?」と手塚の言葉に目を白黒させてる巴に
「なにしろ、俺は駆け出しのプロテニスプレイヤーだからな、些細なことであれ万難を排したい」
そう付け加えて、もう一度巴をぎゅっと抱きしめた。
やはり二人には身長差があり、それは抱きしめると言うよりは覆い被さるような形だったが二人とも気にしなかった。
「万難を排したいなら……約束してもらえますか?
今度帰国するときは、家族よりとは言いませんからせめて大石先輩よりは早く連絡して下さいね。
もう、他の人から帰国を知らされるのは嫌ですから」
「そう、だな。努力する」
「それと、先輩の無精でせっかくのクリスマスを二人で過ごせなかったんですから埋め合わせして下さいよ」
「ああ、クリスマスのことなら……本当はお前あてのプレゼントを用意していたんだが」
「それは当然いただきますけど、そうじゃなくて。
埋め合わせとして、ドイツにまた行くまで毎日会って下さいね。
私は女子ですから遅れることもあるかもしれませんけど、怒らず待っていてもらいます。
走らせるのもナシですからね。待つ方の気持ちをよ~く噛み締めてもらいますから」
「……それも仕方あるまいな、契約成立だ」
覆い被さる形に重なってひとつになっていた影が一旦ふたつに離れる。
背の高いほうの影は躊躇いがちに身を屈め、ふたつの影は同じ高さに再び重なった。
「せんぱ……っ」
突然のことに声を挙げた巴に、全てを言わせず口の端で笑い手塚は答えた。
「契約書にはサインが必要だろう。なあ、赤月?」
END
けれども、待つなとも言われなかった。
それが不安の種でもあり希望の光でもある。
東京での生活は二年目となり、二度目の全国大会もとっくに終わって、彼が隣に居ない冬が再びやってきた。
きっと彼と出会ってから数えてみると会う時間よりも会わない時間の方が多いはずだ。
東京で出来た知り合いの中で誰よりも顔を会わせていない。
メールなら毎日やりとりしている、と言いたいところだけれども筆無精な彼からの返事はせいぜい週に数回。
しかも、どれも簡潔な返事で健全な中学生女子としては物足りない。
それも内容はテニスのことばかり。
生来の性格と相まってプロとして海外生活に踏み出したばかりの彼に余裕などあるはずもないが、それを仕方ないと達観できるほど赤月巴は大人ではない。
14歳の女子の世界は狭く、ドイツだのプロだのと言われてもピンと来ない。
けれども16歳の彼はその場所に今現在立っている。
自分の世界観を超えた遠い場所に。
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越前家は既に夕食を終え、居間のテレビは世界の天気予報を映していた。
巴は食後の作業━━━編み物の手を止めて、テレビに集中する。
それは手塚国光がドイツへと旅立っていった日から続いている習慣だ。
巴がドイツの天気を知ったところで何が出来る訳でもない。
雨が降ったからといって傘を用意することも、暑いからといって水を用意することも。
ドイツの天気はここ1~2週間ほど冷え込みが続いているようだ。
ヨーロッパの石畳は冷え込むと聞いたが、風邪などひいていないだろうか。
自己管理の徹底している彼に限ってそんなことはあり得ないとは誰よりも分かっているつもりだが、それでも心配だ。
その気持ちを先日メールに託したものの、彼からの返事は『自分のことよりもお前こそ気を付けた方がいいだろう』との事だった。
都会に出て行った息子を心配する母親の気持ちとは、それよりも岐阜から東京に送り出してくれた父・京四郎の気持ちとはこんなカンジなのだろうか。
今年の春に一時帰国した彼と気持ちが通じ合ったと思っていたのだが、通じ合う前よりも片想い感が強いのは何故なんだろう。
世界の天気予報が世界の金融情報へと変わった瞬間に隣に座る越前の手がリモコンに伸びる。
切り替えられたのは年末特番特有のお笑い芸人達が大集合したニギヤカな番組だ。
目の前では薄ら寒い笑いが繰り広げられている。
「お前さあ、そんなに陰鬱とした目でテレビ見てるくらいだったら、会ってくれば?」
公園にでも散歩に行けばと言うような気軽さでリョーマは巴にそう言った。
帰国子女でプロを視野に入れている彼にとっての世界は広い。
巴が考えたこともなかったドイツ行きをさも簡単そうに語る。
「もう、簡単に言わないでよ。
ドイツに行くなんてリョーマくんが思うほど簡単な事じゃないよ」
巴の現実としては、当然簡単なことではない。
中学生女子が好きな男を追っかけてドイツくんだりまで行けるはずがない。
「ま、それもそうだね、お前自身がそう思ってるんなら仕方ないよね」
「どういうことよ?リョーマくん?」
その思わせぶりな言葉にはなにか裏があるのでは。
野生のカンといわれることがしばしばだが、こういう時のカンを外さないのが巴のセールスポイントのひとつだ。
手に持っていた編み棒をメキメキといわせながら、リョーマを問いつめる。
編み棒に繋がった筒状の、それ単体では何かわかりにくい作品がぶらんと揺れる。
「言わないと、リョーマくんのプライベート有ること無いこと朋ちゃんに言ってやる!」
「なっ……いっいいよ、すればいいじゃん」
目の前の動揺した表情を見れば答えは一目瞭然なのに、強がる言葉を述べる。
「かっわいくないなあ、リョーマくんは。呪ってやる」
憮然とした表情で心底憎々しげに巴は声を出した。
その迫力に押されたのか、リョーマは思いがけないことを巴に告げた。
「可愛くなくて結構。お前みたいに手塚先輩に好かれたいとかそんなこと全く思ってないし。
ていうか、あの人が帰国してる事、お前知らなかったワケ?」
その思いも寄らぬ言葉に巴の頭は真っ白になった。
毎日とりとめのないメールを送っているが、手塚の返事に帰国という文字はなかった。
というよりも、よく考えてみれば先週から返事がない。
それに、誰からも教えてもらえなかった。
リョーマでさえ知っているというのに。
それなら、自分の立場は何なのだろうか。
たとえ単なる後輩だったとしても、もうちょっとせめて連絡くらいあってもいいのではないだろうか。
まなじりに熱いものがじわりと湧いてくる。
「ちょっ……ちょっと! 俺はたまたま大石先輩に聞いただけだからね。
直接手塚部長に聞いた訳じゃないし、俺を恨むなよ!」
巴の涙に動揺して、慌ててリョーマは言い訳を口走る。
リョーマにしたって、こんな情報くらい巴は知っていると思っていた。
だからあえて話題にすることでもないと思っていたのだ。
確かに二人が会ったとか、そういう話をサッパリ聞かないことについては不審に思っていたけれども、そこまで気にする義理はないと傍観を決め込んでいた。
さて、何と言って巴を慰めるべきなのか。
リョーマが思案していると突如巴は立ち上がって、編み物を握ったまま部屋を飛び出した。
「おい、赤月!」
「ちょっと出掛けてくるから!」
コートも着ず、室内着にしているトレーニングジャージのまま巴は外に飛び出していった。
もちろん、トレーニングジャージならそのまま外に出てもおかしい格好ではないが、年の瀬にその格好では些か薄着過ぎる。普通の人なら風邪をひいてしまうかもしれない。
「まあ……あいつなら風邪はひかないか」
普段の走り込みを思えば。
どうせ夜道を全速力で走るのだろう。想い人の自宅まで。
それなら寒さなど感じないし、じきに全身汗だくになるだろう。
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リョーマの予想通り、全身に汗をかきながら『手塚』と表札に書かれた門扉の前に到着した。
門の奥に佇む立派な家屋には煌々と明かりがついており、誰かが在宅中であることは容易に分かった。
勢いに任せて走ってきたので、携帯電話を自宅に置いてきてしまった巴は手塚をどう呼び出そうかと悩む。
インターフォンを鳴らすことは、少し高いハードルだ。
軽く三分ほど門前をうろついて考えたがそれ以外に方法がある訳もなく、思い切って人差し指を伸ばす。
ボタンが指に触れようとしたその時、期せずして門の奥の玄関が開かれた。
そして奥から出てきたその人物と目があった。
「母が可愛い不審者がうろついていると言っていたが……お前のことだったのか、赤月」
それは、実家の父よりも強く会いたいと思っていた相手だった。
巴が手塚の姿を確認して晴れ晴れとした表情になった一方、少し呆れた表情で巴を不審者呼ばわりする手塚からは、僅かながらの感情の揺れも確認できない。
そのことに巴は気付き少々ガッカリする。
いつもと全く変わらない表情で門を出て、巴の前に手塚は立った。
自分はこんなにも会いたくて、会えてとても嬉しいのに。
帰国を自分に教えなかったのは会いたくないからだったのだ思うに至る。
せっかくの再会に冷静なのはそのせいなのだろう。
想いが通じ合っていると思っていたのは自分の勘違いだったのだ。
その勘違いを春から半年以上ひたすら引きずって浮かれていた自分はなんて愚かなのだろうと思う。
肩をあからさまに落とし、「すみません、手塚先輩」と目の前に立つ当の人物に謝罪する。
町内20周を言い渡されるかもしれない、いやその前に迷惑だと嫌悪感を表されるかもしれない。
けれども、そんな決定的な言葉など巴は聞きたくなかったので、頭を下げつつ一気に言葉を吐いた。
「私、いままで手塚先輩が帰国していたことを知らなくて、さっき知ってどうしても会いたくなってここまで走ってきたんですけど……こんな夜にアポもなくて、ごめんなさい。そ、そりゃあ、手塚先輩も迷惑ですよね。帰国を知らせていない相手が勝手に押し掛けてきて家の前をうろうろして本当に不審者だし、お母様だって不安になるし、それ以前に毎日のようにメールなんかしちゃうストーカーだし、多分先輩にしてみればただの後輩なんだろうし、あーーーーもーーーー、何言ってるんだか自分でも分からないので、帰ります!今のことは忘れて下さい!もう私のことも忘れて下さって構わないですから━━━」
久しぶりに見た手塚に名残惜しさを感じながらもくるりと後ろを向き、巴はそのまま帰宅の体勢に入る。
これ以上彼に迷惑をかけてはいけないのだと、そればかりを思う。
「もう、私も手塚先輩は『ただの先輩』なんだって思うことにしますから…………っ」
完全に話を終えないままに駆け出す体勢をとった瞬間に、「待て」と左手をガシッと掴まれた。
その勢いで身体はくるりと回り、やっとの思いで背を向けた手塚と再び顔を合わせることになってしまった。
「『ただの先輩』なのだと思うのなら町内20周行ってもらうぞ」
ここは笑うところなのだろうか、手塚が巴に向かっていった言葉の真意を測りかねてぽかんとしてしまう。
すぐに左手から離れた手塚の感触を惜しみながら。
「自分勝手に一方的に喋って帰ってしまうなんて卑怯も良いところだ。誰が迷惑だなどと言った? 母も不審者とは確かに言ったが『可愛い不審者』だと言ったろう、お前のことを知っていてあえて言ったに決まっている。毎日送られてくるメールだってお前からなら嬉しいに決まっているし活力にもなる。それに『忘れろ』とはどういう事だ、ふざけるな。ストーカー? 上等だ」
手塚も巴に対抗するかのように、それとも巴に逃げられることを恐れるかのように自分の気持ちを一気に吐露する。
まるで突如嵐に見舞われたような気分になって巴は手塚を見る。
言葉のなかにほのめかされたものにも気付かずに。
「こんなによく喋る先輩を初めて見ました」
もうちょっと気の利いた言葉が言えればいいのだが、ようやく巴の口から出てきた言葉は単なるしかも的はずれな感想だった。
「俺だって必死なんだ饒舌にもなる」
特になにか表情を変えることもなく手塚は巴の言葉に誠実に返答した。
そのあたりが手塚らしい手塚だった。
「必死……? だって、私、手塚先輩の気持ちが分かりません。
帰国のことだって他の人から聞かされる位だしどうでもいいんだとばかり。
それにクリスマスカードだって送ったのに何のリアクションもないし」
無愛想だし、甘い言葉だって言われたことはないし、メールの返事も簡潔だ。
それなのにこの人は今になってなにが必死だと言うんだろう。
ついつい手塚を責めるような口調になる。
これまでの状況から言って、春にちょっと甘い雰囲気になった方が不思議なくらいだ。
奇跡的すぎる。
巴の口調に珍しく気まずそうに表情を崩して手塚は口を開いた。
「それはだな……帰国のことについては24日に成田に到着したが、お前にはテニス部のクリスマス会があるだろう?
帰国を知らせると迎えに来るかもしれないし、そうするとお前の負担になると思って事前に言えなかった。
それに……携帯電話をドイツに置いてきてしまったことに帰国後気付いてメールも送れず、そのまま無精してしまった。すまない」
珍しく言い訳がましくも本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
いつも正しく誠実に生きる彼にはこのように頭を下げる場面などほとんどないので、巴は初めて見る彼の姿に驚きを隠せずうろたえる。
「そ、そんな……頭を下げるほどの事じゃあ……」
「いや、頭を下げるだけで済む事じゃないだろう?
無精をしただけでなく、実際のところ俺はお前に会うのが恐くて避けていたのだからな」
「え?」
ドキッと胸が大きく跳ねる。
そうかもしれないとは思っていたが、実際避けていたと彼自身の口から告白されるのはキツイ。
思わずギュッと目を閉じて身を竦めた。
こうすることで僅かでもダメージが減少できるかのように。
「半年以上お前に会わなかった時間が俺を臆病にさせるんだ。
毎日メールは来るけれども、ただの先輩の俺に向けてのメールだったら?
実際に会ったお前がすでに俺ではなく他の奴を見ていたら?
さすがにそんな事を正気で受け入れることは出来ないだろうからな」
再びドキッと胸が大きく跳ねる。先ほどとは違う意味で。
あの手塚国光が自分に向かって何を言っているのだろう。
臆病?彼にそんなところがあるとは思えない。
それも巴自身に関してのことで。
あまりの告白に先ほど身を竦めたまま固まって動けない。
その氷のようなガチガチの巴を解凍するかのように手塚は上から覆い被さった。
絶賛成長中の手塚は春に別れたときよりもまた少し背が伸びていて、本当の意味で覆い被さるような格好だ。
こうなることで巴の身体は一層固まる。
もう声も出ないし、何が起こっているのか理解することも敵わない。
「こんな俺だが……、それでもお前は俺の元に走ってきてくれたんだな。
俺でさえも不安だったんだから、お前にとってはもっと不安だったろう。
迷惑だとかそんなことはお前の見当違いで、俺自身に問題と責任がある。
悪かったな、赤月。ありがとう」
手塚の言葉が染みこんでくる。
まるで全身にお湯をかけられたかのように熱く、身も心も解けていくように感じた。
やっとのことで、手塚の腕の中しきりに頷いた。
そして手塚の顔を見上げて笑った。
「先輩、やっぱり今日は饒舌ですね。
こんなに先輩の長い話を聞くのは初めてかもしれません」
こんなときにかける言葉としては不適当かもしれないが、やはり感想としてはこれしか出てこなかった。
巴は手塚が悪いと思ったことなどこれっぽっちもなかったし、だから本当は謝罪など欲しくはなかった。
ただ、手塚が懺悔することを突っぱねる気もなかった。
それで彼の気が晴れるというのならばいくらでもすればいいと思う。
自分の気持ちはいつだってひとつで固まっているのだから。
これもまた珍しく手塚は屈託のない笑顔で巴の言葉に応えた。
「まあ、ドイツでは滅多に日本語を話すことはないからな。
それにお前に話しかけるとなるとテンションが高くなっても仕方がない。
好きな相手を目の前にしてそういうことになるのは……世間では普通のことなのだろう?」
解凍する熱が高温すぎたのか、巴は全身が燃え上がるように感じた。
冷静に考えれば今の体勢自体が相当燃料ではあるけれども、手塚が直接自分の気持ちを口にする以上の燃料があるだろうか。
なにしろ、普段のメールは一行メールの男が語る言葉なのだ。
その貴重な言葉のひとつひとつを大事に巴は記憶に刻みつける。
ふと、自分の右手に握りしめていた物を思い出す。
越前家を飛び出すときにそのまま握りしめていた編み物だ。
そっと手塚から身を離して、右手を掲げる。
「先輩、これ、なんだと思いますか?」
「なんだ? これは━━━編み物だな」
急に巴に話題を変えられたことに少々戸惑いながら生真面目に答える。
「はい、そうですよ。ドイツは寒いから……完成したら先輩に送ろうと思ってたんです。帰国のことを知っていたら、なにがなんでも頑張って完成させたのに!」
「それは……すまなかった」
「本当にそうですよ、待つ身にもなって下さいよ。
あっ、待っててくれなんて言わなかった~なんて言葉はナシですよ」
手塚が言いそうなセリフを巴は先に封じた。
しかし、手塚はその言葉を否定した。
「そんなこと今となっては言わないし言えないな。
嫌になっても、悪いがお前には待っててもらうぞ。
待てなくなったお前のことを考えるのは精神的な負担でプレイにも影響しかねないからな」
「はい?」と手塚の言葉に目を白黒させてる巴に
「なにしろ、俺は駆け出しのプロテニスプレイヤーだからな、些細なことであれ万難を排したい」
そう付け加えて、もう一度巴をぎゅっと抱きしめた。
やはり二人には身長差があり、それは抱きしめると言うよりは覆い被さるような形だったが二人とも気にしなかった。
「万難を排したいなら……約束してもらえますか?
今度帰国するときは、家族よりとは言いませんからせめて大石先輩よりは早く連絡して下さいね。
もう、他の人から帰国を知らされるのは嫌ですから」
「そう、だな。努力する」
「それと、先輩の無精でせっかくのクリスマスを二人で過ごせなかったんですから埋め合わせして下さいよ」
「ああ、クリスマスのことなら……本当はお前あてのプレゼントを用意していたんだが」
「それは当然いただきますけど、そうじゃなくて。
埋め合わせとして、ドイツにまた行くまで毎日会って下さいね。
私は女子ですから遅れることもあるかもしれませんけど、怒らず待っていてもらいます。
走らせるのもナシですからね。待つ方の気持ちをよ~く噛み締めてもらいますから」
「……それも仕方あるまいな、契約成立だ」
覆い被さる形に重なってひとつになっていた影が一旦ふたつに離れる。
背の高いほうの影は躊躇いがちに身を屈め、ふたつの影は同じ高さに再び重なった。
「せんぱ……っ」
突然のことに声を挙げた巴に、全てを言わせず口の端で笑い手塚は答えた。
「契約書にはサインが必要だろう。なあ、赤月?」
END
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